☆ 樋口範子のモノローグ(2017年版) ☆

更新日: 2017年910月1日  
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2016年版 <=

2017年10月


    タクシー談義

 今春、都内に住む91歳の母を連れて、埼玉県新座市にある平林寺に墓参りに行った。ここには、島根県松江市に出自をもつ母方の祖父母ふたりが眠っている。しかし実の娘てある母も、孫であるわたしも、遠方と二回の電車乗り換えを理由に不義理をして、なんと30年間足を向けていなかった。

 嫁ぎ先である家の墓参りは欠かさなかった母にとって、この30年という空白はどんなに残念だったか、わずか1時間ちょっとで墓前に到着したとき、わたしの胸をよぎったのは、まずそれだった。長年、墓前にほとんど参る者のなかった祖父母にも、申し訳なかった。

 墓地は整備されていたが、祖父母の墓所は荒れていた。現在89歳から96歳までの実子四姉妹には確かに遠路で、さらに寺の境内は広大で歩きにくく、家督を継いだ若い世代(わたしの従弟)はずっと海外勤務をつづけているから、荒れてしまったのは仕方ない。などと、言い訳ばかりが頭を巡った。母と二人で墓所内の草取りと、すっかり変色した墓石を洗い、しばらく墓前にすわって休んだ。おだやかな昼前だった。

 副都心線の開通で、乗り換えもなくこんなに短時間で来られるのなら、今年中に再び参れるかもしれないとわたしは思った。

 墓所を出て、本堂に挨拶に行くも、ただ今禅の修行中なのでという、留守の挨拶が掛かっていた。わたしたちも修行よろしく、たがいに口を開かず山門までの遠路を歩いた。緑が深く、掃き清められた美しい境内だった。

 山門から和光市駅までは、タクシーに乗ったのだが、運転手さんが、「学者さんたちの調査研究で、東京中のカラスがこの平林寺をねぐらにしているのが判明したんですよ。だから、墓石が汚れて」と話し、「毎朝ここから、都内に向けて数千羽というカラスが、こぞって出勤するんですよ。だって、都内にはエサ場がいっぱいあるでしょう?」と苦笑した。

 墓石の変色と汚れの理由がわかったわたしは、耳の遠い母に説明した。「へえー、数千羽が一斉に飛びたつの」母は目を丸くした。

 帰宅して数日後、たまたまカラスの巣作りに、物干しのハンガーが盗まれる時期でもあった。

「干したばかりのブラウスのハンガーが、カラスにとられて、洗濯物が落ちて泥んこになった」と母が電話してきた。「でもねえ、わたしの代わりに墓参りに行ってくれるカラスだから、まあ、腹も立たなかったけどね」と言って電話をきった。

 わたしはしばし、都会の夕暮れの空を思い浮かべた。カラスの墓参り、か。これは学者の調査研究では、まず判明しない範疇だろうなと思った。


2017年09月


   ビーツの来た日

朝一番、となり村の慧光寺ご住職が、麦わら帽子姿でご来店。軽トラックの荷台から、トマト、インゲン豆、ナス、オクラ、ズッキーニ、そしてビーツなどを次々降ろしてくださった。

 ビーツとは、たぶん邦訳すれば〈赤甜菜〉と呼ばれるのだろうが、深紅の硬―い大根で、ロシア料理のボルシチの主材料になる。日本でボルシチといえば、ほとんどトマトが代用されていて、それは多分ビーツの生産が北海道に限られ、食材として一般に手に入りにくかったからにちがいない。

 近年は、都心のスーパー・マーケットの野菜コーナーでいくらか見られるようになったが、いたく高額で、とても手が出ない。だから今回のご住職の畑の直送便で、わたしは初めてビーツを煮ることができた。

 約40分間水煮したビーツは、味をつけなくても薄甘で歯触りも良く、半分はサワークリームにからめてサラダにし、残りの半分はフードプロセッサーで砕いてスープにした。深紅が食卓に映えて、たまたま来店された操り人形のマリーちゃんも、しばしのビーツ談義に郷愁が触発されたのか、ロシア民謡をバックに二曲も踊ってくれた。

 イスラエルでも、また旧ソ連のウズベキスタンでもかならず食卓にのるビーツのサラダ。シンプルで栄養価が高く、ピクルス瓶詰は、北半球の極寒の暮らしを支えてきた貴重な保存食でもある。

 友人ナミさんの提案で、深紅の茎と皮を煮出して、白いタオルを染めてみたりもした。食材としてしか考えられなかった自分は、彼女の「この素晴らしい色で、布を染めたらいいんじゃない?」の一言におどろいた。ナミさんみたいな人がいるから、民芸文化が生まれ、発展するのだと思った。

 今朝、ご住職から電話があり、再びビーツをいただけることになった。となり村でこんなに収穫できるということは、当村でも可能だということにやっと気づいた。

 畑でビーツを育て、それを調理する。海外で暮らす日本人が、日本独特の白い大根や小豆を庭で育てて、故郷を味わう話をよく聞くが、わたしは故郷に暮らしていながら、もうひとつの故郷を味わうことを考えている、なんて欲張りでぜいたくな! と苦笑しつつも、すでにピクルスの保存瓶を洗って陽に干した。



2017年08月

 
   イスラエル・キブツの現状

 イスラエル・キブツの変遷は、すでにこの場で何回か書いたのだが、今回(2017616〜)は、キブツ・カブリの友人宅に4泊して、その現状の一端を自分の目で確認してきた。

 キブツがもう運命共同体ではないのは、25年前に聞いてはいたが、そのころはまだ農業、つまり畑や牧舎で働くメンバーは多くいた。しかし今現在、キブツの農業部門は完全にプランテーション化して、実際に真っ黒になって汗みずくで働いているのは、タイ人、アラブ人たち賃金労働者、それも低賃金長時間労働者のみにとってかわった。

 この変革を決定したキブツの全体会議を、友人のローニーが報告してくれたのは、あれはもう20数年前になるだろうか? 全体会議出席者の挙手で、農業部門を雇用労働に一任する(基本理念に沿っていえば、肉体労働を放棄して利益を搾取する)この大事な決定がなされるとき、高齢者である第一世代の生き残りと、第二世代の居残りの大部分が、それに反対した。「自分たちの子どもたちが、将来同じ人間であるタイ人たちを見下してほしくない」「成果主義、それも利益だけをまず重視する生き方は、かつてヨーロッパで土地をもたなかった先祖が、唯一選択できた生き方だった。ところが、今ここでは土地があるにもかかわらず、アジア人たちを働かせて、自分たちはその上がりで暮らそうとするのは、キブツの基本理念に反する」と、口々に反論したが、第一世代にはすでに農業労働の体力がなく、第二世代には基本理念を押し通す根性が足りなかった。というか、これはイスラエル国内ほとんどのキブツでほぼ同時に起こった経済危機を伴ったキブツの大変革で、まず子どもの集団就寝の廃止、食堂での夕食廃止にはじまった個人生活重視の暮らし方変革が起こり、電話とテレビの普及に後押しされて勢いがつき、止めようもなかった。

 当時は体力があり、ITにも強い第三世代(現在の40代後半から50代前半)の提議、そして多数決の裁決によって、牛舎、養鶏舎、羊小屋が次々と閉鎖され、長年牛飼いや羊飼いをしてきたお年寄りたちが、泣く泣く家畜たちと別れざるを得なかったと聞いた。個人的に、カブリの羊飼いや牛飼いを知るわたしにも、その落胆ははっきりと思い描ける。

 今回わたしは、炎天下の中、友人に頼んで、かつての自分の仕事場であるアボカドやバナナの畑をいっしょに歩いてみた。幸いこのふたつの部門は、ヨーロッパへの輸出量も多く、今もずっとこのキブツの看板を維持している。10代後半とみられるタイの少年が、灌漑ホースを設置していた。作業は50年前とほとんどかわらない。出稼ぎである彼らは、賃金のほとんどを本国の家族に仕送りするという。

 昼近く、賑やかに働くアラブ人女性たち4人と出会い、いっしょに写真を撮ったりしたが、近くのアラブ村に住むという彼らは、なんとラマダン(断食月)の真っ最中で、日没まで食事どころか、一滴の水も口にしないという。裾の長い黒っぽい服、頭にはスカーフを巻いた格好で、全員がバナナ畑で摘葉をしていたが、日本人のわたしとも笑顔で接し、「家事と仕事の両立はたいへんだけど、子どもたち5人と、みんなで協力してやっているのよ」と、明るく語った。同行の友人は普段から、ユダヤ人とアラブ人の共存運動に参加していて、つい最近もアラブ人女性たちと国を南北に横断する和平デモに参加していたから、ここでも自然体でアラブ人たちと会話ができ、わたしはとても救われた思いだった。

 しかし、もし日本人の自分がプランテーションで雇用されている立場の人間だったら、こんなにも明るく笑顔で外国人に接することができるだろうか? と、一瞬考えた。

 たぶん、ぎこちなく、なんとなくこだわって、卑屈に接するだろうなと思うと、この4人のアラブ人女性たちの素直さ、寛大さに、畏敬さえいだいた。

 日本人はいつのまにか欧米の文化に慣れ過ぎて、機械化都市文明を過剰、あるいは絶対評価する価値観に染まり、こうした素朴で、数値に測れないアジアの幸福感を、遠巻きに見るようになってしまった。

もともと〈幸せ〉という単語のないブータンの〈幸せ〉と、〈幸せ〉という単語だけを追い求める欧米の〈不幸せ〉の境を、こんな中東の地で、それもバナナ畑のはじっこで、垣間見るとは思ってもみなかった。

では、人はなぜ身体を動かして働くことが大事なのか? なぜ、あえて労働を放棄してはいけないのか?

この問いは、今回イスラエルからわたしが持ち帰った中で、最大級の、そして最重量のお土産のような気がする。



2017年07月

 

   エルサレム・ブックフェアでのスピーチ

 実はこの春、ヘブライ文学のヘブライ語から日本語への翻訳家母袋夏生氏(もたい・なつう氏)が、その長年の功労を称されてイスラエルのエルサレム・ブックフェアに招待されるという報を受け、母袋氏の推薦でわたし樋口も同行するという、まさに青天のへきれきの企画を受諾する旨となりました。

 しばらく準備に没頭し、店〈あみん〉は断腸の思いで3週間休業し、6月7日から24日まで、母袋夏生氏とともにイスラエルに行ってまいりました。

 ブックフェアでは、母袋氏と樋口のそれぞれのプレゼン約20分間、その後、原書を原作者によってヘブライ語で、訳書を翻訳者によって日本語で朗読という、たいへん意義のある企画をこなし、緊張しつづけた一時間半を無事に終えることができました。日本語でもプレゼンなどしたこともない自分は、何もかもが初体験で、今もまだ緊張は解けないのですが、わたしのヘブライ語でのスピーチを自ら邦訳してここに発表いたします。

 清水(きよみず)の舞台から飛び降り、その高さを痛感した20分間でした。

  〈わたしにとって文学とは何か〉 2017.6.12 エルサレム・ブックフェア会場にて

                             樋口範子

(  )は、邦訳で加筆した部分です。 

わたしにとって文学とは何か? それを考えはじめたのは、17歳のときです。(宮沢賢治の影響を強く受け)、同時に農業にも関心を持ち、たまたま出逢ったキブツという、イスラエルの集団農場にも興味を抱き、キブツの歴史や教育についての本をかなり読みました。

 わたしがキブツについて一番惹かれたのは、肉体労働と精神労働が同じ価値で考えられているという基本理念で、これは現実にはとうてい考えられない驚異でした。当時の日本には、キブツ協会といって、毎年10数人のボランティアをイスラエルのキブツに送っている団体があり、わたしはそこに出向き、ぜひとも自分もそこで働きたいと申し出ました。

 わたしの父は、保守的な暮らしを営むごく普通の人でしたが、リベラルな内面も多分にもち、わたしの希望を喜んで受け入れてくれました。そして母もまた、イスラエルがどこにあるのかわからないまま、娘の選んだ道に同意してくれました。

 そしてわたしは(高校を卒業して2週間目)18歳で、イスラエルのキブツ・カブリに来ることができたのですが、現地ではちょうど第3次中東戦争(イスラエルでは六日戦争と呼ばれる)から10ヶ月目という状況でした。わたしはすぐにアボカド園で働き始め、それからずっと二年間、同じ仕事場で働くことができました。当然その間、読書をする時間も、読む本などほとんどなかったのですが、文学とはいったい何なのだろう? という思いは常にありました。

 イスラエルのみなさんはおそらく、キブツ・カブリでは毎夕、地中海の水平線に沈む夕陽を眺められるということをもうご存知でしょうが、その沈んでいく太陽が「ほら、わたしはこれから地球の裏側、日本の方に向かっていくんだが、さあ、のりこよ、文学とは何か? もう答えがあってもいいんじゃないかい?」と問うのです。でもわたしは、だまったままでいるしかありませんでした。

 読書をしたり日記を書く代わり、わたしにはキブツでの生活の一瞬一瞬が、たいへん貴重に思われ、特にアボカド園での仕事に一生懸命でした。当時はみな、朝4時半には仕事を始め、わたしは小型のトラクターをあてがわれ、運転免許もないのに、農場内をせわしく行き来して、肥料やり、剪定、収穫などに追われていました。そして720分になると休憩小屋に行き、そこで78人の男たちの朝食を準備するのも、わたしの役目の一つでした。それぞれの注文に従って、オムレツ、目玉の両面焼き、スクランブルなどを毎朝つくっては、彼らに給仕していました。

わたしにはシャハル家というカブリでの里親がいて、夕方はほとんど彼らの所で、おしゃべりをしたり、音楽を聴いたりして過ごしました。そしてローニーという、当時は軍隊にいた同年齢の女の子とも知り合い、郵便で文通までしていました。彼女は、今もその手紙を大事にとってあると言うので、あの当時いったい何を書いていたのだろう? はて、困ったなと心配する昨今でもあります。(そんなもの、早く捨ててほしい)

ローニーとわたしは、今も尚ずっとつながっていて、さらに、モシェとオフェルという今ではふたりともりっぱな博士になってしまったハンサムな弟たちも、互いの自慢でさえあります。

カブリにいた二年間で一度だけ、文化祭の日だったか、日本の詩をヘブライ語に翻訳して自ら歌って発表したことがあり、くわしいことはすっかり忘れてしまったのですが、当時のカブリの広報誌の表紙を、こうして持参してまいりました。1969年との記載があります。

      死んだ男の のこしたものは   谷川 俊太郎 詩 武満 徹 作曲

ヘブライ語への訳 樋口範子 

1・死んだ男の のこしたものは 一人の妻と一人の子ども

 他には何も のこさなかった 墓石一つのこさなかった


2・死んだ女の のこしたものは しおれた花と一人の子ども

 他には何も のこさなかった 着物一枚のこさなかった

 

3・死んだ子どもの のこしたものは ねじれた脚と乾いた涙

 他には何も のこさなかった 思い出ひとつのこさなかった

 

4・死んだ兵士の のこしたものは こわれた銃とゆがんだ地球

 他には何も のこさなかった 平和一つのこさなかった

 

5・死んだ彼らの のこしたものは 生きてるわたし 生きてるあなた

 他にはだれも のこっていない 他にはだれものこっていない

 

二年後に日本に帰国した後、結婚してふたりの子どもを授かり、彼らを育てました。子育てをしている間、文学とは何か? など考えることはなく、読書をする時間もありませんでした。ところが、このわたしをイスラエルから訪ねてくる友人知人が、かならずといっていいほど、ヘブライ語の絵本や本を、お土産にしてくるのです。あるとき、ローニーがアミア・リブリッヒ著の「キブツ・マコム」というオーラル・ヒストリーの英語版を送ってきて、その内容の面白さに、わたしは夢中になりました。

はるか遠い国の、このキブツという集団生活と日本の日常生活は、あまりにも異なるものの、そこに見え隠れする様々な人間模様には、おおいに共通する深層心理があり、予想外にも共感さえあり、なんとか訳してみたいという願いが自分の中で沸き起こりました。出版など何の宛てもなくはじめた翻訳作業は実に楽しく、わくわくするほどの充実した日々でした。そして二年後、幸いイスラエル関係の書物を出版する版元に認められ、出版することができました。(邦訳では〈キブツその素顔〉ミルトス社 1993年)。

しかしその後、翻訳という分野でどうすすんでいっていいのか立ち往生し、思い切ってヘブライ文学翻訳のパイオニアである母袋夏生氏の門をたたきました。母袋氏は、拙訳本をごらんになってすぐに「あなた、イスラエルに暮らしていたんでしょ、だったら、なぜ英語からではなく、ヘブライ語から訳さないの?」とおっしゃいました。

まったくそのとおりです。なぜヘブライ語から翻訳しないのか? (カブリでは、毎日二時間の語学レッスンで、一応の生活には不自由はなかったが、文学にはまだ遠かった)、それで一念発起し、ヘブライ語習得の中級、上級の教科書を取り寄せて独学をつづけ、次第にある程度の文学書まで読めるようになったので、手元にあった書物を翻訳していました。しかし、あちこちの出版社に持ち込むものの、なかなか出版までこぎつけません。数年後にやっと、ダニエラ・カルミ著「六号病室のなかまたち」がさ・え・ら書房という、児童文学の老舗版元から出版され、その内容の濃さもあって、今も5版を数え、読まれているといいます。(ありがたいことです)その後、ドリット・オルガッド著3冊、ガリラ・ロンフェデル著1冊、タミ・シェム・トヴ著1冊、ユバル・エルアザリ著1冊と、24年間に8冊の本が、拙訳で出版されました。

しかし今もなお、出版の道は険しく、まるで真っ暗なトンネルの中を歩いているようなものだと、時おり思います。一生懸命に出口を見つけようとするのですが、トンネルの出口は遠く、なかなか光にたどりつけません。

あるときは、笑顔で迎えてくれた編集者に、「日本の読者に、イスラエルとパレスティナの複雑な政治状況を説明できないかぎりは、ヘブライ文学の出版はできません」と、わたしの持ち込んだ訳を1ページも開かぬまま、体よく断られたこともあります。

しかし、ヘブライ語の翻訳を、あきらめてはいません。なぜかと、自分に問いかけたところ、それには、ふたつの理由がありました。

ひとつは、イスラエルには、周辺諸国との紛争や数々の政治問題の中でも、当然人々の日常生活があり、政治に関するニュースだけでは理解できない、どこにも共通する人間模様、同胞アラブ人に対する慈しみ、うしろめたさ、こころの温かさや思いやり、そして身内の喜びや哀しみ、困難や理不尽を、文学を通して知ってほしいという願いがあるからです。

ふたつめは、門をたたいて24年間の間の、母袋夏生氏の困難や苦労を見てきて、それでも近年ますます多く読まれるに至る彼女の努力に準じて、母袋さんがつづけるのなら、自分もつづけるという思い、願いがあるからです。

あらためて、文学とは何か?

この、50年にも及ぶ自分への問いに対する正しい答え・・・・は、まだありません。しかし最近は、文学とは決してアカデミックな分野に鎮座するものでも、遥か遠く人の手の届かない遠い場所にあるものでもなく、もしかしたら・・・・この暮らしのすぐそこに、静かに物言わずして、そっと、いるものではないかと感じ始めています。そして、もしかして、それは、人の生き死にの、そこ、そのそばに在るもの・・・かもしれないと。

日本の、とある詩人(アーサー・ビナード氏)が、「言わないで言うのが文学」と図星をついたように、文学とは、実は行間で読むものなのかもしれません。

わたしの友人のひとりは、「イスラエルのキブツは、すでに大きく変貌しているのに、あなたはまだ、ひとりでキブツをやっているのね」などと言います。たしかに、朝からパンを焼き、昼は主人と小さなカフェを営み、夜は机に向かって学んだり翻訳したりしていることは、肉体労働と精神労働の同じ価値の実践かもしれません。しかし今はもう、その境さえ、自分にはどうでもいいというか、はっきりした線ではないのだと思います。

わたしはただ、50年前のキブツ・カブリで学び、そこで培った暮らしをつづけているだけ、そう思っています。

最後に、この場に招いてくださった多くの皆さん、支えてくださった皆さんに感謝を申し上げます。

                      


2017年06月


 ウズベキスタンを巡る人々  その4

 ウズベキスタンでは、毎回列車での移動を楽しむのだが、今回は特に昨秋開通したばかりのタシケントからフェルガナ地域への新鉄道路線に乗ることができた。途中にそそりたつカムチック峠を含む山岳地帯がネックになり、今までは空路かバスかタクシーの陸路しか交通手段がなかった。それも冬季はほぼ閉鎖という、たいへん不便な地域として、西側のサマルカンドやブハラ、ヒヴァといった世界遺産の華々しさに隠れた地域でもあった。

 約5時間の車中は快適で、お茶や駅弁(白いご飯にカツレツ、キャベツサラダ)のサーヴィスもあり、座席もゆったりして、なごやかな雰囲気があった。

 鉄道の旅で、わたしが一番楽しみにしているのは、車窓から眺める風景なのだが、今回も、広い綿花畑や水路、火力発電所とその集落、農村で働く人々に目を奪われた。

いつだか一度、店のブログにも書いたことがあるのだが、作家角田光代氏の、〈人はなぜ、長距離列車に手をふるのか? 〉というエッセイを読み、いたく納得した。それは、線路わきに暮らす人々の、長距離列車に乗る旅人への憧れが、自ずと手をふらせるという解釈だったと思う。日常の、非日常への憧れはそのとおりで、線路わきに暮らす人々は、ただの通勤電車には決して手をふったりはしない。自らの希望的非日常を旅人に託そうと、思わず手をふるのだろう。

今回も、細い山道をロバの背に乗って下る青年が、朝の水くみに出かける少年が、そして洗濯物を干す婦人が、車窓にしがみつき手をふるわたしに応えて、いつまでも手をふってくれた。中には、わずか4カ月前に開通したばかりの列車の通過時刻がしっかり頭に刻まれているのか、すでに線路わきに待機していた老人と幼児が、長短合わせて4本の手を必死にふってくれた。

 荒涼とした寒村は、やはり寒々と立ち尽くすポプラ並木を背に、いつもの朝を迎えていた。家々の屋根の煙突からは、炊事用なのか暖房用なのか、か細い煙がなびいている。かつてのコルホーズの名残で、母屋と家畜小屋と家庭菜園をそなえた各住まいの隣には、広大な綿花畑がつづき、いくつかの集落をなしている。

 遠くに霞む、雪をかぶった山なみの美しかったこと、今も脳裏に焼きついている。あっというまの5時間で、最後は線路わきで待機していた、おそろいのオレンジ色のジャンパーをはおった線路工事人が、全員手をふってくれた。しかし、彼らに笑顔はなく、その過酷な日常が察せられた。

 リシタンという小さな村で9日間を過ごし、その間徒歩で20分というキルギス国境近くまで案内してもらった。「くれぐれも、手をふったり、カメラを向けたりしてはだめですよ」案内人は、緊張した面持ちでそう言った。

 国境にはやはり、ポプラ並木が立ち並び、その硬直した姿は、まるで警備隊のようだった。当然彼らは無言で、遥か極東からやってきた旅人をだまって迎える。お互い、手もふり合わず、こちらはしばし身動きもしなかった。

国境線の向こうに、似たような集落や家々の屋根が見える。もし双眼鏡で覗いて見れば、そこにも同じような人々の営み、日常があるにちがいない。わたしたちは、真冬のポプラのように、ただじっと立っていたが、おそらくキルギス側からは国境警備隊のように見られていたかもしれない。

タシケントへの帰路は、折からの雨量で線路が水につかったとかで、鉄道は運休になり、カムチック峠をタクシーで越えた。雪景色の中、今度はタジキスタンとの国境付近で検問があり、わたしたち外国人は検問所の小さな窓口で、パスポート提示を求められた。検査官は、なぜか満面の笑みを見せたが、むしろ気味が悪かった。

そこにはもうポプラ並木はなく、武装した警官と兵士が、無表情に行き来しているだけだった。日常などどこにもない場所では、やはり手をふる人はひとりもいない・・・・当たり前のことだが、わたしは、もって行き場のない両手を後ろで組んだ。


2017年05月


ウズベキスタンを巡る人々 その3

つい最近知ったこと。それは、〈幸せ〉という単語が存在しない国が、よりによって世界で一番幸福度が高いと言われる国ブータンだということ。つまり、二項対立がない。幸せとか不幸とか、二極に分類しない価値観で生きている国。それこそが真の〈幸せ〉ではないかという声が聞こえそうだが。

ブータンでは、〈心地よい〉という単語はあるらしいから、おそらく国民の大部分がその〈心地よさ〉を感じているのだろうが、それは欧米の価値観でいう〈幸せ〉とは、まったく質の異なる境地に違いない。

他国が勝手に与えた評価である〈幸せ〉に、彼らがあえて反論もしないことが、その境地のさらなる深みを感じさせる。

ウズベキスタンの小さな村リシタン(人口2万人)でも、似たような鷹揚さに何度も出逢った。夕方にかならず起こる長時間の停電、天然ガスの産地でありながら、たびたび起こるガス欠。しかし、その村の人々の表情がなんとも柔らかいのである。ウズベク語にもロシア語にも〈幸せ〉という単語は、たぶんあるのだろうが、幸せは求めるものではなく、今ここにあるものだと、その村で感じた。

わずか9日間のリシタン滞在中に関わった日本語学級では、毎日数十人の小学生、中学生に接し、その向学心、聡明さ、無邪気さに、どんなに心が洗われたことか。

暖房のない停電中の教室で、毛糸の帽子、手袋、厚手のジャケットを身につけたまま、わたしたちはいつのまにか寒さも暗さも、時間のたつのも忘れ、みんなで学び合い、笑ったり、歌ったりした。

幸い日本語が通じたので、さまざまな試みができた。持参した絵本「あらしのよるに」七巻中の一巻だけを夫婦で朗読した後、二巻目からの筋書きを、子どもたちに想像してもらうという企画を実行した。

つまり一卷目は、あらしの夜に、真っ暗な小屋にたまたま避難したオオカミとヤギが、〈あらしのよるに〉を合言葉に、翌日の昼に会う約束をして別れる場面で終わる。

オオカミの大好物はヤギの肉で、ヤギはオオカミを一番恐れているから、この二匹が昼間に出会ったらどういうことになるか? 読者には想像がつく。しかし、あらしを避けて、一番つらい時に出会った二匹には、小屋の中ですでに友情が芽生えていて、それはその後互いの仲間からの非難や仲間外れを引き起こし、二匹はさまざまな葛藤に苦しむ・・・というのが二巻以降の話になる。

舞台にも脚色され、最近では歌舞伎の演目にまでなった、どこにでも起こりうる物語だ。ウズベキスタンに出発前、人種や国を選ばず、子どもにもわかりやすい物語をということで、わたしたちはこの七巻の絵本を選んだ。

「さて、あらしの翌日、互いがオオカミとヤギであることがわかった二匹はどうなるでしょう?」 と質問すると、子どもたちの目が輝きはじめた。日本のアニメ(ジブリ)やマンガ(どらえもん)には、かなり詳しい彼らも、この物語には初対面だったらしく、みな真剣に考えはじめて、ひとり、ふたりと手が挙がった。

「オオカミは、やっぱりヤギを食べちゃうと思う」

「うん、食べちゃう」

「ヤギはすぐ逃げるけど、オオカミは追わない」

 などなどで、オオカミは、我慢するけど、最後にはヤギを食べてしまうというのが、大方の意見だった。

 13歳の少年がさっと手を挙げて、「ヤギは、オオカミに、『自分の肉には毒があって、もしあなたがわたしを食べたら、死んじゃうよ』って言えばいい」と妙案を出して、喝さいを浴びた。

また16歳の少年は、「集団ではない単独のオオカミと鋭い角をもつヤギが闘ったら、どちらが強いかわからないから、互いに闘わないで別れるだろう」と言って、みんなを一瞬沈黙させた。

今こうして、その授業を思い出しただけで、わたしは胸がいっぱいになる。一日のべ4時間の授業が、あっという間だった。子どもたちの真剣なまなざしに、拙い脳内でああだ、こうだとつまらないことをクヨクヨ考える余裕もなく、その瞬間だけを生きている実感があった。

その久々の〈幸せ〉感は、もしかして〈心地よい〉と置き換えられる感じ方に似ているのかもしれないが、日常の底に静かに流れるものではない。旅からもどった自分は、なぜ今という瞬間を〈心地よく〉生きられないのか? 

少なくとも、きな臭く希望のない世情のせいにはしたくない。しかし、人間世界を見回す限り、〈心地よい〉とは到底言えない事象の数々に、ついついブータンやウズベキスタンの人々を思い描いてしまうのだ。


2017年04月


ウズベキスタンを巡る人々  その2

 過去二回のウズベキスタンへの旅では、旧ユダヤ人街の個人住宅をリフォームした民宿に5連泊して、おそらく100年前と変わらない窓からの風景や、かつての家の持ち主が残したままのロシア語の蔵書本棚をながめ、味わい深い宿泊を楽しんだが、三度目の今回は、一般家庭にお邪魔して、できるだけふだんの暮らしを垣間見たいと願っていた。

首都のタシケントは大都会だが、それでも日本人墓地のあるヤッカサライ地区で旧日本兵の資料館を維持するジャリル氏に、現地の大学で日本語を教えるI氏を通じて、訪問予約をとり、I氏とともに家の中に招き入れられた。旧チェコソロヴァキヤ大使館だったというその邸宅は、大理石造りの瀟洒な二階建てで、暖かい雰囲気があった。10代後半のお孫さんふたりも出迎えてくれて、お茶(ウズベキスタンには、紅茶や緑茶ではなく、ほうじ茶に近いお茶の文化がある)や果物、ピロシキをごちそうになった。

さらに今回は、首都タシケントから300キロはなれた、リシタンというキルギス国境に近い村で、私設の日本語学級を16年間無償で維持する校長先生宅に、8民泊した。一人3食30ドルの宿泊費から、日本語学級の運営費がいくらか賄われるシステムになっている。

リシタン村では、どの家も敷地が広く、中央にある庭(パティオ)には、池や家庭菜園などがあり、母屋や小住宅が周りをぐるっと取り囲んでいる。平安時代の寝殿造りと呼ばれる貴族宅の建築様式が、ローマからイスラム文化を経て、シルクロードを通って伝わった渡来人建築様式だということが、素人目にもよくわかる。

その広い敷地内の各家屋に、祖父母や叔父叔母家族が分散して住み、井戸、パン焼き窯、物干し場、家庭菜園、養蜂箱、家畜小屋を共有し、そのうちの何人かは街に出て現金収入を得て暮らしている。

日本語学級の校長先生の妻は現役の産婦人科医で、当然手術や夜勤もある。洗濯、掃除、料理の家事は、長男の嫁さんと通いのお手伝いさんが協力しているが、病院と家事と8歳から27歳までの4人の子育てをどうやってこなしていたのか? あっぱれとしか言いようがない。

近所に住む日本語学級の生徒で、去年日本でショートステイをしたという女子中学生の家庭を訪問させてもらった時も、3人の子を持つ母親は街の病院に勤める小児科医だと自己紹介した。42歳だというその母親は、あふれんばかりの笑顔で、28年前に旧ソ連から独立したことで、移動や選択の自由が得られたと語った。独立時、彼女は14歳だったという。それをわたしたち日本人に通訳してくれたのは、独立以前のウズベキスタンを全く知らないその家の14歳の娘だったのが、なんとも意味深に感じられた。広い敷地内には、少なくとも8人の身内の老若男女の姿があり、家事や育児を助け合ってこなしているのが察せられた。

それぞれが、自分の主張をする大家族には、仲裁や解決の困難もあるだろうが、幸せの大きさには代えられないという自信が伝わってきた。

クワという7世紀の仏教遺跡の近くで、植木職人の大家族を訪問した時、そこではたまたま裏庭にある石窯で、長男の嫁さんが一週間分のナン(丸く平たいパン)を焼いているところだった。

その地方には、石窯でパンを焼くとき、パン焼き人の背後で、だれかが一人立って見ていると、窯の天井に貼りつけた生地が一枚、見学人が二人だと、生地が二枚はがれて窯底に落ちるという言い伝えがあるそうで、わたしたち日本人が二人で見ていたその日、生地は言い伝えどおり、ちゃんと二枚落ちたわといって、みんなで笑った。そんなたわいないことで、こんなに無邪気に大声で笑い合える、なんて素敵なもてなしだろうと感動して帰路についた。

ふつうをふつうに見せて、ふつうを感じてもらうのは、実はたいへんむずかしい。だれもが、ちょっと気どってみせたいものだし、旅人自身も非日常の中にいるので、ふつうの顔はしていない。しかし、旅先で双方が日常の中にいられるという初体験をし、これは案外やみつきになりそうだとも思った。

ではなぜ旅に出るのかと問われれば、よその場所で、よその人たち、時にはよその時代の日常を体験したい・・・・それにつきる・・・と帰国して二か月後の今思っている。


2017年03月


ウズベキスタンを巡る人々  その1

3度目のウズベキスタンで、今回はじめて、主人が携帯トランスレイターなるものを活用して、ちょっとした街角会話を楽しんだ。この国ではだれでも、たとえ子どもでも、ロシア語とウズベク語を話し、読み書きし、もしかしたらそこにタジク語も加わるという多言語国家なのだが、わたしたちはそのどれをも理解できないので、前回二度とも、値段交渉とガイド案内は別として、地元の人たちとの交流ができなかった。

 ところが今回は、この携帯トランスレイターに、例えばバザールの食堂で立ち働くお姉さんに、日本語で「忙しいですか?」と発声入力すると、ロシア語モードに自動変換した文面になり、「はい、忙しいですよ。韓国人? 日本人?」と返信までくる。「日本人です」「何が目的でこの国に来ましたか?」「墓参りです」「だれの?」「70年前にこの国で亡くなった多くの日本兵の墓参です」「そうですか」などと話せたり、また寒々とした地下鉄駅入り口で、一日中警備で立っている制服姿の警官に、「おつかれさま」と発声入力すると、最初はいぶかしがって警戒視線なのだが、文面がわかると満面笑みになり、あわてて手袋を外して握手を求められたりもした。レストランのオープンキッチンで働くおばちゃんに、「たいへんですね」「ありがとう」「お子さんは何人?」「5人よ!」などと、一瞬にして人々の固い表情が素顔に変わり、辺りの雰囲気までなごむのだった。

 首都タシケントのナボイ劇場は、今から70年も前に旧ソ連の強制労働で連行された、20代前後の若き旧日本兵の協力で建てられた素晴らしいオペラ劇場で、前回二回とも修理中で中に入れなかったので、今回こそはとわたしたちは劇場の周りを歩いていた。楽しみにしていた当日のオペラ演目が、わずか一週間前にキャンセルになってしまい、もって行き場のない悔しさも入り混じり、無言で足をすすめていた。

 劇場の外壁には、以下の文が、ロシア語とウズベク語、そして日本語の銘板で埋め込まれている。

 

           1945年から1946年にかけて、極東から

           強制移送された数百名の日本国民が、このアリ

シェル・ナボイ劇場の建設に参加し、この完成

に貢献した。

 ロシア系と思われる50代前後の兵士が一人、警備中で歩いていたので、さっそくトランスレイターで「おつかれさまです。日本には、どのような印象がありますか?」と尋ねたら、図らずも流ちょうな英語の肉声で、答えが返ってきた。

 忘れないように、兵士と別れてすぐに書き留めたのが、以下の内容である。

「日本は、第二次大戦で、非常に大きな被害と苦しみを受けたのにかかわらず、決して報復をせず、平和を願ってやまない国だ。争いとか闘いとかを、口にすることさえはばかる民族だと思う」と、兵士は武骨なその指を数本、彼の唇にていねいに当てた。

「憲法で守られています」と、わたしが問いかけると、「憲法の問題ではありません。日本人の体質がそうさせているのです」と、何度も「憲法の問題ではない」とその兵士が強調して、わたしたちをおどろかせ、あまりにも無自覚な自分が、恥ずかしくもあった。

そして「このオペラ劇場が、旧日本兵によって建てられたのは、このタシケントの街の人だけではなく、国中の人々が知っている」と静かに語った。彼は、10年前に北京で軍事訓練を受けたとも言ったが、いったいこういう日本観をどこで、だれによって身に着けたのか? 質問すればよかったと、今になって悔やまれる。

旧ソ連シベリヤから、奉天経由の強制労働で中央アジアに連行された数万人の旧日本兵は、現在のカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、トルクメニスタンの各地に配置され、数年間にわたって高圧電線、ダム建設、鉄道建設、住宅や劇場建設などに従事した。

 70年以上たっても、なお語り継がれる、ウズベク人たちに対する旧日本兵の思いやりと人情、いつ帰国できるかわからない不安と寒さの中での、手を抜かない仕事、そして1966年4月の大地震でも倒壊しなかったオペラ劇場に対する評価に、一番襟を正さなくてはいけないのは、わたしたち戦後の日本人だと痛感した。

 ウズベキスタン国内に数か所ある日本人墓地に、ケガや病気で無念にも帰国できなかった、のべ1008人の日本兵たちが手厚く葬られ、今回わたしたちは首都タシケントと地方都市コーカンドにある二か所の墓地で、線香を手向けることができた。

 そして、タシケントをはなれて12日目、地方リシタンから首都へともどる交通事情の変更で到着時間が早まり、一度は諦めたオペラ観劇が、なんと! 可能になった。

 開演時間より早めに入場して、劇場内の素晴らしいガンチ(ロシア彫刻)やゆったりした休憩室を見学し、ウズベク国産のオペラ「マイサラ」を、前から3列目の中央席で観劇できるという幸運に恵まれた。オーケストラピットに、4年前に別の劇場でお目にかかった日本人フルート奏者の川村さんを発見、終演後にはお声掛けして、一問一答の機会まで得た。

 夜9時ころ、劇場を出たわたしたちを、さらに感動させたのは、幾色にも変わる劇場のライトアップだった。グリーン、ブルー、ピンク、オレンジ、パープルと、オペラ劇場全体が暗闇につぎつぎと浮き上がり、長い年月にわたって、この建物がじっと耳をすませた多くの人々の思いや声を、夜空に歌い放っているかのようだった。

 

 15日間の旅を終えて帰国後、たまたま都内で行われた国際交流会で、旧日本兵の菊地敏雄さん91歳に、お目にかかることができた。明晰な頭脳と言語、お元気でかくしゃくとされた姿勢、何枚かのセピア色の写真を見せてくださり、「シベリヤや奉天に比べれば、タシケントは温暖でね」などと、当時の思い出話を少しだけ語ってくださった。

 歴史とは、遠くから、また遠くをふりかえって語られるものではなく、今現在にも脈打つものだと、あらためて実感させられた。そして何よりも、菊池さんのウズベクの人や周囲の人々をねぎらう率直なお気もちに、こころが動かされた。

 



2017年02月


人はだれでも、物心ついたころに、伯父伯母、叔父叔母という、両親とは別だが、顔かたちが似ていて、安心感に浸れる身内に出逢う。わたしにも、そうした身内が大勢いて(今となっては、いたが)、みんなに守られ、愛された。中でも故ヒロシ叔父は忘れられない。

 ヒロシ叔父が、ほかの身内とはちょっとちがうと気づいたのは、わたしが小学生の時で、お正月だった。親戚中が集まり、子どもたちにお年玉を配る段になると、ヒロシ叔父は、必ず木彫りの手造りブローチを、わたしと妹に一個ずつくれた。

うちは、父方にも母方にも下戸が多く、法事でもお正月でも、お茶ではじまって、羊羹かケーキで終わるような、まるで学級会のようなおとなしい雰囲気があった。亡き父も、賭けマージャンやパチンコは好きだったが、晩酌は一切しなかった。人は、アルコールが入ると人格が変わるとわたしが知ったのは、イスラエル・キブツから帰った後、つまり自分が成人して以降だった。6日戦争直後のキブツでも、いつ戦争が勃発するかわからないので、祭りで深酒をする人を見たことはない、そういう時代背景でもあった。

多くの素面(しらふ)の目前で、姪っ子たちにブローチのお年玉を手渡す、同じく素面の叔父は上機嫌で、もらう側はその無邪気さに救われた。叔父には、ほかに尺八の制作と演奏という特技があり、師匠の看板をかけてはいたが、おそらく最晩年に奇特な弟子がひとりいただけで、木彫りも尺八も、生業にはならなかった。〈夢外〉(むがい)という雅号をもっていたが、本人だけが夢の中にいて、むしろ夢の外にいるのは周りの者たちではないかと、うちの父などは苦笑していた。まったく!

―――この人は現金収入がないので、したがって、お年玉が現物なのよ―――と、叔母たちの解説つきでもらった木彫りのブローチは、小刀で念入りに彫られたもので、叔父は真剣に商品化をめざしていた。じっさい、商品としての遜色はない絶品だった。わたしたちが、そのブローチを洋服につけていくと、ヒロシ叔父は「ねっ、いいだろう? なんたってデザインがいいからね」と、自画自賛で大満足だった。ヒロシ叔父の親(つまりわたしの祖父母)や兄弟にとっては、40を過ぎても定職につかないヒロシは、心配の種だったから、あえてだれも作品を評価しない。当人が全くめげないので、周りの気はさらに滅入っていた。

ヒロシ叔父は、毎年お正月になると、「今、デパートに売り込みをかけて、可能性がありそうなんだ」「外国のバイヤーの目に留まった」「いよいよ、商品になれば、世界中を飛び回るんだ」と目を輝かすのだが、思春期に入ったわたしたち姉妹には、哀しいかな、叔父がなんだかオオカミ少女のように見えてくるのも事実だった。

 やがて晩婚で世帯をもった叔父だが、当然定職がないので、その妻が電気やガスの検針に走り回り、生計をたてていたはずだ。叔父は、木彫りと尺八の日々を最期までつづけ、みんなにうらやましがられて2009年の二月に85歳で他界した。

 今、ブローチのお年玉から60年以上もたち、ヒロシ叔父の作品は、妹とわたしの大切な宝物となった。どのブローチも斬新なデザインで、木の光沢も増し、わたしは自分の店内でも、外出時でも、よく胸元や襟元につけていく。〈羊〉、〈4本の木〉、〈犬〉、〈ふたりの子ども〉〈アイヌの文様〉、〈万歳する人〉など、材質や大きさの異なる数々のブローチ、ペンダントは、ぜったいにお金では買えない貴重品となった。「どこで買ったの?」「だれの作品?」と、たいてい聞かれる。それくらい、一品物としての素晴らしい価値があると、自分たち姉妹は思っている。

 あれだけ海外に出たかったヒロシ叔父自身は、結局この日本を一歩も出なかったのだが、その作品はわたしと共に何度も海を渡り、2010年にイスラエルに行ったときも、「ノリコは、20年前に来た時も同じブローチをつけていたわ」と、その時の写真を見せられておどろいた。

 そして今冬も、わたしのお気に入りである〈ふたりの子ども〉ブローチを胸元に、3度目のウズベキスタンに行った。その間2週間、叔父はずっとわたしといっしょに、汽車やバスにゆられ、旧ソ連の地下鉄にまで乗り、後半は小さな村を歩き、寒々しい冬空の旅をつづけた。



2017年01月


 イスラエルは、キリスト教国ではないので、当然クリスマスという祝日はない。

イエス・キリストが生まれ育ち、国内に多くの聖書遺跡をもち、世界中からキリスト教徒が巡礼に訪れる国ながらも、国教が異なるというのは、インド(お釈迦様の生まれた国であるのに、国教はヒンズー教)も同じだが、それを日本の友人たちに話すと、とても不思議な顔をされる。しかし、事実そうなので、日本のクリスマスは、半ば商戦だと割り切ることにしている。つい10年前、イスラエルの里親から、サンタクロースの絵柄のついたカードが送られてきて、とても驚いたが、別に〈メリークリスマス〉を意味するものではなく、単に一年間をねぎらう文言が書かれていた。彼らがサンタクロースをいったいどういう人物と、とらえているのか? 未だわからない。

わたしのイスラエルの友人たちに、熱心なユダヤ教徒はたったひとりで、あとは世俗派なのだが、1月には、全員に年賀状を送ることにしている。

毎年、気に入った詩の既成英訳をカードに書き、例えば星野富弘さんや金子みすゞさんの詩を送ってきた。

今年は、これしかないと思い、15人の友人に既成英訳を送った。中島みゆきさんの「糸」。

最後の「仕合わせ」という単語が、けっして「happiness」になっていない訳に、思わず「よっしゃ」と思い、カードにペーストした。同時に曲を送ることができれば最高だが、・・・・英詩を読んで、どういう曲を思い浮かべてもらえるか? これもまた、楽しみでもある。

 

              糸   
                   中島みゆき 作詞・作曲

 

なぜ めぐり逢うのかを わたしたちは 何も知らない

いつ めぐり逢うのかを わたしたちは いつも知らない

どこにいたの 生きていたの

遠い空の下 ふたつの物語

 

縦の糸はあなた 横の糸はわたし

織りなす布は いつかだれかを 暖めうるかもしれない

 

なぜ 生きてゆくのかを 迷った日の跡のささくれ

夢追いかけて 走って ころんだ日の跡のささくれ

こんな糸がなんになるの 心許(もと)なくて ふるえた嵐の中

 

縦の糸はあなた 横の糸はわたし

織りなす布は いつかだれかの 傷をかばうかもしれない

 

縦の糸はあなた 横の糸はわたし 

逢うべき糸に 出逢えることを

人は 仕合わせと呼びます

 


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