☆ 樋口範子のモノローグ(2018年版) ☆

更新日: 2018年12月1日  
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2017年版 <=

2018年12月


 ほぼ日川柳 旅行版

 ほぼ日手帳という、某コピーライター企画の手帳を携帯しはじめて、二年目になった。それまで、手帳も携帯電話ももたない自分は、キッチンの壁に貼ってある大きめのカレンダーに、家族と自分の予定を書き込んで、それで事が足りていた。
 ところが、年齢とともに記憶力が低下したのか、出先で自分の予定が組めなくなった。銀行カードの暗証番号や主要電話番号がいきなり真っ白になり、さらに、あんなに楽しかった一か月前の会食の仲間さえ思い出せなくなった。これはいかん。たまたま嫁さんが、ほぼ日手帳をすすめてくれたので、昨年の正月早々購入した。
 そして、3度目のウズベキスタンへの旅をきっかけに、自分ひとりで、ほぼ日川柳をはじめた。

・ほぼ日を きょうから旅の  道連れに

・ふと気づく 二人三脚  ほぼ日と

・のっとられ てたまるか たかが ほぼ日に

・ほぼ日よ 君はこの頃 せっかちだ

・空白に ひそむ出来事 これもよし

その5か月後にイスラエルに行ったが、このときは学習課題が多すぎて、川柳どころではなかった。

・パスポート ポケット地図に 電子辞書

 そして今秋、息子家族を訪ねて、はじめて単身太平洋を渡ることになった。相変わらずの高所恐怖症だから、飛行高度や気流情報は絶対無視。

・二年目の ほぼ日ひっさげ 初渡米

 現地ワシントンDCは、紅葉真っ盛りで、息を呑むほどの美しさだった。ここ富士山麓と同じく、政治も人心も貪欲で、損得ばかりの下界だが、自然界はほんとうに素晴らしい。
 アメリカの白人有史は浅いが、先住民史と大地は、ずっとずっと重厚なはずだ。

・大地とは 国家と人種を越えるもの

韓国市場には、ゴボウ、レンコン、白菜などの野菜がそろっているので、嫁さんと、オカズづくりをした。ゴボウをささがきにしながら、普段気づきもしない日本語の単語が、??をつけて、とび出してくるから不思議だった。

・異国にて キンピラとチンピラ 検索し

 連日、朝から夕方まで、近くのスミソニアンモールに通い、一日一館というぜいたくな時間を過ごした。どこの博物館でも館内ツアーに参加して、ときには10%しか聞き取れないガイダンスでも、それはそれで興味津々だった。自然館では、84歳の車椅子ガイドが、「kids, follow me」と参加者10数名を、なんと90分間も連れ廻って、くぎ付けにした!

・異国でも bird and man watching

・白と黒 赤と黄色に 空青し

 週末は、家族と近くの川沿いをサイクリング。紅葉した落ち葉に木漏れ日が差す中、日本では見かけない野鳥や野生のりすに、つい頬が緩んだ。

・燃える秋 絵画の中に いるわたし

・オレンジの 胸してはばたく 君の名は?

・せせらぎを 耳にペダルを こぐ至福

・人生の 秋がまさかの ワシントン

ABC 教えた息子に J習い

 何もかも巨大で、面食らうことばかりだったが、大型ショッピングモールを出た空の中ほどに、いつのまにか、折り紙のような、まさにペーパームーンが出ていた。

・三日月や ここアメリカにも 山河あり

 14歳の孫と、映画や小説の話ができたのは、予想以上の喜びだった。

・異議もあり 孫という名の 未来かな

・孫にきく この街の風 その住処

そして、何のトラブルもなく帰国できた。

・無事帰国 機内映画の 画(え)も混じり

・ほぼ日の 〈ほぼ〉とは何か? 時差数え

 来年の旅予定は未だないが、3年目のほぼ日手帳が、我が家にはもうすでに届いている。


2018年11月
     

言語とは何か?

 パラリンピックの広報ポスターで、「障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ」という某選手の発言ポスターが、一般の障害者を傷つけるものとして、撤去された。その選手の本来の思いは、「健常(者)の大会に出ているときは、負けたら『障がいがあるから仕方ない』と言い訳している自分があった。でもパラバド(バドミントン)では言い訳ができない。負けたら自分が弱いだけ」という実に個人的な心情表現で、決して他者への批判や扇動ではない。それをキャッチフレーズのように、一部のみ抜粋したことにも問題があるが、その大胆な行間を読みこもうとしない軽率さも残念だ。

 こうした、言語によって傷つくこと、また傷つけ合うことが多発して、発言に恐怖をいだく人々が多くなった。もちろん、慎重に発言することは大事で、公人なら、尚さら求められる姿勢だが、他を傷つけまいとするあまり、自分の判断や発言に自信がもてなくなるのは、他との信頼関係を拒み、結局は自分自身が傷つきたくないのかもしれない。

都内で行われた某言語圏文化国際会議で、複数の研究者による言語の多様性や文学の普遍性について学んだ。それによると、言語とは、話者とその子孫の集合的記憶の再構築であり、特に母語は自己意識の再生であるという。実に明解、まさに合点、と一瞬胸に落ちたが、しばらくして、それは落ちた気がしただけだと気づいた。

そもそも集合的記憶の集合とは何か? ということが、わかっていなかった。この時代にあって、個人の帰属意識はすでに国家という政治経済の価値枠を越えていることがほとんどだが、では、人が帰属する某集合体とは、特定の場所なのか? 特定の民族、宗教なのか? 特定の人々を指すのか? あるいは、特定の血縁を指すのか?

まず、わたしたちが無意識に使う「みんな」という便利な主語を、もう一度調べる必要があると思った。

「みんなが言ってた」

「みんなってだれ?」

「みんなで団結すれば」

「みんなってだれ?」

昨日参加した看取りの勉強会で、ひとりの医療ライターがいみじくも発言した。「みんなって、怪しい」。わたしも同感だった。みんなという主語は、空想的要素を多分に含む、おおいに利己的な意志が表現される場合がある。

となると、あらためて集合体とは何か? 

集合的記憶というのは、集合的内面を指すのではないか? と、今現在のわたしは考える。その内面は、母語で構築されることがほとんどだが、外国語であってもおかしくない。故郷は、必ずしも出生地や現住所と一致しないし、また、思考もさまざまな文化や暮らしに根差すことが、珍しくなくなった。

わたしの場合、口げんかやクレームは、母語である日本語より他言語の方が、ずっと楽な気分でできるが、それはもしかして、他言語の背景にある集合的内面に、自分が一方的に甘えている結果かもしれない。

親友と、かなり個人的な話をするときも、互いの母語や方言をはなれると、他言語や他方言の記号的な解釈に救われて、えらくすっきりした気分になることがある。

母語は自分の身体からにじみ出る大事な言語だが、ときとして自分を煩わしく呪縛することもあるからだ。

一方、寒い冬に、だしのきいた関西風うどんをすすったとき、思わずもらす感動は、ぜったいに母語である日本語か、あるいは、どの言語にも属さないため息に限るかもしれない。

生まれて初めてのアメリカ渡航を三日後にひかえ、英語圏で暮らしたことのない自分は、そんなことを母語で思っている。

  


2018年10月
     

人生を横切る線路

 この歳になって、それもトランジットで一晩も、その国に滞在記録があるというのに、わたしはイタリアという国について、ほとんど知らなかった。

ミラノ・ファッションだの革製品だの、イタ飯だのと、華やかなイメージに包まれた国のほんとうの暮らしは、数年前に旧友が教えてくれた「小さな村の物語 イタリア」というTV番組(BS 4)で、とても身近になった。ほぼ毎週末観ているが、大地に足をつけて労を惜しまず働き、祖先を敬い、家族を大事にする市井の人々に、どれほど励まされたか知れない。 長い間、ドイツやスイスに出稼ぎをつづけ、あるいは大陸に移民してまで家族を養った人々の歴史は、時には痛みや悔いも重く、深く、当然ながら決して明るい事例ばかりではない。

そして、さらに須賀敦子という作家によって、わたしはイタリアに暮らす人々の内面、文学性にいたく目を開かれ、カトリック左派で詩人という某神父の存在には、ぞっこん魅了されてしまった。

 須賀敦子。以前から、この人には気をつけなくてはと、かなりブレーキをひいていたのだが、たまたま地元の図書館の係の方が、「新しく購入したんですよ」と書棚まで案内してくれたこともあって、思い切ってその文庫全集八冊のうち、二冊を借りた。のが、まずかった。図書館の書棚の間を歩くのは、まるで森の中を歩くようだと喩えた方がいるが、須賀敦子の作品は、それ自体が森で、活字のひとつひとつが、すべてみずみずしい樹木だった。そんなわけで、わたしはしばらく、広大な森に迷い込んで、出られなくなってしまった。

 第一巻の中で、彼女は亡き夫が鉄道員の息子で、1930年代に鉄道員官舎で子ども時代を過ごした所以から、ピエトロ・ジェルミ監督・主演の「鉄道員」(1956年)について言及している。モノクロの古い名画だが、ほとんどの日本人は、少年の叫び声が響くそのサウンドトラックに馴染みがあると思われる。貧しさや不運の中にあっても、鉄道員の妻と末っ子の少年が、泣き言も言わず、日々の暮らしを淡々とつづけるのが、あの映画の底力だと、何度観ても心が洗われる。

未亡人になってから初めてその映画を観たという須賀敦子は、舞台となった鉄道官舎の寒々しい階段や間取りが、夫の実家と同じなので、手に取るようにわかると言い、映画で語られる鉄道用語は、彼女のイタリア語の原点に立つものばかりだと書いている。1960年代のふたりの生活の中を、鉄道線路はしっかりと横切っていたと回想する。線路はつづくばかりでなく、ときに横切るものだとは、当事者ならではの実感だろう。思わず、あやかりたいと胸が熱くなった。

須賀敦子が描く、ミラノにある書店での出版に関わる人々の生き方、思想と活動、夢とその結末、人生模様は率直で重厚、さらに書き手の人柄を通して、温かさや思いやりまで滲み出てくる。

第一巻、第二巻は結局二回も貸し出し延長で読み終わり、次に第三巻と第四巻を借りた。森はさらにもっと深くなり、秋風と木漏れ日が心地よく、あえて抜け出さなくてもいいかな、と自分に言い聞かせたりした。

図書館に返却した後、夕ぐれの線路にぽつんと残された寂しさに、ついに文庫全集を全巻、それも新品で手に入れた。中古書購入が常である自分には、眩しいほどの八巻が、本棚の隅に並んだ。

自分の住む村には、鉄道がない、ということは、線路もない。ならば、まずは車窓の風景を愛でようか? ついつい頬のゆるむ初秋の午後、二階の窓をそっと開けてみる。


2018年9月
     

人が詩人になる時

 つい最近、とある眼科の待合室で椅子に座っていたら、見知らぬお爺さんがエレベーターから降りてきて、わたしの近くで待っていた身内らしき人の隣に座った。

 そのエレベーターは、上階にある手術室から、術後の患者たちを乗せて降りるのを、わたしは知っていた。というのは、その15分前に、自分の身内が同じように降りてきて、わたしの隣に座ったからだ。その患者たちは、すでに術後の眼球写真を、上階で見せられているのも知っていた。眼球が鮮明だったと、身内が話したからだった。その日の午後は、白内障や緑内障などの手術、治療が、集中的に行われる日だった。

 エレベーターに乗って上階に行く患者たちはだれも、中老も大老も、身をこわばらせているのが、後ろからでもよくわかった。そしてその数十分後に降りてくる同患者たちは、解放感からか、別人のような明るい表情をしている。

 術後のお爺さんは、決して笑っているわけではないのだが、安堵感につつまれているのがわかった。ふと、だれに言うでもなく「きっと、猫も世の中がこんなに美しく見えるんだろうな」とつぶやいたのを耳にして、わたしはいたく感動した。

 術後の眼球写真は、まるで猫の目のように鮮明に画面に映し出される。手術前の濁った眼球写真とは、明らかにちがう。

 お爺さんもきっと、自分の澄んだ眼球写真を見せられて、飼い猫の眼球を思い浮かべたにちがいない。そして、自分の視界が、いつのまにか猫の視界に投影されたのにも気づかずに、思わず実感を発したのだろう。

お爺さんの朴訥とした風体と、女子高生のようなつぶやきが、あまりにもかけ離れていたのも意外だった。無防備、無意識は人の発想や発言を自由にするが、たとえ短時間でも、手術という命に向き合う時間を越えた者は、もしかして詩人になる、どうもそうらしい。

 震災直後の報道でも、被災者たちの言葉には胸に響くものがいくつもあった。「もう、笑うしかない」と言いながらも笑えなかったお婆さんとか、向けられたマイクの前で絶句した数秒間の沈黙に、実は溢れる言葉を伝えた少年とか。

 当時小学生だった親類の女の子は、「周りは、色のない景色」と電話口で語った。

 命に向き合い、世間体や見栄や虚勢が外れると、人はほんとうの言葉を語ることができる。

医院の待合室という、一見安穏な空間は、実はだれもが切迫感に押しつぶされそうな明暗を分ける場でもあるが、そこでたった一行の詩に出逢えた日。一時の気休めや言い訳、形骸化した慰めが飛び交う中で、一瞬でもほんとうの言葉に出逢えた日。

 それは、ふだん、決して嫌いではないが、猫が苦手な自分にも、猫にまつわるこんな感動があるものかと苦笑した日でもあった。


2018年8月
     

  映画〈しあわせの絵具〉

 今春、渋谷のBunkamura ル・シネマで、映画〈しあわせの絵具〉を観た。カナダが誇る画家モード・ルイスと夫の半生が、今から約80年前の実話をもとに描かれている。主演は、サリー・ホーキンスとイーサン・ホークというぜいたくな組み合わせで、迫真の演技というか、命はじける2時間だった。

 素晴らしいのは、舞台であるカナダ・ノバスコシア州の美しい真冬の風景、画面で表現される深い人間の尊厳、困難を越えていく底力など、いくつかあるのだが、わたしが一番胸を打たれたのは、主役のふたりが二回目に出逢う場面での会話だった。

 若年性関節リウマチを患う女性モードは、手足が不自由で、普段の歩行もままならない。それを見た男エヴェレットが、「障害があるのか?」ときく。モードは笑顔で、「そうじゃない、歩き方が変なだけ」と答える。

 障害があってとか、病気があってとか、病名を言えば、そのせいにできる。ああ、そうなのね、その病気のせいで、あるいはその障害のせいで、あなたはそうなのね、そうよ、結論は、決して自分のせいじゃない、あなたのせいじゃない、という流れが一般の大方の会話だろう。枕詞をつけたおかげで、空気が軽くなる気休め。なのにモード・ルイスは、歩き方が変なだけ、と答えた。空気はずっと重くなるが、一方で何かが晴れる。歩いているのは、まぎれもなく彼女の二本の足だ。

 この時点で、観客は彼女の生き方を、まず直感するだろう。本気で生きる姿勢を知った観客には、モード・ルイスの絵が売れようが、世界中から評価されようが、それはあくまでも二番目の筋書きで、後からついてきたオマケのように感じられたにちがいない。

 この映画が、単なる「苦渋を越えれば、必ず成功への道が開ける」的な作品ではないのが早々にわかった観客は、唯物的な価値観から解放されたいと思いはじめる。

 わたしたちは、今までどれだけ、自分の弱点や隠したい点を、自分の年齢や昨日呑んだお酒、先週使った石鹸や、過去のあるいは現在の身内、周囲の他人や出来事、それどころか、天候や、政治や、国や、時代や、地球のせいにして、言い訳して生きてきただろうか? 

 自己責任という流行語にも、自己という好都合な虚勢部分にだけ、責任を転化しているような狡さを感じる。

 自分だけではない、周囲に対しても同じ言い訳を求めている。例えば、こういうことがあった。出入りの配達人に、目も合わせない、とっつきにくい、対話もできない人がいた。その配達人が来ると、わたしはいたく不愉快だった。なにもオベンチャラを求めてはいないけど、少なくとも「やあ、いい天気ですね」「ほんと」「道路は混んでましたか?」「いえ、ガラガラでしたよ」くらいの乗りがあってもいい。

 ところがあるとき、その配達人がある障害を負っていることが、間接的にわかった。それならそうと、最初から教えてくれればいいのにと、わたしは内心、彼の雇用者を責めた。しかし、モード・ルイスの笑顔に出逢ってから、それを知ったからといって、いったい何が変わる? 彼を見る目が変わる? まさか? 彼のせいじゃないとしたら、何かのせい? 障害のせい? そんな枕詞は、どうでもいいと思えるようになった。そういう人だと思えばいい、コミュニュケーションが苦手なだけ。

 今は、その配達人が来ると、愉快でも不愉快でもない。が、玄関で迎える自分は、だいぶ楽になった気がする。自分はなんで、あんなにこだわったのだろうと、ふり返れるほどになった。


2018年7月
    

 テッセン(鉄線、鉄仙)という

 今でこそ、だれもが知るテッセンの花だが、数十年前はたいへん珍しく、庭先で頻繁に見られる花ではなかった。

 16歳の夏休み、調布の飛田給という多摩川沿いにある縄文時代の発掘現場で、わたしはその珍しい花の名前を聞いた。自分の学校には考古学班がなかったので、友人と考古学同好会をつくり、その小さな活動の一環として、近所のK高校の考古学班の発掘に参加させてもらっていた。あらためて驚くのだが、そのK高校は当時男子校で、我が校は女子校で、たがいに近所というだけで、姉妹校でもなく、それまでなんの縁もなかったと思う。 ところが、長年の歴史を持つ相手校の考古学班に、ちゃんと正式な活動参加を申請してくれた我が校の寛大な班顧問のおかげで、発掘のハの字も知らないわたしたち女子数人は、K高校のやはり寛大な顧問によって数日間の参加を受け入れられた。

真夏の盛り、飛田給の畑の真ん中、関東ロームの赤土の中に掘られたトレンチという試掘坑が左右に拡張されていく中、わたしはお弁当持参で、毎日夢中で京王線に乗って現場に通った。

連日、K高校考古学班の顧問の先生、男子生徒数十名、そしてあるおばさん一名と、わたしたちR高の女生徒数名が、次々見つかる縄文中期の土器片や石鏃片などに目を奪われていた。

炎天下のある昼食時、わたしたちはその一名のおばさんのとなりで、お弁当をひろげた。当然、そのおばさんは、今のわたしよりずっと若かったと思われるが、故人となった夫が考古学ファンだった所以で、いつもいっしょに発掘に参加し、夫亡き後も、こうして発掘に呼んでもらっているのだと話した。

そしておばさんが、その昼休みに熱く語ったのが、〈テッセン〉の花についてだった。わたしたち女子は、鉄の線みたいだという、そんな不思議なツル科の花を見たことがなかったのだが、おどろくことに、近くで弁当をひろげていた男子一名が、やはりその花の魅力を熱く語った。どうやら、その男子の家の庭に咲いているらしかった。

おばさんと男子の語り合う〈テッセン〉の花は、わたしの頭の中で、まるでウクライナの民話〈石の花〉に登場する孔雀石のごとく、美しく神秘的に大輪の花を咲かせ、縄文中期という語とセットになって記憶されるようになった。

そして数年後、わたしははじめて、ある家の庭先で、〈テッセン、鉄線〉を見た。乳白色の6枚の花弁(正確には雄しべが花弁化したもの)をもつ大きな花は、植物とは思えない色と質のツルにからんで、堂々と咲いていた。発掘でいっしょだったおばさんの声までが、思い出されたほど、感動的な初対面だった。

そして、あれから数十年たち、都内でも郊外でも、あの〈テッセン〉に似たクレマチスという洋花がもてはやされるようになった。どうやら、品種改良されたらしく、色も白から紫、パープルとさまざまで実におしゃれ、巷では〈テッセン〉と呼ばれているらしい。

が、わたしにはクレマチスは華やかすぎて、〈テッセン〉と呼ぶにはかなりの抵抗がある。

ものの本によると、〈テッセン〉が大陸から日本に入ってきたのは、江戸の寛文年間だというから、400年間も代々花を咲かせてきたことになる。品種改良を免れ、本来の〈テッセン〉がまだ原型で生き延びているのなら、わたしはじっくり愛でたいと思うようになった。大げさかもしれないが、それはちょうど、縄文中期時代の土を掘っていたときのような、ひとりで時代をさかのぼるわくわくした気もちに、似ている。


2018年6月
    

久しぶりの新宿御苑

小学校低学年のころ、たまたま近くに住んでいたので、新宿御苑には徒歩でよく行った。たしか、遠足も新宿御苑だった記憶がある。

この5月、イスラエル・キブツで近所に住んでいた旧友が、ご主人の仕事で一年間東京に滞在することになり、通学している日本語学校が新宿にあるというので、新宿御苑で再会することになった。当時、彼女は16歳で、わたしは18歳だった。その後、彼女はキブツを離れて、エルサレムやアメリカで暮らしていたため、50年間再会の機会がなかった。

某地下鉄駅のA1出口で、待ち合わせたのだが、約束の時間を過ぎて10分経っても、20分経っても彼女が現れないので、急にいやな予感がした。直前のメールで、ぜったいに遅刻しないとあったから、こちらが待ち合わせ場所か時間を間違えたにちがいない、携帯電話をもたない自分は、どこかで公衆電話を探して、彼女の携帯電話に、とハラハラしているところに、彼女がご主人と駆けつけてきた。

「悪かったわ、待ったでしょう? ほんとに、ごめんなさい」

「そうよ、50年も待ったわ」

 泣いたらどうしようかと危惧した再会は、思いがけなく、大笑いではじまった。

 わたしたちは、新宿御苑の大木の下にシートを敷き、実はヘブライ語の構文授業を受けるはずが、予想通り、互いにそんなことはさておき、ついつい思い出話に花が咲いてしまった。海苔巻きやサンドイッチをつまみながら、一応は広げたテキストを脇目に、3時間以上も、互いの50年間を行き来して過ごした。

「こんなに暑い日なのに、日本人はだれひとり、上半身裸になるわけでもなく、芝生にすわっているのね。このモラル、欧米人には、考えられないわ」

「だけど、欧米人が男女別の温泉にも水着で入るのは、わたしたち日本人には考えられない」

まったく、文化習慣の違いには、不思議で可笑しなことが多い。

そのほか、さまざまな言葉の意味についても、わたしたちは多くの意見交換をした。たとえば、〈うらやましい〉という日本語には、ジェラシーがほとんど含まれていないけど、辞書にあるヘブライ語の〈うらやましい〉は、半分以上ジェラシーがあるから、うまく使い分けしないといけないとか。

彼女もかつて、英語からヘブライ語への翻訳を仕事にしていた時期があり、意訳がどんなに難しいか、身に染みている。

 今、わたしが取り組んでいる難解な戯曲翻訳にも、手を貸してもらった。

 少女たちは、ばあちゃん同士になったが、よくよく考えてみれば新宿御苑とも60年ぶりだった。おそらく苑内の桜の木は、かなり成長しているのだろうが、さすが自然界の変化は緩慢で、辛抱強くもある。高層ビル群に囲まれて、次第に狭くなる空の下で、じっと静かに緑を維持している、ように見える。

 当時16歳だった彼女は、透き通るように美しく、ポニーテールに青い目、短パンから長い足をおしげもなく伸ばして、すまして歩いていた。近所なので、彼女の家族とわたしの里親とは、かなりの交流があったが、彼女はいつだってすましていた。彼女の視線の先を、だれも追えないほど、異星の雰囲気を漂わせていた。なのに、今になって「あのころ、日本人たちが、気になってしかたなかった」などと、それもすまして言い、当時の日本人グループ10人の面影をかなり正確に描写して、わたしをおどろかせた。

 まったく、人の内面はわからない。わかったつもりで、あれこれ推測するのがいかに無駄なことかを痛感した。

 縁遠かったものが実は近くなり、その逆もおおいにある。彼女の日本語学校は、あと半年間はつづくという。また次も、この場所で会おうね。新宿御苑はわたしたちふたりにとって、こんなにも身近な場所になった。



2018年5月
    

やさしさぶる、こと

 先月死去された、スタジオ・ジブリの高畑勲監督の生前の言葉の中で、はっとするものがあった。「平和というのは、やさしさぶる、ことのできる状況だ」というのだ。

 少年時代に空襲を体験した高畑氏は、戦時中を生きることと、戦後の平和を生きることの違いが身に染みているにちがいないが、「やさしさぶる」ことしか、してこなかったわたしたちは、その発言の意図することが、なんとも苦々しく胸に落ちる。

 あるいは、平和とは、隣人の痛みや苦悩を尻目に、自分は平気で生きられる社会と定義した人もいる。

 事件や事故、災害を生きのびた人々には、ほんとうに申し訳ないが、わたしたちのほとんどは、極限を生きたことがない。

 うわべだけの安っぽい世辞、涙、同情、喝采、バッシングが世の中に横行して、それはすべて、やさしさぶることの逆説的表現だとさえ思う。これが疑似平和なのだと、日本だけではなく、先進国と言われる国々を見れば、一目瞭然の感がある。

 官僚のトップになった者が、〈大臣が無能だから、実はおれさまが国を動かしている、何をしたってゆるされる〉との潜在意識にあぐらをかき、大きな勘違いをするのは、セクハラ以前の人間の資質の問題で、まさに裸の王さまを地でいっている。なんて情けない、恥ずかしいことか。

さらにピンポイント的な法律論を掲げて、そうした者を擁護しようとする体制側もまた、裸の行列に並ぶ家来どもにすぎない。それを憂えずに、高額な退職金の数値だけに目くじらを立てる一部の野党もまた、浅ましい限りだと思う。

 同時期に某タレントが、未成年にわいせつ行為を強要したとして、200人ものマスコミの前で、50分間も懺悔をさせられる場面を見て、まるで2000年前に群衆に石を投げられたマグダラのマリアを思い浮かべた。芸能活動をする者が、人として、してはいけないことをしたのだから、法の裁きを受ける前に、カメラの前できちんと謝罪をした。野次馬たちは、それ以上、彼にいったい何を求めるのか? みんな、そんなに清く正しく生きてきたのか?

 偉そうに、よってたかって裁く者たちの、人間性を問いたい。群衆は残酷だ。これもまた、やさしさぶった挙句の、世の中の空気なのだとしたら、少なくとも自分はその中に混ざりたくはない。

 高畑氏の憂えた疑似平和の中にあって、戦争をしないほんとうの平和とは何か?

 折しも南北朝鮮の共同宣言が発表され、世界中で報道されたが、真意も今後もわからない。また騙されるのか? それとも、ほんとうの平和に向けて、ほんとうの和解ができるのか? 無念のうちに戦死していった無数の兵士たち、粛清された者たちを脳裏に描き、思わず正座して政治の行方を見届けたくなる。

 高畑氏の投じた一石が、さらに重みを増す春、いつもとはちがう春。



2018年4月
    

座右の一冊

 中学一年の時、宮沢賢治の「春と修羅」に出会い、まさに雷にうたれたような感動を得、それ以降、学校の図書館でさまざまな詩集を開いたが、当時の現代詩は難解すぎて、まどみちお、谷川俊太郎、永六輔以外は、あまりぴんとこなかった。

 この歳になって、珠玉の詩集と座右におくのは、二年前に刊行された「ファインマン語録」(岩波書店)で、言わずと知れた「ご冗談でしょう、ファインマンさん」「困ります、ファインマンさん」「光と物質のふしぎな理論」などの数々の邦訳で知られる、物理学者ファインマン氏の発言、および各紙掲載記事を、実娘が集大成した、文字通りの語録である。もちろん、詩集ではないのだが、どのページを開いても、そこには肩の力の抜けた抜群の知性とユーモアがちりばめられ、一言一句が輝いて目にとびこんでくるので、わたしにはりっぱな詩集だと思える。まえがきは、チェロ奏者で物理学にも造詣の深いヨーヨー・マの寄稿という贅沢な一冊だ。

 なんというご縁か、邦訳者の大貫昌子氏の、姪っこさんとわたしが旧知であったおかげで、わずかな来日期間の合間に、二度も拙店に足を運んでくださるという幸運に恵まれた。

 大貫昌子さんは、父親の仕事の関係で、京城(ソウル)市に生まれ、6年後に中国の奉天に移住され、そこでさらに10年間を過ごして終戦後に引き揚げられ、山口県の高校から、長崎県の活水女子短大へすすまれて、中学の英語教師になられた。20代前半にフルブライトでアメリカに留学、大学を卒業し、その後は日本で働かれたが、20代後半に分子生物学の日本人研究者と結婚され、カリフォルニアの研究所に赴任する夫と共に再度渡米する。大陸で16年間、アメリカで50年間以上、人生のそのほとんどを外国語の中で過ごされた。ところが、おどろくべき、その日本語が実にこなれている。戦時中も戦後も、読書環境を察すれば、おそらく書物も読書時間もままならなかったにちがいないし、増してや他言語の暮らしの中で、いったいどうやって豊かな日本語を培われたのか、想像すらできない。旧知の姪っ子さんによると、勤労奉仕を免れた中で、父親の蔵書を読破したということだが、大貫さんの邦訳をうめる、あの生き生きした話し言葉には、単に書物から学んだだけとは思えない情感がある。

カリフォルニアで、子ども同士が同じ幼稚園に通う縁で知り合ったというファインマン氏と大貫さんは、おそらく個人的な信頼関係から、直々に邦訳を依頼され、遂行されるにいたったのだろうが、それがこのロングセラーを生む重厚な核となった。物理畑には全く無縁の大貫昌子さんを、訳者に選んだファインマン氏の眼力もさることながら、ファインマン氏の人柄を知った上での訳者の翻訳手腕に、うなるばかりである。少しという表現を、〈ちょいと〉〈ちったあ〉、気にするなを〈かまうこたあない〉という粋な江戸弁で語るアメリカ人ノーベル物理学賞受賞者が、読者にはちっとも不自然ではなく、むしろ痛快でさえある。

 大貫さんは、アメリカに長年住まわれているのに、あえて表立った自己主張はされず、寡黙で物静かな方で、昨年の9月下旬に二人の息子さんを伴って来店されたときも、おだやかに微笑み、わたしの宝である布カバー付き詩集「ファインマン語録」を目にされて、喜んでくださった。

そして、次回はカリフォルニアでお目にかかりましょうとお見送りしてわずか3カ月後、大貫さんが自宅でのホスピス・ケアを受けながら死去された報を受け、愕然とした。享年84歳だった。息子さん二人と、亡きご主人に縁のあった北海道を周遊した後の、あの日のすがすがしさが、今でも思い出される。病状を覚悟なさったうえでの、最後の旅だったのであろう。大貫さんは、ご自分から積極的に発言される方ではなかったので、こちらから山ほどの質問をすればよかったと、今になって悔やまれてならない。

翻訳のコツは、接続詞をうまく使いこなすことだという一言が、今では唯一の教えになってしまった。さて、接続詞だが・・・・

その一冊の詩集より

生徒というものは、「あのたわごとめいたごたく」を、単なる「たわごと」として認めるだけの柔軟さとスキルをもっているのです。そもそも、王さまの着物を見抜けたのは、子どもなんですからね。
                              1966年 ファインマン 私信より

教科書は、良い教師の単なる助手でこそあれ、支配者であってはならないとぼくは信じます。 
                              1966年 ファインマン 私信より

それについて少しばかり知ったことで、神秘には何の害も及ぼしはしない。
                             ファインマン 「ファインマン物理」

生命同士は、互いに近いものです。生きとし生けるものの深みにひそむ化学現象の普遍性は実に美しく、すばらしい。ところが我々人間はいままでずっと偉ぶっていて、動物とそんなに近しい関係があるなどと、認めようとはしませんでした。
                            1963年  ファインマン「科学の不確かさ」

2018年、未踏の地カリフォルニアは、わたしにとって、思いがけない憧れの地となった。



2018年3月
    

人にとって働くこととは?

 わたしが尊敬する内田樹氏は、〈労働〉とは、主に賃金、報酬を得るために、体力や知力を使って働くことで、それは人間だけがすることだと定義している。そのとおり、動物や植物の営みとは違い、したがって〈労働〉とは、ここでわたしが問題にする〈働くこと〉とも意味が異なる。わたしの中での〈働くこと〉は、動物たちの〈エサを採る〉〈食べる〉〈身を守る〉〈種の存続〉という、生きるためのシンプルな本能的営みに、より近い意味合いをもつ。

わたしが昨年からずっと抱えている宿題、〈なぜ人は、身体を使って働くことが大事なのか?〉という問いは、〈身体を使って働かない〉という逆説があってこそ、残念ながら成りたっている。かつては、問いになどなるはずのない、ごく当たり前のことだったが、科学の発達、人間の怠慢とともに問わずにはいられない課題になった。

近代の暮らしを見れば、それが明らかにわかる。本来身体を使ってこなしていた多くの営みが、性能の良い家電の普及や小回りの利く業者、血の通わないAIの代行によって乗っ取られ、便利をとっくに越えて憂うべき状況にあるのを、当のわたしたちは、どうすることもできないでいる。気づいてはいても、その加速を止められない。車にも飛行機にも乗るし、ワンタッチで世界中の情報を得る驚異の近道も知った。

その結果、楽な暮らしをつづけるための労働はしているが、生き物としての本来の仕事をしなくなった。歩く、土を耕す、空気や水を守る、手間暇かけて食材や食事をつくる、生き物同士が互いに助け合う、幼い者たちを育む、心の中で感謝し合う、広告会社のつくった言い回しやギャグではなく、ほんとうの言葉を交わし合うことをしなくなった。面倒や疲労を回避するようになり、労を惜しむあまり、働かなくなった。

「働くことは喜びである」と、当然のように発言した人がいる。大自然の中での質素な暮らしが、いかに満ち足りたものであるか、その人の日焼けした顔が語った。〈できるだけ自分の足で歩く〉〈食材を育てる〉〈手間暇かけて食事をつくる〉〈人と分かち合う〉などの働きは、おそらく割に合わず、非生産的非合理的で、数値に換算できないだろうが、それが大きな喜びだとは・・・それも身体にとっての喜びだとは・・・・すっと胸に落ちた。その瞬間、自分の身体をつくる細胞たちに、つくづく申し訳ないと感じた

 それは、休日に山を歩いたり、旅先で景観を愛でるのとは異なる喜びにちがいない。〈なぜ人は、身体を使って働くことが大事なのか?〉は、イスラエル・キブツで暮らす友人たちとも共有した問いだった。答えを得たわけではないが、これを彼らにどう説明するか? 農場を低賃金労働者に任せ、結果として得た自分たちの楽な暮らしと引き換えに失ったもの、その大きさは喜びがすっぽり抜けた穴そのもの、たぶんそうにちがいない。もし、その穴を、再び喜びで埋めたいのなら、わたしたちが無意識で参加している世の中全体の〈労働〉を止めなければならない。わずか数十年前のチャップリンの危惧したとおり、単純な問いは暗礁に乗り上げ、ますます難題になった。


2018年2月
    

映画を観る季節

 かつては拙店が冬眠に入ると、ビデオレンタル店に通いつめ、ひと冬に60本以上の映画を観た。名付けて〈あみんシアター〉は、コタツ席観客2名限定だが、呑み放題食べ放題付きで大盛況だった。そのうち、年齢とともに野暮用に追われ、レンタル店通いが億劫になり、BSで録画したり、PCのダウンロードで観る怠慢鑑賞モードに変わってきていた。

 それでも今冬はすでにDVD数本を図書館で借り、あとは上京時に渋谷のユーロ・スペースというれっきとした映画館で2本を観た。

『世界でいちばん美しい村』は、石川梵写真家の初監督作品だが、映画館の大画面に映るネパールの険しい山道、人々の敬虔な思いと祈り、素朴な親子の情が胸に迫った。大地震で大災害を受け、それでも農業や牧畜を柱に懸命に生き延びようとする村人たち4000人、無医村でのたったひとりの看護師ヤムクマリの奮闘、子どもたちの無邪気な笑顔や歌声が、貨幣経済に染まったわたしたちの何かを削いでいく。近代文明と共同体文化のせめぎあいの中で、何を支援して? 何を黙認尊重していくのか? 欲望の果て、文明の末期にいる自分たちは、こうしたドキュメントを見るたびに考えさせられる。アフガンの中村哲医師もそうだが、単に物資や金銭を与えるのではなく、地元民と共に考え、井戸を掘り、水路をひく作業に関わるのと同じく、今回の石川梵監督も、短期間だが地元の家族と共に暮らしながら信頼を得て、災害を乗りきっていく。ベッド用のコンパネを各家に配給し、モンスーンの土砂被害から身を守る術を提案する。美しいのは景観や夜空だけではないということが、観る者には次第にわかってくる。

もう一つの映画、今年こそ完全版を観ようと、図書館で借りたDVD『ベンハー』は、なんと今から90年前にアメリカでつくられたサイレント映画で、ときおり活字で解説が入るだけという、思いがけない作品だった。もともと、1880年にアメリカでフィクションとして出版されたベストセラー小説が大元で、1907年に15分のサイレント映画『ベンハー』第一作がつくられていたらしい。そして第二作が今から90年前の『ベンハー』で、ガレー船や戦車競技という看板シーンもあり、ラモン・ノヴァロが演じる主人公は、1959年の第三作目のチャールトン・ヘストンのベンハーとは明らかに異なるが、迫力ある二時間だった。三作ともに副題が「キリストの物語」とあるように、これは、キリストの誕生から死を軸に、ベンハーというユダヤ青年の人生の関わりを描いたスペクタル映画である。

 1959年にウイリアム・ワイラー監督によってつくられた三作目の『ベンハー』には、かつて飢え乾く奴隷であったベンハーが青年キリストに一杯の水を与えられ、その十数年後に今度は十字架を背負って倒れたキリストに、ベンハーが一杯の水を与えるという命が交差するシーン、また磔刑にされたキリストの血が雷雨に流されて、ライ病谷に隔離されたベンハーの母と妹の病を癒すという奇跡のラストシーンが、新たに加えられている。あくまでも原作に忠実に脚色された第二作とはちがって、第三作は、より哲学的な要素が強く、ガレー船や戦車競技とは別の迫力にも満ちている。

 しかし、ユダヤ教の両親のもとに生まれ、ドイツから18歳でアメリカに移民したワイラー監督が、なぜ異教についての原書をとりあげ、その愛をハリウッドで描こうとしたのか? ユダヤ教では、イエス・キリストを救世主と認めていないので、ワイラー監督のキリストへの強い思いが、どこでどうやって育ったのか、不思議でならない。ハリウッドは、ユダヤの化身、プロパガンダと言われている故、旧約聖書を映画化するのは当然としても、2000年間対峙してきた新約聖書やキリストを、20世紀初頭で世界に向けて発信しようとした意図が今一つつかめないでいる。監督自身が新約聖書にふれたのか? それとも、人生のどこかでキリストに出逢ったのか? ユダヤ人としての自覚をあえて捨てたのか? などと疑問が広がっていく。

 読書は読者の孤独な行為によって、読者を本の世界にいざなう。著者の言いたいことは、読者の自由な解釈によって、思いもかけない行間が読まれ、枝葉を増やしていく。ときには、著者でさえ気づかないことが、読者によって掘り起こされることもある。しかし、映画や舞台鑑賞は、孤独というより不特定多数で観ているという意識が強く、また共同作業で制作された画像や映像を通した解釈が、大幅に逸脱するとは思えない。絵・音・動きによって具象化されたメッセージが観客に届けられるが、しかし監督や脚本家の意図が、いったいどこから生まれたのか? については、やはり書籍と同じように、観客には疑問として投げかけられるのだと、『ベンハー』を観終わってつくづく感じた。

 冬は読書の季節でもあるが、ユーロ・スペースという暖かくて清潔な映画館に、わずかな夢をはせる楽しみも発見した。あみんシアター、いよいよ出張の季節。



2018年1月
    

ごんぎつねと兵十

 新美南吉が「ごんぎつね」を発表したのは、1932年(昭和7年)というから、今から84年も前のこと。なんと南吉、17歳のときの作品だという。

 今では、ほとんどの小学校の教科書に載っているので、子どもたちも、おそらく30代、40代まではだれもが知る物語だと思われる。「ごんぎつね」がね、と口を切ると、だれもがまず「ああ、ごんぎつね」と憐みのこもった声を発する。ほんと、一様にそうなる。中には、涙ぐむ若者もいる。

 なぜか? ごんという名の狐は、兵十という名の男の仕掛けたワナから、かかったウナギを、単なるいたずら心で放してしまうが、後日、兵十の病床の妻がウナギが食いたいと言って、それが叶わず、無念にも死んだのを知る。

 自責の念にかられたごんは、せめてもの償いと思い、イワシ売りの籠からイワシを盗んで、兵十の小屋に投げてやる。

 ところが、兵十はイワシ売りから盗人と疑われ、とんだ濡れ衣を着せられて殴られてしまう。

 自分の思いと裏腹に、兵十を二回も傷つけたこと知ったごんは、栗や松タケをそっと兵十の家の前に置く。申し訳ないという思いを、何とか伝えたい、それがごんの願いだった。

 しかし兵十は、それが神さまからの賜物と思い込んだため、狐のごんにしてみれば、ますますの苛立ちとなる。が、ごんはけなげにも、栗運びをつづけた。

 ある日、栗や松タケを置いたごんを、いたずら者と勘ちがいした兵十は、銃で撃ってしまった。

 ところが、散らばる栗や松タケを見た兵十は、「ごん、おまえだったのか、いつも栗をくれたのは」と言い、ごんは静かに目を閉じ、兵十の銃からは煙が立ち上って物語は終わる。

 哀しい、無念の物語だが、読者はほとんどだれもが自分をごんに投影して、同情する。この物語の最後では、時すでに遅し、ごんの善行が兵十に明かされるのだが、現実ではほとんどの場合、人の願いや思い、行いは表面化しない。通じない思い、伝わらない真意、だれもが、一度や二度、あるいは始終、そうした痛み、悔しさ、わかってもらえない辛さを体験している。親子、兄弟、夫婦ケンカの場合も、相手にわかってもらえないというのが、その一番多い原因かもしれない。

 でも、自分たちは、狐のごんであるばかりではなく、ときとして兵十でもあるのを、ついつい忘れている。自分だって、他人や相手の真意をわかっていない。わかろうとしていない。思い違いをした多くの場合、自分自身は傷つかなくてすむから、反省の色も薄くなる。

 わたし好みではないが「ファミリー・ヒストリー」、というNHKのTV番組がある。自分の知らない先祖や家族の物語が明らかにされていく中で、どのゲストもその経緯や真意を知らないことに唖然とする。じっさい、そうなのかもしれない。生身の人間としての身内の思い、日常を過ごす生活者としての身内の行動を、知っているつもりで、全く知らないのが、ほんとうなのかもしれない。

 身内や知人が次々と他界していく中で、彼らの不可視の足跡を思い違いするのだったら、いっそのこと、知らないことに気づける一年でありますように。そして、知らない、わからないことから始まる思考に、しがみつける一年でありますように。

 


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