☆ 樋口範子のモノローグ(2018年版) ☆

更新日: 2018年6月1日  
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2018年6月
    

久しぶりの新宿御苑

小学校低学年のころ、たまたま近くに住んでいたので、新宿御苑には徒歩でよく行った。たしか、遠足も新宿御苑だった記憶がある。

この5月、イスラエル・キブツで近所に住んでいた旧友が、ご主人の仕事で一年間東京に滞在することになり、通学している日本語学校が新宿にあるというので、新宿御苑で再会することになった。当時、彼女は16歳で、わたしは18歳だった。その後、彼女はキブツを離れて、エルサレムやアメリカで暮らしていたため、50年間再会の機会がなかった。

某地下鉄駅のA1出口で、待ち合わせたのだが、約束の時間を過ぎて10分経っても、20分経っても彼女が現れないので、急にいやな予感がした。直前のメールで、ぜったいに遅刻しないとあったから、こちらが待ち合わせ場所か時間を間違えたにちがいない、携帯電話をもたない自分は、どこかで公衆電話を探して、彼女の携帯電話に、とハラハラしているところに、彼女がご主人と駆けつけてきた。

「悪かったわ、待ったでしょう? ほんとに、ごめんなさい」

「そうよ、50年も待ったわ」

 泣いたらどうしようかと危惧した再会は、思いがけなく、大笑いではじまった。

 わたしたちは、新宿御苑の大木の下にシートを敷き、実はヘブライ語の構文授業を受けるはずが、予想通り、互いにそんなことはさておき、ついつい思い出話に花が咲いてしまった。海苔巻きやサンドイッチをつまみながら、一応は広げたテキストを脇目に、3時間以上も、互いの50年間を行き来して過ごした。

「こんなに暑い日なのに、日本人はだれひとり、上半身裸になるわけでもなく、芝生にすわっているのね。このモラル、欧米人には、考えられないわ」

「だけど、欧米人が男女別の温泉にも水着で入るのは、わたしたち日本人には考えられない」

まったく、文化習慣の違いには、不思議で可笑しなことが多い。

そのほか、さまざまな言葉の意味についても、わたしたちは多くの意見交換をした。たとえば、〈うらやましい〉という日本語には、ジェラシーがほとんど含まれていないけど、辞書にあるヘブライ語の〈うらやましい〉は、半分以上ジェラシーがあるから、うまく使い分けしないといけないとか。

彼女もかつて、英語からヘブライ語への翻訳を仕事にしていた時期があり、意訳がどんなに難しいか、身に染みている。

 今、わたしが取り組んでいる難解な戯曲翻訳にも、手を貸してもらった。

 少女たちは、ばあちゃん同士になったが、よくよく考えてみれば新宿御苑とも60年ぶりだった。おそらく苑内の桜の木は、かなり成長しているのだろうが、さすが自然界の変化は緩慢で、辛抱強くもある。高層ビル群に囲まれて、次第に狭くなる空の下で、じっと静かに緑を維持している、ように見える。

 当時16歳だった彼女は、透き通るように美しく、ポニーテールに青い目、短パンから長い足をおしげもなく伸ばして、すまして歩いていた。近所なので、彼女の家族とわたしの里親とは、かなりの交流があったが、彼女はいつだってすましていた。彼女の視線の先を、だれも追えないほど、異星の雰囲気を漂わせていた。なのに、今になって「あのころ、日本人たちが、気になってしかたなかった」などと、それもすまして言い、当時の日本人グループ10人の面影をかなり正確に描写して、わたしをおどろかせた。

 まったく、人の内面はわからない。わかったつもりで、あれこれ推測するのがいかに無駄なことかを痛感した。

 縁遠かったものが実は近くなり、その逆もおおいにある。彼女の日本語学校は、あと半年間はつづくという。また次も、この場所で会おうね。新宿御苑はわたしたちふたりにとって、こんなにも身近な場所になった。



2018年5月
    

やさしさぶる、こと

 先月死去された、スタジオ・ジブリの高畑勲監督の生前の言葉の中で、はっとするものがあった。「平和というのは、やさしさぶる、ことのできる状況だ」というのだ。

 少年時代に空襲を体験した高畑氏は、戦時中を生きることと、戦後の平和を生きることの違いが身に染みているにちがいないが、「やさしさぶる」ことしか、してこなかったわたしたちは、その発言の意図することが、なんとも苦々しく胸に落ちる。

 あるいは、平和とは、隣人の痛みや苦悩を尻目に、自分は平気で生きられる社会と定義した人もいる。

 事件や事故、災害を生きのびた人々には、ほんとうに申し訳ないが、わたしたちのほとんどは、極限を生きたことがない。

 うわべだけの安っぽい世辞、涙、同情、喝采、バッシングが世の中に横行して、それはすべて、やさしさぶることの逆説的表現だとさえ思う。これが疑似平和なのだと、日本だけではなく、先進国と言われる国々を見れば、一目瞭然の感がある。

 官僚のトップになった者が、〈大臣が無能だから、実はおれさまが国を動かしている、何をしたってゆるされる〉との潜在意識にあぐらをかき、大きな勘違いをするのは、セクハラ以前の人間の資質の問題で、まさに裸の王さまを地でいっている。なんて情けない、恥ずかしいことか。

さらにピンポイント的な法律論を掲げて、そうした者を擁護しようとする体制側もまた、裸の行列に並ぶ家来どもにすぎない。それを憂えずに、高額な退職金の数値だけに目くじらを立てる一部の野党もまた、浅ましい限りだと思う。

 同時期に某タレントが、未成年にわいせつ行為を強要したとして、200人ものマスコミの前で、50分間も懺悔をさせられる場面を見て、まるで2000年前に群衆に石を投げられたマグダラのマリアを思い浮かべた。芸能活動をする者が、人として、してはいけないことをしたのだから、法の裁きを受ける前に、カメラの前できちんと謝罪をした。野次馬たちは、それ以上、彼にいったい何を求めるのか? みんな、そんなに清く正しく生きてきたのか?

 偉そうに、よってたかって裁く者たちの、人間性を問いたい。群衆は残酷だ。これもまた、やさしさぶった挙句の、世の中の空気なのだとしたら、少なくとも自分はその中に混ざりたくはない。

 高畑氏の憂えた疑似平和の中にあって、戦争をしないほんとうの平和とは何か?

 折しも南北朝鮮の共同宣言が発表され、世界中で報道されたが、真意も今後もわからない。また騙されるのか? それとも、ほんとうの平和に向けて、ほんとうの和解ができるのか? 無念のうちに戦死していった無数の兵士たち、粛清された者たちを脳裏に描き、思わず正座して政治の行方を見届けたくなる。

 高畑氏の投じた一石が、さらに重みを増す春、いつもとはちがう春。



2018年4月
    

座右の一冊

 中学一年の時、宮沢賢治の「春と修羅」に出会い、まさに雷にうたれたような感動を得、それ以降、学校の図書館でさまざまな詩集を開いたが、当時の現代詩は難解すぎて、まどみちお、谷川俊太郎、永六輔以外は、あまりぴんとこなかった。

 この歳になって、珠玉の詩集と座右におくのは、二年前に刊行された「ファインマン語録」(岩波書店)で、言わずと知れた「ご冗談でしょう、ファインマンさん」「困ります、ファインマンさん」「光と物質のふしぎな理論」などの数々の邦訳で知られる、物理学者ファインマン氏の発言、および各紙掲載記事を、実娘が集大成した、文字通りの語録である。もちろん、詩集ではないのだが、どのページを開いても、そこには肩の力の抜けた抜群の知性とユーモアがちりばめられ、一言一句が輝いて目にとびこんでくるので、わたしにはりっぱな詩集だと思える。まえがきは、チェロ奏者で物理学にも造詣の深いヨーヨー・マの寄稿という贅沢な一冊だ。

 なんというご縁か、邦訳者の大貫昌子氏の、姪っこさんとわたしが旧知であったおかげで、わずかな来日期間の合間に、二度も拙店に足を運んでくださるという幸運に恵まれた。

 大貫昌子さんは、父親の仕事の関係で、京城(ソウル)市に生まれ、6年後に中国の奉天に移住され、そこでさらに10年間を過ごして終戦後に引き揚げられ、山口県の高校から、長崎県の活水女子短大へすすまれて、中学の英語教師になられた。20代前半にフルブライトでアメリカに留学、大学を卒業し、その後は日本で働かれたが、20代後半に分子生物学の日本人研究者と結婚され、カリフォルニアの研究所に赴任する夫と共に再度渡米する。大陸で16年間、アメリカで50年間以上、人生のそのほとんどを外国語の中で過ごされた。ところが、おどろくべき、その日本語が実にこなれている。戦時中も戦後も、読書環境を察すれば、おそらく書物も読書時間もままならなかったにちがいないし、増してや他言語の暮らしの中で、いったいどうやって豊かな日本語を培われたのか、想像すらできない。旧知の姪っ子さんによると、勤労奉仕を免れた中で、父親の蔵書を読破したということだが、大貫さんの邦訳をうめる、あの生き生きした話し言葉には、単に書物から学んだだけとは思えない情感がある。

カリフォルニアで、子ども同士が同じ幼稚園に通う縁で知り合ったというファインマン氏と大貫さんは、おそらく個人的な信頼関係から、直々に邦訳を依頼され、遂行されるにいたったのだろうが、それがこのロングセラーを生む重厚な核となった。物理畑には全く無縁の大貫昌子さんを、訳者に選んだファインマン氏の眼力もさることながら、ファインマン氏の人柄を知った上での訳者の翻訳手腕に、うなるばかりである。少しという表現を、〈ちょいと〉〈ちったあ〉、気にするなを〈かまうこたあない〉という粋な江戸弁で語るアメリカ人ノーベル物理学賞受賞者が、読者にはちっとも不自然ではなく、むしろ痛快でさえある。

 大貫さんは、アメリカに長年住まわれているのに、あえて表立った自己主張はされず、寡黙で物静かな方で、昨年の9月下旬に二人の息子さんを伴って来店されたときも、おだやかに微笑み、わたしの宝である布カバー付き詩集「ファインマン語録」を目にされて、喜んでくださった。

そして、次回はカリフォルニアでお目にかかりましょうとお見送りしてわずか3カ月後、大貫さんが自宅でのホスピス・ケアを受けながら死去された報を受け、愕然とした。享年84歳だった。息子さん二人と、亡きご主人に縁のあった北海道を周遊した後の、あの日のすがすがしさが、今でも思い出される。病状を覚悟なさったうえでの、最後の旅だったのであろう。大貫さんは、ご自分から積極的に発言される方ではなかったので、こちらから山ほどの質問をすればよかったと、今になって悔やまれてならない。

翻訳のコツは、接続詞をうまく使いこなすことだという一言が、今では唯一の教えになってしまった。さて、接続詞だが・・・・

その一冊の詩集より

生徒というものは、「あのたわごとめいたごたく」を、単なる「たわごと」として認めるだけの柔軟さとスキルをもっているのです。そもそも、王さまの着物を見抜けたのは、子どもなんですからね。
                              1966年 ファインマン 私信より

教科書は、良い教師の単なる助手でこそあれ、支配者であってはならないとぼくは信じます。 
                              1966年 ファインマン 私信より

それについて少しばかり知ったことで、神秘には何の害も及ぼしはしない。
                             ファインマン 「ファインマン物理」

生命同士は、互いに近いものです。生きとし生けるものの深みにひそむ化学現象の普遍性は実に美しく、すばらしい。ところが我々人間はいままでずっと偉ぶっていて、動物とそんなに近しい関係があるなどと、認めようとはしませんでした。
                            1963年  ファインマン「科学の不確かさ」

2018年、未踏の地カリフォルニアは、わたしにとって、思いがけない憧れの地となった。



2018年3月
    

人にとって働くこととは?

 わたしが尊敬する内田樹氏は、〈労働〉とは、主に賃金、報酬を得るために、体力や知力を使って働くことで、それは人間だけがすることだと定義している。そのとおり、動物や植物の営みとは違い、したがって〈労働〉とは、ここでわたしが問題にする〈働くこと〉とも意味が異なる。わたしの中での〈働くこと〉は、動物たちの〈エサを採る〉〈食べる〉〈身を守る〉〈種の存続〉という、生きるためのシンプルな本能的営みに、より近い意味合いをもつ。

わたしが昨年からずっと抱えている宿題、〈なぜ人は、身体を使って働くことが大事なのか?〉という問いは、〈身体を使って働かない〉という逆説があってこそ、残念ながら成りたっている。かつては、問いになどなるはずのない、ごく当たり前のことだったが、科学の発達、人間の怠慢とともに問わずにはいられない課題になった。

近代の暮らしを見れば、それが明らかにわかる。本来身体を使ってこなしていた多くの営みが、性能の良い家電の普及や小回りの利く業者、血の通わないAIの代行によって乗っ取られ、便利をとっくに越えて憂うべき状況にあるのを、当のわたしたちは、どうすることもできないでいる。気づいてはいても、その加速を止められない。車にも飛行機にも乗るし、ワンタッチで世界中の情報を得る驚異の近道も知った。

その結果、楽な暮らしをつづけるための労働はしているが、生き物としての本来の仕事をしなくなった。歩く、土を耕す、空気や水を守る、手間暇かけて食材や食事をつくる、生き物同士が互いに助け合う、幼い者たちを育む、心の中で感謝し合う、広告会社のつくった言い回しやギャグではなく、ほんとうの言葉を交わし合うことをしなくなった。面倒や疲労を回避するようになり、労を惜しむあまり、働かなくなった。

「働くことは喜びである」と、当然のように発言した人がいる。大自然の中での質素な暮らしが、いかに満ち足りたものであるか、その人の日焼けした顔が語った。〈できるだけ自分の足で歩く〉〈食材を育てる〉〈手間暇かけて食事をつくる〉〈人と分かち合う〉などの働きは、おそらく割に合わず、非生産的非合理的で、数値に換算できないだろうが、それが大きな喜びだとは・・・それも身体にとっての喜びだとは・・・・すっと胸に落ちた。その瞬間、自分の身体をつくる細胞たちに、つくづく申し訳ないと感じた

 それは、休日に山を歩いたり、旅先で景観を愛でるのとは異なる喜びにちがいない。〈なぜ人は、身体を使って働くことが大事なのか?〉は、イスラエル・キブツで暮らす友人たちとも共有した問いだった。答えを得たわけではないが、これを彼らにどう説明するか? 農場を低賃金労働者に任せ、結果として得た自分たちの楽な暮らしと引き換えに失ったもの、その大きさは喜びがすっぽり抜けた穴そのもの、たぶんそうにちがいない。もし、その穴を、再び喜びで埋めたいのなら、わたしたちが無意識で参加している世の中全体の〈労働〉を止めなければならない。わずか数十年前のチャップリンの危惧したとおり、単純な問いは暗礁に乗り上げ、ますます難題になった。


2018年2月
    

映画を観る季節

 かつては拙店が冬眠に入ると、ビデオレンタル店に通いつめ、ひと冬に60本以上の映画を観た。名付けて〈あみんシアター〉は、コタツ席観客2名限定だが、呑み放題食べ放題付きで大盛況だった。そのうち、年齢とともに野暮用に追われ、レンタル店通いが億劫になり、BSで録画したり、PCのダウンロードで観る怠慢鑑賞モードに変わってきていた。

 それでも今冬はすでにDVD数本を図書館で借り、あとは上京時に渋谷のユーロ・スペースというれっきとした映画館で2本を観た。

『世界でいちばん美しい村』は、石川梵写真家の初監督作品だが、映画館の大画面に映るネパールの険しい山道、人々の敬虔な思いと祈り、素朴な親子の情が胸に迫った。大地震で大災害を受け、それでも農業や牧畜を柱に懸命に生き延びようとする村人たち4000人、無医村でのたったひとりの看護師ヤムクマリの奮闘、子どもたちの無邪気な笑顔や歌声が、貨幣経済に染まったわたしたちの何かを削いでいく。近代文明と共同体文化のせめぎあいの中で、何を支援して? 何を黙認尊重していくのか? 欲望の果て、文明の末期にいる自分たちは、こうしたドキュメントを見るたびに考えさせられる。アフガンの中村哲医師もそうだが、単に物資や金銭を与えるのではなく、地元民と共に考え、井戸を掘り、水路をひく作業に関わるのと同じく、今回の石川梵監督も、短期間だが地元の家族と共に暮らしながら信頼を得て、災害を乗りきっていく。ベッド用のコンパネを各家に配給し、モンスーンの土砂被害から身を守る術を提案する。美しいのは景観や夜空だけではないということが、観る者には次第にわかってくる。

もう一つの映画、今年こそ完全版を観ようと、図書館で借りたDVD『ベンハー』は、なんと今から90年前にアメリカでつくられたサイレント映画で、ときおり活字で解説が入るだけという、思いがけない作品だった。もともと、1880年にアメリカでフィクションとして出版されたベストセラー小説が大元で、1907年に15分のサイレント映画『ベンハー』第一作がつくられていたらしい。そして第二作が今から90年前の『ベンハー』で、ガレー船や戦車競技という看板シーンもあり、ラモン・ノヴァロが演じる主人公は、1959年の第三作目のチャールトン・ヘストンのベンハーとは明らかに異なるが、迫力ある二時間だった。三作ともに副題が「キリストの物語」とあるように、これは、キリストの誕生から死を軸に、ベンハーというユダヤ青年の人生の関わりを描いたスペクタル映画である。

 1959年にウイリアム・ワイラー監督によってつくられた三作目の『ベンハー』には、かつて飢え乾く奴隷であったベンハーが青年キリストに一杯の水を与えられ、その十数年後に今度は十字架を背負って倒れたキリストに、ベンハーが一杯の水を与えるという命が交差するシーン、また磔刑にされたキリストの血が雷雨に流されて、ライ病谷に隔離されたベンハーの母と妹の病を癒すという奇跡のラストシーンが、新たに加えられている。あくまでも原作に忠実に脚色された第二作とはちがって、第三作は、より哲学的な要素が強く、ガレー船や戦車競技とは別の迫力にも満ちている。

 しかし、ユダヤ教の両親のもとに生まれ、ドイツから18歳でアメリカに移民したワイラー監督が、なぜ異教についての原書をとりあげ、その愛をハリウッドで描こうとしたのか? ユダヤ教では、イエス・キリストを救世主と認めていないので、ワイラー監督のキリストへの強い思いが、どこでどうやって育ったのか、不思議でならない。ハリウッドは、ユダヤの化身、プロパガンダと言われている故、旧約聖書を映画化するのは当然としても、2000年間対峙してきた新約聖書やキリストを、20世紀初頭で世界に向けて発信しようとした意図が今一つつかめないでいる。監督自身が新約聖書にふれたのか? それとも、人生のどこかでキリストに出逢ったのか? ユダヤ人としての自覚をあえて捨てたのか? などと疑問が広がっていく。

 読書は読者の孤独な行為によって、読者を本の世界にいざなう。著者の言いたいことは、読者の自由な解釈によって、思いもかけない行間が読まれ、枝葉を増やしていく。ときには、著者でさえ気づかないことが、読者によって掘り起こされることもある。しかし、映画や舞台鑑賞は、孤独というより不特定多数で観ているという意識が強く、また共同作業で制作された画像や映像を通した解釈が、大幅に逸脱するとは思えない。絵・音・動きによって具象化されたメッセージが観客に届けられるが、しかし監督や脚本家の意図が、いったいどこから生まれたのか? については、やはり書籍と同じように、観客には疑問として投げかけられるのだと、『ベンハー』を観終わってつくづく感じた。

 冬は読書の季節でもあるが、ユーロ・スペースという暖かくて清潔な映画館に、わずかな夢をはせる楽しみも発見した。あみんシアター、いよいよ出張の季節。



2018年1月
    

ごんぎつねと兵十

 新美南吉が「ごんぎつね」を発表したのは、1932年(昭和7年)というから、今から84年も前のこと。なんと南吉、17歳のときの作品だという。

 今では、ほとんどの小学校の教科書に載っているので、子どもたちも、おそらく30代、40代まではだれもが知る物語だと思われる。「ごんぎつね」がね、と口を切ると、だれもがまず「ああ、ごんぎつね」と憐みのこもった声を発する。ほんと、一様にそうなる。中には、涙ぐむ若者もいる。

 なぜか? ごんという名の狐は、兵十という名の男の仕掛けたワナから、かかったウナギを、単なるいたずら心で放してしまうが、後日、兵十の病床の妻がウナギが食いたいと言って、それが叶わず、無念にも死んだのを知る。

 自責の念にかられたごんは、せめてもの償いと思い、イワシ売りの籠からイワシを盗んで、兵十の小屋に投げてやる。

 ところが、兵十はイワシ売りから盗人と疑われ、とんだ濡れ衣を着せられて殴られてしまう。

 自分の思いと裏腹に、兵十を二回も傷つけたこと知ったごんは、栗や松タケをそっと兵十の家の前に置く。申し訳ないという思いを、何とか伝えたい、それがごんの願いだった。

 しかし兵十は、それが神さまからの賜物と思い込んだため、狐のごんにしてみれば、ますますの苛立ちとなる。が、ごんはけなげにも、栗運びをつづけた。

 ある日、栗や松タケを置いたごんを、いたずら者と勘ちがいした兵十は、銃で撃ってしまった。

 ところが、散らばる栗や松タケを見た兵十は、「ごん、おまえだったのか、いつも栗をくれたのは」と言い、ごんは静かに目を閉じ、兵十の銃からは煙が立ち上って物語は終わる。

 哀しい、無念の物語だが、読者はほとんどだれもが自分をごんに投影して、同情する。この物語の最後では、時すでに遅し、ごんの善行が兵十に明かされるのだが、現実ではほとんどの場合、人の願いや思い、行いは表面化しない。通じない思い、伝わらない真意、だれもが、一度や二度、あるいは始終、そうした痛み、悔しさ、わかってもらえない辛さを体験している。親子、兄弟、夫婦ケンカの場合も、相手にわかってもらえないというのが、その一番多い原因かもしれない。

 でも、自分たちは、狐のごんであるばかりではなく、ときとして兵十でもあるのを、ついつい忘れている。自分だって、他人や相手の真意をわかっていない。わかろうとしていない。思い違いをした多くの場合、自分自身は傷つかなくてすむから、反省の色も薄くなる。

 わたし好みではないが「ファミリー・ヒストリー」、というNHKのTV番組がある。自分の知らない先祖や家族の物語が明らかにされていく中で、どのゲストもその経緯や真意を知らないことに唖然とする。じっさい、そうなのかもしれない。生身の人間としての身内の思い、日常を過ごす生活者としての身内の行動を、知っているつもりで、全く知らないのが、ほんとうなのかもしれない。

 身内や知人が次々と他界していく中で、彼らの不可視の足跡を思い違いするのだったら、いっそのこと、知らないことに気づける一年でありますように。そして、知らない、わからないことから始まる思考に、しがみつける一年でありますように。

 


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