☆ 樋口範子のモノローグ(2021年版) ☆

更新日: 2021年9月1日  
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範子の著作紹介

2020年版 <=

2021年9月
    

  大地の記憶

 調布市飛田給の縄文遺跡発掘に、16歳で初めて参加させてもらったことは、このサイトの20187月版「テッセンという花」に記した。中高生時代のわたしは、縄文文化に惹かれ、たまたま野川流域にあった高校での体育授業中は、ひたすら校庭の地面だけに目をやっていた。教師が黙認してくれたことをいいことに、うさぎ跳びにまぎれて3000年、4000年前に使われたわずか1センチほどの土器片、石器片さがしに夢中になった。

 その後、イスラエルの集団農場キブツ・カブリに滞在中、付近からビザンティン時代(東ローマ帝国時代AD5001500)の発掘が行われているとは聞いたが、発掘事体は厳しく管理され、出土品も公開されなかったので、遠巻きに目を輝かせるだけだった。帰国後さらに時がたち、天理大学が北ガリラヤ地方のユダヤ教祭祀場跡を発掘していることを聞き、そのサイトの延長でテル・カブリ(カブリの丘)という遺跡名まであるのを知った。

 そして2017年のエルサレム・ブックフェア参加の帰途、四泊五日でカブリに立ち寄ったわたしを、友人のローニーが散歩に連れ出した。かつて二年間働いたアボカド畑は、今やアラブ人やタイ人たちの労働力に依存し、残念ながら共同体キブツは、創設67年にしてプランテーション化してしまっていた。汗だくで働くアラブ人やタイ人たちの横を、後ろめたい思いで歩くうちに、石造りの水車小屋や石積み住居跡に行きついた。そこは1947年の独立戦争まで、人口約1500人が暮らすアラブ村アル・カブリだった、とローニーが説明した。

それ以前のオスマントルコ時代は、代々アル・カブラと呼ばれたアラブ村だったが、13世紀前後は十字軍行路内でクイブレと呼ばれ、近くには十字軍要塞遺跡も現存する。クイブレ~カブラ~カブリと、名称が変遷したのを知る。

53年前、わたしがアボカド畑で剪定などの作業をしていると、ロバに乗ったアラブ人のお爺さんが不意に現れて、ハチミツ缶をくれたり、時にはロバに乗せてくれたりした。その人たちは、独立戦争で村を追われたが、すぐ近くのアラブ村に吸収されてイスラエルの市民権を手にしたイスラエル・アラブ人で、いわゆるパレスティナ難民とは異なる。キブツ創始者の中には、対アラブの独立戦争(1947年-1948年)や6日戦争(1967年)に参戦した軍人もいて、わたしたち日本人には武勇伝は一切語らず、なんと、そのアラブ村訪問にわたしたちを誘ってくれたこともある。その訪問の晩、アラビア語とヘブライ語を交えた彼らの穏やかなひとときを垣間見ることができた。1922年に始まるイギリス委任統治以前のパレスティナでは、アラブ人とユダヤ人は他の遊牧民とともに、兄弟ゲンカをしながらも、互いにうまく共存していたのだ。しかし、今となっては紛争が拡大化し、たとえ近所でも、そうした訪問交流はあり得ない絵物語になった。

 廃墟のまま、70年近く放置されたアラブ村アル・カブリのそばには豊かな泉があり、その周囲に現在も発掘がすすむ古代遺跡テル・カブリが広がっていた。地下約1メートル弱の平地から、多数の大甕や貯蔵庫跡が出土したことで、BC2100年からBC1500年の中期青銅器時代のカナン人宮殿のワインセラーだったことが判明した。そこは近年アボカド畑だったのだが、なぜかアボカドの木の葉が黄色くなる場所があり、不思議に思った人が掘り起こすと、遺構が現れた。つまり、科学的には地中に含まれた鉄分か青銅分か? 何かの化学物質がアボカドの根を通して葉を変色させ、幻想的には3000年前のワインセラーがメッセージを発したということだろう。

  カブリの歴史は、さらに遠くさかのぼる。ホモサピエンスがアフリカに出現したのが、20万年前、そして約5万年前に、アフリカ大陸からユーラシア大陸へと壮大な移動が始まる。そして当然、その経路にあるのは中近東で、地中海からわずか4キロの、砂漠ではなく豊かな泉と小高い丘をもつカブリ一帯を彼らが北上横断していったのは確かであろう。ホモサピエンスの生の足音を数万年にわたって聞きつづけた大地。46億年という地球の歴史に比べれば、人類の歴史はまさに瞬きの一瞬だが、それでも、この大地の記憶をして人類の足跡を顧みるならば、そこに血の通う日々の営みがあったことに、言葉を越えた深い感動がある。


2021年8月
    

ピーコの手紙

喫茶店をはじめて5年くらいだったか、毎年かならず9月第一土曜日に来てくれるお客さんに気づいた。夏休みが終わり、道路渋滞も解消し、各別荘の雨戸が閉まり始めるころ、軽自動車に80歳近い母親を乗せて、年に一度の彼女はやってきた。 腰までの茶髪、化粧映えのするはっきりした顔立ちにかっこいいジーンズ姿の彼女と、その後ろから、「すみませんねえ」と、腰をかがめて恥ずかしそうに入店する母親のコントラストが可笑しくて、わたしたちはいつしか9月第一土曜日をマークするようになった。 二人は、「いつもの」とランチを注文して、ベランダにエサをついばみにくるヤマガラを目当てに、食後のコーヒーを飲んだ後もずっと、「ピーコ、ほら、ピーコ」と鳥を手に載せては楽しんでいった。当時8月は無休で店を張っていたわたしたちなので、9月第一週は、自分たちも十分にリラックスしていた。照れ隠しなのか、母親は娘のことを、「この子」と呼び、娘は母親のことを、「この人」と呼んで、飼っている文鳥や亀、近所の雀のたわいない話をした。
 「この子が仕事から帰ってくると、あの子が喜んでねえ」あの子とは、飼っている文鳥のピーコだそうで、母娘二人と文鳥、亀とで暮していることが察せられた。
 話題が限られていたので、はたして住まいはどこなのか? どういう仕事なのか? 謎のままだった。40代後半であろう娘は、わざとゾンザイな言葉づかいで、わたしたちの緊張を外した。彼女は、わたしのことを「おばちゃん」と呼び、夫のことは「マスター」と呼んだ。わたしたちは、彼女のことを内々で「ピーコ」と呼ぶようになった。
 「おばちゃんのとこの鳥は、野生なのに手に載ってくれるから、特別いい子だよねえ」
 〈いい子なのは、あなたよ〉と、喉元まで出かかった。
 うちのヤマガラは、一年中手に載るわけではなく、繁殖期を終えて、たいてい旧盆の812日くらいから翌春の3月までに限られていた。彼女はそれを知ってか知らずか、9月第一週というのは、ヤマガラの警戒心の解ける絶妙な時期だった。一度だけ、ヤマガラの絶対数が少ない年があり、いよいよ明日が9月第一土曜日だと知ったうちのマスターは、こともあろうに屋根に上り、「明日、ピーコが来るぞお!」と大声で鳥たちに集合をかけ、その翌日、いきさつを何も知らない彼女は例年通りヤマガラと遊ぶことができた。嘘みたいな話だ。
 ピーコは相変わらず美形で、かっこよかったが、母親の背はますますこごんできた。年に一度とはいえ、10数年以上のお付き合いだから、自分たちも含めて当然そうなる。
 平成309月第一週、うちの家庭事情で、どうしても店を休まなければならなくなった。ピーコの連絡先がわからないので、胸の内でごめんなさいを繰り返した。あれこれ考えても仕方ない。
 そして翌週、郵便受けにライトブルーの封書(消印は 静岡・3098)が届いていて、封書裏に〈ピーコより〉、とだけあった。恐る恐る開けると、女子高生好みの可愛らしい模様入りの便せんに「コンニチワ、年に一度のピーコです。きっと、待っていたと思うけど、行けなくなってしまった。いろいろと話したくて、雀の話なんか、いっぱいあるのに・・・」と、チャーミングな文字で、雀のイラスト付きだった。そして文末に、住所と名前を書けなくて、スミマセンと結んであった。そういえば、PCもメールもしないというので、店の名刺を手渡したことがあったが、恒例の土曜日、奇しくも双方に会えない事情があったとは・・・・しばらく言葉が出なかった。またしても、嘘みたいなこの手紙は、以来わたしたちの家宝になった。 
 
そして翌年の9月某日、23年目にして閉店した年の半年後、たまたまガラス窓を開けようとした二階から、あの軽自動車がよたよたと停車するのが見えた。そして、ピーコとやせ細った母親が降りてきて、わたしたちは再会した。
「この人がね、入院しちゃったから、去年は来れなかったさ」茶髪をいくらか短くしたピーコが、あっけらかんとぼやいた。やはり彼女は、うちの閉店を知らなかった。
「もう店を閉めたから、ランチはできないけど、入って入って」
  おそらく大病をしたのだろう、母親はもう歩くのがやっとで、それでもいつものように「すみませんねえ」とピーコの後をついて入った。
コーヒーを前に、雀や文鳥、亀の話で盛り上がり、病気の話は一切しない。
帰り際、ピーコが小声で言った。「たぶんもう、来れないと思うけどさ」。きっと、母親のことだろう。
わたしは小さくうなずいて、静岡ナンバーの、その軽自動車を見送った。 


2021年7月
    

 母語と母国語

 このごろ、各誌上で〈母語〉についての言及記事に出逢うたび、その生い立ちを考えるようになった。母語と母国語についての定義はさまざまで、出生国や育った国、環境によるとか、あるいは母語は、胎内言語形成であるとか、言語であって言語の形を成していない場合もあるとか、実に多様な解釈がされている。

 作家の若松英輔によると、母語とは詩情、心情、不可視なものとの関係を指す何かであり、カズオ・イシグロの母語は日本語で、母国語は英語であるという。そうかもしれない。

 その後、はっきり区別できる事例があった。2021年大相撲5月場所で、引退して年寄鶴竜となった元横綱鶴竜の8日目の相撲解説を聴き、土俵上ではまったく感じられなかったその人の言葉の重み、正確さ、抑揚、品格に、わたしはうなった! 自らの体験を語りながら、目の前の一番一番を即ていねいに解説する手腕。偽りのない謙虚さがにじみ出る語りの間に、ふと漏らす本心は、聴く者の胸にとびこんでくる。「自分もまちがえることもあるし、失敗することもある。ここで怒ってはいけないと思うこともあるが、しっかり怒らなきゃいけない時は、ちゃんと言います」

これは、彼の母語、まさしく彼の身体が語っている! 彼の母国語は、もちろんモンゴル語である。しかし、かつては外国語であった日本語が、過酷な異文化体験を通して、彼の身体のすみずみまで行きわたり、母語として生きている。なんて、素晴らしい! 35歳という力士年齢は、決して若くはないが、一般の人生ではまだ登山三合目辺りだ。解説の翌日には、常例である場内警備の制服を纏い、通路入り口に無表情で立っていた。

 こうしたことは、琴欧州という東大関で引退し、現在は鳴戸(なるこ)部屋をしきる、ブルガリア出身の鳴戸親方の解説時にも、同様に感じられた。彼の母国語は、もちろんブルガリア語であるが、彼の口をついて出てくる日本語は、すでに落ちついた美しい母語だった。

 一方、引退後に荒磯(あらいそ)親方になった、元稀勢の里の解説には、失望がぬぐえない。〈凌ぐ しのぐ〉を〈我慢〉と言い放ち、それも当然のように〈なにごとも我慢、我慢〉と連発し、挙句にガッツがあるとかないとか、スポーツ解説そのものだった。我慢しなきゃいけないのは、むしろ聴く側の方だ。彼には日本語という母国語はあるが、残念ながら母語が育っていない。

 引退した豪栄道の生煮えのような解説も、もどかしいものだった。身体のどこかに大きな詰まりがあって、母語も母国語も未だ言語化できないのを、本人がちゃんと自覚しているのが、気の毒なほどだった。

 相撲界や力士についての優れた解説者である能町みね子は、元稀勢の里や元豪栄道の解説者デビューをえらく評価してはしゃいでいるが、わたしにはその根拠がつかめないでいる。彼女のように、母語も母国語もきちんと育っている者に、相撲を通して培ったであろう身体にまつわる言語論を、一度ゆっくり解説してもらいたいと切に願う。



2021年6月
    

ベルリンをめぐる男たち

 わたしは、ベルリンにも、ドイツ国内のどの街にも足を踏み入れたことはない。ところが、1988年に、ヴィム・ヴェンダーズ監督作品の映画『ベルリン天使の詩』を観て以来、ベルリンは忘れられない街になった。天使の羽をつけた二人の男性が、分断されたベルリンの重苦しい街を見下ろし、人間社会の長い歴史をふりかえる場面が、今も脳裏に焼きついている。租借できなかったものだけが記憶に残る、忘れられないということは、心のうちに常駐することだ、と作家の西崎憲は言う。とすると、わたしの中でのベルリンは、消化どころか、まだ何も租借されずにあるのだろう。

時はさかのぼり、1922年(大正12年)、若き哲学者三木清(みき・きよし)25歳は、海路、陸路を経てベルリンにたどりつき、そこからドイツ南部のハイデルベルグ大学に入学して歴史哲学を学んだ。翌年の1923年(大正13年)、マールブルグ大学に転入してハイデッガーを師とし、ニーチェやキェルケゴールの実存哲学を学ぶ。さらに翌年はパリに赴き、パスカル研究に没頭し、1925年(大正15年)に帰国した。欧州の風を一身に浴びたその日本人は、その後当然のごとく各大学で西洋哲学講座の教鞭をとるのだが、1933年(昭和8年)ナチスが第一党となり、ヒトラーが首相に任命されてすぐ、三木は筆をもってその世界観にはっきりと反対の立場を表明した。ナチスの国粋主義的文化政策に強く警鐘を鳴らし、それは同時にドイツに同調する日本政府への異議申し立てでもあった。哲学が机上の空論にとどまらず、勇気ある行動にまで生かされたことに、わたしはいたく感動する。ドイツへの留学経験があり、その国の文化をよく知る者だからこそNO と言えたのかもしれないが、一方で、かの地に暮らす生身のドイツ人たちの顔を知る一東洋人には、あまりにも困難なNOの表明だったと察する。やがて三木は、治安維持法の被疑者であった共産党員高倉輝(たかくら・てる)の逃亡を助けたという嫌疑で逮捕され、獄中で病死する。48歳だった。三木の死後、親鸞、および『歎異抄』についての多くの記述が疎開先で発見された。

そして次に、自らが旧東ドイツの東ベルリンで生まれ育ったクラウス・コルドンという小説家(現在77歳)について書いてみたい。コルドンは、1972年に西側への逃亡を試みたが失敗し、一年の拘留後に西ベルリンに移住して以来ずっと作品を書きつづけている。作品の多数が邦訳刊行されているが、その中で岩波少年文庫の「ベルリン3部作」酒寄進一訳の『ベルリン1919』『ベルリン1933』『ベルリン1945』の計6冊に書かれたその街の物語が、わたしを掴んではなさない。ヘブライ文学に登場するユダヤ視点で描くドイツではなく、ドイツ人によるドイツの一般市民の暮らしもまた、まん延する貧困、結核の感染、野党同士の醜い権力闘争、失業や不当解雇、不正や広がる格差の連続で、いったいどこに正義があるのか、愕然とするばかりだ。その不条理の中で、必死に生き延びていく一般市民の底力に励まされる。史実にフィクションを重ねた小説にちりばめられた数々の名文の一部を、記してみたい。

「勝利に見える敗北というものがある。かかる勝利は、敗北より破滅的なものだ」当時の左派新聞記事から。

「大事なのは、わたしが人間だってことさ。それも、人間同士が殺し合うのが大嫌いな人間でね。われわれは進化の過程で、どこか狂ってしまったんだ。われわれのようなものを、神がわざわざ造るなんて、とうてい考えられんことだ」作品中、傷病兵の手当てをする医者の発言から。

1919年から、かれこれ90年がたとうとしていますが、かつてのベルリン地区にあった貧困は、今のドイツには存在しません。しかし、貧困にあえぐ地域が消えたわけではなく、第三世界と呼ぶ地域に場所が移っただけなのです。そして多くの地域で爆弾がさく裂し、銃撃が行われ、人が殺されているのです」クラウス・コルドンのあとがきから。

 そしてさらに、2012年にベルリン大学で学んだ哲学者斎藤幸平(さいとう・こうへい)の『人新世の資本論』集英社新書に書かれた経済思想提言に、眼を覚まされる昨今でもある。わたしの場合、マルクスもエンゲルスも未読なのがむしろ功を奏して、そのコチコチの『資本論』ではなく、もっと奥深く、常に修正して前へすすむ晩期マルクスの考え方、ほんとうの経済とは何か、脱成長型コミュニズム、労働者たちの自発的な相互扶助(アソシエーション)、コモンズへの光が、トンネルの向こうに、ぽつんと灯る。地球の未来を考えた時、命をつなぐ方法は、もうこれしかないかもしれない。若干35歳という、この聡明な研究者の論文に出逢い、コロナ禍におぼれない道行きに、思わず一歩踏み出せそうな気がする。

 最後に、わたしたちが2011年、2014年、2017年と3回も旅したウズベキスタンで、ガイドを務めてくれたアリシェルという、シルクロード古代ソグド語研究の若きドクターが、なんと一年前からベルリンで学んでいる。長年京都大学の研究室にいて、ウズベキスタンでも京都でも、わたしたち夫婦は、いつも彼に「よくいらっしゃいました」と迎えられる側で苦笑していたのだが、またしてもアリシェルは遠くにとんでしまった。彼はイスラムのスンニ派の出自だというが、サマルカンドのユダヤ人墓地(なぜか墓守は、温厚なイラン人だった)やユダヤ教会を、気持ちよくガイドしてくれた。しかし最後に、表情を全く変えず「シオニズムはゆるせない」と一言放った。彼の言うシオニズムが、主にイスラエル建国以降の、武力をもって国家を維持しようとする強硬的、軍事戦略シオニズムであることが、やがてわかった。そのとおりだと思う。彼のFB上に発信されるベルリンの街並みは、二人の天使がいたころに比べて、いくらか明るくなったかもしれない。しかし、街全体には茫洋とした霧がたちこめる。

未踏なのに、あるいは未踏だからこそ忘れられない街。しかし、アリシェルの放ったシオニズムへの一言は、どうやらベルリンには同行せず、鉄色の弾丸になってわたしの胸に投げこまれた。以来ずっと沈みもせず、霧にもならない鉄色の塊(かたまり)。


2021年5月
   

 沈黙の奥深く

この一年間、だれもが外出する機会が減った分、いわゆるおしゃべりの時間も少なくなった。たわいない雑談、懇親会、空気を読みあう討論会などの時間が削がれ、実質的な言葉の行き来が、否応なく剝き出しになった。だから、時には刃物のような言葉が横行する。

 ふりかえってみると、たわいない雑談の多くは、発言者の言いわけ、強がり、気安めが主だったことがよくわかる。文明社会の中で、簡単には停まらなかった自己憐憫の勢い。

 災難や不幸に見舞われた相手に、その相手が慰めを望んでもいないのに、もっと重くて辛い体験をした人がいるとか、時間が解決してくれるとか、ピンチはチャンスだとか、ともすれば、そんなのは不幸でも何でもないとか、勝手に決めつける人もいる。相手の哀しみを否定する、発言者の気がすむだけの、上辺だけの声かけがいかに多かったか。

 沈黙を恐れるあまり、始終しゃべり通しの人がいかに多かったか。その反動なのか、静かにひた寄せる沈黙がものを言い、発言者自身の気安めや、明らかなイヤミを、耳がはね返すようになった。無理して、聞きつづけることは、もうしない。

 当てもなく、ひとりでコツコツ仕事をする者、

ゴールが見えないのに、黙って走り続ける者、

理不尽な袋小路に、追い詰められた者、

決して言葉に頼らず、生きてきた者、

悔し過ぎて、世界中を恨んだ者、

彼らが、ふと放つ、活きた言葉に出会えた瞬間。

そんなわずかな機会の中で、

生まれて初めて、直に言葉にさわった。

言葉に感触があったなんて、

2021323日、忘れられない日になった。

〈絵本の読み聞かせ〉ではなく、

13年間にわたって、女子受刑者たちと〈絵本を読み合う〉時間をもちつづける

村中季衣さんのお話で、思いがけず、その言葉にさわった。

それも、まさかのオンライン・ズーム講座で。

 横たわる沈黙に沈むことと、言葉を発しないことが同じではないことを知った。

沈黙のもっと奥深く、何かが、今そっと目を覚ますこともある。

 しかし一方、理解力と聴力の低下で、

ほとんど対話が成立しない95歳の母にとっての、

発する言葉と埋もれた言葉、予想外の勘違いと消された記憶、

いったい、これはなんだろう?

さわれない言葉が、まだこんなにもある。


2021年4月
   

   事務室のケンちゃん

 今から40年前、わたしは、山梨県で保母資格を取得した直後、山中湖畔にあった児童養護施設に就職した。東京都の児童相談所から措置される、就学前の3歳から6歳までの幼児約40名が、その施設で生活していた。カトリックのシスター10数人と住み込みの保母さん8名、調理場、洗濯場のおばさん、ボイラーマンとで、朝晩の居室の世話と、日中の幼稚園の任務を分担していた。

 通い保母のわたしは、事務、施設内の掃除、児童の通院の付き添い、児童の面会準備など、お遊戯やお絵かき以外のパート保育にかかわっていた。

 事務室のシスターがあるとき、ケンちゃん2歳児を事務机のはじに、ちょこんと座らせた。本来なら、2歳児は乳児院の措置範疇だったが、ケンちゃんには4歳と5歳の兄がそこに入所しているため、兄弟一緒の方がいいという児童相談所の計らいで、特別に入所していた。

 ケンちゃんは、なぜかじっとすわっている子どもだった。まるで、ぬいぐるみみたいに、数時間でもすわりつづけて、にこにこしていた。事務所に立ち寄るだれもが、その例外的な特別扱いを是認していた。

別のシスターがふと、「贔屓(ひいき)をしないと、子どもは育たない」と、つぶやいたのを、わたしは何度か耳にしていた。保母試験や保母講座では、おそらく「贔屓や特別扱いをしましょう」とは、ぜったいに教えない。家庭内の子どもたちにも、分け隔てなく、同じように愛情を注ぐことが、当然のように良しとされていた。平等には、悪平等も不平等も含まれるということを無視して、ただ大人本位の姿勢が蔓延していた。たしかに、贔屓をうとむ理由の一部に、虐待やハラスメントを回避することが、あったかもしれない。

しかし、贔屓をしないことと、平等と、分け隔てをしないことが、すべて一致するものではないとしても、子ども不在の、大人の同調をねらったものであることは、うすうすわかる。

だれも見ていない食堂の片隅で、「君だけにあげるね」と、楊枝に刺した揚げたてのイモ天を一個でももらった子は、どんなに嬉しく、そしてどんなに満たされた気もちになるだろう。

兄弟が多い場合も、その中のひとりを、ある時間だけ特別扱いすることは、贔屓でも何でもない、その子は自信をつけるかもしれない。自分だけを大事に思ってくれる人が、この世にひとりでもいる、その暖かさだけで生きていける。

やがてケンちゃんは、事務室を卒業して、大勢の保育室に入っていったが、ときおり事務室に立ち寄っては、わたしたちに、とびっきりの笑顔を見せるようになった。なぜか言葉がおそかったが、明らかに事務室は自分の居場所だというそぶりを見せた。そして兄たちの退所にともなって、ケンちゃんも退所していった後、ナオミちゃんという女の子が事務室に来たが、当然じっとすわっていなかった。机の引き出しをいたずらしたり、コピー機を壊したりで、わずか二日で、シスターはお手上げ状態になった。

しかし、ナオミちゃんには、他の保母たちも、ちゃんと特別に目をかけてくれるようになった。ナオミちゃんが、滅多に面会に来ない実父を「大きらい」だと泣き叫んだ時、ある保母には、それが「大すき」の裏返しだとすぐにわかって、ナオミちゃんを抱きしめた。

決して方法論ではない現場の呼吸がある。論考から外れたところにあるこうした例外的な呼吸を、どうやって伝えていくのか? 世の中が、数値や規則や制約にとらわれていけばいくほど、そうした曖昧さがうとまれるのを、見過ごせなくなった。

わたしはもう、40代になったであろうケンちゃんに再会したいとか、どうしているだろうかとは思わない。大部分のシスターが他界して、あの事務室も建て替えでなくなった。

ただ、今もなお、規則を盾に例外を認めようとしない大人たちや、その盾にはじかれて、事務室に入れてもらえない、たった一個のイモ天をもらえない、大多数の子どもたちを思う。


2021年3月
   

 コロナ禍二年目の春  

 二年前から、わたしは、義兄の車を譲り受けて乗っている。燃費が良く、小回りもきいて、とても重宝している。ところが、真冬に乗って、あることに気づいた。シートが〈冷たい〉。車内暖房はあるが、シート暖房がないので、体が温まらない。つい身震いするほど、体が冷えた。

ここ数年、家族で乗っている車には、寒冷地用のシート暖房がついていて、どの席もぽかぽか温かいことに、体の細胞がすっかり慣れてしまっていた。

科学的には、脳が先に感じるのか? 体が先に感じるのか? に、答えはあるのだろうが、自分の場合、もし脳が先に感知していると言われても、脳も体も双方が、納得しないだろう。どちらにしても、まず細胞が〈何か、いつもとちがう〉と感じるんだよと言われれば、素直に納得する。感知に言葉があるかどうかは別として、〈冷たい〉という言葉は、細胞が感知した後から、のそっとついてくる。

 20年くらい前は、車のシートは冷たくて当たり前で、たいして苦にもならなかったが、一旦シートの温かさを体験した人間は、無意識のうちに、こうも贅沢になってしまうものかと、自分ながら愕然とした。

「昭和の暮らしにもどろう」、「昔の不便さにもどろう」などと、いとも簡単に言うが、それは案外スローガン倒れで、いたく困難な実践だと、身をもって知った。

 昭和及びそれ以前の暮らしは、そのほとんどが人々の頭の中にあり、啓蒙だけでは、なかなか昭和にもどれない。

 95歳の母は、戦争も戦後の深刻な食糧事情も越えてきたのに、今にいたっては、ティシュペーパーと、蛇口から出るお湯は、無限にあるものだと思い込んでいる。

 片や、娘であるわたしは、蛇口から出るお湯には、戸惑いつづけて久しい。台所で食器を洗う自分の両手も、凍るような水ではもう、何も洗えなくなった。〈冷たい〉。どうしようか。

本来の〈不便さ〉や〈冷たさ〉に悲鳴を上げるのなら、あえてその〈不便さ〉や〈冷たさ〉に慣れるしかない。そう思って、少しずつ体を慣らして、車の冷たいシートにも長時間座ってみた。だんだん慣れて、違和感が少なくなった。実におかしなことだが、かつて体感して、その後一旦忘れてしまった感覚に、もう一度慣れてもどることを、どういう動詞で表せばいいのか? 取りもどす? さかのぼる? 生き直す? 巻きもどす? やり直す? 暮らし直す? 撚りもどす?  

幸か不幸か春が近づき、だんだん体が緩む中、なお一層、動詞探しに活を入れるのは、来冬のためだ。簡単に日和ったり、軟弱にならないように、これ以上贅沢にならないように、今から細胞たちに呼びかけておくためだ。


2021年2月
   

孤独について

 孤立も孤独も、どちらにも、ひとりぼっちを意味する孤という漢字がつくが、むしろ大勢でいるときに、感じるものだと思う。孤立は、社会のためにもできるだけ避けたいが、少なくとも孤独というのは、そう捨てたものではないことが、この数か月間でわかった。

 孤独でいるということは、うら寂しいとか、仲間外れの孤立感とは異なる、実は生きるうえでの大前提だと思えるようになった。安易な一体感や、上辺だけの同情や、形だけの寄り添いに惑わされなくなった今、ふと53数年前に体験したイスラエルのキブツでの、人と人が、ある適当な距離をもって、合理的に生活する底力を思い出す。

ほぼ毎日、約500人が集団で食事をして、働いて、そして、当時は私有財産もなかった暮らしの中で、実は彼らは四六時中いっしょにいることに、そんなに大きな意義は感じていなかった。創始者たちには、思想的な理想があったかもしれないが、その後に加わった大部分のメンバーには、最初からその出自や移民経過、経済的理由にそれぞれ個人的な事情があり、また国にも国境警備という必須課題があった。おそらく共同体理念や協同体機構に賛同してキブツに暮らすことを志した人は、そう多くはなかったと思う。したがって、そこで暮らしている人の多くは、自分の昔話はほとんど語らず、他人の過去にも深入りをせず、他人に自分の考えや持論を無理強いはせず、人はみな、同じ考えや同じ気持ちであるはずがないという大前提を尊び、孤独を自覚していた。キブツの第一世代には、寡黙ながらも、働き者で心優しく、困っている人(たとえそれが遠いアフリカでも)にさりげなく手を差し伸べる魅力的な人が多かった。

 しかし皮肉なことに、次の第二世代のほとんどは、自分たちの権利や欲得、持論の主張に多くの時間を費やし、テレビ、冷蔵庫、電話という文明の利器がもたらす効率性や利便性を優先して、結局キブツの約50年間の大実験は終わった。今は美しい景観の村として残り、そこに暮らす村人たちは、確かに孤立はしていないが、一般の世間同様、良質な孤独を持ち得る人が減少した。

 以来、わたしの深層によどんでいた共同体は、須賀敦子著『コルシア書店の仲間たち』に登場する1950年代から60年代にかけての一書店をめぐる日常によって、再び目の前に現れた。パルチザンだった者、カトリック司祭、信者、アフリカからの移民、学生、作家、研究者、翻訳家、なんとユダヤ教のラビまでが、熱く吹きだまっていたというイタリア・ミラノのコルシア・デイ・セルヴィ書店。そこでは、有機的な共同体をめざそうとする人々の約20年間にわたる人間模様が、1970年代に教会当局によって、ついに立ち退きを命ぜられるまで、大河のようにうねっては鎮まり、滝のようにほとばしっては霧となる、激しい蛇行を描いていた。

下記は、この名著の最終部分である。

コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼ同じだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極において生きなければならない孤独と隣り合わせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しない限り、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。

 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。」

              須賀敦子著『コルシア書店の仲間たち』より

 須賀敦子がこの最終部分を書いたのは、今から30年以上も前だが、その時代の荒野がいかに愛おしいものであるかを、わたしたちはこのコロナ禍で身に染みている。孤独を確立しないうちに、孤立の波が襲ってきた2021年の現実を、荒野でなくて何と呼んだらいいのか?


2021年1月
   

手元に本のある至福

 図らずもコロナ禍の最中に、友人の小松原宏子さんが発した「本は生きる力」という一言がずっとわたしを支えている。彼女は三年前の年末、埼玉県内で行われた読書会の忘年会で、色だけが同じ黒で、サイズも長さもデザインも全く異なるわたしのコートを間違って着て帰り、都内の自宅に着くまで気がつかなかったという大物である。それまでは、会えば挨拶するだけの間柄だったが、あれ以来、何かが互いの間を行き交い、今もこうして本を間につながっている気がする。

わたしは毎年150冊くらい読むのだが、今年は同じ本を何度もしつこく読むことが多く、冊数はずっと少なかった。でも、読書によって得られる満足感は、冊数に比例しないことがよくわかった。

 孤立はさびしいが、確立した孤独はいとおしい。つまらない社交辞令や枕詞を、否が応でも省かざるを得なかったこの一年間は、それによって得たかけがえのない孤独を味わう一年間でもあった。命と人生とのちがい、時(とき)と時間のちがいを、観念ではなく身体で感じることもできた時、手元に本のある至福をどう表していいのだろうか?

著者と訳者、版元に感謝を込めて、わたしの2020年ベストスリーを列記したい。

 

小説 

1・『ザリガニの鳴くところ』ディーリア・オーエンズ 著 友廣純 訳 早川書房

  2・『キオスク』ローベルト・ゼーターラー 著 酒寄進一 訳     東宣出版

  3・『洟をたらした神』吉野せい 著                中央公論社

 

随筆・対談集

  1・『霧の彼方 須賀敦子』   若松英輔 著             集英社

  2・『ほの暗い永久から出でて』 上橋菜穂子 津田篤太郎 往復書簡集  文芸春秋

  3・『知らなかったぼくらの戦争』 アーサー・ビナード 編・著     小学館

 

数年前から、狭い家の中なのに、本の置き忘れがひんぱんに起こるようになり、本を探す時間が増えた。ある時は電話機の脇に、ある時は食器棚や冷蔵庫の中にそれを発見して、そのたびに読書に移行するエネルギーまで削がれるようになった。探している間に鍋が焦げたりもする。

それで編み出したのが、キッチンと居間と寝室の定位置に、それぞれ別の本を置いておき、3冊同時進行の読書をするという苦肉の策だった。実はこれが意外にもうまくいき、当然ながら本の置き忘れはなくなり、そこに行けばすっと開いたページのつづきに入ることができ、なぜか3冊の内容が混乱することもない。

ちなみに今は『ヘブライ文学散歩』母袋夏生 著 未知谷、 『かか』宇佐見りん 著 河出書房新社、 『降りていく生き方』横川和夫 著 太郎次郎社 が、それぞれの定位置で静かに待っている。どの本も年末にふさわしく、奥深いが決して重くはなく、血の通った活字がページを埋めている。 

 


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