☆ 樋口範子のモノローグ(2022年版) ☆

更新日: 2022年9月2日  
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範子の著作紹介

2021年版

2022年9月


〈やるなら今、今しかない〉という空気              

かなり前のこと、都内の住宅街の中でカフェを営んでいた不愛想で寡黙なマスターが、その店の出窓にたてかけてあったサキソフォンやヴァイオリン、フルートを横目でちらっと見て、「楽器は、自分の代わりに笑ったり、泣いたりしてくれるから・・・」とつぶやいた。その時、楽器とは、演奏者が自らの表現を託す物ではなく、演奏者の身体の一部、むしろ演奏者そのものだと知った。

世界各地で撮影された〈街角ピアノ〉の映像を観るにつけ、弾き手がどれほどピアノと一体化しているかがわかる。ピアノは喜び、ピアノは歌い、そして嘆き、上手下手を越えて、弾き手のありのままの人生を奏でる。

 コロナ禍で、今まで当たり前だと思っていた世の中が変化したのと同様、自分たちの内面にも変化が起こっている。人と人との距離が遠のいた分、人と音楽との距離がちぢまり、老若男女、だれもが〈今、唄わないでどうする! 今、弾かないでいつ弾く!〉と積極的に唄ったり、楽器を奏でたりするようになった。つまらない謙遜や尻込みがいたく減った。

〈やるなら今、今しかない〉気迫を、あちこちで感じる。それはカラオケでマイクを離さないのとは異なる。内面のエネルギーは、ちっぽけな自己顕示より、もう少し大きな波に乗りはじめた。

 30年くらい前、都内渋谷のJR改札口と東横線改札口の間の天井の低い通路で、ほぼ毎夕ホームレスの某おっちゃんが、ぼろぼろになったカラオケ歌詞本を片手に、左右に大股のステップを踏み、なんとも楽しそうに歌謡曲を唄いつづけていたのを、どなたかおぼえておいでだろうか? 勤め帰りや学校帰りの通行人は、いつのまにかギャラリーとなって立ち止まり、しばらく啞然と見ていた。のを、さらに遠巻きに見ていた通行人がいて、一時(いっとき)の名物だったかもしれない。歌が上手いとか、めずらしい光景だとか、そういうことではない。おっちゃんが、独特のリズムで実に楽しそうに体を動かしながら無心で歌う姿は、ほとんどのギャラリーの目に「こういう風に生きられたら、どんなにいいか」とさえ映ったにちがいない。わたしは今でも、そのしゃがれ声と、両足のステップをおぼえている。

 しばらく、外出制限や自粛を強いられたわたしたちは、いつのまにか世間体や見栄心に疎くなり、対外的な身づくろいや表現にものぐさになった。人恋しさはあるものの、ある程度の好奇心はネット情報で満たされ、わずらわしさや緊張感から解放された。自分たちはだいぶ身軽になり、ろ過された素材だけで話す、唄う、踊る、書く、語り合う、そして生きる、そんなに難しくなさそうだと気づくこのごろ。そこに楽器があったなら、当然、すっと乗りうつれる・・・・そうかもしれない、そうだろうなと思う。



2022年8月


鹿の通る道

 森や林の中に、イノシシやキツネ、鹿などが通るけもの道を、朝一番に発見する。土が掘られたり、葉が散らばったりして、夜中に一族が通った痕跡がそこにある。

 そうした道を、わたしたち人間が横切ることはあっても、道として利用することはない。ところがある真冬日に、雪道を散歩をしていたら、昭和の時代に造られた石段に行きついた。その石段は、数軒の別荘に続く30段ほどの急な狭い階段で、おそらく数十年前、高所にある別荘に通う人たちの近道として造られた私道にちがいない。雪の上に鹿の足跡だけが複数ついていて、その翌日も、またその翌日も、登り降りの足跡は増えていた。鹿以外の足跡がないので、これはけもの道というより鹿専用の道なのだ、と思うとついつい頬がゆるんだ。高所にある別荘がすでに朽ちて廃屋となり、だれも通らなくなった今、さりとて壊されもしないまま残る石段、春になったら登ってみようと思った。

雪解けの後も、石段の色はコケに隠れて見えなかったが、そこには、やはり鹿の足跡、爪痕がかなりはっきりついていた。しばらく自分に余裕がなかったので、石段登りは夏までおあずけにしていた。

ある日、登ってみようと思ったのは、大相撲名古屋場所の千秋楽の翌日だった。コケで滑り易い足元に気をつけながら、慎重に足をすすめた。もう何年も人間が利用しなくなった石段には、人工物でありながら空気を読めとは強要しないおおらかさが漂っていた。

 一歩一歩登りながら、ふと照ノ富士の顔が思い浮かんだ。前日の千秋楽で、彼は貴景勝に負けて優勝には至らなかった。わたしは初優勝した逸ノ城をも応援していたので、照ノ富士の負けは、残念ではあったがたいしてこたえなかった。

 照ノ富士はケガと持病に苦しみ、大関から序二段にまで陥落して、再び大関、そして横綱にまで上がった力士だ。じっさい、ある時を境に、テレビの放映時間から放り出された照ノ富士というモンゴルの若者は、番付けを落とすたびに、減っていくファン、賛辞、拍手、付け人にはじまる数々の上位特典と、逆に増えていく不安、孤立感、ケガの苦痛、始終つきまとう不名誉から逃げようとはしなかった。最初からファンだったわたしでさえ、番付表にその名前を探すことをしなくなった、じつに無情な自分をおぼえている。

幕ノ内に復帰後、彼は言った。「もうだれも声をかけてはくれないし、ひとりバスに乗って、ほんとうに恥ずかしかった」。じっさい、大関まで体験した者に、観客のいない土俵での木綿のさがりは、屈辱そのものだったにちがいない。ましてや、日本の路線バスに乗る巨体は目立つ。しかし、彼はその屈辱にもじっと耐えた。

 多くの解説者が異口同音に、「自分だったら、とっくに引退していた」と語った。逃げようとはせず、恥ずかしさをこらえたその強さに、わたしは圧倒された。彼がすごいのは、復帰して横綱になった、その結果だけではなく、内面に巣食う快感原則に勝ったということだろう。一方、わたしはあきらめが早く、すぐに逃げる態勢に入り、そして逃げ足も速いから、彼の強さが一層眩しい。

 横綱になった後も、彼は言った。「いろいろ考えても仕方ないし」。その通りだが、それでもバカな人間は、ついつい考えてしまう。

 長く、急な石段のてっぺんまで登りきり、そこからつづく細い道に入った。鹿の糞をよけながらしばらく歩くと、朽ちて折り重なる別荘の建物の前を通り、再び下り坂に降りて、なんのことはない、ただ車道の近い二点をぐるっと一周しただけなのを知った。鹿には、避難場なのか? ねぐらなのか? おそらく重要な一周なのだろうが、高台の別荘に縁のない者には、まるで鹿につままれた道行きだと可笑しくなった。

しかし、帰宅してみると異界からもどったような不思議な思いに包まれ、なぜかまた、雪が降る前に登ってみようという気になった。


2022年7月


                         田舎に暮らす
         

 街や都会では見慣れない光景だが、下水道のない村の奥に暮らす者は、各家に浄化槽という汚水層を設置し、そこで自分たちの生活排水やし尿の一時的処理をし、溜まった汚泥を、業者に頼んでバキュームしてもらわなくてはならない。

 信州の田舎に暮らしていた義父は、おそらく昭和の終わりまでは、自らトイレの汲み取りをして、野菜畑に下肥として撒いていたのをおぼえている。

 うちでは世間同様、肥料として活用はしないので、年に一度、毎年四月に「浄化槽のお掃除をお願いします」とN店に電話をし、Nおじさんが昔ながらのバキュームカーを運転して、数えてみれば、もう四〇回以上通ってくれた。湖畔の養護施設に勤めていたころは、Nおじさんがわざわざ集金に寄ってくれたのも、懐かしい思い出だ。施設内放送で、「樋口さーん、Nさんが玄関にお見えです」という電話番シスターの明るい声に呼ばれ、財布片手に走った若い自分がいた。

 自分たちのし尿処理を頼むというのは、実にうしろめたい思いがある。代価は単なる数字で、こちらの気持ちとは無縁の金額を支払い、やっと一年の義務を果たしたみたいな安ど感で、気もちが切り替わった。というか、気もちをうまく切り替えた。

 昨年、Nおじさんは、二十代の青年をともなって来てくれた。浄化槽をのぞき込み、たとえ汚物に触れないとしても、視覚と嗅覚でその物をしっかり確認する姿に、いやはや、困ったなあと、排泄しなくては生きていけない者は改めて思うのだが、どうしようもない。

 その初々しくさわやかな青年は、Nさんのお孫さんだった。

 そして今春、N店に電話をすると、携帯番号を紹介され、その番号で青年が電話口に出た。「はい、N汲み取り屋です」

 あのお孫さんだと、わかった。

 約束の時間通りに、昔ながらの青いバキュームカーで現れた好青年は、仕事もてきぱきとこなしてくれた。世間では、エッセンシャルワーカーとか何とか、美談の大流行で、こうした青年の働く姿は、どうにでも脚色できるにちがいない。物語が大好きなわたしには、彼にききたいことは山ほどある。ああ、いやだ、いやだ。

 Nさん同様、浄化槽をのぞき込むその姿に、このかっこいい青年が文明の全容を体感しているのがわかった。ここで、何を言ってもウソになる。世間の物差しや言葉に囚われているわたしの負けだ、そう思った。

 数十分のバキュームの後、支払いも終わり、そのまま、彼を見送るつもりだった。ところが、青年がいきなり、「もう何年も、うちが来ているのですね?」ときいた。たしかに、同業社は数社ある。

その問いに、Nおじさんの声まで浮かんで、ふと、「Nおじいちゃんは、お元気ですか?」と、わたしはきいてしまった。

「おじいちゃん、否、祖父は」と彼は言い直した。「昨年亡くなりました」

「ああ、そうなの、それは・・・」

 彼は、青いバキュームカーにとび乗って、エンジンをかけた。

 決して、すかっとしたわけではないが、ありがたいことに、彼を見送る自分に、個人的なうしろめたさはなかった。


2022年6月
                    

何を、どこで、いつ語るか?

 人は、何かを語るとき、意図的に取捨選択した内容だけを、理路整然と語れるものではない。これを話そう、このことを伝えようとしても、何かが邪魔して、あるいは何かに迂回させられて、とんでもないことが口から発してしまうのは、だれの経験にもあると思う。真逆の発言さえありうる。

緻密に考えあぐねた結果や、事務的に伝えるべき本質より、そのときの心情や無意識の歪みが、優先的に言葉を選んでしまう状況は、語る側だけの問題ではなく、話し相手から読みとる印象やその場に波打つ空気感にもよる。しかし、そうした予想外の発言は、決してマイナスに繋がるわけではなく、思わぬ展開や気づきの賜物を得ることもある。

同村の女性数人で隔月に集まり、ウクレレ、ベビーハープ、オカリナの音を出し合って、楽しむ会をはじめて約2年がたつ。数少ないレパートリーをひっさげて、年に1度のイヴェントに出演させてもらっているが、今年はなんと発表の場が2回もあって緊張した。

 イヴェントの直前練習が終わり、おやつ・おしゃべり時間も終えて、4人は立ち上がり、そのうちの2人が家族の送迎を待つために、玄関のたたきに降りた。それまで、個々の性格についての他愛のない自己評価を笑い合っていた2人は、Sさんが昭和15年生まれで、Mさんは昭和17年生まれの戦中派。送迎はもう、あと23分で来るはずなのを、だれもが知ってそわそわする中、Mさんが突然、終戦前後の混乱期に家族で汽車に乗っていたとき、2歳くらいだった自分が、身動きできないほど混雑した車内で、身内に体を抱えられて列車の窓から用を足した体験を話した。「お尻がひんやりしたのを、今でもおぼえている」。小さなお尻に冷たい風があたって、それでも泣かずに、一生懸命に用を足そうとする幼い女の子の姿が浮かび、線路と車輪のきしむ音が聞こえそうだった。

「わたしも、3歳くらいだったとき、九州の熊本から富山県まで、何日も汽車に揺られて家族で移住したのをおぼえている」つづいてS子さんも、同じような列車体験を話した。

 玄関の框に立っていたK子さんとわたしは戦後生まれなので、ぎゅう詰めの列車風景は映像でしか見たことはない。「へえー」と聞きながらも、M さんとS子さんの戦中時代の身体に刻まれた記憶は、おそらく余程強烈だったのだろうと想像ができた。

 でも、なぜ限られた時間とわかりながら、わずかな記憶を唐突に語ったのか? その場にいた4人には、予想もつかない話の糸口だった。あえてふり返れば、その日のわたしたちは、昭和15年につくられた「森の小径」という灰田勝彦の歌を練習していた。出征直前の若者と、内地に残される恋人との別れを、白い花に託して歌った哀しい歌。もしかして、その日のMさんの心は、戦中と現代の間を、少なからず無意識に行き来していたのかもしれないし、連日の報道に見る世界中の戦地にも思いがはせていたのかもしれない。そう思うと、ふだんは見えない、聞こえない人の深層に沈む何かに、ふと呼応する声が聞こえそうになる。

もし、彼女たちが〈戦争体験を語る会〉という場に呼ばれたとして、あの一瞬のひんやりした身体の感触が、はたして口をついて出ただろうか? 

再び、戦争の足音が聞こえる今、人は、何を、どこで、いつ語るのか? そして、どう話すのか? 戦後生まれの自分は、正直言ってそれを思うと、怖い。


2022年5月
                    

シモンのスクランブルエッグ

 今から54年前の1968年、キブツ・カブリのアボカド畑で働いていたころ、わたしは作業小屋での朝食当番だった。朝4時半に大食堂の係が木箱に詰めたトマト、きうりなどのサラダ食材と卵や牛乳をトラックの荷台に載せ、8人の働き手は丘の下に広がる農場に降りた。その中の紅一点だったわたしが、朝食当番になったのだろうが、詳しいいきさつはもうおぼえていない。バナナ畑では、やはり紅一点だったデンマークのリーが朝食当番だと聞いていた。

 作業小屋の外には農機具が並び、小屋の中には二口のプロパンガス台と木製のテーブルが二個、椅子が10脚くらいあり、朝7時半には全員が集合して朝食をとった。キブツでは、テーブルの真ん中に、洗っただけのトマトやきうりを山盛りにして、銘々が自分の皿の上でマイサラダをつくる習慣だった。おじさんたちは大声で話しながら、野菜をぶつ切りにする人、細かくみじん切りにする人など、実に多彩な野菜サラダをつくって、最後に塩コショウ、オリーブ油をかけて、フォークを持つ。その皿の隅に、それぞれの好みに合わせてわたしが焼いた卵焼きや目玉焼き、目玉焼きのアップサイドダウン、スクランブルエッグなどを載せ、食事が半ば進んだところで、温めたコーヒーか紅茶を、やはり個々の好みに応じて給仕するのが手順だった。高校を出たばかりの日本人に、きっとだれかが教えてくれたのだろう。

 ある日、アルゼンチン出身のシモン(40歳くらい)が、胃潰瘍で入院したと聞いた。しばらく働き手は7人だったが、一か月後に大食堂の係から、退院したシモンには卵がドクターストップになり、当分の間、替わりに白チーズを給仕するように言われ、今でいうモッツァレラに似た白チーズを手渡された。

 ところが、朝食時のシモンは、ご機嫌斜めだった。卵は万能薬だと言い張り、周囲のおじさんたちは聞こえないふりをする。「スクランブルを焼いてくれよ。ノリコは意地悪だ」などと一週間も文句を言われつづけたわたしは、ついに折れるしかなかった。白チーズの方がいいというチェコ出身のおじさんとの商談成立でシモンは満足し、なぜか運よく体調は快方に向かった。シモンが朝食に卵を食していることは、たぶんだれにも知られずに時が過ぎたが、今に思えば、運が良かったのは、彼の病状を悪化させずにすんだ朝食当番だったかもしれない。

 2年後の1970年、わたしは日本に帰国し、卵を割るたびにアボカド畑の作業小屋を思い浮かべた。

 そしてその20年後の1990年、家族を連れてキブツ・カブリを訪れたわたしは、大食堂の前で図らずもシモンと再会した。髪はすっかりなくなっていたが、肌の色つやが良く、健康だった。しかし、前年に妻を亡くしたと言い、あのなつかしい声で「もうお終いだ」などと、気弱にぼやいた。この時はじめて、わたしは自分のホストマザーに、すでに時効になったシモンのスクランブルエッグの話をした。彼女は「卵料理がむしろ効を奏したのよ、きっと」と言い、二人で大笑いした。

 そして、さらに20年後の2010年、3度目にキブツ・カブリを再訪したわたしは、シモンが10年くらい前に再婚して、今は80代になっての車椅子生活だが元気だと聞いた。卵もシモンも、あっぱれなものだ。

 そして、その7年後の2017年、エルサレム・ブックフェアの帰りに立ち寄ったキブツ・カブリで、はじめて墓参りに行き、ホストファミリーや教師たちの墓石に小石を積み、そして思いがけずシモンの墓石にも手を置いた。墓地はアボカド畑の近くにあり、50年ぶりに作業小屋の前を通った。アボカド畑は、もう何年もタイ人やアラブ人の雇用労働者によって維持されている。小屋はブロック積みに、扉はトタン製に改修されて、貫木が掛かっていた。プランテーション化した農場一帯に、後ろめたい思いがわいた。帰り道、1948年の戦争前にあった旧アラブ村の水車小屋や井戸の跡を通った。そこに暮らしていたアラブ人たちの住居跡に何も気づかず、のん気にスクランブルエッグを焼いていたかつての自分に、苦い思いもわいた。


2022年4月
                    

 春の森歩き

 富士南麓の小さな森を、山麓探偵団の4人の仲間と歩いた。そこは、約8000年前、つまり縄文時代に噴火した寄生火山のひとつで、その噴火口(クレーター)の周囲が、雑木林になっている。

 見上げた東の空には、ぱっくり口を開けた宝永火口を抱く、実に見慣れない形の富士の稜線が山麓を見下ろしている。思わず、今から315年前に噴火した時の、一面真っ黒な空と熱風、噴石、爆音を思い描く。

わたしたちは遊歩道を外れて、それぞれが自分のペースで歩き始め、早々にブナ、ミズナラ、カツラの巨木や、そこに絡まる蔓(ツル)に足を止めた。どれひとつとして、似た形はない、まるで、前衛アートのように、四方に、上に、斜めにさまざまに形を変えて生きる木々たち。小さな人間たちの胸には、無数の言葉があふれるのだが、それらはいつのまにか身体に染みわたるらしく、次第にだれもが寡黙になる。冷たいが、清々しい森の空気。

風雨に折れたであろう枝の横から、小さな枝が必死に生まれ、そこに蔓が巻きついて、なぜか別の枝と運命をともにしつつも、今後はわからないという顔で、楚々と風に揺れる。

ぽっかりしたウロを抱えた巨木は、それでもまだ幹の周囲はみずみずしく、その近くには、這ってでも生き長らえようとする突き出た根。彼らの共通のメッセージは、〈めげないこと〉だと知る。4人の頬がゆるみ、それを〈あっぱれ!〉と読んだ。 

倒木によってできた空き地に陽がさし、そして腐葉土によって、さらに豊かに、ふわふわになった土の上を歩く。すでに木の形はしていないが、やはりめげてはいない。

ミツマタの灌木に囲まれた噴火口を降りた。外界の音が遮断されて、異界とは言わずとも、明らかに別の風が吹いている。かつての噴火口は、堆積した噴石やスコリアのもっと深く眠り、1万年近くのめげない沈黙を守る。

苔むした切り株に腰を下ろし、重い口を開いて、「居心地の良い、ぜいたくな椅子だね」と、しばし笑ったりして、こんもりした苔をなでる。これもまた、ミクロの森にちがいない。

昼過ぎに、相乗りした一台で帰途につき、頭の中の縮尺を徐々に調節しながら、いつもの富士の形をふりかえった。

 


2022年3月
                    

冷たい日々

 今年の冬は、例年に比べて気温の低い日がつづき、寒さを通り越して、あたり一面冷えきっている。包丁とまな板って、こんなにも冷たかった? と、ここに暮らして47年目にしてはじめて知った。なんとなく調子が悪い、喉が痛い、食欲もないと葛根湯をのんで早々に寝ることで、それ以上の悪化はなかったのだが、たまたま読んでいた2冊の本の時代背景が、どちらも1942年ころのドイツ、旧ソ連だったために、自分の立ち位置が怪しくなった。そんな時にかぎって歯科に通わざるを得なくなり、前歯のドリル治療に脳みそまで撹拌されて、頭がぼおっとした。

折しも、ウクライナ情勢がきな臭くなり、54年前に歩いたモルドバやウクライナのキエフの街角が、妙に色濃く思い出された。キエフの裏町の路地で、子どもたちの縄跳びに飛び入りした思い出。ところが、せっかく早寝したのに、夜中には戦闘場面や兵士ばかりが夢に出てきて、半ばうなされそうだった。

『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬 著 早川書房 500ページ近いその本は、史実に基づいたフィクションなのだが、胸打たれる作品だった。30代の日本人男性作家のデビュー作で、アガサ・クリスティー賞受賞後、直木賞候補になり、受賞には至らなかったというが、そんなことはたいした問題ではないと思わせるほどの迫力だった。旧ソ連軍の女性狙撃兵17歳が主人公で、おそらくモデルがいるのだろう。生きること、死ぬことが臨場感をもって描かれ、敵とは何か、愛国とは何か、女性とは何か、子どもというのは、どういう生き物なのか、すべてが安易な答えをともなわず、読者に重く問いかけて迫ってくる。体調が今ひとつだったわたしには、その重さは数倍に感じられたかもしれない。文体も優れ、圧倒されまくった数日間だった。いったいどれだけの史実と人間心理を探究したら、こういう大作が書けるのか!

 もう一冊は、未邦訳のヘブライ語の原書で、同じくナチス時代の収容所生活をふりかえったナヴァ・セメルの短編。ナチスの蛮行やユダヤ人被害者意識をあえて避け、収容所内の光と影が描かれている。その中の光とは、ドイツ兵や将校たちの慰安婦で、同胞の監視役も命じられた囚人一女性の、同胞のユダヤ人女性を病床に見舞い、あるときは最期を看取り、励まし合おうとする姿に写し出される。慰安婦のほとんどは、その記憶に狂気をきたし、高圧電柵に身を投げたり、卑しめを受けなかった同胞に暴言を吐いたりするのだが、その一女性だけは、投げやりにはならなかった。地獄にあって、なおも崇高に生きた人間の一面に泣けて、やはり自分の体調が今ひとつだったので、昼夜を問わず、わたしは1942年の寒く冷たいドイツ・ポーランドと旧ソ連の国境線を彷徨うことになった。

 同時に、現実のウクライナ情勢は、ますます悪化してきた。

 もうひとつの身近な現実、96歳になった同居の母の体力と認知力は、日ごとに低下してきた。彼女は、その2冊の本に描かれた主人公と、ほぼ同年齢である。母の戦中体験は、定番の疎開生活だけしか知らないが、むしろ語られない日々がその2作品と重なり、本の主人公の現在の年齢と暮らし方が、母の姿の向こうに透けて見えるようになった。

 困った、これはまずいと思い、雪道を散策し、毎食間の葛根湯で冷えきった体を温め、なんとか正気を保つ努力をした。やがて、体調がもどり、読書は読書として、それも真冬の凍りついた中での特異な読書だったと思うことにした。ところが、224日、ついにロシアはウクライナに侵攻して、自分の読書は読書だけでは終わらなくなった。

 暦の上では、あまりに短い、それでいて地球の冷たさを思い知った2月が終わろうとしている。


2022年2月
                    

 旅人たち

 恒例だった真冬の長旅は、コロナ禍の自粛と超高齢者との同居によって、はるか遠くの幻になりつつある。我が家では、ほとんどの旅を私家版旅行記としてつづり、後々に記憶が混濁しないように、というか正しい思い出話ができるように冊子に記録してある。

 しかし、思い出というのは、なにも活字や写真によって言語化したり映像化されるものではない。

例えば、10年間全く出番がないのにキッチンの壁にかかっている小さな〈栓抜き〉。20111月に初めて旅したウズベキスタンのサマルカンドで、美味しいサルバスト瓶ビールを入手して、ホテルの部屋で乾杯しようとしたが、肝心の〈栓抜き〉が部屋に置いてない。フロントに問い合わせても、各部屋用の数がないという。日本ではありえないことが、異文化の国では当然のようにまかり通る。仕方なく、手持ちの道具で危なげな開栓をしたのだが、翌朝一番の街歩きは〈栓抜き〉探しということになった。ホテル以外では英語が通じず、当時はまだ翻訳機器もなかったので、仕方なく〈栓抜き〉の怪しげなイラストを描き、行く先々のスーパーマーケットや酒店でそれを見せて「opener」と開けるジェスチャーを演じるたびに、「no」と返答された。この国の人たちはもしかして、ビール瓶の栓を歯で噛んで開けるのではないかとさえ思った。半ば意地になって、場末の食料品店のカウンターでイラストを見せたところ、初老の店員がそばの引き出しから、チェーンのついた金属片を取り出して、明らかに「売り物じゃないから持っていけよ」というような手ぶりで、それをくれた。たぶん、何かのオマケだったのかもしれない。見慣れないキリル文字のついた〈栓抜き〉が、チェーンの先に申し訳け程度についていた。わたしたちが、その店員にどれほど感謝したか! 周囲の客が、ぽかーんとしたほどだった。その晩から、わたしたちはサルバスト瓶ビールを賞味することができたのは言うまでもないが、それ以来二度も訪れたウズベキスタン行きのバックパックには、まずは〈栓抜き〉がスペア付きで定位置を得た。

 1968年、18歳で横浜港を発ち、モスクワ、東欧経由でイスラエルに行って以来、まるでフェニキア人のごとく、トルコ、ギリシャ、モロッコ、エジプト、ヨルダン、マルタ島へと旅をしたが、ハワイもアメリカも未踏だった。それが、長男家族のワシントンDC赴任を機に、2018年秋、生まれて初めて独りでアメリカに行った。ワシントン周辺を毎日歩き回り、そこでもやはり異文化に触れて、様々な気づきがあった。長男家族が重宝している〈ダッチオーブン〉を買って帰りたいと息子に言うと、「えっ?」という顔をされたが、日本でも買えるとは言わなかった。たしかに日本でもリーズナブルで買えるだろう。でも、わざわざアメリカで買いたかった。そして蓋つきで7キロもあるその重たい鍋をスーツケースに詰め、がらがらと引っ張って帰国したわたしは、みんなに呆れられた。しかし、土産とは、こういうものだと大自己満足だった。冬になれば、薪ストーブの上で、サツマイモやジャガイモをほくほく蒸かしたり、焼いたりして、古き良きアメリカを味わっている、つもり。

 ウズベキスタンのシューク、つまり旧ソ連の大バザールの帽子屋で、2011年夫が身ぶり手ぶりで最初に手に入れたグレーの〈ロシア帽〉と、20173度目に行った時に、翻訳機器を介して手に入れた黒兎の〈ロシア帽〉、どちらも時間をかけた値段交渉の末、電卓片手に手打ちになった時の、帽子屋の顔まで目に浮かぶ。何年も使えるそれなりの上等品で、特に冷える晩に、夫は目立たぬようにそっと頭に載せて出かけていく。黒兎の毛は、闇にまぎれてあえてロシアを語らず、ただ持ち主の頭を温めて片目をつぶる。

 20101月、ヨルダンのアカバから、ペトラに行くタクシーに置き忘れた〈携帯ポット〉。しかし、どこまでが親切で、どこからが営業なのか? 実にあいまいなそのタクシー運転手ムーサ(アラビア語でモーセ)のおかげで、そのポットはわたしたちの手元にもどった。結局、富裕層の旅人ではない二人の日本人観光客の素性を天秤にかけた挙句、ムーサは砂漠ツアーの客引きを諦めたのだろう。アカバの国境近く、タクシーの運転席窓から左腕を高々と上げるムーサと、だれもいない荒野で立ちすくむわたしたちは、互いにいつまでも手を振りあって別れた。あの日以来、その〈携帯ポット〉は、我が家で〈ムーサ〉と呼ばれるようになった。

 わずか十数坪のこの屋根の下で、思い出を語る物たち。彼らにとって、はたして居場所はどこなのか? 当てのない長旅を夢見ながら、聴く者がいるかぎり、同じ話をずっと語ってくれるだろう。彼らもまた、じっとしてはいられない旅人だもの。


2022年1月

                       我が家の95 

この一年間、聴力も理解力もさらに落ちた母95歳とわたしたちの間で、伝達の相互確認はできても、雑談や対話は、ますます成り立たなくなった。笑わせてはくれるが、笑い合うということはない。そんな中での対話というか、すれちがい。

 その1  久しぶりに訪れた若い女性の笑顔に、母はほっとしたのか、いきなり「あなた、何歳?」ときいた。微妙なお年頃を察したわたしが、「お母さん、女性にそういう質問はご法度」と小声で水を差したら、不足そうな顔をした。〈あら、みんなは、こぞってわたしの歳をきくじゃないの?〉という顔だった。 

 その2 「富士山って、いつごろから富士山なの?」

      「1万年くらい前に、この形になったらしい」

       戦前の歴史教育を受けた母の頭に、石器時代はない。

     「じゃあ、おサムライさんも、この富士山を見ていたのね」

 その3 「シュークリーム食べる?」

      「シューマイ?」

     「お茶飲む?」

      「カボチャ?」  

フロイト説の通り、耳は常に自分の都合や好物を優先する。

その4   母は今秋、二度目の圧迫骨折で、富士吉田にある楽々堂(らくらくどう)という整形外科にレントゲンのために週一で通院している。

      通院の朝、「きょうは、らぶらぶ堂に行くのね」

      このことを、担当の可愛らしい看護師さんに話したら、「そのネタ、使わせてもらいます」と笑顔で言われた。

その5   冬の湖畔で、モーツアルトのミニコンサートがあった。会場のレストランの庭で、スタッフが小さな焚火を焚き、迎えてくれた。チケットとの交換で、串に刺さった巨大なマシュマロが手渡された。マシュマロを焚火であぶるなど、まったく自分の発想にはない母、いきなり「あら、大根?」と叫んで、周囲の笑いをかった。

      たぶん、甘いおでん種だと思ってかじりついたにちがいない。

その6   いよいよ、年賀状を書く年末になった。母は毎年40枚くらい書くのだが、

友人知人が次々に他界し、つまり書く相手が減り、その分は山中湖で新しく知 り合った人たち宛に書くことで、40という数字を維持している。

「お母さん、さあきょうは年賀状を書く日よ」

「年賀状? とっくに書いたわ」

「あれは去年。お正月は毎年めぐってくるの」

「へえー?」 

   来月、母は満96歳になる。我が家のこころ優しき友人知人たちは、うちの母の語る定番、226事件、疎開先の逸話、戦争未亡人になった実姉の出家などは、すでに当人より正確に語れるほどの修練を重ねてくれた。辛抱強く聴けない家族にしてみれば、ほんとうにありがたい。行く先々で、母の手をとって歩いてくれるのも、さりげなく暖かい。彼らの存在あってこそ、わたしたち夫婦は95歳と同居ができている、決して過言ではないと身に染みるようになった。  


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