書籍: 終わりなき愛

終わりなき愛

著者名 グレンダ・グリーン
出版社名 太陽出版
定 価 4,500円+税
出版年月日 2010年5月31日

『終わりなき愛』翻訳者はしがき

本書はGlenda Green著の、LOVE WITHOUT END  JESUS SPEAKS の日本語訳です。

私が本書と出合うきっかけを作ってくれたのは、尊敬する親愛なる友人であるロナ・ハーマンさんでした。彼女はアーキエンジェル・マイケルのメッセンジャーとして、自らも誠実にメッセージを実践しながら世界中の人々にメッセージを伝えている人です。本書を英文で読み始めたとき、私はたとえようのない懐かしさを感じました。そうです。それは、A COURSE IN MIRACLES(『奇跡のコース』日本語未刊) と全く同じエネルギーでした。イエスがグレンダ・グリーンと交わす会話の中に感じられる優しさ、思いやり、はかり知れない叡智は『奇跡のコース』のエネルギーそのものでした。ただし、『奇跡のコース』の内容は非常に抽象的であるのに対して、本書はイエスとグレンダ・グリーンの間で交わされた会話です。多くの場合、グレンダの質問に応じて、イエスが様々な問題について具体的に、時には、哲学的に説明するという形で話は進められます。グレンダの言葉を借りれば、“友達のように”話し合ったのです。そのやり取りの中で、イエスがグレンダを本当に愛していること、尊敬していること、信頼していることがひしひしと伝わってくるのです。そして、その愛、尊敬、信頼は人類の兄弟一人ひとりに向けられたものでもあります。

グレンダ・グリーンはアメリカでも著名な肖像画家で、ある時、夫が彼女に言います。「グレンダ、夢を見たのだけれど、君はイエスの肖像画を描くことになるらしいよ」。これを聞いたグレンダは、驚くよりも怒りを夫に向かってぶつけます。肖像画家である彼女は肖像画を描くためにはモデルがいなければならないことを知っています。中世美術史の専門家でもあるグレンダは、イエスの顔を正確に伝えるものは存在しないことを知っていたからでもあります。グレンダは冗談のつもりで言います。「もっとも、イエスさんがモデルとして私の前に座るっていうのなら話は別だけど」。それからしばらくして、1991年の11月23日、イエスがグレンダの前に姿を現し、グレンダはイエスの肖像画を描き始め、1992年の3月12日に、「子羊とライオン」が完成します。その約4カ月の間に交わされた会話が本書になったわけです。「姿を現した」という意味は、エーテルの立体像として姿を現したということです。

ここで「奇跡」について一言、言及しておく必要があるかもしれません。というのは、グレンダ・グリーンが「子羊とライオン」を世に出し、本書を出版するに当たっては様々な奇跡を体験しているからです。『広辞苑』によれば奇跡は次のように定義されています。「常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの。」一言でいえば、超常現象です。『聖書』も数々の奇跡に言及しています。たとえば、イエスの親族の結婚式でワインが足りなくなったとき、イエスが水をワインに変えたという話があります。それはとても上質なワインだったために、客の一人が不思議がって、「普通上等なワインは宴が始まった時に出されるのに、宴も終わりに近づいた今このようなおいしいワインが出るとは」と言ったと伝えられています。しかしながら、このような奇跡に対する人々の見方はどのようなものであったでしょうか。宗教的な熱狂において奇跡をそのままに信じる人たちがいることは事実です。しかし、「そのようなことはあり得ない。何かの間違いだ。科学的に説明できることなのに、それが分からないでいるだけだ」といった懐疑的な態度が一般的ではないでしょうか。白状しますが、私自身、そのように考えていたものです。『聖書』で言及されている奇跡は象徴的な説明の仕方で、宗教的な真実を伝えるための方便にすぎないのではないかと考えていました。このように考えてみると、奇跡は宗教的真理の証であるとされながらも、同時に、人々を宗教的真理から遠ざける役目を果たしてきたとさえ言えるかもしれません。「そんなおかしなことを言うから、宗教というやつは信頼できない」というわけです。

私はここで宗教の弁護をするつもりは全くありません。「奇跡」の信憑性を説得しようとするつもりもありません。しかしながら、本書の中で、イエスが奇跡の種明かしをしていると言ったら俗っぽい言い方になってしますが、事実そうなのです。言葉を変えて言えば、奇跡を科学的に説明しているのです。アダマンタイン粒子という、現代の科学が発見しかけている粒子の働きによって、奇跡と見なされている現象が説明できるというのです。ということは、科学は再現可能な現象ですから、私たちも奇跡をおこなうことができるということになります。ただし、ここでいう科学は、『広辞苑』の定義でいうところの、「既知の自然法則を超越した」科学です。イエスと科学は一見ミスマッチな組み合わせに思われます。しかし、本書の13章ではイエスが科学について語っています。新しい科学について語っています。この新しい科学においては“愛”が不可欠の要素になります。科学と愛だなんて、またなんというミスマッチと思われるかもしれません。当然です。これまでの常識の枠組みの中で考えたら当然です。しかし、私たちが信頼している従来の科学は何を人類にもたらしてくれたでしょうか。地球という生命体に何をもたらしてくれたでしょうか。残念なことに一言に要約して言うならば、“破壊”ではなかったでしょうか。しかも、原状に戻すことができないような破壊ではなかったでしょうか。より正確な言い方をすれば、私たちが知っている科学では原状に戻すことができないような破壊ではなかったでしょうか。この事実を謙虚に受け容れたとき、イエスが提示する「奇跡と愛」、「科学と愛」という概念に私たちのハートは開くのかもしれません。

「奇跡」という概念が、イエスのメッセージを受け容れるうえでの障壁となる可能性があるだけではありません。ほとんどの日本人にとって、イエスという言葉は「キリスト教」と直接結びつきます。そして、「私はキリスト教徒ではないから」といって、イエスのメッセージの受容を簡単に拒否することができてしまいます。実を言いますとこれは私にもぴったりと当てはまることです。私はカソリックの大学で学びました。しかし、カソリックの大学に進学した主たる理由は英語を学ぶことでした。この大学では17カ国からやってきた神父様たちが英語を共通言語として講義を行っていましたから、英語を身につけるには最高の環境でした。しかし、英語で卒業論文を書くことになった時、私は“般若心経における空の思想について”という主題を選び、指導教授も了承してくださったのです。キリスト教の環境の中にあって、仏教の神髄ともいうべき般若心経に目覚めたと言えるかもしれません。当時の私は「キリスト教と自分を本質的につなぐ糸はない」と感じていたことをおぼろげに覚えています。

それから40数年の歳月が流れた今、私は不思議な感慨を覚えています。「カソリックの大学に行ったのは単に英語を学ぶためだけではなかったらしい。イエスはキリスト意識という非常に高次な世界から下りてきた魂で、普遍的な真実を伝えて下さっている。仏陀もこのキリスト意識から降りてこられた魂で、それを東洋の地で伝えられ、イエスの教えと同じように普遍性を持っている」と考えている自分がいるのです。これはあらゆる宗教についても言えるのではないかと思っています。「キリスト」という名前は言うなれば姓のようなもので、イエス・キリスト、仏陀・キリスト、マホメット・キリストと言っていいのかもしれません。もちろん、「キリスト意識」から来る真実は普遍的なもので、それぞれの宗教的なグループが教える信条と常に一致するわけではありません。このようなわけで、読者もイエス・キリストをキリスト教の創始者と考えるのではなく、「キリスト意識」から真実をもたらしてくれる存在と考えてみると良いかもしれません。本書の内容はまさにそのようなものです。

グレンダ・グリーンとイエスの会話の中で、イエスは実に多様な観点から人間について語っています。実にハッとするような斬新な切り口から紡ぎだされる言葉はハートを貫いて私の存在の根幹に語りかけてくれました。中でも私が心を打たれたのは山上の垂訓の最初の言葉についての説明です。英語で引用しますと、Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven. これはおそらく聖書の中でも最も有名な言葉の一つではないでしょうか。キリスト教徒であるとないとにかかわらず、この2千年にわたって人類が語り継いできた言葉ではないでしょうか。一般的な日本語訳は、“心貧しきものは幸いなるかな。天国はその人のものですから。”となっています。世界中の様々な言語の中でもこの意味に解釈されて今日に至っています。グレンダが子どものときに初めてこの言葉を聞いたときから疑問を感じ混乱を体験してきたと述べたとき、イエスは驚くべき事実を明らかにします。イエスが使っていた言葉であるアラム語のpoorに当たる言葉には、確かに「貧しい」という意味はあった。しかし、文脈に応じて「単純な」という意味も持つことができる。この文章でイエスが意図したのは「単純な」という意味だったというのです。そして、イエスはこの山上の垂訓を次のように言い換えます。“単純に生きるものこそ幸いなれ。その人は天の王国に入ることができるのですから。”私は体全体に電流が流れるような興奮を覚えたものです。グレンダも興奮して“完璧です!”と叫んだのでした。

しかし、イエスはここでもう一つ深遠な事実をさりげなく指摘します。「翻訳で意味が失われているとしても、ハートでこの言葉を聞いていたらその意味を理解することができたでしょう。」“ハートで聞く”、何と分かりやすく、しかも、力に満ちた言葉でしょう。私たちは知的レベルの問題は全てマインド(頭脳)に頼って理解しようとします。そうしたマインドの働きによって現在の世界の枠組みが作られていると言っても過言ではありません。しかし、イエスは静かに“ハートで聞く”ことの大切さを思い出させてくれたのです。私はA Course In Miracles(『奇跡のコース』)のテキストの翻訳を終了し、6月までには出版される運びになっています。正直言って、『奇跡のコース』の言葉は深遠にして極めて難解です。妻のジャネットの母親はアメリカで『奇跡のコース』の勉強会に参加しています。そしてこう言います。「もう難しくて分からない。博はどうしてこんな難解な本を翻訳できるのでしょう」おそらく、ほとんどの人が同じような感想を持つかもしれません。マインドで理解しようとする限り壁にぶつかって動きが取れなくなるかもしれません。本書の著者は『奇跡のコース』の著者と同じ存在ですが、そのイエスがここでヒントを下さったと私は勝手に解釈しています。最近開催した「安らぎのワークショップ」で早速参加者と一緒にこのアプローチを使ってみたところ非常に好評でした。考えてみれば、“心貧しきものは幸いなるかな。天国はその人のものですから。”という言葉が誤訳でありながら、2千年もの間人々の心をとらえてきたのは、人々が“ハートで聞いていた”からに違いありません。

このような深遠にして単純、かつパワフルなメッセージを翻訳する機会をいただいたことは私にとってこの上ない光栄であり、感謝の気持ちでいっぱいです。これを機会に様々な形でサポートしてくださった方々にお礼を申し上げたいと思います。まず、この本の存在をアーキエンジェル・マイケルの導きによって教えてくださったロナ・ハーマンさん、出版を快く引き受けてくださった太陽出版の籠宮良治社長、装丁をしてくださった田中敏雄さん、微笑みと共にいつも励ましてくださる編集者の片田雅子さん、常に大いなる信頼をもってサポートし、時にはチャネルとなってホワイトローズのメッセージを伝えてくれるパートナーのジャネット、深い承認と共にインスピレーションを与えてくれるホワイトローズの兄弟たち、真摯な探求心によってイエスとのコミュニケーションをはかりこの類まれなメッセージをもたらす器となってくださったグレンダ・グリーン、そして、“終わりなき愛”のメッセージを伝えてくださったイエスさん、本当にありがとうございます。

本書を手に取ってくださったあなたが、本書のメッセージによって触発され、人生をさらなる喜びと豊かさに満ちたものとされ、ご自分の周りに地上の天国を築かれることを心から願いつつ感謝の言葉とさせていただきます。

2010年1月 雪を豊かにいただいた富士山の麓にて
大内 博
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