photo 戦国の動乱後、徳川氏によって江戸幕府が開かれる頃、この地域の村々は、谷村藩(郡内藩)の
支配下におかれ、人々は近世封建社会の末端に組み込まれていました。寛永10年(1633)、谷村
の城主となった秋元氏は三代にわたって領域を統治しましたが、特に治水事業や織物の奨励に力
をそそぎました。

●江戸時代の村と開発

江戸時代の富士吉田市域には、上暮地・小明見・大明見・下吉田・新倉・上吉田・松山・新屋の八ヶ村が近世の村として成立していました。これらのなかで山裾の村では、そこでの生活から新田を求めて溶岩台地の開発が行われ、それに伴って新田集落の形成も並行して進みました。この時代になってはじめて、剣丸尾や檜丸尾の溶岩台地を集落や耕地として利用できるようになったのです。

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村差出明細帳/宝暦9年(1831)/下吉田村

●新倉掘抜

河口湖の水を新倉村をはじめ、水不足の村々へトンネルにより導こうとする工事は元禄(1688〜)の頃に秋元喬朝により行われましたが、通水には至りませんでした。弘化4年(1847)には古穴を修理完成させることを目指しましたが湖水の減水により中断してしまいました。その後、文久3年(1863)より再工事を行い、慶応元年(1864)に遂に完成させることができました。総延長約4km・工費約7千両・人足延約11万人を要した大工事でしたが、ようやく通水し、人々は多くの田を開くことができたのです。

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新倉掘抜絵図/慶応元年(1865)

●山の利用

集落の背後には、荒地や里山が広がっていて、人々は暮しに必要な緑肥や薪等をそこから採集していました。こうした人がお互いに入会う場所を入会地(入込地)といい、その利用は近世において生活の糧を得るための村人の共有の大切な権利でした。富士吉田市域では、富士山をはじめ、村境の丸尾や近隣の村と接する山々が入会地となっていますが、山に入り始める日や採集・運搬方法など、山の利用については、村々で様々な取り決めがあり、争いが絶えませんでした。

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ゴタ
採った薪を運ぶ運搬具

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