文人医故郷に帰る

昭和二十年敗戦前の富士吉田を知る年輩の方なら、今の下吉田、月江寺坂上、学園高校

附近にあった高聖閣の風景は、記憶の中にあるに相違ない。これを造ったのは、渡辺孝治

という人。明治十九年、福地村松山(現。富士吉田市)生まれ、当時東京在住、郷里の富

士北麓一帯が国立公園に指定されたのを喜び、頭山満(国粋主義の思想家・指導者)の影

響をうけ、明治天皇を顕彰する日本精神高揚の場を作り、郷里に奉仕しようと造営した。

工事・荒井近松、総工費約十万、十ヶ月の日子を費し、昭和十一年八月竣工した。

豪華な本堂、庫裡、鐘楼、明治天皇の御康筆奉安殿等の建造物のほか、丸尾の松林中に

点在した千手観音、諸菩薩座像八尊、達磨、弘法、伝教、日蓮等の大師像、釈迦坐像、聖

徳太子立像等、当時抵抗なく迎えられていた本地垂述(ほんじすいじゃく―日本の神は、

インド本地の仏が仮の姿で出現したとする説)の説の具現のようだったが、とにかく日本

精神修養道場の名にふさわしい霊場であった。今に残っていたら、あるいは富士吉田市が

世に誇る名場かも知れないが、あわれ敗戦のため潰滅した。その残りの施設、庫裡に、気

さくな眼科医、月江寺明が開業していたと言えば、まだかなりの人が記憶をよみがえらせ

てくれるに違いない。

萱沼貞石、利子、明の一家は、東京小石川宅を戦災にあい、上吉田、藤井徳次氏方に疎

開、約一年、縁あってこの遊休施設となっていた本堂、庫裡を借りて住みついた。昭和

二十一年のことである。ここから月江寺眼科がはじまる。月江寺明のぺンネームも、貞

石夫妻のこの地の書道活動も、利子歌集「尾花」もすべてこの生活基盤から生まれた。

萬聖閣の転用は、医療に、文化に、意外なところで花を開いた。この本堂は、後移築

されて、今の月江寺本堂に、庫裡は山中に移されて貞石山荘として現存する。

萱沼明。号・寒石(漢詩)、三光鳥(俳句)、筆名・月江寺明。明治三十七年富士吉田市に

生まれた。生家は書家萱沼貞石と同じ、その実弟(四男)である。貞石、利子夫妻に子が

なく、昭和二十二年、貞石の養子となる。昭和六年、東京医専(現。東京医大)卒。後千

葉医大で医化学専攻、医博となる。母校眼科学教室より日赤中央病院眼科を経て、陸軍軍

医学校眼科嘱託、昭和二十一年より富士吉田にて月江寺眼科医院経営、昭和三十四年、東

京世田谷羽根木に帰住、同眼科経営、昭和五十五年死亡した。享年七十六歳、墓は月江寺

にある。

勢は、練達な眼科医とレての外、自由闊達な着想、身辺すべてに興味を示す好奇、好

学、旺盛な研究欲、天賦の才に恵まれ、漢詩、俳句も一流の随筆家、名文家としての令名

が高い。

当然著書の数も多く、専門の眼科学の方では、「英国眼科小史」「和訳眼科一家言」「眼

泳法」「眼病方言孜」等。「眼病方言孜」は、随筆集「眼のある随筆」に納められている

が、全国の眼病に関する方言を、イロハ順に網羅(もうら)し解説した貴重な学術書兼風

土記だ。随筆は、この「眼のある随筆」「眼のない眼の随筆」があるが、中でも診療の傍

ら訪れる人とよくつき会い、よく聞き、よく語り、富士北麓の多くの話題を書きためた随

筆集「富士山の北麓郷談々」ヘ上下二巻)は、今も温顔で話tた姿を彷彿(ほうふつ)

せる心温まる名著である。「日本医事新報」ほ全国の医師が殆んど読ユでいる週刊誌だが、

その常連執筆者、その他各新聞、「医家芸術」等に軽妙ながらするどい着眼の文を数多く

寄せている。

診・察は本堂・―文人眼科医

玄関に「月江寺眼科診療室」と縦書き、筆太な看板を下げた診療室は、最初二、三年は

萬聖本堂、後、居宅応接室であつたように思う。

小太り、チ。ビ髭のこの院長は、気さくによく語りながら練達の眼科医療をここで約十

五年続けたコ明の傍らには、夫の勤務(銀行)ウ関係で別居していた兄貞石夫人・利子

(戸籍上ほ母)がつきそい、診察の介助、身辺の世話をした。本堂の奥正面には、薬師如

来尊像、大目玉の払子をもった達磨の木像などが、この診察を眺めていた。

近隣の子守歌にこんなのがある。「めやみめごぜは月江寺さんへ、金の薬師さま診てご

ざる金の薬師さまありゃ何の神 あれは眼の神 如来さま」。これは昔からの月江寺さ

んの歌。またこんな句がある。「目を明かす名医のいます月江寺」―。作者は、大月の小

野隆造、季もないがこれは眼科医礼讃の句?。「なんのなんの、名医は薬師如来さま」な

どと、天衣無縫の眼科医であつたo

そうは言いながら、この学者先生は、ちゃんと教えるのだけは忘れない。

「昔から、寺と病院とは、親しい間柄でいながら、世間では、対立的な二つの存在のよ

うに考えたがる。無理もない話で、もし内科や小児科や婦人科の診療を寺でやったら、そ

れこそ妙なことになる。「焼場があって、引導渡してくれる坊さんがいて、墓場がある、

ずいぶん行き届いた病院ですね」・・・そこへゆぐと眼科だけはそんな妙な連想を起こさずにl

すむo()日本では、武家の幕府政治が始まって以来、薬師寺の僧侶などが支那に留学

して、眼科の術を学んで帰り、寺の境内に診療所を設けたものがあった。その代表的な僧

侶が、すなわち室町時代の馬島清眼で、これがそもそも日本での、眼科専門医の唱矢であ

る。いいかえれば、日本眼科は、寺院からである。そればかりでなく、寺院では、薬師如

来を併せ祀っているところが多く、それが眼病平癒の祈願所になっている関係もあって、

寺と眼科とは、今もって深い因縁の糸につながっている」

藤咲いて眼やみ篭るや薬師堂 子規

(「眼のある随筆より」)

月江寺の先代住職は、故山田秀峰師。この時代から秋の恒例の薬師祭が、以前の不衛生

な「お水をいただく」行事から、月江寺眼科の無料診療奉仕に変わった。昭和二十四年十

月二十二日の日記には「午後一時より本堂に出張。縁日に賑わう中で夜十時まで眼の検

診」とある。何ともほのぼのとした日が追想される。この日、中村星湖、庭の甘柿を手土

産に来訪。その日の明の句。

薬師日に星湖はるばる柿くれに

ついでに、明の得意だった俳句の類域より特に好んだ蕗の墓の句を紹介しておこう。

鉢植えの蕗の墓すこし長けにけり明

この月を蕗の墓月とせんばやな

元旦に蕗の墓味噌のご飯とは

月江寺明の趣味以上の類域に漢詩がある。本市の書道家、渡辺寒鴎氏は書の外に漢詩を

よくし、論書詩百首を作り、詩中に登場する名人の筆蹟を髪髭(ほうふつ)させる書体

で、自作詩を揮裏、昭和五十九年には、本場中国北京市の中国美術館で「論書百絶展」を

開き、中国で絶賛を博した大家だが、その彼がこう言う。

「月江寺先生は、書家に漢詩文の素養の絶対不可欠のことを説かれた。私の漢詩の師匠

は萱沼寒石である。私は寒石先生から七言絶句の手ほどきを受けた。先生は、雑誌「東

華」に拠る隠然たる漢詩一方の雄であった。」

前にも触れたが、郷土の身近な口碑伝説、俗話、民間療法、風習その他見聞したものを

丹念に収録した随筆集「富士山の北麓郷談々」上下二巻は、明、死後昭和五十六年出版さ

れたが、遺稿集ではなく、生前準備したものである。上下で六百六十八話にのぼる平易、

簡明、歯ぎれのよい文章は、座右におくに恰好の書、いちいちうなづき、いちいち発見

し、読みふければ時のたつのを忘れる。

富士吉田市立下吉田第二小学校の校内誌「ひこばえ」の命名は月江寺明。「ひこばえ」

とは、切られた根株から生えた芽だ。親の根株は「ひこばえを出してひたすら成長を楽し

み、おのれに優る新芽を願う」(北麓郷談々より)と、おのれを捨てた根株に感謝する新

芽の成長を願っている。

幅広い交遊

明の交遊は、実に幅広く、有名人をちょっと拾っても、今西武夫、幸田露伴、幸田文、

臼田亜浪、萩原井泉水、式場隆三郎、石津寛、須田春崖、地元では、渡辺雪峰、中村星湖

などが浮んでくる。

幸田露伴とこの家族との交遊は、かなり古く又深いようである。多分、日赤時代(或い

は軍医学校ョ・)からで、老人性白内障だった露伴の主治医をつとめた頃からの関係。文

豪を敬慕する明と、主治医として信頼した文豪との、ほのぼのと長くつづいたつきあい

露伴は、富士登山で一回岳麓の土を踏んだきりだが、令嬢・文は、度々富士吉田、明宅

を訪れた。露伴の死は、昭和二十二年七月三十日、その三日前に、明は千葉県菅野に露伴

を訪ねた。明ほ、露伴を「白い鶴」といヶ。銀白の髭、白緋の単衣姿の印象が、目に焼き

ついて離れなかったのであろう。露伴は、甲州の話をよくしたという。例えば、山ロ素

堂、この人は有名な「目には青葉山時鳥初鰹」の作者で、甲州巨摩郡の出身の人、芭蕉と

親交あり、葛飾に住み、葛飾風開祖の俳諸人、一面、山ロ官兵衛信章という事業家、元祷

年中、甲府濁川の改修工事を行つた甲府下水道の祖とも言える人、この工事につくした彼

の徳を霊神に祭り、琴塚に生両(生きながら祭られること)を建てられた人だ。このような

先人のよい伝記が、甲州にないのは残念だなど、露伴の話しを伝えている。

露伴七回忌、法事は歌舞伎座、出し物ほ「五重塔」。のっそり十兵衛は、菊五郎の御曹

子九朗衛門、文の招待で、明も出席した。客席をまわる濃い茶の着物、ローズ色の帯、美

しい着こなしの彼女を、法事とはいえ、特別高雅な艶なものとあこがれて、その随筆に書

き綴る。(「眼のある随筆―法事」より)

地元の文人との交遊を一、二述べよう。

中村星湖。この人との交遊録も多い。露伴が、五重塔を書いたのほ、二十五歳の時、塔

の設計図の調査書類が積んで尺余にあまったなどと、明に教えたのほ星湖だ。文学、漢

詩、俳句に話題が共通し、地元に住む数少ない作家として心が通いあったのだろう。

.明の随筆にほ、食い物の話が多く出てくる。それも蕗の董とか、ほうとうなど、中でも

星湖との話には柿がしばしば登場する。失敗談?を一つ。ある日、明は河ロ村の星湖宅

を訪ねた。晩秋で柿の実は赤く色づいていた。夫人が「庭の甘柿です」とお盆にのせて差

し出した。

文豪の庭の甘柿小さかり

これはその時の明の即興句。夫人は急に不機嫌になる。「小さかり」が、文豪の夫人と

しては見劣りがするとでもとられたか、と明は肩をすぼめる。人の世の一寸した起伏を悪

びれずおおらかに記述する人間臭さが、実に面白い。

ついでに柿の話をもう一つ。

明は「富士山の北麓郷談々」に、虚子、富士吉田来訪時の句

柿を喰いながら来る人柿の村 虚子

を紹介しているコ柿の村は、富士吉田市内新倉、柿の産地だ。「勝沼や馬子も葡萄を喰

ひながら」「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」に堂々匹敵する名句ではないか、埋もらせて

は惜しい。

南画派文人画家・渡辺雪峰は、その頃市内下吉田福源寺に病を養いながら住んでいた。

明は度々雪峰を訪れて、見舞あるいは歓談している。昭和二十四年六月二十日、訪れた明

の前で、雪峰ほ墨で小画仙に富岳図を画き、八余白にあなたの詩を題し合作ということに

しようと言った。いわれるままに、明が作った詩、

題雪峯翁富岳図

富岳題詩豊我才 雪翁如許欲追陪

天風吹払芙蓉面 曙色紅雲瑞気開

上の詩を画に書きつけようとしたら、目の前の画が光っている。あらためて見直し、た

じろいた明は、それから十年、画はそのままになっている。見劣りのしない年齢と格のそ

なわるのを待って、義理を果たしたいと思っていると書いた明だが、二人とも世にいない

今、その後の推移は知るべくもない。恩情と謙虚、うるわしい話である。

文人医逝って四年、しかし、早くもこの人がしみtみと偲ばれる程、世の動きは早く目

まぐるしい。

萱沼明年譜

西暦年齢

明治37年山梨県富士吉田市下吉田に 生まれた。号・寒石、兄・萱沼貞石。

大正7年石川文荘の漢学精勤塾で学んだ。

昭和6年東京医専(現・東京医大)卒。

昭和7年東京医専眼科学教室に入局す

昭和8年日赤中央病院眼科勤務。今西武夫先生に師事す。「眼科方言孜」刊。

昭和10年陸軍軍医学校嘱託となる。

昭和11年臼田亜浪を知り句作をはじた。亜浪に三光鳥と俳号を貰った。

昭和12年白内障だった幸ロ露伴の主治医となり、以後交遊した。

昭和17年千葉医科大学医化学教室にて研究。学位論文をまとめた。

昭和19年東京小石川に萱沼眼科診療室を開業した。

昭和20)戦災に遭い医院焼失、富士吉田市に疎開す。

昭和21年富士吉田市吉日高聖閣跡に月江寺眼科診療室を開業。

昭和22年七月、千葉に幸田露伴を訪う。その三日後、露伴逝く。兄・貞石の養子となる。

昭和34年東京世田谷羽根木に帰り同地で眼科医院を経営。

昭和46年「眼のある随筆」刊。

昭和48年「眼のない眼の随筆」刊。

昭和55年死亡。月江寺に葬る。

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