山中湖畔旭ヶ丘は、今観光山中湖村の中心的な盛り場だ。そこから篭坂峠に登る基地の

東側に古い鉄柵を巡らした広い一郭がある。一部三角屋根のある二棟構成のしよう酒な古

い建物。錆びた鉄門をくぐり抜け、草深い右曲りの道を行くと、右手に「千秋」と「萬

歳」の多肉雄渾(こん)の蘇峰筆碑が二基、訪れる人を迎える。

玄関につき見上げると、扉上に質素な扁額がかかり、「双宜荘」と読まれる。徳富蘇峰

が昭和六年からその後年のほとんどの夏を過ごした山中山荘である。双宜荘は蘇峰自らの

命名、湖光丘色二つながら宜(よろ)しいの意だ。又「宜」はすじみちにかない、そして

仲むつまじいの意。宜人といえば、明や清の時代、中国では身分ある人の妻の名誉尊称

だ。あるいは婦人と仲むつまじく住む家という意だという人もある。

昭和六年は、蘇峰六十八歳、静子夫人と史料の山が同伴、毎目早朝より史筆を運んだ。

口々幾度か変化する霊峰富士は蘇峰の心を明鏡にする起死回生の妙薬だった。ここより数

粁離れたところに双宜園と称する自然林がある。九万九千平方メートル(三千坪)。富士

山麓電鉄提供のこの幽静な林間に小鳥と遊び、色とりどりの花の咲く湖畔に自然木の杖を

ひいた。好物の新鮮な沼津からの魚、地元の天野家の蕎麦を含み、夫人の心こもる手料理

で不足なき生活をおくった。

主な著述は、ライフワIクの「近世日本国民史」、この外「旭日丘漫筆」と題した

三十五回にわたった「東日」「大毎」紙上に発表した随筆風論説、既刊の「国民小訓」増

補版その他到底紹介しきれない。昭和七年作の清淡の詩

暁鴬晴処露華濃 湖畔低徊椅矩鈴

下界人間眠未起 天光燦映玉芙蓉

(節は杖)はこの間の心境を余すことなく伝える。

蘇峰の本邸は、東京大森山王草堂、別邸は熱海の楽閑荘、のちの晩晴草堂(清浦伯別

邸、米寿庵、昭和十八年より所有)、そしてここ双宜荘が蘇峰の修史、執筆、講演活動を支

える基盤となった。

蘇峰を山中湖に招いたのは、富士急行の初代社長堀内良平である。当時の山中湖は全く

未開発といってよく、富士急行株式会社発行の「富士山麓史」によれば、富士山麓土地株

式会社が山中湖畔に貸別荘二十三棟の建設をはじめたのが昭和二年、同四年六月にはその

うち三棟が完成した。この一棟を良平がかねて知遇の蘇峰に提供を申しで、蘇峰これに応

じたということである。古老によれば、このため警察は旭ヶ丘に駐在所を特設したという

双宜荘と道を隔てて、堀内良平翁頌徳碑がある。高さ二メ1トル以上、雄大な方形碑

だ。→今その下に立つと、木の雫と挨塵で黒ずみ、定かに読みとれぬが、蘇峰作、自筆の堀

内翁頌詩がある。「報国殉公七十春経営岳麓幾酸辛郷人頌徳安須異天下名山面目新」

堀内良平の富士北麓総合開発の雄大な構想と業績を称えた詩だ。この良平という人は、今

の富ゼ急行の開祖とも言うべき人。もとほ報知新聞の記者として警世の論陣をはったと聞

く。その頃からの蘇峰の知遇に答えたのだが、同時に地元の高村朝春(村長・初代都留貨

物社長)ら多くの協力者の力もあずかったこともつけ加えておく。

蘇峰は昭和三十二年、九十五歳で熱海において没したが、その後故人の遺志にょり双電

荘は母校同志社大学に寄贈されて現在にいたっている。

反骨の巨人

昭和年代の人なら、もうその名を知る人は少ないかも知れないが、今なお富士北麓に徳

富蘇峰が住んだことを誇りに思い、語り継ぐ人は多い。その一代の動きをおおよそながら

追つてみよう。

徳富蘇峰、肥後熊本藩士の家より出た。文久三年(一八六三)生まれ。本名・猪一郎。

父一敬は肥後の偉材だった横井小楠の教育を受けた社会教育家とでも言うべき人。その六

子の長男、四歳で「唐詩」を、五歳で「大学」を読んだという。十二歳で熊本洋学校に入

学した。この学校は米国から教師をよび、西洋機械の術を覚えさせた実学の指導者養成所

だが、この教師の感化でキリスト教に入信、のちに花岡山連盟という学内クーデターに参

加したことを契機に退学、上京した。

この後、又父母に無断で京都に移り、明治九年、十三歳で同志社に入学した。この時、

弟の健次郎を伴った。この弟は、のちの文豪"徳富蘆()花、今東京都管理の芦花公園

(世田谷区)がその住居跡。一般にはこの弟の方が今はファンが多いが、共に輝ける生涯

を送った兄弟だ。後年、蘇峰が国権主義を鼓吹する運動をはじめてから訣別状を送り(

花、黒潮序文)、結局、死の直前に和解はするものの、その自由な思想と行動は今も共感

を呼ぶ。

ともかく蘇峰は、同志社で生涯の師、新島裏を知り、そのキリスト教的刻印を植えつけ

られながら生涯の警世家としての出発をした

その初期の出世作とも言うべき「将来之日本」は明治十九年、二十三歳時の論説だが、

これは今読んで見ても今に通ずる説得力と内容をもっており、要旨は「我が邦が平和主義

をとり以て商業国と平民国たらしむる実践こそ我国家の生活を維持し国家の威勢を保つ唯

一の手段であると信ずる」と結んでいる。

デモクラシーを平民主義と訳し、「国民之友」により、この主義の国民的展開を考えて

いた時代である。

蘇峰はこの後、急に思想的に転向し、国権論者となった。米、英、仏、ソ、中国等わが

国をとりまく国際情勢の分析から、日清、日露戦後の実践的対応(遼東半島還付―日清、

ポ−ツマス条約−目露)から、軍備、政治力共に備わる国威の発揚を唱え、時には政治の

実践の場(松方内閣勅任参事官)にすら登場して論評を張ったため、かつての同志からは

裏切り者と攻撃され、蘇峰主宰の国民新聞は二度も焼き打ちを受ける破目になった。

しかしそのゆるがない信念と言論は、おいおい国民に再評価され、思想界の巨人として

の英雄的基礎は築かれていった。この思想は一貫して太平洋戦争にまで至る日本の言論界

の予言者、指導者として継続され、昭和初年は国民の大多数が敬仰する国賓的地位を確立

した。昭和十四年発行の「昭和国民読本」は実に七十万部以上を売ったという。

昭和二十年八月十五日、敗戦の日を蘇峰は双宜荘で迎え、痛烈深刻な苦脳の日がはじま

った。「蘇峰小伝」の著者、高木徳氏によれば、この日蘇峰は百年の筆を折ると宣言し、

自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」などと自虐的戒名を作り、あるいは自決を考え、あるいはや

がて予想される東京裁判で、堂々所信を開陳する覚悟を示す(緒方竹虎氏宛秘翰)など、苦

しむ巨人の実想を伝えている。

同年十二月、A級戦犯容疑者となり、老齢のための自宅拘禁。同二十二年解除後にそれ

までの栄誉昭和十八年文化勲章その他一切を返上して筆を折った。しかし昭和二十六年

からは未完のライフワーク「近世日本国民史」の執筆を再開、昭和二十七年(八十九歳)

遂に同著百巻を完成した。

蘇峰会、旭ケ丘生活周辺から

蘇峰を戦犯思想家として片づけるなら、太平洋戦争敗戦の日にその名は消え去ったに違

いない。しかし現在までその思想と人となりを慕う人は跡を絶たない。

早川喜代次(会津の人、弁護士、徳富家法律顧問)著にょって近年の動きを見よう。

蘇峰会は、戦前は銀座、民友社が本部、支部は全国に約四十、会員約一万人、終戦後一

時解散したが、昭和二十五年の蘇峰米寿には、一万田尚登氏が代表発起人となり、毎日、

朝日、読売三大新開社が後援で祝金を贈った。昭和三十二年十一月二日、長逝を契機に蘇

峰会が復活、全国各地で記念の会が続々開催された。四十年には、この会は財団法人にな

り、機関誌「民友」の毎月発行、教員の海外派遣、毎年命日の「毎歳会」開催等を事業と

して今に及ぶ。余徳今に人を動かすというべきであろう。

富士北麓の蘇峰に話を戻そう。山中湖「旭ヶ丘」や、毎年夏の花火の祭典「報湖祭」は,

蘇峰の命名だ。畏敬しながらも地元の多くの人が蘇峰を訪ね、その警咳(けいがい)に触

れた。蘇峰もこれらの人と気さくに良く会い、乞われればその漢詩揮裏などを与えた。前

述、岡田紅陽顕彰碑や堀内良平頌徳碑々文などはその代表的なものだが、この地には蘇峰

書を愛蔵する人は甚だ多い。

山中湖村「坂の下家」は三代に亘る旧家だ。冬ざれの逆白波が湖面を動く或る夕べ、同

家を訪ね、高村捷治、朝治父子から同家愛蔵の多くの蘇峰書軸を見せて頂いた。その中、

虚自筆と読める蘇峰肖像に自賛した一幅に目が止った。

長節短布白頭客

好個芙蓉峯下人

昭和庚辰十五年蘇峰七十八歳の善である。短布白頭ながら長生きし、富士の下に住む喜

びと自負をうたいあげた凛然たる書モある。蘇峰の書は中酎反骨の士、蘇賦(東波)のそ・

れに似ているという。号の蘇の出典もその辺に由来しているかも知れない。

堀内良平の有名人誘徴の緒、蘇峰山中在住は、その余沢として多くの文人、学者をこの

地に呼んだ。はげしい言論人でありながら蘇峰は画を好み、画家、学者を厚遇した。親交

のあった画家は、久保田米偲、平福百穂、川端龍子、小室翠雲、橋本関雪ら多彩だが、昭

和二十年前後、蘇峰のすすめや疎開などで山中湖に滞在していたのは、画家だけでも横山

大観、安田靭彦、堅山南風、山元桜月らの巨匠たち、この外学者、軍人らをも交えて、文

人村ともいえる輪の中で蘇峰と交遊していた。地元坂の下家で見た赤富士の大家、山元桜

月の画に蘇峰賛した画帖や、大観、靭彦、南風らの絵は、これらの交遊を物語るものだろ

うし、富士急行株式会社蔵する数々の富士の名画コレクションも、あるいはこの辺までル

ーッを辿れるかも知れないと思うと、この地のもつ特殊な絆(きづな)を思わずにはいら

れない。

意外と思うかも知れないが、蘇峰周辺の女性を少し述べよう。五女盛子、夫に先立た

れ、一子をかかえて自らも病を得て静養中だった優雅な歌人だった。父蘇峰はモの人を自r

ら背負って朝方の赤富士を見せたという。昭和十八年十二月一日に亡くなった。丁度その

同じ日、蘇峰が最も目をかけた女性秘書、八重樫末香も大塚康楽病院で死亡、共に四十歳

の薄命、蘇峰ほ一日で二人の親しい女性を失った。この東香女史との書簡集は、「徳富蘇

峰翁と病床の婦人秘書」と題して出版されているが、この老いらくの恋などとも騒がれた

位の天衣無縫の人間らしさも、今なお人の心をとらえる一面かもしれない。昭和二十二

年、苦楽に耐え抜いた妻静子にも先立たれるが、賢夫人の誉れ高き人であった。昭和二十

六年、蘇峰のたっての願いにより、近世日本国民史百巻の終末部を完成させるため献身し

た最後の女性秘書、藤谷みさおは、甲府市養護老人ホーム和告寮で、蘇峰を偲びながら余

生をおくリ、尚「文上達の法」を執筆などしていたが、昭和五十九年亡くなった。

昭和三十二年、九十四歳の生涯を終えた徳富蘇峰の山中寓居「双宜荘」は、その自ら命

名した旭ヶ丘の中心に同志社大学寮となって往時の外観そのままに静かに息づいている。

日本を代表する観光、レジャーの地に変ぼう発展した今の旭ヶ丘を、しかし地下の蘇峰

はどのように見ておるだろうか。そんな歴史はもう全く知らぬ若者たちが、今日も双宜

荘周辺に溢れて湖面はカラフルなョットの群れが風におされ、道は延々と続く車の洪水

である。

西暦年齢

文久3(肥後ハ熊本)国杉堂村生まれ。本名・猪一郎。徳富家は水俣村の代々

総庄屋。父は熊木藩出仕。維新後藩県政参画

明治6年熊本洋学校入学。年齢不足で退学。明治八年再入学。

明治9年花岡山盟約に参加、洋学校退学。上京、後京都新島裏の同志社に入学。

明治13年学級合併に反対、卒業前に同志社退学。上京、岡松婆谷塾に入る。

明治14年熊本で「東肥新報」編集。

明治15年自宅で大江義塾を開く。

夏、上京、中江兆民、板垣退助、福沢諭吉と会う。

明治17年倉園静子と結婚。

明治19年「将来之日本」刊。文名を知られる。大江義塾閉。上京、赤坂霊南坂

に居住す。

明治20年民友社を設立。雑誌「国民 之友」創刊。「新日本の青年」刊行。

明治23年新島裏死す。目民新聞」 発刊。長男・太多雄生まる。暮、氷川町勝

海舟邸内転居。 "

明治25年「家庭雑誌」刊。ニ男・万熊生まる。

明治26年「吉日松陰」刊。

明治27年日清戦争、広島大本営で特派員。「大日本膨張論」刊。

明治28年雑誌「英文極東」刊。

明治29年外遊。。ロンドン、ォランダ、ドイツからロシア、十月トルストイを

訪ね。

明治30年帰朝。七月、松方内閣勅任

参事官。

明治31年政治参加を指弾され「国民之友」「家庭雑誌」「英文極東」廃刊。

明治36年弟蘆花「黒潮」出版。序文に「蘇峰家兄に与ふる書」を書き、訣別の

意を表す。

明治38年政府の対露講和を支持、国民新聞社焼打ちさる。

明治43年京城に赴き「京城日報」監督。

明治44年勅選貴族院議員。

明治45年「明治天皇御宇史」構想、展して「近世日本国民史」となる。

大正2年桂太郎の政党創立に参画。

国民新聞社再び焼打ちさる。

大正7年七月から「近世日本国民史」の「国民新聞」連載はじまる。

大正11年自邸を開放、青山会館設立。一家、大森山王に転居す。

大正12年「近世日本国民史」七冊に より、帝国学士院恩賜賞。九月、関東大震

災で国民新聞社、民友社全焼。

大正14年帝国学士院会員。

大正15年国民新聞新社屋完成。

昭和2年病中の弟蔵花を伊香保に見舞い和解。蘆花死去。

昭和3年宮中御講書始に「神皇正統記」を進講。

昭和4年国民新聞社の経営権が根津 嘉一郎に移ったので引退し、東京日日、大

阪毎日の社賓となる。

昭和5年青山会館で蘇峰会発会。

昭和6年富士山麓双宜荘で夏をすごすようになる。

昭和10年「蘇峰自伝」刊。

昭和14年「昭和国民読本」刊。七十万部売れた。

昭和17年「宣戦の大詔」刊。ロ本文学報国会会長になる。

昭和18年文化勲章。

昭和20年終戦を山中双宜荘で迎え

昭和21年戦犯としてMPが逮捕に来たが老衰のため自宅拘禁。公職追放者指

定。隠居。三月、市"谷東京裁判法廷で宣誓供述書が朗読された。

昭和22年戦犯容疑解除。妻静子死亡o

昭和27年追放解除。この年「近世日本国民史」百巻を脱稿した。

昭和32年十一月ニ日、熱海の晩青草 堂において没した。

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