一徹なその生涯

河ロ湖町の生んだ文人は多いが、渥美芙峰(あつみふほう)という名も、中村星湖らと

並ぶ輝ける星の一人だ。そしてこの人も旧河口村がその生誕の地である。

筆者が芙峰の名を知り、興味を覚えたのはその死後、昭和五十年十一月、河ロ湖町文化

祭特別行事「渥美芙峰展」を見てからである。水墨風濃淡の筆致に淡彩をほどこし、官展

系のような精緻()な定型でなく、さりとて俳画風な酒(しや)脱とも違う、あまり見たこ

ともない一見しろうと文人画風で、しかし観ているうちに作者の人柄が絵と連動してくる

ような独特の絵、一体どういう人の絵?が最初であつた。

そしてこれが、芙峰流という一門の絵で、しかも芙峰独自の短詩追求という文化運動に

支えられているグルーブ11「文は人なり会」11の作品群だと分って改めて一驚した。

年譜によって大凡の生涯を追ってみよう。

渥美芙峰。本名・守雄、旧姓中村、渥美姓は昭和十七年(四九歳)から。明治二十六

年、河ロ村(現。河ロ湖町河ロ)生まれ。父・中村融蔵、母・すゑ。八歳の時、母死亡に

より小立村の伯父、誉田義英方で養われた。船津尋常高等小学校を経て、明治四十一年山

梨師範学校予科に入学したが、一年で退学、翌年市立甲府商業入学、首席卒業後東京高商

(現・一橋大)に無試験で入学した。甲府時代の恩人に故若尾謹之助氏(若尾育英会より

学資をうける)や、大沢伊三郎氏らがいた。東京高商の保証人は中村星湖。大正八年、二

十六歳時、渥美豊と結婚、翌年長女初江が生まれた。この人は後の芙峰会の最も熱心な協

力者で、父の片腕になった。又この年、東京で旭印刷株式会社を創立、あるいは商業学校

の講師となり簿記の本を出版するなどして事業に専念した。従って、この時代は後年の画

家、詩人になるなどは本人も思っていなかったという。人の世はふとしたことがきっかけ

でその方向を変える。昭和七年、如水画談会(一橋大同好会)で日本南画院。岸浪百州

()居に画を学んだのがきっかけで、画三味に入り、昭和十年(四十二歳)には第一回個

展を行っている。しかし、その後十年位は絵筆を絶つ心境があり、再び画心が動いたのは

終戦の年昭和二十年であった。

一方、昭和二十一年「文は人なり」を創刊、これは後に「短詩と重」となるが、月刊、

延々、死後の三百三十一回(昭和四十八年)で終意するまで欠刊なく続いた。この中で、

芙峰は絵の外に従来の定型の俳句、短歌、詩を排し、「物にあるべき相あり」「愛は価値な

り」「人類永遠の幸福念願」等をキャッチフレーズに天衣無縫の芙峰短詩を発表しながら、

一面思想家とも思える活動を他を顧みず一途に貫き通した。

昭和四十年、第一回の脳血栓発作、以後再発を繰り返し、右片麻痺、晩年は左手で絵筆

を持ち乍ら、旺盛な芸術活動を続けた。昭和四十三年には長女初江と共に米国国際大学よ

り文学博士号を贈られ、昭和四十四年には、河ロ湖畔梨宮公園に「短詩宣言碑」が建立さ

れる等輝かしい業績の末、昭和四十八年永眠した。

この年の秋、長女初江も後を追うごとく永眠した。

芙峰の作品ほ、昭和四十九年、芙峰会を通じて作品を百七、軸、色紙、短冊二十三、蔵

書、著書、貴品を含め、ほとんどを河ロ湖町に寄附、現在同町中央公民館に蔵されてい

る。

・文は人なり

芙峰は一橋時代、定型俳句の道を歩いた。即ち高浜虚子の「ホトトギス」に入門、更に

飯田蛇易の「雲母」に移り、同人となった。次いで原石鼎(てい)の門に入り、課題句の

選者をもつとめたというから、俳歴からいっても本格派に入るがユ同時にこの遍歴の道程

を見てもわかるように、常に類型の中では満たされぬものを求めて苦悩していたことが分

かる。

結局五七五と季題の制約の中での表現に疑惑をいだいて離脱し、彼自身の言う俳詩(

に短詩と改めた)、一呼吸の間の短い言葉で美を表現する形式を創造した。昭和二十一年

ごろである。 ・、

芙峰の言を引用しよう。

「短詩宣言といっても別に難しいことではない。短い言葉で美を表現することだ。今

までも、和歌、俳句の如く一見それに似たもの、近かったものもあった。短詩はそれと

違う」というのである。

数百年の歴史を有する定型からの独立宣言、否、勇にして壮なる挑戦でもある。自ら

も「竜車に向かう嬉卿(とうろう11カマキリ)の如き」とか「野中の一本杉」などと言

いながら静かにしかも酒々とその説を貫き通した。

その主張の場が、機関誌「短詩と重」であり、その信念は前にもいった「物にあるべ

き相あり」をはじめとする真・善・美への全人格的な追求や、人類永遠の幸福につなが

るという悲願に支えられていた。芙峰は短歌や絵画の作品を生品という語を独創し、厳

格に趣味道楽と区別した。

その態度が余りに厳しく、また芸術自体の目的性から離れた二次的効用(人格形成・人

類の幸福等)を教祖的に主張しすぎるとして、多くの門弟が党をくんで離れていったこと

もあったという。それでも屈せず、一時は「幽霊になってやる」などと激高したことも

あったというが、むしろ淡々として「諦めてほいけないいけない天行は健なりぞ」(芙峰

の代表的短詩生作)を自戒ないし信条として去るものは追わなかつた。

芙峰門の主要な部門、芙峰流絵画について述べよう。前述のごとく、芙峰は岸浪百草居

に南画を学んだが、定型の筆致は下手でものにならず、言われるままに筆先で器用に画

かず対象物に取り組んで、見えるまま感ずるまま自己を投入した。ごまかしなしに筆を

運ぶ写生を行った結果、思いがけず天性の才も開眼し、これが芙峰絵画の発端だという。

芙峰は言う。「この態度の写生ほ生品が清純でふくよかで生命感を覚える。これは誰が

画いても一様だ」

今、芙峰画を見ると、筆の運びを直筆、圧筆、遅筆と区別する技法の上にたって、心を

澄まして描いた息づかいが、淡彩透明の中に在るべき自然の相としてとらえられているの

を感ずる。 芙峰は昭和二十七年、第一回芙峰門展を新宿三越で開いて以お、昭和四十八

年銀座三越での第二十二回展まで、すべて三越を会場とし、この恩誼のため他の会場で

の個展の要請を一切辞わったという。この義理固さ、また「文は人なり会」の月謝や謝礼

等は一切取らず、機関誌「短詩と重」には毎号「温い心集」として一門の通信一切を掲載

する等の弟子思いのため、門弟の信頼尊敬厚く、全国に支部を多く持ち、その会員は二千

人を数え、芙峰亡き現在も、「芙峰画展系」として東京新宿区中井に事務所(数原俊治方)

を持ち、日本画壇で特殊の活躍を続けている。

伝統派の俳人、画人にとっては、あるいは異端者かも知れないが、己の道を一すじに追

求し続けたその生涯は、清く猛々(たけだけ)しく又すがすがしい。

短詩宣言記念碑

芙峰とその長女初江が、米国国際大学から文学博士号を贈られたことは前に述べた。芙

峰の論文「詩歌に於けるリズム論」より芙峰のリズム論の一節を紹介しよう。

「詩は芸術作品であるからリズムが必要である。詩のリズムは意味としての強弱、緩

急、深浅、大小、濃淡、硬軟、長短等で、音声上の音楽のリズムとは峻別する必要があ

る。短詩は一呼吸で言い果すものだ。」。

門弟の内田越乃(故内田常雄氏夫人)によれば、

「絵は誰にでも描ける。物の美しさを対象として真剣にとりくめば、いつの間にかまこ

との絵がそこに表われるーという理論とその指導法の発見が、博士号を授与された理由

だ」と言う。一説では、芙峰流の水墨淡彩の画風に対して、「最も東洋的な作品だ」とし

ての評価だという人もある。初江への授与はその評価の方が比重が高いかも知れない。

この祝いを記念して、かねての念願であった「短詩宣言記念碑」を建てようという話が

芙峰会門弟の中よりおこり、場所は出身地の河ロ湖畔をおいて外にほないと衆議一決し

た。数原俊治氏を代表とする門弟側の主力メンバーが強力に推進し、地元がこれに応じ

た。地元側は、小立村小学校同級生及び井出葵己郎、西村三次郎、親戚の高橋代司、誉田

義澄、誉田豊男、町長・井出公済諸氏ら、中でも同級生の小佐野正雄氏は中心になって活

躍、これらの賛同者の熱意はこの年、半年間の間に懇談会、地鎮祭、除幕式の三つの大行

事を多くの人を集めてやってのけた。

第一回の河口湖準備懇談会は、昭和四十四年五月、河口湖畔レ1クホテルで開催、中村

星湖氏ら約四十人が出席した。実はこの会は、地鎮祭を兼ねて行われる予定だったが、当

初計画の産屋ヶ崎芭蕉翁碑隣りの地が、土地所有者と話しあいがつかず、急拠中止、懇談

会のみとなった。

結局、町長井出公済らの骨折りで、梨宮公園敷地内に建設地が決まり、地鎮祭が改めて

行われたのは同年七月六日。以後工事は順調に進み、同年十二月二十六日盛大な除幕式を

もって完成した。当日は前日来の大雨が名残なく晴れ、富士を仰ぐにまぶしくて眼をしぼ

るほど、芙峰は慣れぬモーニングの襟をなおしつつ、感激の挨拶の中でしばしば声をつま

らせた。

先生は天気運がいいからと数原さん言える

―芙峰―

これはその日の芙峰作短詩だ。富士の丸尾熔岩を鳴沢村より、東京からは新鞍馬石を運

んで基礎となし、

碑石は日向高千穂の赤石、深く刻まれた短詩は、代表作

諦めてはいけないいけない天行は健なりぞ

裏碑文は、芙峰親戚の九十五翁高橋代司が揮皇した。

筆者が碑を訪れた日、河口湖ほ全面結氷し、白銀の湖面にはわかさぎの穴釣りを楽しむ

カラフルな人々が群れていた。敷地も、深く刻まれた文字にも雪が凍てついていたが、赤

石の表は滑らかに輝いて何かを語っているようであった。その声は

生かされている健かに生かされている私は ―芙峰―

とも聞きとれた。

渥美芙峰 年譜

明治26年山梨県南都留郡河口村に生まれる。父・中村品蔵、母・すゑの二男。本

名・守雄。

明治34年母・死亡。小立村伯父誉田 義英方に養われ、小立村小学校に転校。

明治37)船津村高等小学校入学。

明治41年山梨県師範学校入学するも 退学。

明治42年市立甲府商業学校入学。

大正2年東京高商ハ(現・一橋大) 無試験入学。若尾育英会より学資をうく。

大正4年ホトトギス句会に出席。高浜虚子、飯田蛇易、原石鼎らを知る。

大正7年東京高商専攻科入学。保証人中村星湖。

大正8年明治大学附属商業講師。

渥美兵太三女・豊と結婚。

大正9年東京旭印刷株式会社創立、

専務取締役。長女。初江誕生。

大正12年長男。秀雄誕生。東京高商専攻部卒業。

大正13年東京保善商校講師。

昭和5年「複式簿記の理論」出版。

昭和7年如水画談会に出席。日本南画院・岸浪百州居に画を学ぶ。

昭和10年第一回芙峰個展。

昭和16年明治大学講師(簿記会計)

昭和17年渥美姓となる。初江結婚。

昭和18年明治学院商高部講師。「芙峰庵だより」を出す。秀雄早大入学。学徒

兵として出陣。

昭和20年層らく筆を絶った絵心が動く。養母死亡。大東亜戦終了。

昭和21年「文は人なり」創刊。「俳句維新の峰火」出版。

昭和23年「俳句の生れる原理と鑑賞の諸問題」出版。秀雄戦死の公報来る。

昭和25年俳詩宣言

昭和27年第一回芙峰門展を新宿三越で開催。百川居先生逝く。

昭和30年第一回俳詩の会開く。全国各地に芙峰会が誕生。

昭和31年現代一流美術家名士作品即売会に「焚火」出品。

昭和32年第一回渥美初江個展、米人 門弟アドラー個展のほか全国各地で芙峰門

展が開かれる。

昭和36年河ロ湖で新雪不二を写生。

甲府商業高校創立60周年記念に「迎日不 二」を寄贈。

昭和38年「文は人なりき第百回俳詩会開催。アトリ1元英国首相夫妻を晩さ

ん会に招いた。

昭和40年脳血栓発作、右手不随となるo

昭和43年「詩歌に於けるリズム論」により米国国際大学から文学博士号をおく

らる。初江も同じく文学博士をおくらる。

十二月、文学碑建設委員会。

昭和44年五月短詩宣言記念碑建設準備懇談会(河口湖)、七月地鎮祭、十月建

設完成、除幕式開かる。

昭和45年日本万国博政府館貴賓室に不二に桜」出展。九月脳血栓再発。十二

月短詩宣言記念講演会。

昭和48年八月永眠。十月初江永眠

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