その生涯

新免一五坊、明治三十四年より約四年、富士北麓に住んだ正岡子規門下の俳・歌人。桂

川の清流で捕った山女(やまめ)を子規におくっておおらかな明治の郷愁を今に伝える人

o

「病休六尺」は子規が病跡から一日一信、新聞「日本」に送った随筆風の短信。明治三

十五年五月五目から病没前々日の同年九月十七日まで続いた。その第九十九回「おくられ

しものくさぐさ」の連載中、「やまめ三尾は甲州の一五坊より」として

なまよみの、かひのやまめはぬばたまの夜ぶりのあみに三つ入りぬその三つみなを

わにおくりこし

という類の少ない形式の長歌が載っているが、これを子規に詠ませた人だ。

本名・新免睦之助。一五坊はその俳号。睦のムッを分けて一五坊としたのだろう。作

州・岡山県英田郡大野村川上(現・大原町)に明治十二年出生、代々庄屋や酒造家だった

旧家の出。かの剣豪・二天宮本武蔵(幼名新免弁之助)は作州美作の人。この新免同系の

一門と聞く。十三歳で上京、神田中学院・国語伝習所を経て小石川哲学館を卒業(十八

)し、十九歳で初めて子規を根岸庵に訪ねた。

明治三十二年十月、早くも子規から来信、菊十句会幹事を担当tた。根岸庵門弟には高

浜虚子、桃沢茂春、赤木格堂、岡麓、河東碧梧桐、やや遅れて伊藤左千夫、長塚節らがい

た。

子規は明治三十一年有名な「歌よみに与ふる書」を日本新聞に発表、短歌、俳句の革新

を唱え、それに傾倒した一五坊はすでに同紙子規選に投句していたので急速にこれら一門

の弟子と同格で子規に重用されたものであろう。

明治三十二年十二月二十四日、上根岸子規庵で開かれた「蕪村忌」の写真が残ってい

る。総数四十六人。中央子規、その左隣りに浩然と胸を張るのは一五坊、中に内藤鳴雪、

碧梧桐、虚子、・中村不折らも見え、当時の和服姿の多い風俗を偲ばせる。

風呂吹の一きれづつや四十人

その日の子規の句。大根一切れながら活気溢るる貴重な写真だ。

一五坊は医を志し、明治三十二年、目本橋数寄屋町一、長井医院に書生として住み込

み、医を学ぶ一方文学活動を続けたが、明治三十四年初頭、山梨県南都留郡明見村(現・

富士吉田市)永島医院に転居した。どのような経緯で明見村に来たかは分からない。明治

三十四年二月、父和太郎死去、同年三月十二日明見村一五坊宛伊藤左千夫より

挽歌を添えた弔文の手紙が現存する。この不幸で学資続かず医師志望を断念したようだ

が、兎も角この年から約四年間明見村及び谷村町、忍野村に在住した。

明治三十八年(二十六歳)一五坊ほ兵庫県佐用郡佐用村、藤木かたと結婚。この年か

ら藤木姓を名乗った。大正二年まで同地の小学校四校程に奉職、この年(三十四歳)

北海道網走郡美幌村第二活汲小学校長として渡道。以後昭和八年五十四歳で上美幌小学校長を

退職帰郷するまで二十年北海道で暮らした。帰郷の途次東京に虚子を訪ね、甲州明見、忍野に

立ち寄って旧交を温めた。

一五坊は昭和十六年、兵庫県甲南病院で病没(六十二歳)したが、筆者は最近東京で病を養う

一五坊のおいの上代暗三氏(註・昭和五十九年五月二十二日亡くなった)を通じ貴重な一五坊資

料を託された。それは津山市の藤井啓子氏が昭和四十五年にまとめた一五坊の句集「流れ星」

の全草稿である。これは昭和十一年から十四年に至る

郷里大原町の朝霧吟社を指導しながら句作した二百二十句に会員の句評を添えたもので、

最晩年も一五坊は句作及び俳句指導を行ったことが発見された訳である。

この実績の上で昭和四十四年、出生地大原町に句碑

流れ星心耳すまして見送れる

昭和四十七年、佐用町に歌碑

うつせみの世人うたげに発句もして

神かくれせし君を恋うかな

が建立され、郷土佐用の生んだ子規門下の文人として敬仰されている。本文はその賛仰の

一翼を富士北麓で担おうというのである。

一五坊とやまなし

一五坊が明治三十四年から住み込んだ富士北麓明見村・永島医院の主は医師永島金太

郎。後、下吉田に移り更に北海道羅臼に渡って亡くなった。現在富土吉田市に歯科医を開

業する永島貴典はその五男。新倉堀抜で有名な元長を生んだ富士北麓郷の医の名門・永島

家の分家だ。永島医院跡は現富士吉田市大明見浅間神社東南の向う山付近。

この事実を確かめた先輩の記録がある。昭和二十三年、中村星湖、大森義憲、柏木白

雨、武藤武雄の諸氏が武藤宅に一泊して一五坊調査を行った。今同家に残る寄せ書に星湖

の歌

一五坊の跡弔うとわが来たる―

明見の村の春の夕暮

が見える。

この時、子規に送った山女は忍野でとり、御殿場経由東海道線で運んだろうということ

になった。大森義憲の歌に

一五坊新名庄河の山女魚手づかみに徒歩にて谷中訪ねか行きし

がある。新名庄川は今も忍野にある川の名だ。しかし一五坊が子規に山女を送ったのは明

治三十五年、この時は明見に住んでいたことは騰かなので定かなことは分からぬが多分明

見村付近の桂川の夜振りの網の山女ではないだろうか。

故柏木白雨はこの地の俳人、文化活動の草分けみたいな人だが、父緑節も俳人だった。

子規の病休六尺を読み、一五坊を知っていた白雨は、或る目、父から「一五坊は私の友達

だった」と聞かされ吃驚、身近なところから強烈に明治を回顧する。

昭和八年村の青年団長の役が回って来た自雨は、引き継がれた離計の底から煤けた明治

三十四年から三カ年位の古い資料を発見した。一五坊が指導した青年会の名簿や討論会の

記録だった。「吾人ハ社会ノ先覚者タラン」などの条文を入れた規約や役員選挙のこと、

夜学会(読書、算術、作文、習字)月謝十五銭など、先生は勿論一五坊だ。これを発見し

た白雨はその新鮮な驚きと喜びを昭和三十七年発行の富士吉田市立図書館発行機関紙「は

まなし」に寄稿している。「酒と煙草の利害」などと易い題を選び、弁論練習のため青年

たちに論戦させ、その内容を一五坊が句にした面白い記録がある。

春の夜や秘密を明かす酒の酔…治里君

詩百篇桃咲く宿に酔李白…友尚君

つまりどうしても酒は毒なり納豆汁…孝治君

月見船すてておかれぬ酒の酔…民吉君

面目なな酒害論が圧倒的勝利だ。

藤木敏子(一五坊二女)は今大阪豊中市に住む。筆者に一五坊資料を多く提供してくれ

たが、それに拠り県内で一五坊と親交あった文人たちを紹介しよう。加々美岸松(英玉)

(谷村)、神奈桃村(口下部)、堀内柳南(身延)、依田九平(曲川)(身延)、有泉米松(市川

大門)、古屋晃(夢拙)(南八代)、上小沢潜(吉田)ら。これらの人達との多くの往復書簡

は当時の県内の文学活動の一部を知る貴重な資料だ。

活動の主なものを列記しておこう。一、山梨文学大会 明治三十五年八月、甲府相生町

小松屋、発起人・柳南、岸松、桃村、一五坊、御嶽散索の歌人、俳人大会のようだ。二、

笛吹川文学会、機関誌「笛吹川」(神奈桃村編集発行)ヘの選句、投稿。三、「白雛」(古屋晃

編集)への投稿(但し明治三十七年忍野村新免睦より古屋宛同人辞退の葉書がある)。四、明見

文学会、明治三十六年

あだ花のなきうれしさよ茄子の花−坊

などが残っている。この資料には石和町、中村良一氏より頂戴したものも含まれる。

南都留郡忍野村在住は、明治三十七年、一年に満たぬ短期のようだ。同村三浦澄江

の請いに応じて同家の離れに住んだ。学問あり、字のうまい青年一五坊の許に三浦

潜済、三浦晴海ら塾生十数名が集った。一種の村塾だった。その時の教材とも言うべき坊

書、睦書が潜済(現庄済氏宅)にある。モロコシ焼餅を喜んで食べ、服装もかまわず、魚

とりの名人で、竹馬を作り子供と遊んだ等、美談、逸話が同村の米山聖夫氏記録として残

っている。

子規。・左千夫。節と

一五坊の生涯の文学活動で最も光彩を放った時期は、明治三汁一年から三十八年頃まで

と短い。このことは二女藤木敏子が「父は藤木家へ出る決意をした時、文筆を絶つ気では

なかったかと思う」と言う如く、作歌、句作共に急に衰え、交流あった人とも疎遠になっ

た。

しかし子規を除いて現代の短歌、俳句否文学が語れない中で、その初期の根岸短歌会の

同人に一五坊がおり、その光彩期の後半のほとんどを富士北麓で過ごしたことは疎かに出

来ないことである。

一五坊については昭和四十一年「アララギ」五・六月号に土屋文明、藤木敏子、上代暗

三の三氏が子規門での活動を詳述しているのでそれに拠って文を進めていく。

子規は美作から来た青年一五坊を殊更目にかけたらしい。明治三十三年六月、岡麓宅円

遊会。子規も病躯をおして出席した。その時の子規即興の歌に

茂春節一五坊不可得四つの玉飛びてあたりて砕けて散りぬ

がある。節は長塚節、・不可得・姓は和田、同郷美作の人、性海僧上・後の高野山大学長、π

一五坊の案内で子規を訪ね又一五坊藤木家入籍の仲人だった人。子規門下の溌刺と行動す

る四人の若者を心持ちよく見守る歌だ。

今二女敏子宝蔵する「財布賛」は子規病中仰臥の書、一五坊が紙を保持したという。子

規はこれを彼に与へ、長塚節、伊藤左千夫が盗んでも入手したいと言い、一旦節の所に行

ったが、結局一五坊が落手したといういわく付きの絶品だ。子規は明治三十三年、「雨中

庭前の松を見て作る」として

松の葉の細き葉毎に置く露の千露もゆらに玉もこぼれず

以下有名な十首連作を発表したが、折から居合せた左千夫、茂春、格堂、一五坊、岡麓ら

に天地人の点をつけさせたなどという記録も一五坊の子規門下での地位を物語るものだ。

子規門下とその交友関係で一五坊と最も親交があったのは伊藤左千夫と長塚節である。

一五坊宛左千夫書簡は今七通程残っている。そのいくつかを紹介しよう。明治三十四年一

五坊宛父死亡に対する鄭重な弔文、挽歌

よもつくにの道の長手をよろづたび

かえりみすらむ旅の子ゆえに

が添えてある。明治三十五年は痛ましさ限りなき子規病状の報告文、「週報応募に君も骨

折り給え、一朝先生世を去り給はばいかに恋ふるともすべなかるべく候」。同年九月子規

逝く。同月書簡、「只今より益々奮励先生御生前の精神を守り、歌の上で成功を期する覚

悟重要」等交友の深さと当時の事情を偲ばせる。

左千夫の山梨の足跡は岡千里らの縁で明治三十七、三十九年来甲、同四十四年山中湖を

訪れ「三日月湖にて」の連作もあるが、これらに更に一五坊との縁を書き加えておかねば

なるまい。

長塚節との交流を物語る書簡は三通現存する。前述子規「財布賛」の所有権?をめぐ

るやりとりは面白いが詳述出来ぬのが残念だ。明治三十六年二月、茨城県岡田村、長塚節

宛、甲州明見村一五坊書簡は長文だが弱冠二十四歳、意気盛んな歌論だ。大意は「昨今の

短歌悉く万葉模倣、斬新なものなく詞、想、調も万葉の再生乃至それ以下、根岸派短歌は

万葉の精神を採って明治の歌を作るにはあらずや。子規先生を見ても万葉模倣を止め明治

の特長を現した。先生没後又元に帰り万葉の古城にたてこもった」論鋭く節を説得する勢いだ。

節は山梨県八代歌会の招きで明治三十八年来甲州、古屋晃宅に泊しているが、それ以前

一五坊と交流のあったことも書き留めておく必要はあると思う。

一五坊の由縁で作られた子規「やまめの歌」の歌碑は地元の文人柏木白雨によって現在

官土吉田市桂川畔に建てられている。これについては碑文揮裏の土屋文明を次稿に予定し

ているので更にそこで述べることとするが、碑裏に「一五坊と桂川のやまめの記念のため

に」と白雨によって誌され、今にその名を伝えている。

新免(藤木)一五坊年譜

明治12年岡山県英田郡大野村川上に出生。父・和太郎、母・こぎのの二男、睦

之助と名付けらる。

明治25年神ロ中学院に学ぶ

明治26年国語伝習所に学ぶ

明治27年哲学館予科に学ぶ

明治28年東京小石川哲学館本科教育部入学。

明治31年正岡子規を根岸庵に訪ねる。

明治32年根岸短歌会に出席。日本橋長井医院内に住む。子規より来信。菊十句

会幹事。十二月根岸庵蕪村忌出席。

明治33年根岸短歌会で初めて伊藤左千夫に会う。岡麓宅円遊会に子規と共に出

席。「茂春節一五坊不可得四つの玉飛びてあたりて砕けて散りぬ―子規」

明治34年父和太郎死去。山梨県南都留郡明見村永島医院に移る。父死亡につい

て左千夫より挽歌を添えた弔文の手紙あり。

明治35年子規病床で一五坊のため財布賛」揮裏。一五坊病床子規に「やま

め」をおくり、その長歌ハ本文参照)が病妹六尺」に載った。八月、山梨文学大

(一五坊発起人)、九月、正岡子規逝く。

左千夫、長塚節と書簡往復。

明治36年明見で文学会。六月、根岸短歌会機関誌「馬酔木」創刊。この年一

時、谷村巴沢医院に移り、のち忍野村三浦澄江方に住む。

明治38年八月、兵庫県佐用村、藤木かたと結婚、甲州を離れ、藤木姓を名乗

る。

明治39年佐用郡江川小学校に奉職。

明治41年同郡長谷小学校奉職。

明治44年同郡広業小学校奉職。

明治45年同郡幕山小学校奉職。

大正2年北海道美幌村第二活汲小学校長として渡道。伊藤左千夫逝く。

大正4年長塚節逝く。

昭和6年妻かた死去。前年長女・秀子、この年四女。愛子死去と肉親の死が続

いた。

昭和7年次女藤木敏子東京遊学を終え、岡山市山陽高女に奉職。

昭和8年上美幌小学校長退職。

昭和9年郷里に帰住。帰途東京に虚子を、明見村に旧友を訪ねた。その後朝霧

吟社に拠り、同好の士と俳句をたのしんだ。

昭和16年兵庫県甲南病院で逝く。佐用町長尾大撫山麓に葬る。

追記

昭和44年岡山県英田郡大原町川上霊山寺境内に句碑(水文参照)建立除幕。

昭和47年佐用町朝日丘に歌碑(本文参照)建立除幕。

昭和54年山梨県富士吉田市深山桂川畔に、子規「やまめの歌」歌碑(土屋文明)除幕。

二女藤木敏子、出席。

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