輝かしい業績と黄木荘

日本短歌界の大主流「アララギ」は、明治の和歌俳句革新を提唱した正岡子規の「根岸

短歌会」に源流を発する。子規没後、「馬酔木」(あしび)「アカネ」の時代を経て、創刊

は明治四十一年十月、以来七十七年、この門からは、幾多の大歌人、伊藤左千夫、長塚

節、島木赤彦、斉藤茂吉、中村憲吉等が輩出したが、最長記録、九十六歳の現在、なお

「アララギ」の総帥として活躍、尊仰を一身に集める不世出の大歌人は土屋文明である。

「アララギ」初発表の歌は、明治四十二年九月、同誌第二巻一号

この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず

以来七十五年、現在まで「アララギ」に出詠を欠かさない。

歌集は、処女歌集「ふゆくさ」(14)以来、「往還集」(5)、「山谷集」(10)

「六月風」(17)、「少安集」(18)、「韮青(かいせい)集」(21)、「山下水」

(23)、「自流泉」(28)、「青南集」「続青南集」(42)、「続々青南集」(48)

「青南後集」(59)と続く。

所収歌数は、青南後集を除いても九九七八首、歌集のほか、畢生の大著「高葉注私注」

全二十巻を初め、「萬葉紀行」「続萬寿紀行」「萬葉集入門」「短歌入門」「短歌小径」「伊藤

左千夫」等を含め、膨大な著作群が、つみあげてきた長い経歴を物語る。

以上著作のほかに、歌人土屋文明の功績は、「アララギ」及び新聞等での「文明選歌」だ。

「短歌は生活の文学だ。生活の表現などというようなまぬるいものでなく、生活即文学

だ。短歌は選ばれた少数者p文学だが、少数有閑者の具ではなく、一人の英雄、スターを

予想しない、真剣な生活者、広い意味での勤労者の文学、勤労者同志の叫びの交換だ。」

(土屋文明論文、「短歌の現在及び将来について」より抜すい)

この指導理念と激しい情熱を注ぎこんだ「文明選歌」の下で、多くの無名作家が勇気を

与えられて励み、戦後歌壇の一典型であるおびただしい作品群が誕生した。

旅行者としての山梨の文明足跡は古いが、昭和三十八年からは山中湖畔旭ヶ丘別荘で夏

をすごすを恒例として二十年に及んでいる。黄木荘(オウボクソウ)と呼ぶ。黄木は黄奨

(オウバク)つまりキハダだ。名付け親は「バアさんですよ」と歌人言うテル子夫人だ。

キハダ、ミズナラ、ミズキ、富士桜、山椒等が群生する自然林の中の質素な二棟続きだ。 "

この荘からは、富士も山中湖も直接には見えないが、万葉を究め、植物について驚くベき

該博な知識を持つこの大歌人にとっては格好の住み処だ。

黄木荘を山中に建てたのは、長男、土屋夏賃である。この人について少し語ろう。

彼は大正十一年生まれ、医博、旧制松本高校を経て、千葉医大卒。昭和三十三年より

同三十八年まで富士吉田保健所長、後厚生省入り、次いで京都衛生研究所を経て、昭和四十

八年、京都府衛生部長に進んだが、在任僅かで、同四十九年六月病没した。吉田時代、筆者は

医の仲間として、公私共に親しく交際したが、温顔、一面勇気ある峻厳な名所長だった。

昭和三十六年、富士吉田市内にポリオ患者二名が発生、市民は恐慌した。当時のポリオワク

チン、ソ−ク1.0ミリリットル皮下法は高価で予算なし、その際土屋所長は厚生省定法な

らぬ0.1ミリリットル皮内法を実施、人心を収撹した。夏賃逸話の一つだが今もこの地に

土屋所長を懐しむ人は多い。

厚生省時代、有名な千葉大チフス菌事件が発生、夏賃は担当官として真相解明の為、こ

こでも勇気ある行動をした、当然、肯う者否む者あり渦中の人となった。父文明の歌に

(あげつ)らふ者は論らへ職にあり職をつくせる彼ほわが子ぞ (51)

以下三首がある。

.汝がことも夢に見るまで距たりて或は楽し夢の中の遊び厳しく育て何を求むとはあらざりき

我より先に煙と立ちゆく (55)

夏賃死後六年、父の挽歌だ。厳粛な悲しい歌だが、調子は暗くはなく、万葉の挽歌にも似

た健康で強靭な精神をうかがわせる。

山の麓その山を見ぬ樹の間えり小屋をたてたり孝の子彼は湖のほとり湖を見ぬ小屋残し置

けり長生の老の二人の為に (54)

早く逝ったが、文明山中滞留を果たさせた夏賃に感謝せざるを得ない。長生の老の二人

の一人、テル子夫人も昭和五十七年逝いて、今はない。

山梨とのかかわり

土屋文明。明治二十三年群馬県上郊村(現・群馬町)生まれ。明治四十二年高崎中学校

卒業後上京、伊藤左千夫の家に寄宿。第一高等学校を経て大正五年東京帝国大学哲学科卒

業。大学時代芥川龍之介、久米正雄らと第三次「新思潮」同人となる。

大正七年、テル子夫人と結婚、長野県諏訪高女教員、同校長、松本高女校長を経て大正

十三年、木曽中校長に発令されたが、退職、上京した。以後法政大学予科・明治大学教授

等、教職も長いが、主として「アララギ」に拠り、編集、発行名義人、選歌を担当、現在

の「アララギ」を育てあげ、その統帥否日本歌壇の最高峰に立つ。

輝やかしく長いその歩みの中より山梨に縁りのあるごく一部をその短歌作品を辿りつつ

追っていこう。

昭和十一年夏、文明は初めて富士に登山し、頂上を極めた。五味保義、山ロ茂吉、当時

中学二年だった長男、夏賃らが同行した。

岳樺を押し薙ぎ伏せし沢すぎて一足ごとに苦しくなりぬ

岩によせよぢつつ上る躯小さし先に立つ夏賃を間なくいましむ

地図に見し形の如くととのひて三日月の湖目の下になる

夕ぎりは幾所か湖のあるらしく低くとどまりて山中湖見ゆ (11)

等の名連作が生まれた。

夏賃、吉田在職以後は、家族の任地、或いは黄木荘主人としての入麓となる。昭和三十

三年、山中湖村平野と題する一連、

三日月屋松尾宿してありきという聞くだに恋し五十年前ほ (33)

がある。師、伊藤左千夫の「三ケ月湖にて」の歌

ひさかたの三日月の湖ゆふ恭れて宙士の桝原芸しづまれり

秋の花の三日月の湖をあくがるる心きはまり死なむとおもひし (44・伊藤左千夫)

等を懐古しての歌だろう。

恋ひ死なむまでに思ひて三日月湖住む日なかりきああ左千夫先生(43)

師を思いながら、自身今、山中に住む喜びが伝わってくる。

昭和三十四年、孫、安見ほ富士吉田で満一歳の誕生日を迎えた。

富士吉田の家

うけら立つ離の隣に家居してわが安見を虫どもが覗いて居る (註うけら、キク科の多年草)

手につきて遊ぶ道の上こともなく拾ふを見ればくだけし熔岩

軽妙ながら、するどい把握は、愛孫の身辺一事を見逃さない。そのころの保健所長公舎

は、富士吉田市新倉、丸尾熔岩流、赤松のなお残る一画にあった。

昭和三十四年夏、文明は富士五湖に遊んだ。岡田真、上村孫作、夏賃同道、この周遊車

は筆者が運転した。その記憶は今に生々しいが、一つを述べよう。鳴沢氷穴近ぐで白い花

の垂穂状に咲く喬木を見つけた。リヨウブ(令法)だ。この若芽と実は食用、昔は米に炊

きこんだという。「このことを望月君が知ってましたね」と歌人。望月は、塩山生まれの

アララギ会員、望月闇。

ただ一人令法飯知りし甲斐の友望月闇亡くていく年

年々の八月白き令法の花今朝も来て立つここは甲斐の国 (54)

がある。

黄木荘敷地内で特に愛されるのは、その名の通り黄木だ。その生育を妨げる水木も、時

には憎まれる仇役だ。

すくすくと茂るミズキを虐げて枯らしぬ黄木の蔭となるゆえ (54)

外、この関連歌は多い。

汝ありて我を招きし黄木の年をかさねて苔のむしたる (56)

愛される黄木ほ幸せ、歌人によって名木の称を得た思いだ。

荘の裏茂みに、可憐な竹節人参が野生する。朝鮮人参と同じ「うこぎ科」の多年生草

本、葉は五小葉複葉、球型集合の赤い実を結ぶ。

草むらの紅に引かれ寄りて知るまた新しく竹節二株 (42)

竹節はここに元よりの主人なり終の息一日延ばすや否や (58)

この朱の実の輝やくころ、山中滞留は終る。

待ち待ちし竹節の実の朱の色かがやくを置きて山を下らむ (44)

ある夏の夕、筆者は、義兄の釣った大漁の日の山女を山荘にお届けした。夕餉前の

灯光が、明るく庭草に及んでいた。

甲斐の国はいづくも清き山水の山女をぞ賜ぶ虹の光りて

冷ゆる早き山の夕べに盛り並めて山女の虹に飽くこともなく (53)

連作五首はこの時の作か。

山の上の湖に朝の義ありて秋になる水のゆたけき湛え (58)

‐富士北麓の風光ほ、次々と「黄木集」とも言うべき絶唱の数を年々に加えていく。

子規「やまめの歌碑」

正岡子規が甲州の一五坊よりおくられた山女を歌った長歌が「病休六尺」にあることは

前稿「新免一五坊」で述べた通りだが、この歌碑は今富士吉田市富士見町字深山の桂川畔

に建っている。建てたのほこの地の文人相木白雨、碑文揮肇は土屋文明、完成は昭和四十

九年である。

白雨はこの碑建立を全く一人で行ったが、特に「やまめの歌碑はどうしても文明先生に

書いて頂く」との執念を燃やした。自らの歌碑は建てることを許さず、筆跡入手は困難な

この歌人相手、最初の依頼は昭和三十八年だが、無理に承諾を請い、約十ヵ月を要して漸

く揮裏は完成した。

この間白雨は、山中に或いは南青山に五、六回は歩を運んだが、その都度、山女、蕎麦

粉、虹鱒、水濯菜等、郷土色豊かな「ささやかなもの」を携えた。その一つに「むかご」

もある。これは山芋の実、当地で言う山芋小僧だ。歩いたらたり転ぶかと思う程地にこぼ

れ敷いたのをダソボールに詰めて持って行ったのも微笑ましい(白雨記、△子規のやまめ

の歌と一五坊▽「はまなし」より)。南青山、土屋邸の庭におろした「むかご」はその後

芋となった。

甲斐の国明見は一五坊の由縁にてそのむかご四年今芋となる (46)

白雨が苦心した文明揮皇の歌碑も、しかし用地決定、立ちのき、整地等に手間どり建碑

までにはそれから約十年を費やした。そして除幕もせぬ昭和五十年七月、白雨は交通事故

に遭い、ほとんど意識もうろうの一年有半の後、昭和五十一年他界した。

昭和五十三年、建碑は成ったものの敷地は荒れるに任せてある自筆「子規やまめの歌

碑」を文明は訪れた。夏の山中滞在で現地の状態を知っている歌人は、この時人知れず自

ら鎌を振って草薙ぎを行っている。

石の前の草を薙ぐ亡き人への手向草石には苔のよることもなく

畑に蔭する草は耕す人刈れり石の道塞ぐ力芝は秋のいろ

畑のねぎ拾ふも手向とならざらむ蓬の柚を吾等すこし刈る

土用すぎ畔草刈られ風露草やえむぐら一つ草塚となる

楊老いてたぎつ川見る幾年ぞ一五坊見きや今我等見る

(539)

大歌人によってかく歌われたこの地は子規、一五坊、文明、白雨とつながれて明治を今

に伝える名場としていよいよその価値を高めた。

昭和五十四年七月、歌碑の除幕が「白雨を偲ぶ、やまめ文学まつり」を兼ねて、柏木

家、富士吉田市文化協会共催で行われた。うず高く刈り上げた夏草が折かユの騒雨で草い

きれをつのらす炎暑の日であった。集まった者約百人、除幕儀の後、やまめ弁当を食べ、

記念歌会が行われ、歌碑は永久の魂を得た。

一五坊の二女、藤木敏子、甥の上代暗三(アララギ同人、日本医大名誉教授)夫妻がこ

の儀のため入麓、前日夕、黄木荘に文明夫妻を訪ねた。ウるわしいこの出合いは同席した

筆者には一幅の絵として今も目に残る。

世の光の人に到れば甲斐の山女三かしらは永久の輝きとなる (53)

歌人にょって永久の耀きを与えられたこの地も、しかしその後は訪れる人も少なく、到

る道も荒れ、案内の道標一つすらない。

雪解水道ある侭に流れけり

これは一五坊の旧句だがこの現場の句とも思える位だ。一目も早く整備し自ら草を薙い

だ歌人に報いるべきであろう。

終わりで恐縮だが、昭和五十七年逝ったテル子夫人も今面影にたつ。常につつましく夫

に影の如く寄り添った

夫人も歌集「税の花」一冊を残した。この家族の戦後の歩みをさながら示すこの歌集の中

より夏賃親子三人と歩いた富士山五合目の珠玉の歌、 落葉松の落葉つもれる道をゆくこ

としの芽ぶきいまだ幼く

岳樺の群落を押しひしぎたる雪の澤渡るいましめあひて

(38・土屋テル子)

の二首を誌し、ありし日を偲びながら更ビ大歌人の御健康と長寿を祈ろう。

土屋文明

明治23年九月十八日、群馬県上郊村に生まれた。

明治37年高崎中学校入学。

明治40年三井甲之の雑誌「ァヵネ」に短歌等を投稿。中学校の国語教師、村上

成之の指導を受けた。

明治42年中学卒。村上成之の紹介で上京、伊藤左千夫宅に寄寓、作歌の指導を

受けた。アララギに作品を発表す。九月、第一高等学校入学。

大正2年左千夫死去。東京帝国大学

哲学科入学。芥川龍之介、久米正雄らと新思潮同人となる。

大正5年東京帝国大学卒業。

大正7年塚越テル子と結婚。長野県 諏訪高女教員となる。

大正9年同校校長となる。

大正11年松本女学校長になる。

大正13年木曽中学校校長に移されたが、退職上京、法政大学予科教授となる。

大正14年歌集「ふゆくさ」刊。

昭和5(m×ョァララギ編集兼発行名儀人となる。歌集「往還集」刊。

昭和7年「万葉集年表」刊。

昭和8年明治大学専門部講師。

昭和9年法政大学予科教授を辞す。

昭和10)歌集「山谷集」「万葉集総釈第二巻」出版。

昭和11年自選歌集「放水路」刊。

昭和12年「短歌ス門」刊。

昭和16年「万葉集小径」刊。

昭和17年歌集「六月風」「旅人と憶良」刊。

昭和18年歌集「少安集」「高葉集私見」「高菜紀行」刊。

昭和19年明治大学講師辞職。七月から十二月まで中国旅行。「短歌小径」刊。

昭和20年東京で戦災。群馬県川戸に 疎開す。自選歌集「ゆづる葉の下」刊。

昭和23年歌集「山下水」刊。

昭和24年「高葉集私法第一巻―第三巻」刊。

昭和25年「高菜集私注第四巻ー第五巻」刊。

昭和26年「高菜集私注第六巻ー第九巻」刊。川戸より東京、青山南町帰住。

昭和27年「高葉集私注第十巻ー第十 二巻」刊。明治大学文学部教授となる。芸

術院賞受賞。自選歌集「山の間の霧」刊。

昭和28年歌集「自流泉」「高葉集私注第十三巻」刊。

昭和29年「高葉集私注第十四巻ー第 十五巻」刊。

昭和30年角川文庫「短歌入門」同「土屋文明歌集」初版。「高葉集私注第十

六―十七巻」刊。

昭和31年「高葉集私注第十八ー第二 十巻」刊。

昭和35年明治大学文学部退職。

昭和37年心筋梗塞にて三ヶ月入院。

アララギ選歌中止。「伊藤左千夫」刊。芸術院会員となる。

昭和42年歌集「青南集」「続青南集」刊

昭和44年雷葉集私注」を合冊再刊。

「巻第一―第二」刊。「高葉紀行」「続高葉紀行」刊。

昭和45年雷葉集私注」合冊九巻刊

行終わる。「高葉集私注補遺」第十巻刊。

角川文序「短歌入門」刊。

昭和46年角川文庫版「土屋文明歌集」刊

昭和48年歌集「続々青南集」刊。

昭和49年長男・夏責死亡。

昭和51年妻テル子、歌集「塊の花」出版。

昭和56年「万葉集入門」刊。

昭和57(妻・テル子死亡。

昭和59年歌集「青南後集」刊。

岩波文庫版「土屋文明歌集」「羊歯の芽」 刊。国の文化功労者として表彰さる。

昭和60)「方竹の蔭にて」出版。

→本年譜ほ昭和46年までは、角川文庫版「土屋文明歌集」巻末年譜より抜すい、転

載。

HOMEへ