老柳山荘

富土北麓山中湖村の家並を東に抜け落葉松の新緑にむせつつ行くと、道は篭坂峠に到る

昇りとなる。山中ゴルフコースに隣接し打球の音が聞えるかとも思う林間、新しい別荘群

の中に古い家が一軒建っている。明治、大正、昭和三代にわたる長寿を保ち、伝統俳句の

途を一すじ、遂に雄大な「虚子文学」を大成させた正岡子規直系の巨星・高浜虚子の山中

山荘である。

当時、玄関傍らに楊柳の老木が窒えていたのにちなんで「老柳山荘」という。今もその

古株は残るが、敷地内は現在木々生い茂る林間の家だ。しかし以前は大きな富士が目の前

に、眼下には山中湖が見渡せ、富土アザミ、オダマキ、月見草等が咲き続く花野であった

らしい。この辺を山中では「下り山」というが、現在の老柳山荘は初期の虚子山慮ではな

く、その隣接地の古い家を若干手を加えて買ったものと聞く。その辺の経緯をふまえて富

士北麓と虚子とのかかわりを述べよう。

虚子が山中湖畔に来ほじめたのは、昭和十二年初秋(六十二歳)からである。「ホトト

ギス」昭和十八年十月号にこの辺を虚子自身記録しているが、虚子の三女宵子の嫁ぎ先、

新田家別荘が旭ヶ丘にあたったことが縁のようだ。

虚子が山中に来た目的は、昭和十六年刊行された「新選ホトトギス雑詠全集・春夏秋冬

新年全九冊」の選句のためであった。昭和十二年はニューグランドホテル、十三年は新田

別荘隣家の一間、十四年、山中ホテル等を経て昭和十五年下り山に虚子山鷹を建築、ここで

同集選句冬の部を完了。その後昭和十七年までの夏を過ごした。この山魔()は今わずかに

残る写真を見ると草ぶきの農家風の建物のようだ。

この家はしかし建築後三年、昭和十七年冬、陸軍の演習で投下された照明弾が命中、焼失

してしまった。前述虚子記を引用しよう。

「其冬誰も居なかった山鷹は、或事故のために焼失してしまった。時節柄そういうもの

は焼失してしまう方がいいような心持もした。若干の慰語金を貰ったが、それは受取らず

にそれを持って来た人の手で陸軍仙兵部へ寄附してもらった。今年(昭・18筆者註)行って見

るとすっかり焼けてしまって一物をもとどめないのが却って心持がよかった。ただ松の木が

なかば焦げて居るのが多少の目障りであった。その隣地の古小屋を修復してそこに此の秋の

初めほ居った。大きな富土山が目の前に現れて来ることと、高原の爽やかさが忘れられない

ためであった。」

悠揚自然にさからわぬ虚子の面目躍如だが、この「隣地の古小屋」が今の老柳山荘であ

る。初期ほ虚子、没後は長男年尾、二女星野立子らが滞在、夏の俳句稽古(けいこ)会の

場となった。ホトトギス会員、東大、慶応等大学の句会メンバ−らが集いここに合宿して

虚子らの胸を借りたという。

戦後一時来荘なく、昭和二十六年より再び虚子夏の老柳山荘滞在が始まった。星野立子

編「虚子一日一句」より追憶しよう。

山の月も久しぶりなり戦さありし 虚子

「昨日より山中湖畔下り山、山慮滞在、稽古会、戦後はじめて来たのであった。草木は

屋根を覆ふまでに延び、家の中も雨漏りしてゐる処があり、壁はよごれ襖は破れていた。

掃除をし兎に角第一夜を明した」(立子記)

老柳に精あり句碑は一片の石 虚子

「一日二日とたつにつれて、心の落ちつきも出た。目に入るものはみな俳句となった。

心の動きもみな俳句となった。代る代るに集って来る句会の人々を日々迎えて父は元気に

なって行った」(立子記)

選集を選みしよりの山の秋 虚子

この句碑は今も荘玄関傍らにあるが、台石もなく地に直ちに置かれ老柳古株の下に苔蒸

している。この句碑についてほ次稿に述べよう。

新緑滴る五月のある日、加藤晴子、斉藤芳子、勝俣雅山、勝俣義和らホトトギス同門の

士と同荘を訪ね、虚子選句の部屋に坐し回顧談々の一時を過ごした。

虚子の孫娘・年尾長女、稲畑汀子ホトトギス主宰はその近著「舞ひやまざるは」の中

iu

「老柳山荘はもう何年も経ち、建物も大部朽ちてきている。句碑は苔むし、木々が育っ

て林になってしまった。このまま朽ちてゆくのもまたいいのかも知れない。しかし私はい

つかこの場所に虚子記念館を建て虚子のものを中心に俳句に関する資料を集め、全国の俳

人が集まって合宿したり、俳句の勉強のできる道場にしようと秘かに計りごとをめぐらし

ている」

と書いている。是非その実現を祈ってやまない。

新蕎麦会とその周辺

富士北麓は俳句の盛んな地。結社は「岳麓ホトトギス会」「山梨若葉会」「岳麓冬扇会」

「大富士会」「富士桜会」等が活躍し、団結して「岳麓俳句協会」を結成している。この

現在の隆昌は、山中湖畔で虚子と出会い、その指導の下に「ふれあいの輪を広げた」先輩

俳人たちの努力に負うところが大きい。

宮下善龍(故人号・伝奇)はこの地の俳人。当初は月並風の句を作っていた。職業ほ

電気屋。昭和十五年七月十二日、当時官川電灯会社のゴルフ場散宿所勤務だった彼は、下

り山に新築の虚子山慮に電灯の取り付けに行つた。

有名な話で諸説あるが、伝奇自身が書いた加藤晴子宛書簡によれば、『作業中品のよい

老人が女性付き添い二、三人(真砂子さん、立子さんらしい)で別荘を見たり片付けたり

していた。老人は私に向かって「電気屋さん、この地方に俳句をする人がおりますか」

「おります。私もその中の一人でホ句を好きですが、おじいさんもお好きですか」「すき

です」「そんなら一度皆を集めましょうか、私が呼べば十人や二十人は集まります」。老人、

「頼みます。費用は私が出しますから」』

こんな具合だが、実は伝奇もそれより先、ホトトギスを読み、虚子の存在は知ってお

り、その大先生が山中にいることに土地の仲間と共に吃驚したのであろう。伝奇は早速句

をみて貰ったり、如才なく俳号をねだり「電気屋だから伝奇がよいだろう」と虚子に命名

してもらつたりしている。

この約束に従って伝奇は仲間の俳人をつれてこの年九月二十三日虚子山荘を訪れた。第

一回句会である。地元は伝奇、柏木緑節、宮下可節、勝俣一六、広瀬芦松、同香葉、柏木

白雨、渡辺騒人、森田遊水、浅間柳葉、宮下専郎ら、中央からも赤星水竹居、佐藤肋骨、

高野素十、中田みづほ等が出席した豪華な句会だったという。

高原の秋の一つ家煙立ち 虚子

湖をかくさうべしや花亡 虚子

その時の虚子作品だ。この句会をその日の蕎麦がおいしかったというので、虚子自ら「新

蕎麦会」と命名した。

この会は其の後月例会(虚子選)や毎夏虚子来麓を待っての大会等、昭和三十二年まで

続きこの地の俳界の主流的約割を果たした。

第三回新蕎麦会(昭和十八年)の席上、老柳荘内に虚子句碑を建てる議が提案された。

建立は新蕎麦会だが発意、提唱は越後の俳人藤崎佳山、全員が拍手、多少迷惑気味の虚

子の同意を得、善は急げと直ちに七十八歳の佳山を筆頭に地元の伝奇、白雨、芦松らが大

八車を引いて桂川鐘山の滝上まで石を取りに行った。

虚子記(18・ホトトギス十月号)によれば、「四、五時間して楊の木の下に恰好の良

い表面の滑らかな小石が置かれた。私はそれに句を題さねばならなくなった。」とある。虚

子を中心に生き生きとはずむ地元の俳人らの動きが今に伝わるようだ。

選集を選みしよりの山の秋 虚子

句碑の除幕式は翌十九年八月五日に行われた。

句碑を建て亡を植えし志 虚子

海幸は焼海苔少しばかりなり 虚子

老柳荘での虚子の生活を星野立子編「虚子一日一句」より拾ってみよう。

庭に立ち朝涼を賞で牛乳を飲む 虚子

昭和二十六年七月二十九日作。戦後初めて来荘、その三日目、「三日目は土地の新蕎麦会

の者が集った。配達された新鮮な牛乳を受取って、庭で立ちのみをする。鎌倉では考えも

及ばぬ父の姿であった。小鳥の声、冷たいまでにすがすがしい朝」(立子記)

伝奇は殆んど毎日、荘を尋ねた。牛乳は遊水、食糧は白雨、伝奇は万般と担当が決って

いた(伝奇記)。虚子もこれらの面スを特に可愛がった。

風呂を焚く番に当りて避暑の宿 虚子

同じく昭和二十六年八月一日作。「山中山荘は長州風呂であった。錆が着いていたが、

日々焚くと自然に水も澄んで来た。私等は食事、掃除、風呂と交代で働くのであった。焚く

木切れは至るところに落ちているので不自由しなかった」(立子記)

尻をはし折り、火吹竹を持って立ったり開んだり懸命に焚ロから離れない虚子、山中ならで

はの姿を想像して頂こう。

数々の句会と句碑

高浜虚子。蛇足かも知れないが、大凡の年譜に触れておこう。本名。清。号虚子は正岡

子規の命名。明治七年愛媛県松山市生まれ。十七歳、河東碧梧桐を介して正岡子規に師事、

十八歳、夏目激石を知る。明治三十一年柳原極堂が松山で発刊していた「ホトトギス」を

子規の協力で東京に移し発刊、その主宰。以後生涯を同誌に拠って俳句を中心とする文学

活動を貫いた。明治三十五年子規没、激石の「我輩は猫である」(明治三十八年)、「坊ちゃ

ん」(明治三十九年)の「ホトトギス」連載は虚子の企画だ。この時期は虚子も俳句より

小説志向、「風流織法」「斑鳩物語」「俳諸師」「続俳諮師」「柿二つ」等、写生文による小

説を相次いで発表した。しかし明治四十五年頃から俳壇復帰専念を表明。碧梧桐らの新傾

向俳句に対し定型と季題遵守、客観写生、その後は花鳥諷詠の俳句を主張して子規を継承

する保守主流的役割を呆たした。

昭和二十九年、文化勲章、昭和三十四年四月八日鎌倉で没した。八十五歳、同十四日勲

一等瑞宝章、著書数知れず。「定本高浜虚子全集」全十五巻に集録した老大な業績がその

生涯を飾る。

昭和十二年から約二十年、夏の山中湖滞在を通して虚子が富士北麓に残した足跡ほ偉大

だが、その中のいくつかを拾って行こう。

昭和二十一年九月一目、富土吉田市月江寺で「ホトトギス六百号記念山梨俳句大会」が

開かれた。虚子、星野立子、深川正一郎ら県外来賓十一名、百三十四名が参加した。

天高しここの句会に来し我に 虚子

我が山の吾亦紅折り食卓に 虚子

吾亦紅瓶にさしつつ首かしげ 立子

秋高きこの一日を待ち得たり 正一郎

虚子来る其日吉田の天高し 伝奇

客来るけはいに萩の庭に立つ 丈刀子

俳句の僅かを抄出した。

丈刀子はその日参加の筆者の義父故高橋常道、虚子句「天高し」は現在月江寺境内に句

碑となりその日の記念を今に留める。(昭和四十六年建)

この句会に先立って虚子は月江寺の故林納二の墓に詣でた。林は新蕎麦会同人、熱心な

ホトトギス投句者。病弱だった彼は昭和十八年山中山臓に虚子を訪ね、「秋の雲影落した

る裾野かな」の選を受け「もうこれで死んでもよい」と満ち足りた思いの後、昭和二十ニ

年死去した。

墓参時の虚子句

羽を伏せ蜻蛉杭に無き如く 虚子

は小句碑となって今柄二の墓の傍らに建つ。長女加藤晴子はその恩を一世の想いに今ホト

トギス門で句作に励み、長男林貞男は富士吉田の少年少女トランぺット鼓笛隊の常任指揮

者として子女の情操教育に情熱を傾ける。

なおこの会の前夜(八月三十一日)虚子は市内大明見故柏木白雨宅に宿泊。ここは、既

に昭和二十.一年九月にも宿し、

この宿の九十の翁天高し 虚子

の句を贈った弟子邸への再訪だ。九十ゥ翁とは尚健在だった白雨祖父仁兵衛のこと、虚子

は句を存問の詩という。存問は安否を気付かったり慰問するの意だ。眼に入り、耳に聞

き、心に思うこと総てが句になる自在無礎の境地だ。この句碑も現在白雨庭前に建ちその

日を偲ばせる。

老いてここに斯く在る不思議唯涼し 虚子

一読はっとさせるようなこの句は、昭和二十七年七月二十五日、富士吉田市制祭「岳麓

俳句大会」時の作。『前日波奈子さんの自動車で修善寺新井屋一泊、山中湖畔の山荘ヘ。

富土吉田を訪ひ句会。山中山慮は老柳と共に昔のままにあった。「上りたる花火の下に談

笑す」「避暑の山下り来て吉田俳句会」』(立子編、虚子一日一句)とある。席上幹事が入

賞者への褒美としての短冊揮裏を依頼したのを漂として戒めた後、病躯をおして出席した

奥脇絹恵にこの句を真紅の短冊にしたためて与えたという。

句会の四日後(七月二十九日)虚子は河ロ湖に中村星湖を訪ね、船津小曲園の句会に誘

つた。

避暑に来て一計帰農の友を訪ふ 虚子

隠れ住む文人の家農繁期 虚子

田草取る泥手を縁に礼中す 星湖

両文豪はこの目、時を忘れて「早稲田文学」で活躍した青春時代を語りあったという。

昭和三十二年七月、山中での新蕎麦会最後の句会。年尾、立子、富安風生も出席した。

風生と死の話して涼しさよ 虚子

同月の句に

涼風に別れて敢て下山せん 、虚子

山葡萄汝にも御別れ総てにお別れ . 虚子

わが生も終りに近き避暑の花 虚子

がある。句の予感の通り、この年が虚子山中滞在最後の年となった。

老柳山荘の楊柳ほ根元から八方に分かれ、こんもりと窒えこの荘の象徴であったが、虚子

没年(昭和三十四年)八月、台風七号で根元から倒され数百年とも思われる命を絶った。

だれもが「柳も先生のあとを追った」と悲しんだ。この木は山本菊水の発

案で短冊架としホトトギス不減の絆(きずな)として同門縁りの人、約

四百人に配ったと聞く。

なお富士北麓にある虚子句碑は、今まで述べた四基の外、柏木白雨邸

裏山の亡二児の墓前の追悼句

御仏の左右の弟子かも墓拝む 虚子 (昭和三十二年建立、白雨)

と、富土吉田市下吉田如来寺の戦死した住職・渡辺正英の追悼句

君のためかゞやく盆の月夜かな 虚子 (昭和十六年建立、伝奇)

の計六基あることをつけ加えておく。

高浜虚子年譜

明治7年ニ月、松山市に生まれる

父・静庄四郎警、母・柳の四男、本名。清。

明治16年祖母死去、その家系を継いで高浜姓となる。

明治18年県立松山第一中学校入学するも廃校、伊予尋常中学校に入る。

明治24年父死去。同級の河東碧梧洞を通じ、正岡子規と面識、子規の命名で、を「虚子」とした。

明治25年京都、第三高等中学校に入学。

明治27年上京し常盤会寄宿舎に入り、後、子規の家に寄寓、第三高等中学大

学予科解散、帰郷、仙台第二高等中学に転校、碧梧桐と共に仙台に行ったが、退学、

上京し、子規の下で俳人として身を立てることを決意した。

明治28年子規、日清戦争従軍からの帰途発病。神戸にて看病。一時、早稲田専

門学校に籍をおいた。子規から後継者になれと言われたが辞退した。

明治29年「国民新聞」俳句選。

明治30年柳原極堂が松山で「ホトトギス」を創刊。大原いとと結婚。

明治31年子規の根岸庵で子規、碧梧堂、鳴雪らと蕪村句集輪講。「ホトトギス」

「万朝報」等の俳句選。この年、ホトトギスが束京に移され、発行人となる。長女、

真砂子生。

明治33年長男・年尾生。

明治34年俳書堂創立。

明治36年次女・立子生。子規没。

明治39年次男・友次郎(のち池内)

明治40年「風流徴法」「斑鳩物語」「大内旅館」発表。(ホトトギス)

明治41年「難頭」「新写生文」「稿本虚子句集」刊。「俳諸師」連載。(国民新聞)

国民新聞社に入り、文芸部創立。ホトトギス雑詠選。

明治42年「続俳諸師」連載畠(国民新聞)。三女・宵子生。

明治43)国民新聞社退。鎌倉移住。

明治44年朝鮮旅行。「朝鮮」連載。

(大毎、東京日日)「牛の糞」発表。

明治45年四女・六子生。

大正2年能楽を楽しむ。「ホトトギス」が二百号となる。

大正4年「柿二つ」連載。(東京朝日)「虚子の句集」刊。五女・晴子生。

大正8年新作能「実朝」発表。六女。章子生。

大正13(朝鮮、満州旅行。「写生ということ」連載発表。(ホトトギス)

大正14年「ホトトギス雑詠句評会」。

大正15年「ホトトギス」創刊三+年。

昭和3年「虚子句集」「現代俳句評釈」刊。

昭和5年「虚子句集」改造社刊。立子、女流俳誌「玉藻」発刊。

昭和9年「高浜虚子全集」(全十二巻)

改造社刊。「新歳時記」刊。

昭和11年章子と仏、独、伊旅行。帰国後「渡仏日記」刊。「句日記」刊。

昭和12年「紀行文、俳文」「俳句は斯く解し斯く味う」「自句自解」刊。帝国芸

術院創設、会員となる。「五百句」刊(改造社)

昭和15年「年代別虚子俳句全集」〈全四巻)新潮社刊。

昭和16年山中湖畔下り山に湯柳山荘を建つ。

昭和17年「俳句の五+年」刊。

昭和18年虚子古稀祝賀会。

昭和19年長野県小諸町に疎開。

昭和21年「ホトトギス」六百号。「小諸百句」刊。

昭和22年「六百句」刊。小諸から鎌倉に帰る。

昭和23年「定本虚子全集」(全十ニ巻)創元社刊。

昭和24年「虚子自伝」青柿堂刊。

昭和25年「書寿艶」創元社刊。

昭和26年「俳詰日記」連載。(玉藻)

ホトトギス雑詠選を年尾に譲る。この年から夏を山中湖柳荘に過す。

昭和29年文化勲章。

昭和30年「俳句への道」岩波書店刊。

「虚子俳話」朝日俳壇連載。ホトトギス七百号記念会

昭和33年「私ー家」ホトトギス連載。

昭和34年鎌倉に虚子庵完成。四月八日脳出血で虚子庵で死去。勲一等瑞宝章を

おくられる。

全集は「定本高浜虚子全集」(全十五巻)毎日新聞社がある。

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