その生涯
子規、虚子につながる俳句、ホトトギス系列の道を「静かに、騒がず、誤たずー―(
)」歩き続け、中道俳句を旗幟に俳誌「若葉」を主宰。明治、大正、昭和にわたって長
寿を保ち、遂に独自の芸術「風生俳句」を完成させた巨星、その人は名を富安風生とい
う。この偉大な俳人は、富士の風光をこよなく愛し、後年の二十五年、夏のほとんどを富
士北麓山中湖畔で過ごした。
風生と富士北麓とのかかわりは、昭和二十三年、故柏木白雨が州魚洞(東京。富安邸)
に風生を訪ね「月の江句会」の選句を依頼したことから始まる。「月の江句会」というの
は、既述新蕎麦会とは別に昭和二十二年ころから富士吉田市の青年を中心に台頭した俳句
運動だ。中心のメンバーは刑部たけみ、渡辺青楓(誓不)、山本琴嶺、山本啓子、林(加藤)
晴子ら、はじめは深川正一郎指導で句作勉強していたが、もともと風生は虚子の高弟、特
に違和感なく、両師の間を斡旋し得る柏木白雨らが中心となってこの労をとった。
風生の来麓はこんな動きの中で昭和二十三年十月、富士吉田市月江寺で開かれた「月の
江句会」への出席がはじめてである。その時の
熔岩原(らばはら)の野分の荒き男富士 風生
つと起てばつと近づきて秋の富士 風生
等が風生が富士を詠った塙矢(こうし)の句のようだ。
この「男富士」という語は風生の新造語。大野林火に言わせると、初対面の富士に対し
てすぐこのような新語を駆使して富士を表現する技巧ほ風生の偉大さを物語るものとい
う。その後は吉田火祭、句会指導等を機に夏来麓していたが、昭和二十八年からは富士北
麓に夏を過ごすのが恒例となった。月の江句会はこの風生夏の滞在に勢いを得、年々、大
会ないし年間句集を発行したりしながら活発に活動したが、昭和三十二年発展的に解散し
て「岳麓若葉会」と名称を改め、虚子没後はこの会指導者風生に私淑しつつ岳麓俳句の主
流となっていった。
富士の風光に魅せられ、これら弟子の善意に支えられたことが、風生の富士北麓長期滞
在の因だが、避暑宅を提供した地元の協力者の貢献も大きい。以下年代順に列記しよう。
落葉松荘(昭和2835)、坂本勝利(36)、斎藤武次(37)、梁山荘(3839)、愛樹荘15羽田岑夫15(4042)、西山荘(4344)、貞石山荘(4546)、高村英雄(
47)、丸尾山荘(4853)等だが昭和三十七年河口湖畔の外は全部山中湖畔だ。これら
の諸家を転住しつつ、後世にのこる数々の名句、名筆、名文を生んだ。 5
年譜により風生の生涯を追ってみよう。
富安風生。本名・謙次。明治十八年四月十六日、愛知県八名郡金沢村(現。一宮町)
まれ、旧制一高より東京帝国大学独法を経て明治四十三年逓信省に入った。一時病を得た
が癒えて復帰するや同省官吏としての出世街道を一すじ、昭和四年電気局長、昭和十一年
逓信次官と登りつめ、昭和十二年退官した。退官後も日本放送協会理事、電波管理委員長
(初代)をはじめ幾多の要職を歴任。昭和四十五年勲一等生存者叙勲、昭和四十九年芸術
院会員等公職、賞勲も目映ゆいばかりだ。
愛知県の富安家は、平重盛の後裔、代々世襲の神職、紀伊富安家がその祖。愛知に移り
歴代藩の代官を務めた名門。母なかが同村佐久間家より養子三郎義智を迎え、風生はその
末子。この佐久間家は佐久間混々外俳人の輩出多く風生の文学好きの血はこの母から伝わ
ったと聞く。明治四十三年官界入りの仲間に後の「ホトトギス」の大橋越央子がおり句の
道を共に歩いたのも幸いした。大正七年福岡に赴任、学友高崎鳥城らと古岡禅寺洞の「天
の川」に入会した。俳号風生はこの鳥城の命名と聞く。大正八年、静岡県、大富部磐の妹、
敏子と結婚した。初めて虚子の警咳に接したのもこの年。福岡の句会での席上、翌九年か
ら「ホトトギス」への投句を初めた。大正十一年中田みづほ、水原秋桜子らの東大俳句会
(草樹会の前身)の結成あり当初から参加。山ロ青邨、誓子、高野素十、加賀谷風秋らと
交流が始まった。
俳誌「若葉」、前身は大阪の貯金局有志による小誌。風生はその選者だった由縁もある
が、創刊は昭和三年、発行所を東京に移した五月からだ。風生四十四歳の時、創刊時
から雑詠選を担当し、事実上の主宰となった。以後この頃から虚子の「ホトトギス」と
「若葉」の二道を着実に歩き、昭和四年「ホトトギス」同人。しかし、本格的に独自
の風生俳句が「若葉」で大成していくのは「ホトトギス」投句を止めた昭和二十七年以降だ。
この頃から風生は夏を富士北麓で過ごすが、もともとこの地は虚子によって開眼
された俳地。昭和三十四年虚子没後はその後を継ぐ年尾、
立子、稲畑汀子らの「ホトトギス」と並んで、その高弟風生を中心とする若葉会が大きな
流れとなってこの地に大きな影響を与えていった。昭和五十四年二月二十二日、九十五歳
の長寿を全うし、その輝ける生涯を終えた。
句集と富士
風生の業績を著作より偲んで見よう。老大な著作群を全部は紹介出来ぬが、大別すると
一、句集 二、随筆・句文・俳話 三、俳句作法。鑑賞集 四、全集・講座 五、歳時記
となる。主要な句集について述べよう。
第一句集「草の花」(8)大正八年から昭和八年まで五五八句、すべて虚子選。虚
子が序に「静かに歩を中道にとどめ、騒がず、誤たず」と書き、「若葉」中道俳句の名が
ここに由来する記念書(但し風生自身は八そういう看板を傍観し、自分ではロにしていな
いといっているが)
初富士の大きかりける汀かな
以下第二句集「十三夜」(12)、第三句集「松額」(15)、第四句集「冬霞」(
18)、第五句集「村住」(22)まで約二千句、すべて虚子選。第六句集「母子草」
(24)、後記に風生は「今までの句集と違う」と書き、第七句集「朴若葉」(25)
と合わせて虚子選と自選。後記に「世に問う句集を虚子選のみで貫こうという方針は残
念ながら八母子草V以来破れてしまっている」と書き、独自の風生俳句がこの辺から発足
する。岳麓吉田町二句
機音も富士も夙く覚め爽かに
熔岩原の野分の荒き男富士
も本集に見える。第八句集「晩涼」(30)は若葉三百号記念、第九句集「古稀春風」
(32)は古稀自祝集
古稀という春風にをる齢かな
第十句集「愛日抄」(36)は喜寿祝賀集
あわあわと富士容あり炎天下
第十一句集「喜寿以後」(40)は傘寿記念集
生くることやうやく楽し老の春
第十二句集「傘寿以後」(43)。第十三句集は「米寿前」(46)、これは若葉
五百号記念。第十四句集「年の花」(48)は米寿記念。以上順調に長寿の各節を句集題
にして進展して、第十五句集「齢勢し」(53)にいたる。若葉五十周年記念出版、風生
この年九十四歳だ。同書後記に風生は「<齢愛し>という名におちついてほっとした。いい
名だと思っている。恐らくこれが最後の句集老後の愛児―と思う」と書いたーー。
初渚ふみて齢を愛しけり
その言の通り生前最後の句集になったが、没後、晩年作を収録した第十六句集「走馬燈」
が敏子夫人の同意で昭和五十七年発行された。全句集収載八一九〇句。その外随筆、句文
集、俳話集等大凡数えて五十冊を超え、長寿の生涯の輝く雄大な集積だ。
風生がいかに富士モ愛したかの証として昭和四十四年刊行された豪華本「富士百句」に
触れよう。この書は風生富士の句より百句自選全句色紙版に自筆、復刻した美術書。奥村
土牛、小倉遊亀、加山又造、木村伊兵衛諸氏が絵や写真をそえた風生富士俳句の凝集だ。
北斎、大観、紅葉も夫々の分野で富士に挑んだが、芭蕉すら「詩人も句をつくさず、才
子、文人も言をたち、画工も筆を捨てて走る」となげいた富士だ。が「風生は繊細な感覚
と、豊富な語彙を縦横無尽に駆使し、あらゆる工夫をこらして富士の神秘さ、崇高さ、秀
麗さ、優美さ、豪快さをうたっている。このような作家は古今を通じてなかつたであろう一
(柏木白雨、やまなしの文芸戦後史より)百句中五十五句は富士北麓°作品だ"この揮裏
形式は既刊「風生帖」(36)もあり、書をよくした風生独壇場だが、書中自筆の
赤富士に露傍花たる四辺かな
に到ると、富士は既に風生の手許にひきよせられて凝縮した感じだ。「赤富士」は風生に
よつて季題となつた。
風生没後も敏子夫人は富士北麓をしばしば訪れる。縁あって夏の健康相談役だった筆者
は今年も来麓した夫人から謙虚に語るこんな話を聞いた。「富安は若い頃から体が弱く、
避暑寒が必要でしたが、何しろ富士と山中湖が好きで楽しみでした。赤富士は殊の外でし
たが、それ以上にこちらの皆さんが良くお世話してくださいましたので」。
事実虚子もそうだが、風生も富士北麓でこのような大業を残した影には、地元の門弟の
献身も忘れることは出来ないであろう。この地に集結する沢山の風生句碑はその師弟愛情の自らな
る発露を物語るものだが、何時伺っても風生は満足して山中の夏を送っていた。
命あり今夏またこの避暑荘に
避暑荘に何一つ不足なき不足
赤腹鳥が背戸の敷居に今日は
屈託ない平明な滞在吟が心足りた風生の山中避暑の日常を物語る。風生が新鮮な野菜を欲し
いと言えば、時雨(宮下、若葉同人)は丸尾荘の庭隅に畑を耕した。猫の好きな風生に誓不(渡辺、
若葉同人)は自宅の猫をつれていって師を慰めた。この猫が風生の頭を誓ったなどという笑話も
含めて。昭和四十六年刊「風生俳句歳時記」には岳麓俳人の句が十六人四十句も採録された。若
葉同人も前記時雨、誓不の外、故・柏木白雨、森田源水、渡辺騒人、宮下麓生、山本琴嶺、
柏木去孔、奥脇絹恵等その他刑部たけみ、加藤晴子、森田哲平ら多くの人が風生富士北麓
滞在を支えた。この献身が地元世話人の域を超えて名優に舞台を与える結果を生んだので
あろう。
句碑と書
昭和五十四年九月、富士吉田市文化協会は山梨若葉会と共催、同年二月没した風生を回
顧して「富安風生展」(富士吉田市郷土館)を開催した。この地にある風生揮皇の書(軸、
色紙、短冊等)、句碑の一覧、著者業績、遺愛の品を展示、期間中見学の人が絶えなかっ
た。句碑は最初は拓本展示のつもりであったが、計画発表と同時に全碑所蔵者が原筆を提
供、その必要はなくなった。持ち込まれた色紙、短冊等は展示変え、及び廊下面に壁を拡
張してようやく提供者に応える盛況であった。
たまたまこの期間中、忍野村で「若葉六百号記念全国鍛錬会」が行われ、参加した全国
の若葉会員にも見てもらえたのだが、その際富士北麓にどうしてこんな沢山の風生資料が
あるのかと驚かれた記憶は今に新しい。「風生書は貴重。なかなか手に入るものではない。
避暑の先生に地元の連中は書かせすぎた」とはその際のある方の弁だが、実際ほ風生が如
何に過不足なく心足りてこの地の夏を過ごしたかを物語るものだ。いわば富士の風光とこ
の地の人情が風生にこの沢山の書をかかせたといえるだろう。
前稿でこの地にある虚子句碑は六碑あることは述べたが、風生句碑は更に多い。昭和五
十四年刊「風生句碑」(若葉社刊)によれば、その時限で全国で六十、うち富士北麓にある
十碑が記載されている。その後、山中湖簡易保険セッターと愛弟子、宮下時雨前庭に二碑
が建ったので合わせて十二ということになる。風生没後も全国で句碑は増え続けているの
で実態はやや不正確ながら約二割が富士北麓に建っている。以下年代別に富士北麓の風生句
碑を紹介しよう。
一露涼し朝富士の縞豪放に
昭和三十二年、旭ヶ丘、落葉松荘(現・名古屋相互銀行山
中寮)柏木白雨、新蕎麦会建。
二湖うかびすすきに沈む荘の屋根
昭和三十五年、山中湖撫岳荘、高村勇夫建。
三庭として花野を湖へかたむくる
昭和四十五年、山中湖、ホテルマウント富土、富士急行、堀内光雄建。
四宮士の霧圧倒し来る月見草
昭和四十八年富士吉田市大明見平山、小野将美建。
五女とは母とほ安産まつりかな
昭和四十九年、山中湖村諏訪神社、同社氏子社中建。
六一片雲もて秋富士を荘厳す
昭和五十年、富士吉田市下吉田深山、柏木白雨建。
七馬に敷く裾草にも萩桔梗
昭和五十年、山中湖村平野かじや荘、渡辺誓不、天野一雄建。
八大空に雪解富士ただあるのみなり
昭和五十一年、富士吉田市大明見柏木白雨邸、同氏建。
九赤富士に露済花たる四辺かな
昭和五十三年、山中湖村平野寿徳寺、高村卓治建。
十春行くと藤の蕾の立ちそろう
昭和五十四年、富士吉田市上吉田西念寺、山梨若葉会建。
十一安波々々と富士容あり炎天下
昭和五十五年、山中湖村簡易保険センター、同所建。
十二遠い遠い愛しい記憶貝割菜
昭和五十八年、富士吉田市大明見、宮下時雨邸、同氏建。
全碑解説する紙面はないが、山中諏訪明神の碑を取り上げよう。この祭礼は九月、
妊婦や初産の子のお礼参りに母が赤ん坊を背負い、絞付足袋洗足で神興に綻る安産祭
りだ。同社庭前にどっしりと腰を据えた安泰の名碑だ。
除幕式風生献辞「創造の神は、男と女とを別々にお造りになった。男には男の、女
には女の、それぞれの使命を託された。そもそも女とは、母とは・・・女だけに神から授かっ
た使命の一つに母となることがある。()安産―これこそ母の、いやわれら人の子のす
べての、切なる祈りである。神話古る、諏訪神社の、御祭神、豊玉姫命よ。願わくはこの
われらの切なる祈りを饗け給ヘ―女とは母とは安産まつりかな―風生」もはや土地っ子風
生とも言える融けこみ方だ。風生句碑の全国での集結地は四国松山、天龍市、安房鴨川
(千葉・冬の避寒地)等だが、富士北麓は数で全国一、是非散索遍歴を願いたいものだ。
風生は当然書もよくした。自らは独学などと称していたが、書道家、松井如流、町春草、
渡辺寒鴎諸氏の評を総合するとこういうことになる。「格調の高さは独壇場、濃墨と淡墨
の散らしは軽快。線の切れ味と変化のつけ方は新鮮。細い線条の駆使の中に、もろくな
く、固くなく、柔軟性を保って孤高。よく澄んで美しくのびやかでスケールは大きい」
なお風生は絵を木下春、前田青邨らに習い、日本画家としても著名であることをつけ加
えておく。この行くとして可ならざるはなき文人が富士北麓に与えた影響は限りなく大き
く後の世に長く語り継がれていくことであろう。
富安 風生年譜
西暦年齢
明治18年愛知県八名郡金沢村に生まる。本名。謙次。男四人、女二人の末弟。
長兄、祖父も俳人だった。
明治28年隣村の尋常小学を卒業、富岡村八名郡高等小学入学。
明治31(豊橋町立尋常中学時習館 (現・時習館高校)入学。
明治36年第一高等学校一部甲類合杵。自治寮に起臥す。
明治39年一高卒。東京帝国大学法科
独法科入学。
明治43年七月、逓信省入り。
明治44年喀血し、療養生活がはじまる。
大正1年療養、平塚杏雲堂分院入院。
大正2年文官分限令休職、続いて廃官。帰郷、療養に専念した。
大正4年健康やや恢復し、貴族院嘱託となる。
大正5年逓信省復職。
大正7年福岡為替貯金支局長として赴任。高崎烏城らと俳句をはじめた。吉岡
禅寺洞「天の川」同人。
大正8年福岡句会、晩さん会で初めて高浜虚子と会う。五月本省復帰。
原宿仮寓。大宮部敏子と結婚。「ホトトギス」初入選。
大正9年新聞俳壇に盛んに投句した。虚子国民俳壇、篠原温亭句会、東大俳
句連(秋桜子)と交友した。
大正10年東大俳句会(草樹会)が復興し参加。
大正13年帰朝。本省経理局需品課長。
大正14年ホトトギス雑詠句評会、第五回に初めて出席、写生に開眼した。
昭和元年大臣官房文書課長。池袋に居を変える。
昭和3年貯金局内の「若葉」雑詠選担当。十一月、大礼使典儀官として行幸に
供奉、京都に逗留、句作す。
昭和4年本省電気局長。ホトトギス同人。
昭和6年本省経理局長。
昭和8年処女句集「草の花」出版。
昭和9年母八十八歳で死亡。
昭和10年随筆集「州魚集」処女出版
昭和11年逓信次官となる。「若葉百号記念句会」
昭和12)第二句集「十三夜」出版。
五月、退官。二十七年の官界の足を洗った。
東北、京阪、四国旅行。
昭和13年第一書房俳句全集「富安風生篇」出版。
昭和14年「俳句の作り方」自句自解・「春嶺」出版。
昭和15年第三句集「松頼」出版。日本俳句作家協会常任理事。
昭和16年随筆集「淡水魚」「草木愛」出版。太平洋戦争勃発。
昭和17年日本文学報国会結成、俳句部幹事長。随筆集「四季俳盤」出版。
昭和18年第四句集「冬霞」出版。
昭和19年随筆集「霜晴」出版。千葉県東傑村に疎開。
昭和20年静岡県上阿多古村再疎開。
終戦。「俳句の作り方味はひ方」出版。
昭和21年自選句集「紫陽花」「勤労俳句鑑賞」出版。
昭和22年公職資格審査委員。「風生句話」「秋桜子風生互選句集」「俳句雑記」
第五句集「村住」出版。
昭和23年「わが俳句鑑賞」随筆集「野菊晴」出版。若葉二百号記念大会。十
一月、陛下に御進講。吹上御苑で三笠宮、皇后臨席の小句会を開いた。
昭和24年「六句集喜子草」「州魚洞句集」出版。若葉誌友から胸像を贈ら
る。
昭和25年第七句集「朴若葉」「俳句の作り方」「俳句の解釈と鑑賞」「句作の
道」出版。電波監理委員長になる。始めて 「吉田の火祭」をみた。
昭和27年「角川文庫版冒安風生句集」出版。十一月参内。皇太子成年式加冠の
儀、立太子宣誓の儀に列した。
昭和28年山梨日日新聞主催、山梨新十景俳句入賞式に招かれて甲府へ。八月か
らの富士山麓滞留が始まった。「若葉」に「州魚洞口記」を載せはじめる。
昭和29年若葉三百号記念大会。三州渥美郡と房州東傑村の句碑除幕。
昭和30年第八句集「晩涼」出版。
昭和31年随筆集「俳句―この愉きもの」出版。
昭和32年房州迎春、夏、山中落葉松荘滞。荘内句碑建立。「現代田末文学全集ー
富安風生集」現代俳句文学全集―富安風生篇」第九句集「古稀奉風」出版。銀座松尾
で「風生句画賛展」
昭和33宍官中歌会陪聴。若葉三+年記念会。夏、落葉松荘。
昭和34年高浜虚子逝く。夏、落葉松荘。「風生帖」(肉筆八十八句)出版。
昭和35年房州勝浦、山中撫岳荘句碑 除幕。
昭和36年第十句集「愛日抄」日経新聞「私の履歴書」連載。山中湖は坂本勝利
方鉛夏。
昭和37年鍋夏逗留斉藤武次方。
昭和38年鍋夏山中梁山荘。
昭和39年傘寿記念「定本富安風生句集」「大正秀句」出版。絵を「大調和展」
に出品。鉛夏山中梁山荘。
昭和40年松山、風生堂落成。小平霊園に富安家墓建立。第十一句集「喜寿以
後」出版。鈴夏山中羽田琴夫方。
昭和41NHKテレピ「この道この人」朝日新聞「折り折りの人」執筆。鈴夏
山中羽田琴夫方。
昭和42(V)(ロ若葉四百五十号記念大会。
郵政審議会委員として陛下出御の赤坂離宮円遊会出席。鍋夏山中羽田方。
昭和43年若葉四十周年記念、兼金婚祝賀会。第十二句集「傘寿以後」出版。鈴
夏山中西山荘。
昭和44年自筆豪華本「富士百句」出版。鈴夏山中西山荘。
昭和45年勲一等生存者叙勲、句碑ホテルマウント富士除幕。芸術院賞受賞。鈴
夏山中貞石山荘。
昭和46年若葉五百号記念全国大会。
十月芸術院賞受賞祝賀会。風生編「俳句歳 時記」第十三句集「米寿前」
出版。鈴夏山中貞石山荘。
昭和47年警随筆集「冬うらら」出版。
米寿祝賀会。鍋夏山中高村英雄方。
昭和48年大明見桂川畔の旬碑除幕。
鉛夏山中丸尾荘。第十四句集「年の花」出坂o
昭和49年七月、九十歳祝賀記念吟行会。山中諏訪神社安産祭り句碑除幕。芸術
院会員となる。鉛夏山中丸尾荘。
昭和50年若葉五五O号記念全国大会。富士吉田下吉田深山、及び平野かじや
荘に句碑立つ。鈴夏山中丸尾荘。
昭和53年若葉創刊五+周年記念大会。山中湖平野寿徳寺句碑除幕。第十五句
集「齢愛し」出版。鉛夏山中丸尾荘、この午が較後となった。
昭和54年二月十二日永眠。上吉田西念寺に句碑除幕。
昭和55 山中湖簡易保険センター句碑除幕。
昭和57 第十六句集「走馬燈」出版。
昭和58 富士吉田市大明見、宮下時雨庭前句碑建立。
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