俳句一筋の生涯

このシリ−ズを書くために取材していくと関連して登場する文人では柏木白雨が最も多

い。中でも一五坊、文明、虚子、風生の稿では白雨を除いては書けない程密接な関係であ

った。中央で活躍しながら夏や疎開等で富土北麓と関わりある文人も貴重だが、純粋のこ

の地の文人は更に大切だ。その意味で柏木白雨の存在は大きい。

富士吉田市大明見、通称背戸山の懐、屋敷裏に混渡(せんくわん)と川の瀬音が聞える

古い家がある。高浜虚子がこの家に宿り

家の裏の渓流京の秋に似し 虚子

と詠んだ相木家だ。川の辺は杉の木群とたかむら.その間に椎茸のそだ木が並ぶ。

椎茸の木を積み重ね水ほとり 虚子

夏近くなるとほの暗きその木蔭に岩非(がんぴ)の赤い花が咲き、人だけが渡れる素朴

な木橋がここから人々を裏山に導く。

新涼や行けば行かるる橋かかり 立子

母屋は風生が

南縁に富士裏窓に竹の春 風生

と詠み

.白雨が

寝正月よくも煤けし我が家かな 白雨

初富士を一位離の上におき 白雨

と詠んだ農家風の家、大明見宿を前景に大富士がアララギ(一位)の雛ごしに望まれ、手

入れされた小苑には虚子、風生の句碑が地に低く置かれてこの家の歴史を物語る。離れは

白雨書房・書架・書案は今も生前さながらだo

柏木白雨。本名・芳節。明治三十四年十一月十五日、富士吉田市大明見二八二番地に生

まれた。柏木家というのは旧明見村の旧家、もともと東、中、西の家三家あり、総本家は

中の家。白雨家は西の家、二十代続く名家だ。祖父は仁兵衛、父は吉左ヱ門、芳節はその

嫡男である。山梨県立谷村工商学校卒後、大正十年より昭和三十年まで山梨中央銀行勤

務、同行富士支店長を最後に退職した。昭和三十二年富士織物整理株式会社(現織物整

)の創立に尽力、同専務取締役、同三十六年代表取締役、昭和四十六年退任した。また

同年、北富士オリジン株式会社を設立した。昭和三十三年富士吉田市議会議員一期、昭和

三十六年富士吉田市文化功労者、昭和四十年富士吉田市文化財審議委員、四十一年富士吉

田市文化協会副会長、富士吉田市ロータリークラブ会長を歴任。昭和五十一年山梨県文化

功労実賞を受賞等、実業、文化両面に優れた才人であった。昭和五十年七月三十一日交通

事故に遭い意識昏迷の一年有余の闘病の末、昭和五十二年四月二十八日永眠した。享年七

十五歳であった。

悼みある人なりけるが若葉寒 風生

春惜しむ心深くに春惜しむ 秋を

供華として持ちし春菊の掌に匂う 騒人

追悼句より二三抜奉した。

俳句を主領域とした文人白雨の足跡を辿ろう。

父、吉左ヱ門(緑節)も俳人だった影響で子供の時から見様見真似で句を作ることを知

っていた白雨は、父と共に昭和十二年「ホトトギス」に投句を始めた。しかし一年たって

も一句も載らず、ホトトギス発行所に出掛けて「どうしたら載るか」と訊ねたという。そ

こで良い師を持つべきと教えられ紹介されたのが柏崎夢香。以後この師につき句作、昭和

十三年初めてホトトギスに句が載った。しかし実際の俳句開眼は昭和十五年宮下伝奇らと

山中に滞在中の虚子を訪ね、その指導下に新蕎麦会を結成、句作に励むようになってから

だ。以後虚子を師とも神とも仰ぎ精進、昭和三十年遂にホトトギス同人となった。

昭和三十二年虚子が山中を去り、その没後は、年尾、星野立子ら同族の指導者につきそ

の交流を継続していくが、一方白雨の俳歴は富安風生を除いては語ることの出来ない程緊密だ。

前述もしたが、風生が富土北麓に関わりを持ったのは、昭和二十三年以後、白雨の依頼によっ

て「月の江句会」の指導に来てからだ。もともと風生は虚子の高弟、その主宰する「若葉」での

句作も虚子一門、両師一体の意識の中で続き、虚子没後は風生が専ら白雨俳句の核となってその

死に到るまで続いた。

昭和三十年「若葉」同人。以後昭和三十二年結成された「岳麓若葉会」の中心となって

活躍した。律義でこまめに良く動き、後進の指導の面でも先達、牽引者的存在。富士吉田

市に文化功労者制度が設けられるや第一回の受賞者に選ばれ、また昭和五十年「若葉」五

百五十号記念大会において若葉功労者表彰を受けたのも、いかにその評価が高かったかを

物語るものだ。

白雨は五男四女の子宝に恵まれた。生涯のうち長男英一を交通事故、二男次郎を戦禍で

失う不幸に見舞われたが、現在志津夫人を中心に三男鉄雄が家を守り一族繁栄している

昭和59年毎日新聞が募集した「毎日郷土提言賞」に応募し、富士吉田市ボランティ

アロビーで活躍する体験をもとに入賞した宮下礼子は白雨の二女。その血脈は今につな

がるo白雨著作等については次稿に述べるが富士北麓に生をうけ、縁あって虚子、風生と

いう二大巨星と師弟以上の個人的知遇の中で生涯を送れた幸福な俳人というべきであろう

父子俳人

白雨の父、吉左衛門も緑節と号し俳人であった。昭和二十五年七十三歳で没したが、昭

和六年より「ホトトギス」に入会、約二十年投句は一月も欠かさなかった。その外柏崎夢

香の句誌「山彦」にも投句を続けた。当時のこの地の俳界はいまだ月並風、緑節も当初は

夜雪庵金羅というような宗匠について句作し、緑節という号もその宗匠からもらったとい

う。しかし前述のごとく子規門の新免一五坊らと交流の影響もあり正統派俳句への開眼は

早かったといえよう。緑節を偲ぶ唯一の句集「緑節句集」は昭和二十八年白雨によって編

集上梓された。昭和五年より二十五年までの五百四十五首を採録する。平明、素朴、親し

みやすく楽しく読ませ、作品は当然ながら富士北麓の風光を詠んだものが多い。集を維き

句を少し紹介しよう。

熔岩先に涯女一人湖の秋 緑節

富士の灯を数えながらに涼みけり 緑節

百に手の届く父あり春を待つ 緑節

物干して小春の富士のかくれけり 緑節

この「物干して」の句は、いま緑節句碑となって同家裏山に建てられている。

昭和二十八年白雨建立、碑文は柏崎夢香、句につながるうるわしい父子の情だ。

白雨の著述にふれよう「白雨句集」は、昭和五十二年四月一日に発行された。白雨死

亡は昭和五十二年四月二十八日だから没前約一夕月ということになる。昭和十三年より五十

年にいたる珠玉六百三十三句を収録する。上梓は山梨若葉会の俳人と妻志づ、三男鉄雄以下俊

雄、道子、礼子、克子、英子らの家族によってなされた。富安風生は題字と共に

すがすがし白雨のいはれさながらに 風生

の序句を贈った。瀕死の床に完成した句集を見せた時、白雨はわずかにうなずき、わずかにほ

ほ笑んだという。鉄雄以下家族連名のあとがき「『父が俳句をやり、その見よう見まねで私も

小さい時から俳句をやった』と祖父緑節の句集のあとがきに父白雨が書いているように、

ごく若い頃から事故で倒れる迄の六十年に及ぶ俳句に精進した年月、一冊の句集が父の人

生の縮図であり、誠実にひたむきに生きた父の、そして祖父からひきつがれた歴史である

という点に於いても、子に孫にとり又貴い意義のあるものと思われます」がすべてを語りつく

している。白雨の句も身辺を平明に詠んで清澄、花鳥風詠に徹した虚子と中道俳句の風生の指

導の下、淡々と誇張なく自由無礎の句境だ。句集中富士を対象とした句を少し抄出しよう。

夜の富士の低く見ゆるやどんど焚く 白雨

祝ぎごとの庭に空えて小春富士 白雨

白妙の富士をかかげて街の春 白雨

夕富士のほの紫や花の上 白雨

雪の来し富士さやかなる紫苑かな 白雨

富士を据え湖を展べたる花野かな 白雨

大冨士はまだま白なる辛夷かな 白雨

富士の灯のともり初めたる月見草 白雨

初空の大富士は神います山 白雨

白雨は句のほか随筆もよくした。又富士北麓の俳句を中心とする文芸史を世に紹介す

るのにも大きな役割を果たした。白雨にほ一面投書家とも思える動きもあり、朝日新聞

「声」、読売「気流」、山梨日々「ほうとう」欄や「郡内よみうり」、「甲斐産業」等によ

く寄稿した。

朝日「声」は特にその常連。掲載ほ十五回を超えた。また朝日歌壇、同俳壇にも投稿

し、「白髪のふえたれば父に似て来しと言う人のあり父なつかしき」(44宮柊二選、朝日

歌壇)などと短歌にまでその領域を広げたマルチ的関心も面白い。この投書集は「声」及

び「続・声」となって昭和四十六年、同四十八年に自費出版された。そのほか白雨法人生

の大半を銀行畑で過ごしたため、その機関誌「銀協」等に屡々文を寄せているが、俳句で

鍛えた文は淡々として法にかない、整って読みやすい。

白雨が研究し調査し執筆した仕事に@「岳麓についての詩歌」A「岳麓俳句歳時記」B

「山梨の戦後文芸史」がある。@Aは昭和三十九年及び昭和四十年に甲斐産業新聞に連載

された。特に@は三十八回に及び富士北麓における芭蕉、子規、虚子、風生その他の文人

の動き、業績を系統的に調査した記録だ。Bほ昭和四十七年、山梨日日新聞に十二回にわ

たって連載されたもの。原本ほ十八回に及び@に内容は似るが、虚子、風生を中心とする

新蕎麦会、岳麓若葉会の活動、又昭和二十五年岳麓に三笠宮様をお招きした「宮様句会」

のことなどを克明に記載した貴重な文献である。 .

この記録によれば虚子が山梨で吟じた句は五百句を優に超え、珠玉の俳文六編を数える

という。

白雨の草稿には、さらに「子規のやまめの歌と一五坊について」(37富士吉田市立図

書館<はまなし>連載)、二子を失った悲しみの追悼集「碑」(昭和34出版)がある。いず

れもこれらの生涯の記録は散逸ないし一部原本保存のみなので埋もらせず世に出したいも

のである。

句歌碑

富士北麓に虚子、風生らの句碑が多いことほ度々述べたが、この経緯を調べて行くと殆

んどと言える位白雨が関係していることが分かり改めてそのこまめな性格が浮き彫りされ

て興味深い。それらの中から白雨が全く独力で建てた碑だけを列記しておこう。

@この宿の九十の翁天高し 虚子

昭和二十三年建碑、除幕、白雨邸前庭、高浜虚子稿で既述。

A御仏の左右の弟子かも墓拝む 虚子

白雨は男子を上から二人事故で亡くした。次男次郎は昭和二十年七月、多賀工専入学三

日後、水戸艦砲射撃の犠牲となり、長男英一は東京工大在学中、昭和二十二年八月、中央

線浅川駅で列車事故のため亡くなった。深川正一郎は次郎に「学徒とはまことに浄し夏の

つゆ」を、英一には「盆の月明るきことも悲しまれ」の追悼句を、虚子も度々悼みの書簡

をおくっている。白雨はこの不幸後十年余り、墓を建てる気も起らぬ程悲しんだが、虚子

のこの句を頂いて跳び上がる様な喜びでこの供養碑を造ったという。半切横方形の句碑、

前面に虚子句、裏に正一郎「学徒とは・・・・・・」の句を刻んだ。昭和三十二年建、柏木家裏

山、雑木林の中、富士に真向かって立つ。

B物干して小春の富士のかくれけり緑節

昭和二十八年建。父緑節のため。既述。

C露涼し朝富士の縞豪放に 風生

昭和三十二年建、山中湖落葉松荘庭、白雨の名で新蕎麦会も加わった。富安風生稿既

Dやまめ三尾は甲州の一五坊より「なまよみのかひの山女はぬばたまの夜ぶりの

あみに三つ入りぬその三つみなを わにおくりこし」右子規病休六尺、後人、土屋文明抄

昭和四十九年九月建。富士吉田市下吉田深山、白雨はこの地を昭和三十九年入手。交渉に

手間どり苦労した。桂川畔、土手に楊柳の大樹が立つ。白雨はここを整地して記念公園乃

至農園にしたかった。以下土屋文明稿既述。

E一片雲もて秋富士を荘厳す 風生

昭和五十年建、下吉田深山、やまめの歌碑と並び立つ、風生稿既述。

F大空に雪解富士ただあるのみなり、風生

昭和五十一年建、白雨邸前庭、風生稿既述。

先人の句碑を建てることに生涯執念を燃やした白雨だったが、生前自らの句碑はなく、

死後建てられたことをお伝えしよう。

夕富士のほの紫や花の上 白雨

昭和五十四年四月二十九日、白雨邸母屋東側に白雨三回忌として建てられた。三男鉄

雄、岳麓若葉会建立、同日除幕された。桂川上流で採取した玄武岩のどっしりとした句碑

oこの句ほ昭和二十八年作。同年八月「ホトトギス」所載。白雨の少ない遺墨短冊中よ

り発見され、書家渡辺寒鴎が拡大臨書した。白雨ほ自筆「岳麓俳句歳時記」の中で「この

句は梨宮公園での作で、爛漫と咲き乱れている桜花の上に、ほのかな紫色に浮んで次第に

暮れていく富士の姿ほ、この世のものと思えぬ美しさだった。余りにも美しいものを見る

と深いかなしみにとらわれる」と書いた。桜の頃の富士はまだ真白な雪の姿だ。品格ある

美しい句だ。

白雨は一面、世を憂いた批評家でもあった。今偲ぶと時に温顔ながら厳しい表情で訴え

た提言がよみがえってくる。そして殆んどは自然破壊に対する憤りであった。白雨は常に

聖書を座右に置いた。昭和四十七年山梨中央銀行内誌「やまゆり」に発表した「自然を破

壊するな」の論説よりその辺を偲んでみよう。論中白雨は、伊藤左千夫の「ひさかたの三日

月の湖ゆう暮れて富士の裾原雲しづまれり」や与謝野晶子の「笹の葉の露のいろかなわが云

うは五湖の一つの河口の湖」の歌をあげ、心底をゆする静寂な山中湖を、笹の葉の露にたとえ

る河口湖を恋い、今のドブ沼化を恐れる。また富士の清例な水で育った虹の濃い山女や真青な

香り高い川海苔を産した桂川の清流を慕う。執念を燃やした

「やまめの歌碑」建立にしても単に失われていく明治の郷愁だけでなく、汚染されていく

桂川への怒りでもあったのだ。白雨は論中更にこの様に言う。

「富士登山自動車道、スバルラインの沿道の樹木は何万本と枯死しつつあり、至る所岳

麓の自然は破壊されつつある。このまま放っといて末はどうなるであろう。()生物が

滅びて何の開発ぞやである。一人なしが目醒めなくてはならぬ。そしてこの洪水の様に暴

威を振っている自然破壊を防がなくてほならぬと思う」。自然の僅かな動きにも鋭敏に対

応した俳人の憤りほ今も生きてわれわれの心を打つ。捨てては置かれぬことである。

卓には

酒一壷

奴一皿

それに

青山椒一房

外は

梅雨明けのま青な富士が

静かにくれてゆく 白雨

昭和四十三年、「声」欄に載った珍らしい白雨の詩だ。酒を愛し、栄達を求めず、ひた

すら俳句三味の清々しい生涯を送った白雨の名はこれからも長く語り継がれていくことで

あろう。

柏木白雨年譜

明治34年山梨県南都留郡明見村大明見二八二番地(現・富士吉田市)に生まる。父・吉左ヱ

(緑節)長男。本名・芳節

大正6年山梨県立谷村エ商学校卒業。

大正8年明見村役場奉職。

大正10年山梨中央銀行奉職。

昭和12年「ホトトギス」入会。

昭和13年「ホトトギス」に初めて句が載る。

昭和15年山中湖に滞在中の高浜虚子を訪ね、新蕎麦会(虚子命名)結成に参加、その指導をうける。

昭和20年次男・次郎死亡。

昭和22年長男。英一死亡。

昭和23年虚子句碑ハこの宿の九十の翁天高し)を邸内に建つ。

富安風生「月の江句会」指導のため来麓。

昭和24年九十の翁祖父仁兵衛死亡。

昭和25年父・緑節死亡。

昭和28年「緑節句集」出版。緑節句碑を建つ。

昭和30年山梨中央銀行退職〈富士支店長)一月「ホトトギス」、四月「若葉」同人となる。

昭和32年長男・英一、次男・次郎の墓碑に虚子、深川正一郎の句を刻し建つ。

虚子、山中を去る。岳麓若葉会結成。富士織物整染()専務取締役。

昭和33年富士吉田市市議会議員当選。

昭和34年二児追悼集「碑」上梓。

昭和36年第一回富士吉田市文化功労者表彰。富士吉田ロータリークラブ入会。

昭和37年「子規のやまめの歌と一五坊について」連載(はまなし)

昭和39年「岳麓についての詩歌」甲斐産業新聞連載。

昭和40年岳麓俳句歳時記」甲斐産業新聞連載。富士吉田市文化財審議委員。

昭和41年富士吉田市文化協会副会長。富士吉田ロータリークラブ会長、「冬草」同人。

昭和43年俳人協会会員。富士吉田市文化協会顧問。

昭和46年北富士ォリジン()創立。富士織物整染()退職。随筆集「声」上梓。

昭和47年「山梨の戦後文芸史」山梨日日新聞連載。

昭和48年随筆集「続・声」上梓。

昭和49年正岡子規「やまめの歌」歌碑(土屋文明筆)を下吉田桂川畔深山に建立』o

昭和50年若葉功労者表彰。風生九十 歳記念句碑を下吉田深山に建立。七月、交

通事故に遭う。

昭和51年山梨県文化功労実賞。風生句碑を邸内に建立。

昭和52年「白雨句集」刊行。四月二十八日永眠す。

追記

昭和54年四月、邸内に三回忌として白雨句碑がたてられた。七月、子規「やまめの

歌」歌碑が「白雨を偲ぶ―やまめ文学祭」として除幕された。

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