「少年行」と郷土

「熔岩のくずれの富士の裾はじつに広漠たる眺めである」中村星湖の小説「少年行」は

この冒頭の語をもってはじまる。この小説は、明治三十九年、星湖二十三歳の夏執筆、翌

明治四十年「早稲田文学」の懸賞に一等当選、披露の巻に掲載された。その時星湖はまだ

早稲田大学の学生、今日でいえば学生作家だが、この一編が星湖の作家の地位を不動にし

た出世作である。 ,

冒頭の語に続く富士の裾原は、甲州路に入ると「天地は一変する。脈々たる連山は富士

に迫って裾野を取り巻いて、黒木林や落葉松との間に、山中・明見・河口・精進・本栖の

湖水が散在して()其の白く輝く水と黒く集る山々との対照が妙に暗い、深い、閉じこ

められたような感じを惹き起す」と書いた富士北麓の自然が「少年行」の舞台である。

恐らく作者自身を仮託したと思われる主人公・武と秀才型の転校少年・収夫1I抜きん

でて目立ち、武より一年早く甲府の中学に行き、絵もうまかったが後に脳をわずらうーー

の二人の少年の友情を描いた青春小説であり、自然主義文学の不朽の名作といわれている。

自然主義文学といえば、一八七〇年―八〇年代、主としてフランスにおいて台頭し、

「すべてを自然に帰する」、或いは「現実ありのままを、全く客観的な立場で描写する」

一種のリアリズムの文学態度である。具体的には題材を同時代の卑近な生活に求め、ロマ

ンティックな愛は性に還元され、従って娼婦などが社会の不当な犠牲者として多く登場し

たり、反宗教、反道徳、反国家的な言論や、冷静に真実を描写しながら弱者ヘの同情、不

条理な人生への憤りなどが多く書かれ、ゾラの「居酒屋」(一八七七年)やモー。ハ,サソの

「脂肪の塊」(一八八〇年)などがその代表作とされている。日本での自然主義文学は、そ

れより二、三十年遅れるが、激石が「吾輩は猫である」(明治三十八年・一九〇五年)、藤

村が「破戒」(一九〇六年)、花袋が「蒲団」(一九〇七年)等を次々発表して、いわゆる自然

主義最盛期を迎えるが、星湖の「少年行」はその最只中に生まれた。

二葉亭四迷や島村抱月の絶賛をうけたというこの小説を今読み返してみると、平凡な生

活事象を巧みに描写し、極めてリアルに富士山麓の自然、風土と人物を配した自然主義文

学手法によっているが、その技法以上に心を惹かれるのは、今もなお保っている、ういうい

しい新鮮さである。この新鮮さは何に由来するのであろうか。勿論小説中の身辺の生活。

自然の透徹した写生描写のもつ生命性によるのだろうが、それ以上に感ずるのはこの小説

のもつ風土性。郷土性によるのではないかと思われてならない。星湖は九十一歳まで長生

きし、生涯四百篇を超す作品を残した。しかし円熟期とも言える大正初期に作家活動はむ

しろ衰退し、翻訳や農民文学志向に変っていった。この傾向はどういうことであろうか。

多くの論評の中からその一、二を紹介しよう。大正四年、中村孤月「中村星湖論」によれ

ば、『星湖氏ほ最近八自分は今まで外を重んじて内を忘れて来たVといって其の創作の革

新を叫んだけれども、依然として八わけの解った現実の観察者Vに終っているとし、今ま

で外を重んじた程度より以上に、星湖氏自身を振り返って、その思想を描写するように』

と指摘し、(武田三半、「やまなしと作家、中村星湖」より)更に武田氏も、「星湖は人間

の生活記録としてのすぐれた客観描写は完成されたが、理想主義を基調とする新文学の潮

流を迎えて、周囲の適切な指摘にもかかわらず、ついに新しい文学的方法論をつかむこと

をなし得なかった」と星湖文学の通過した衰退の悲劇性を指摘している。これらは或程度

客観性をもった星湖文学論を代表しているとはいえるであろう。

しかしこの論は、星湖文学だけになされたというより、自然主義文学全体が通った経過

ではないだろうか。フラソスでゾラの周辺に集った自然主義最盛期の一派「メダソ一派」

でさえ、八〇年代終りには、それぞれの作家が信仰へ(ュイスマァ)、直接的な社会参加へ

(ゾラ)、あるいほ肉体的、精神的衰亡から狂気へ(モー。ハッサン)、沈黙へ(エニ,)

と進み、運動の統一性は急速に失われていっている。自然科学との結びつき、実証主義の

立場をとった自然主義文学は、既成の社会、宗教、道徳、美的価値を否定的に捉えたが、

一方その否定から建設へと進もうとする時は、おのずから自然主義を脱け出さざるをえな

かったということであろう。

昭和五十九年発行、富士吉田市文化協会発行「雪解流」に寄稿した星湖長男・中村顧一

氏は「父11星湖のこと」と題して、文中次の如くいう。「父のデビュI作であり、代表作

である「少年行」が、生れ故郷の河ロ村を舞台とした半自伝的なものであることは、父を

御存じの方にはよく知られたことであるが、かといって父は始めから農民文芸作家という

わけではなかった。「少年行」以外で文学全集などに再録されるものの一つに「女の中」

という小説があり、これは大正三年に雑誌「太陽」にのったものであるが、これは母と父

の妹の間にはさまって困惑している自分を書いたものであって、「少年行」よりむしろ完

成度の高い短篇小説の傑作といわれているもので、この外にも友人のスキャソダルをテ1

マにしたものを書いて、モデル問題で苦しんだりしたことがあるが、もっとも大きな事件

は大正八年に朝日新聞に発表した「かくれ沼」という小説の事件である。これは大新聞に

発表した父の唯一のしかも未完の作品である。

これは父の近親のスキャソダルを材料にしたものであったが、ある日郷里の河ロから大

恩のある母と妹が、当時住んでいた鶴見の家に泣きながら駆けこんで来たので、愕然とし

た父は、その日から筆を折り朝日への掲載を中止した。それ以後、父は、父のそれまで書

いてきた自然主義的な作品を書かなくなった。そういう意味では、父は悲劇的な作家であ

ったと私は考えている。一

自然主義作家の歩いた必然の道を星湖も歩いたということであろうが、ともかくそれ以

後は翻訳・農民文学等にその方向は変り、殊に戦争により帰郷した昭和二十年以降の後半

生は、農民文学あるいは郷土作家的な色彩は益々強く、帰農ともいえる晴耕雨読の地域に

とけこんだ淡々とした無欲の生きざまに変っていった。しかもその態度は、逃避・隠棲で

はなく積極的な社会参加を貫き通し、地域への貢献度が極めて大きい点を注目すべきであ

o

富士北麓の風土から生れたとも云える「少年行」のもつういういしい新鮮さを、星湖後

半人生と同時スライドして考えると、やはりそこにあかあかと通る一本の共通の道を感ず

るのは筆者ばかりではあるまい。「少年行」で出発した星湖は、ついには「少年行」に帰

って行ったのではないか。昭和四十九年再版された「少年行」のあとがきで、長男顧一氏

は「極端な言い方をすれば、父は「少年行」を菩くために生まれて、死んでいったような

気がします」と書いているが、何よりの懸けの言葉であろう。「少年行」冒頭の言葉「熔

岩のくずれの富士の裾はじつに広漠たる眺めである」を刻んだ文学碑は、昭和三十二年、

河ロ湖畔産屋ヶ崎に建てられた。

生涯の歩みと郷土とのかかわり

星湖の生い立ちと生涯の歩みについて、大凡を述べておこう。

中村星湖。本名・絡為、明治十七年二月十一日、河口村(現・河ロ湖町河口)に、父・柴

次郎、母・ための長男として生まれた。明治三十一年山梨県立甲府中学校入学、明治三十

六年、早稲田大学高等予科入学、「御料林」「わかれ」等を万潮報に発表、島村抱月、坪内

造達を訪ね、学生記者として活躍。明治三十九年には小説「盲巡礼」が「新小説」一等入

選。この年有名な「少年行」を脱稿、翌年「早稲田文学」で一等当選、披露掲載で文壇に

デビュー。その後の作品発表は、稿末年譜の通りである。明治四十三年結婚、自然主義作

家から翻訳作家、農民文学作家へ方向転換するのはその後の大正初期から。大正十五年に

は「農民文芸社」を結成した。昭和三年、フランス留学。この時、ロマソ・ロラン、エミ

ール。ギョマソ(仏の農民作家)を訪ねている。昭和十五年、後述するが、井出公済らと

郷里山梨県富士北麓地方に「富士五湖地方文化協会」を結成、雑誌「五湖文化」の編集主

任。昭和十七年、日本文学報告会・農民文学委員長。昭和二十年、六十二歳時、戦火を避

けて郷里河ロ村に疎開、以来ここで約三十年間、農耕と文学兼業のような生活を続けたo

昭和二十六年、山梨学院短大教授。昭和二十七年、河ロ村教育委員長。昭和三十一年には

山梨県文化功労者として表彰され、昭和四十九年、東京杉並の長男績一氏のもとで永眠し

o

星湖は、自然主義作家から脱却して行く過程の中で、社会参加の道を選び、郷土の自

然、歴史、民俗、地方文化、更に短歌、俳句、詩等の短詩型の領域にまで範囲を広げて、

郷土に大きな文化足跡を残したが、特に代表的な郷土とのかかわりの仕事いくつかを述べ

ておこうo

一、山人会この会は大正十四年四月、山梨出身の在京文化人の親睦団体として、川合

仁が提唱、中村星湖・前田晁・三井虎雄・大木直太郎・望月百合子ら十人位で発足、後に

野口二郎・土屋義郎・佐藤森三ら県内在住者も加わって活発な交流を行って現在に及んで

いるが、そのチャータ1メンバーの中心に星湖らがいた。この会の事業は昭和三十一年に

は星湖文学碑を河日湖畔に、昭和三十四年には前田晁文学碑を万力公園内に建設している

が、昭和三十五年、創立三十五年を記念して財団法人「山人会賞財団」を設定、次代を背

負う青少年子女の作文、図画等を公募、「山人会賞」をおくる仕事は、その最大の事僕で

あろう。そして初代の財団の会長は星湖であった。

二、富士五湖地方文化協会 昭和十五年に富士北麓地方の文化人約二百名を以て発足し

た。この年は、いわゆる「皇紀二千六百年」という特異な国民精神高揚運動のさ中の年、

その記念事業として郷土の先輩が発足させた会だ。会長・白須暗、副会長・井出与五右ヱ

門、渡辺新、天野伝長、幹事・井出公済、小林晴枝、渡辺鶴寿、宮下輝雄ら九人、各町村

ごとに賛助員を選出した。この会の主な仕事は雑誌「五湖文化」の発刊で、その編集主任

を星湖が担当した。この雑誌は、昭和十五年八月創刊号、以後同十五年十一月第二号、同

十六年二月第三号、同十六年五月第四号、同十六年八月第五号、同十七年二月第六号、同

十七年八月第七号とたて続けに出版されたが、七号を以て終了した。星湖はその創刊号に

、「『五湖文化』の標語を歌にて表はさぼやとてよめる」として「心もて物を率ゐむ 心も

て真心をもて世をば 渡らむ」の歌をかかげ、精神文化面の高揚を提唱。「富士を中心と

した郡内地方を、考古・民俗・社会・経済・文学・芸術・科学の各面より観察、研究、記

録し、伝統遠き岳麓の文化を開拓、促進し、世界に誇る景勝を顕揚宣伝したい」、とした。

かけ声程の広範な領域には手は及ばなかったが、内容は当時の時代背景からすれば不思議な

程、気負わず文芸・民俗学的で、題字・表紙なども気品があり、原稿難、紙確保難などのた

め惜しくも第七号で廃刊したが、星湖の面目躍如だ。この書全七巻は、昭和五十九年、中村

星湖生誕百年記念事業の一環として、「星湖先生を偲ぶ五湖文化の会」によって復刻再版さ

れた。

三、その他 昭和二十二年には村の耕地整理組合長、昭和二十七年には村の教育委員

長、昭和二十六年、山梨学院短大教授など随所に、よくぞと思われる公教職をこなしてい

るのも、生涯を通じて流れる青少年に対してのヒューマニズムや地域に融けこもうとする

努力の現れであろう。更に星湖は、短歌・俳句、民俗学等にも長じ、地域の同好の人々と

良く出会い、指導していることもつけ加えておこう。昭和三十一年、山梨県は県文化功労

者として星湖を表彰した。

田園生活と自在の人間像

星湖の生家は、今も河ロ湖町河ロ一〇八六番地にある。ここに疎開がてら帰郷したのは

昭和二十年五月、終戦直前、東京が爆撃で次々焼けつくされていくさなか、六十二歳の時

である。安全をはかる家人のすすめにさからい、「東京で死ぬんだ」と頑張ったという。

この事は、星湖自身が昭和三十二年、農民文学十号「人柱」に書、いている。郷土が嫌い

ではなかったとは思うが、自然主義作家としての透徹した観照が、その目で東京の修羅場

を見とどけようとする抵抗をさせたのかも知れないョ結局ほ、家人に動かされて帰郷した

が、それからの十数年は、既述の地域との接触はあるものの、文字通り晴耕雨読というよ

り帰農に近い日々の生活が続いた。「過去十三年間、私は百姓仕事をして来た。その間、

すこしは物も書いたり、読んだりしたけれど、田畑を耕したり草むしりをした場合の方が

多かった。」(「人柱」より)そんな生活だった。

その農耕生活とてそう楽なものではなかった。不在地主だった星湖は、小作に作らせて

おいた田畑も、悉く他人の作物でふさがり、それを返させることは極めて困難、葱一畝、

薯一坪自分の手で作れず、自宅の「たつ道」に野菜を蒔いたり、没収を免れた平地林伐採

跡を開墾したなどという苦渋の日が続いた。ましてや新農地法の適用でこの強制は益々強

まり、妻が病気した際は、蔵書の大半を売って医療費にあてたりするのだが、かろうじて

水田一枚と屋敷廻りの陸畑二枚位を返還させ、合せて二反二畝の自作を行ったという。尊

敬はされつつも、一目おかれた老作家と地元の人たちとの断絶は、そう簡単に埋められる

ものではなかったのであろう。

こんな生活の中で、星湖はいくつかの公教職をこなし、執筆し、又地域の文人たちと誠

に幅広く交遊し、指導した。渡辺雪峰、高浜虚子、富安風生、萱沼貞石、萱沼明、石橋湛

山、柏木白雨、大森義憲、伊藤應久、山元桜月、喜安確太郎、井出公済、その他地元新蕎

麦会、若葉会の俳人たち、数えあげればきりがない程交遊録に名が浮ぶ。

星湖の実家は、今も現状のまま保存され、使っていた部屋は、書斉・寝室・本棚・机・

仏壇すべてそのままである。お世辞にも立派な家とは言えないが、黒々とすすけた天井や

梁が「明治」の重味と星湖の息吹きを今に伝える。その中で特に目を惹くのは、奥二間を

区切る襖四枚の裏表八面に、星湖自作揮宅の「山荘八景」と称する漢詩である。これは星

湖の田園生活を知る上での貴重な資料なので紹介しておく。読解・評釈は渡辺寒鴎氏をわ

ずらわせた。

山荘八景一

嶽麓厳冬勝北.浜夜深柱裂桶氷焚.憂之旧臓東都旅 二月帰来草未青

岳麓の厳冬は北浜(北海)に勝る。夜深くして柱は裂け、桶(タルキ)は氷裂す。之を

憂いて旧臓東都の旅。二月帰来草未だ青からず。

一夜山荘春雪寒.苅妻浴後静眠難.魔神急襲休中命 気塊

帰天燭影残

一夜山荘春雪寒し。苅妻は浴後静眠し難し。魔神急襲す

休中の命・気塊(魂塊のことか)天に帰して燭影残る。

(夫人急逝時の詩)

老妻潔癖不恕猫.鼠族跳染巻冊揺 婦逝初容猫一疋.猫窺

鼠隠自粛蓼

老妻潔癖にして猫をゆるさず。鼠族跳梁して巻冊揺る。

婦逝きて初めて容る猫一疋(匹)猫窺い鼠隠れて自ら粛蓼。

十有三年好且転.弊衣蓬髪隠寒村.喪妻孤影何方赴.幸住湖辺血族群

十有三年耕し且つ萩す。(好、転共に農耕)弊衣蓬髪寒村に隠る。妻を喪いて孤影何れ

の方にか赴かん。幸に湖辺に住して血族群す。

幼少児童娯戯辺.荘園疎放欠轍髄.今秋晩季吾加是.爆脚超適雪嶺廟

幼少児童娯び戯る辺。荘園は疎放にして軟髄(ブランコ)を欠く。今秋晩季吾れ是を加

う。騒脚(短足、小児)超適す雪嶺の雪。

枯露柿来枯露来 是之東北膳差魁.開箱拍手爽香喜.幼女顔猶赤果堆

枯露柿来る枯露来る。これはこれ東北膳差(ご馳走・名産の意か)。箱を開いて手をう

ち爽香(三男仁氏の長女、孫さやかちゃん)喜ぶ。幼女の顔はなお赤果の堆のごとし(

氏の夫人三恵子さんは東北福島の出身)

懐素筆千朋秘蔵 不図新宝入山荘 珍書併得交情厚 反覆緒来滋味長

懐素(唐僧・草書の名人)の筆。千朋(人名なるべし)秘蔵なり。

荘に入る。珍書併せ得て交情厚じ。反覆緒き来れば滋味長し。

往昔群中最少年.今朝白髪故郷天. 倉皇日月如征箭. 七十余齢一念残

往昔群中の最少年。今朝白髪故郷の天。倉皇として日月征箭()のごとし。七十余齢

一念残る。

自。一至"七。。昭和三十二午丁丙祇作。三十三戊戌元旦作。星湖迂聖。

星湖の妻、まさじは船津の名門、井出家の出、昭和三十二年星湖を残して亡くなった。

その後は三男仁の家族と住み、昭和四十四年同氏が秦野市に引き揚げてからは、知り合い

の石井弘・勝子夫妻が住み込んで、星湖身辺の世話をした。

「おじいちゃんはやさしい方でしたが、叱られるときはいつも子供のこと、私が寛(

ん、石井の長男)を叱ると、すごく怒るんですよ。朝食時、おじいちゃんは、自分で読ん

だ本の中で子供に聞かせたい所へ線を引いておいて、それを読みきるまでは御飯が食べら

れなかったです。おじいちゃんは寛を孫のように可愛いがりr寛が初めて幼稚園に行く

朝、庭前で突然万歳と叫んで皆をびっくりさせました。」ほ石井勝子の談だ。

冬は東京、夏は河ロと、晩年ほ二ケ所を行き来する生活が続いたが、昭和四十七年、束

京の長男、顧一氏宅に移住、昭和四十九年四月東京で九十歳の生を終えた。

雑誌「五湖文化」創刊号掲載の星湖の詩、「富士五湖の歌」を紹介しておこう。

ふじの麓に五つの湖あるは

古きローマに七つの丘あるよりもめでたし

かの丘々ゆわが見し興亡の跡

この水々にかげさす白妙の王ぼこの峯

かれは妖しき虹なり夢のなごり

これは久遠の美の象徴 ふじ山の鏡。

熔岩の間に草野に黒木のかげに

藍をたたヘて照り映ゆる光の淵よ、地の星よ。

一滴の水も 功徳は無誌なりとか

五湖のうるほしやしΞ所認し鮮む麟。

星湖はやはり、山梨県が、富士北麓の土壌が産んだ文学者である。

(毎日新聞掲載稿をもとに加筆、補正した。)

中村 星湖

山梨県南都留郡河口湖村(現・河口湖町河口)に出生。本名賂為、父・ 中村集次郎、

母・ための長男。

父から俳句を、母からは読書を学び幼時から文学の環 境で育った。

明治31年山梨県立甲府中学校入学。

在校中、「中学文壇」などに投稿した。

明治36年早稲田大学高等予科入学。

同級生に中学の同級、石橋湛山がいた。

明治38年「御料林」「わかれ」「下駄物語」「水曜日」等を万潮報に発表。坪内

造遥・島村抱月を訪う。

明治39年新小説」に「盲巡礼」一 等当選。この年、夏休みに「少年行」を執

筆、脱稿した。抱月の感化をうけ、秋田雨 雀等と水明会を結成した。

明治40年「少年行」が「早稲ロ文 学」の懸賞に一等当選、披露の巻に掲載さ

る。この年「早稲田文学」記者。二葉亭四 迷、正宗自鳥、徳田秋声、島崎藤村ら

を訪門。短篇「親」を発表した。

明治41年雪の夜」「近江の宿」「町はずれ」等を発表。短編集「半生」出版。

明治42年東京毎日に「影」連載。

「石を持った女」「一切の事」発表。この年田山花袋と会う。

明治43年船津村・井出まさじと結婚。「雪国より」「畑」「二葉亭四迷論」「影」

を発表。「星湖集」出版。

明治44年長男・頼一生まる。百曜日」「ゆき所」発表。

大正2年短篇集「漂白」刊行o「文章世界」の選者となる。

大正3年「女のなか」発表。(雑誌太陽)

大正4年「失われた指輪」発表。神奈川県生麦に移転。釣に興味をもちはじめ た。

大正5年フロ−ベル「ボバリー夫人」を翻訳出版したが、発禁処分となった。モーハッ

サン「死のごとく強し」外、翻訳が多くなった。

大正8年朝日新聞に「かくれ沼」を連載しはじめたが、深刻なモデル問題が起

こり、連載を中止、以後自然主義的な作品 は書かなくなった。

大正14年前田晃・川合仁・望月百合子・野ロ二郎らと「山人会」を結成した。

農民文学に情熱を燃やすようになった。

大正15年吉江喬松等と「農民文芸会」を結成。

日本女子高等学院(現・昭和女子大)教授 となる。

昭和3年フランス留学、ロマン・ロ ーランやフランス農民作家エミール・ギョ

マンを訪ねる。

昭和15年自須暗・井出公済・小林晴枝らと「富士五湖地方文化協会」を設立、

機関誌「五湖文化」創刊。この雑誌を昭和十七年まで七巻発行した。

昭和17年日本文学報告会の農民文学 委員長に就任。

昭和20年戦火を避けて郷里河ロ村に 疎開帰農した。

昭和21年伊藤鷹久の創立した「五湖洋画美術文化協会」に参加、「富士五湖地

方文化協会」の志志をつないだ。

昭和22年河ロ村耕地整理組合長になった。戦後刊「少年行」が刊行された。

昭和23年河ロ湖畔産屋ヶ崎に芭蕉翁碑を再建した。

昭和26年山梨学院短大教授となり、文芸概論を講じた。

昭和27年河ロ村教育委員長。七月高浜虚子の来訪を受け、小曲園の句会に招待

された。

昭和29年「日本農民文学会」結成。

昭和31年山梨日日新聞文学賞審査員。山梨県文化功労者表彰。

昭和32年河ロ湖畔産屋ヶ崎に「中村星湖文学碑」が山人会によって建立され

た。妻・まさじ死亡。定本「少年行」刊

昭和39年山人会の中に「財団法人・山人会賞財団」が設定されその初代会長に

就任。

昭和44年晒同郷の文人、渥美芙峰「短詩宣言記念碑」建立発起人として尽力した。

昭和49年東京・杉並区西荻北3ー27ー15、長男頼一方で没す。

HOMEへ