生いたち

昭和二十四年十月十目、富士吉田市下吉田の名刹福源寺の離れで、一人の白髭の老人が

亡くなった。この人の名は渡辺雪峰。本名・精次、明治・大正・昭和と三代にわたって南

画、文人画界の重鎮として、又高名の書家として世に知られた日本画家であった。

雪峰は明治元年に父の任地であった出羽の庄内(現・山形県)で生まれ、明治六年郷里

山梨の下吉田に父と共に帰郷、以来ここで過した。明治三十五年頃東京に出、日本文人画

協会を主宰、日本画家としての地位を築いて活躍した。昭和二十年四月、戦火を避け、妻

豊子の実家である丸本、渡辺家に疎開、その後昭和二十一年福源寺内に移り住んだ。既に

病を得て半身不随となっていた雪峰は、加えて戦後最低の時代、物資なく、絵画きなど顧

みるいとまなく、絵具なく、紙なくという戦後最低の時代の中で尚細々と画業を続けた

が、昭和二十四年、遂に晩年不遇の生涯を終えた。享年八十三歳、墓は福源寺にある。

雪峰を述べるには、その生まれ育った環境と生家を先ず説明しなくてはなるまい。

雪峰の父・平作(後に保と改名)は、江戸時代後期より下吉田中村(現・富士吉田市本

町一丁目)に呉服商「大村」として当時かなり繁栄した商家の第三代である。この「大

村」を築いたのは初代、五郎衛門で、それ以前は下吉田、森、「あいぜん」地区に居を構

えていた。屋号は初代「山五」(八五)、二代が「大村」となった。この名の由来は、二代

五郎右衛門時代火災にあい、後営業を再開した際、仕入先である江戸の呉服問屋白木屋の

主大村彦太郎より多大の援助を受けたことを徳とし、終生報恩の念を忘れぬためその姓を

借りて屋号としたという。この二代は才人、呉服商とは言え、日常生活に必要な多くの商

品を取扱ったよろずやで、営業の内容も複雑多岐、かなりの経済力と知識を必要としたら

しいが、全盛期は店舗の外に倉庫三棟を擁(よう)していた。他面この人ほ、俳人として

も知名、甲斐の竹外(俳号)と称し、文人墨客多く来り遊ぶ一方、武芸も好み、他郷の武

芸者を招いて滞在させ、或いは甲胃や刀剣類を収集したという。

この環境の中で育った平作は、父以上に学問武芸を好み、父もこれを許容する知性と経

済力をもっていたので、到底一商人として地道に世を過せる筈もなく、遂に新徴組に身を

投ずることになるのである。

前書きが長くなるが、この新徴組について簡単な説明を加えておく。

嘉永六年前後は、ぺリーの黒船来航によって鎖国令による長い封建体制のリーダー徳川

幕府は、外からその扉をこじ開けられ、朝野を挙げて尊皇撲夷論にわきたっていた。幕府

はその対策として品川御台場建設(海防基地)のため多額の基金を諸国に割あてたo幕領

江戸に近い甲州郡内も代官により三千両に近い軍備調達金を上納させられていた。一方こ

の活動の精神中核となる旗本八萬騎の徳川親衛隊は泰平と職業化で最早や物の用に立た

ず、幕府は広く江湖に人材を求め浪士を募集した。文久二年のこと、この公募の中心人物

が鵜殿鳩翁とか鉄舟、山岡鉄太郎で初回結成の総勢は三百有余人という。第一回の勤務

は、将軍家茂上洛による京都将軍警護の任、二月八日京に出発、三月十三日任を終えて江

戸に発つた。この際京に残留したのが第六番隊、隊長近藤勇の新選組だ、帰京浪士隊にい

た実力者清川八郎ほ、尊皇撲夷から少し時代を先取りして討幕にかたむいたため、帰京後

暗殺されるが、それより少し前この帰京隊の欄充、っまり第ニ次募集採用の中に甲州から

の三十七名がいた。実際に入隊したのは十二名だが、この隊が幕府によって命名された新

徴組である。この十二名の中に渡辺平作、桑原玄達、永島玄岱らこの地の商家の若旦那や

現職の医師などが加わ。ていたのである。任務は江戸警備慕府親衛隊、この隊は出羽庄内

藩酒井繁之丞に身柄を委任されるが、既に維新の風は吹き初め幕府の命運おのずから決定

の最中に佐幕隊に応募したのは、いかに彼等が尽忠報国、国体擁護の純粋の熱血漢だ。た

かを物語るが、一面出役の郡内領担当、上暮地村出身分部宗右衛門の説得力が大いにあづ

かつてカあったものと思われる。この分部という人の妻ほ、川ロ村の高橋豊前守常秀のニ

女。現在富士吉田在住の外科医高橋常和の祖だ。時代の推移は決定的だった。慶応四年戊

辰戦争(鳥羽・伏見の戦)、王政復古、江戸城開城、上野彰義隊玉砕等、新徴組は連敗の

末出羽庄内藩酒田で賊軍の汚名の下に終局を迎えたo学識あった平作は庄内藩文学回読係

とな。たが廃藩置県で失職、一家は山形、湯田川温泉に仮住いしている時、二男精次が生

まれた。この人が後の雪峰である。平作の妻・常(つね)は境(現・都留市)米山氏の娘。

平作との間に六子をもうけたが、明治三年出羽で死亡、平作は三人の子供、長男・済(

たる)、二男。精次:三男。長三(大折)を伴って郷里、下吉田村に帰郷した。明治六年の

ことであった。

帰京した平作は然し商家に落ち着かず再三上京し家業を顧りみなかつた。父・三代五郎

右衛門は止むなく平作を分家させて、自己の家督相続人の地位から除き、孫の平作長男。

済を自己の家督相続人に指定、一方平作の創立した分家の相続人に精次(雪峰)を指定

して、大村家は戸籍上二分された。この分家が、現在の皆春堂医院の地である。大村分家

としての雪峰家はこの時から始まるo

このように商家ながら全く商人不向きの人物ばかり登場する特殊環境に育つた雪峰もそ

の例に洩れず、天賦の画才をのばし、絵で身を立てようと決意、子女の教育のためにも既

に修業のため往来のはげしかった東京に居を移すことになるのである。上京は明治三十五

年頃と思われる。

今下吉田福源寺、大村墓地に、墓誌銘碑が建っている。この碑ほ、明治二十一年頃、戸

籍は分離したが、兄弟である済と精次が共同で建てた父の顕彰(その時ほ父平作()

まだ在世)と母常の十七回忌供養碑である。撰文ほ済、書は雪峰、漢碑型式の隷書であ

る。(後述)

このような環境のため、雪峰の画が父ゆずりの土大夫的文人画南画の道を選んだのは極

めて自然の勢いであった。今資料を見ると、雪峰は画を渡辺小畢(畢山の二男)、漢学を

広瀬青村(淡窓の嗣子)、書道を長三洲(明治帝の東宮御用掛)、漢詩を大沢枕山等、東都

においても超一流の師に学んでいる。この事実だけでも、吉田の雪峰家が裕福しかも並々

ならぬ画業への意欲をもっていたことを伺わせる。

又、相貌からみても「雪峰は在村中からすでに長い髭を蓄え、一見老成人のような観が

あり若々しい人相は感じられなかった」とほ、雪峰の甥にあたる渡辺楳(しげる・兄済の

長男・在東京)の言である。尚雪峰の妻ほ、下吉田丸本本家、渡辺佐忠の三女・豊子、その

間に、長男・弘をはじめとして四男、長女。富子以下六女合せて十人の子福者であった。

末筆私事乍ら筆者の母は、雪峰の兄、済の四女、雪峰は筆者にとって祖父の弟にあたる。

・文人画家としての業績

雪峰の画は南宗画(なんしゅうが)いわゆる南画である。一名文人画ともいわれる。但

し雪峰は晩年まで日本文人画という言葉に固執し、南画とか南宗画とかいう表現を避けて

いたことは留意すべきであろう。ともかく総論的に言うなら、中国山水画を二つの様式で

区分した言葉で、南宗画は王維、北宗画は李思訓をそれぞれ祖とし、北宗画は華北系、南

宗画は江南系として殊に唐時代以後区別されたようだ。この辺の解説は、富土吉田市教育

委員会発行「渡辺雪峰の画業」の中で、著者、渡辺寒鴎氏がよく解説しているので、専ら

それによって話しを進めていく。まず日本への影響の早かった北宗画の特徴は、室町時代

後期の画家、雪舟等楊の画を見れば分るょうに、写実的、直線的で巧緻()、きびしい

画面構成、緊張した線質、細部まで綿密、等の長年の技術の修練の呆てに初めて生まれる

いわば純粋のプロの画風を言う。一方南宗画は、必らずしも写実を必要とせず、曲線的で

柔か味あり、余白には詩を書き入れ、その詩と書も絵と同時に鑑賞の対象になる画風、つ

まり絵画を通して自己の理念とか情懐(かい)を紙面に写す、従って技巧よりも気韻生動

(きいんせいどう)つまり生き生きとした気品が尊ばれ、画と賛として書く詩文とその書

三位が一体となって共鳴する(これを三絶といった)ところを芸術とみた画風だ。江戸時

代の池大雅ゃ与謝野蕪村の作品などを見ると容易にうなずけると思う。ここに文人画と言

われ、土大夫の絵と呼ばれる出発があるので、どちらかというと北宗画に対して南画は余

技派の画風と言えるのである。 .

この文人画は、主として江戸時代後期より明治初期、政情は維新。廃仏棄釈等で従来の

貴重な価値が否定される暗黒時代の中にもかからず、独り時代の寵児として顕官・土民を

問わず愛玩された。この理由は、幕末維新の諸賢が、この時代にあって封建打破の人間復

活、窮措大(きゅうそだい―貧乏書生)の趣味として、漢学、漢詩、書画の修練に志す

際、北宗の密画よりも、一筆にして気韻生動する文人画に傾倒していったためだろうと思

われる。然しこの隆盛が、後に欧化の波に乗る洋画の台頭、明治二十年、フェロノサ、岡

倉天心らの帰朝による東京美術学校創設の際、これらとタイアップした北宗派(狩野系)

が官展、アカデミズムの時流にのったのに反して、行政の介入をこころよしとせぬ自負の

ためこれに背をむけ、後のいわゆる陽のあたらぬところを歩く悲劇性の出発となったこと

は随かのようである。近代の日本画団体の変遷を見ても、明治十二年、佐野常氏によって

創設された龍池会が、明治二十年日本美術協会となって文人画、南画を含む国粋主義の立

場をとったのに反し、岡倉天心、フェロノサ、狩野芳崖、橋本雅邦らの北宗画と洋画が明

治二十二年、東京美術学校を創設して欧化主義の立場をとり、この二大潮流、というより

前者は官展に背をむけたがために、一般や美術史家から遠ざかり、後者は新興勢力の中心

となって文部省と結び、アカデミズム本流となって陽のあたる道を歩いたのが定説のよう

である。

雪峰はひるまず文人画の道をひたぶるに歩きつづけた。下吉田村に住みながらも頻々と

上京し、師につき又各地を歴訪、名所旧蹟をその眼でたしかめ、詩情や画意を養い、収蔵

家を尋ね、古名蹟を見てたゆまず研讃した。中国文人画家は「千里の道を行き万巻の書を

読むことが不可欠」といわれるが、それを身を以って実践した態度なのであろう。

雪峰は生涯おびただしい作品をのこしたが、評価が埋没した状況にあるので、まとまっ

て見る機会は少ない。昭和五十三年、富士吉田市で開かれた「雪峰展」の中から特に眼に

止った数点を紹介しよう。

験雪鷺鴬図(三十三歳) 丸本本店蔵

蓬山図 (三、四十歳) 田辺皆春堂蔵

洛浦仙裳図(三、四十歳) 平原静蔵

牒雪鷺驚図(写真)ほ、賛はないが、若い頃の気韻生動した代表作、明治三十三年五月、

全国南画共進会に出品して一等賞をとった作品だ。鑑賞の域に過ぎないが、いわゆる

南宗画の古意を体しながら、むしろ土佐派大和絵にも似た温雅優美、清新の気品あふれ、

雪峰が、南画家といわれるのを好まず、日本文人画家として終止した意気と独創がこの絵か

らも感じられるようだ。

雪峰は明治二十年創立の日本美術協会には発足時から参加、若くしてその審査員、晩年

まで幹事として同会で重きをなした。又南宗画会、文墨協会等にも関与して審査員を歴任

した。雪峰は又明治二十八年京都の工芸学校予備科で教鞭をとったというが、資料乏しく

判明しない。雪峰は画家と同時に書家としても一派を成したが、日本書道会審査員、書壇

院顧問をも歴任、画家としてよりむしろ書家としての雪峰を評価する人もある位だ。書家

として著名な中村春堂は雪峰門下である。本県縁りの画家、野ロ小頻は雪峰と親交あり、

屡々雪峰を訪ね、合作の作品もあったと聞く。

雪峰と郷土

雪峰が最晩年をおくった富士吉田市下吉田福源寺には雪峰書の碑が二基建っている。一

つは前述もしたが、大村墓所にたつ墓誌銘碑と前庭にある筆塚碑である。墓誌銘碑は、雪

峰が兄・済と共同で建てた父母の顕彰供養碑、撰者済(鉄舟)書、精次(雪峰)の隷書体

の謹厳高格の碑だ。碑の大意は、厳君(父保)は文久年間新徴組隊長として十年間、戊辰

役には羽前羽後を転戦、幸い死をまぬかれ、母も矢弾の中を私(済・撰者)を抱いて走っ

たが幸い負傷を免れ、鶴岡に移住した。この母は明治三年死亡、鶴岡の光明寺に葬った。

父は明治六年、三子をつれて故郷甲州に帰り住んだ。明治十五年三男・長三死亡。これよ

り先「精次は世録を奉還し更に生産金若干を拝受」した。この意は、「保が新徴組隊士と

して幕府から支給されていた世録(家禄、給料)ほ、明治九年明治政府の条例布告で廃止

され、これに代って身分に応じ金禄公債を附与し、一時の生活扶助を計ったので精次は保

の相続人として公債証書を受け、これを換金して資金を入手することが出来た」の意だ。

その後兄弟二人ほ離ればなれになり(分家して戸籍を分離した)親戚とも音信なく一緒に

暮すことが出来なくなった。明治十九年八月は亡き母の十七回忌、鶴岡の母の墓まで十日

かかってたどりつき、涙をぬぐって石を掃除すると母を追憶する父の詩を発見した。(

ほ略す)亡き母の霊を他郷へ委せておくにしのびず、官の許可を得て遺骨を拾い、吉田の

地に改めて葬い親戚老幼集まって香華をもって供養することが出来た・・・そんな大要であ

o

筆塚碑は短いので全文を紹介しよう。

「鈍鋒随我勉揮宅 細大数年柔又豪 今目廃毛留筆塚汝為翰翰墨記勲労」寒鴎氏はこん

な解説をしてくれた。「このホ先のチビた筆たちは我に随って書画を揮電してくれた。小

さいのや大きいのや、柔かいのやこわいのや、今日もう使えなくなったこの毛を埋めて筆

塚を建てる。そしてお前さんたちのお手柄も詩にしてしるそうよ一

筆にそそぐ濃やかな愛情と詩情が今も切々とつたわってくる思いだ。この碑文は寒鴎氏

は、師、長三洲の学んだ唐の顔真郷の重厚さの見られるものであるというo

最晩年不遇とはいえ、尚筆をとる老文人を地元の幾人かは訪れて歓談し又激励した。そ

の中に当時の町長、故宮野正美もいた。官野は渡辺宰山の一幅が欲しくて求め続けていた

が、ようやくその墨竹の一幅を入手、喜び勇んで雪峰に披露した。雪峰大いに喜び、早速

一詩を条幅にしたため宮野に贈ったものが今官野謹一氏蔵となっている(写真参照)

鄭老画蘭不画土 有為者必有不為

酔来写竹似蘆葉 不作鴎波無節枝

睾山先生写竹時。好題此詩。此墨竹数本。故無題。偶録以為随伴。後学七十八髭聖。

雪峰 渡辺精

この詩は筆山が自画の墨竹に題した詩、鄭老は宋の遣臣、鄭所南、彼は宋減亡後、蘭を

画いて根ほ画いたが、土は画かなかった。既に国に寸土もないからだ。いやしくも事を

なそうとする者は、義に於てなすべからざる事は断乎としてなさないものと聞いている。

今酔いにまかせて竹を画いたら、葉は蘆(あし)に似て甚だ拙いが、さればといって趙子昂

のような節(ふし)のない枝は画かないつもりだ。鴎波は、趙子昂の家名、従って趙子昂の

こと。宋の太祖の後裔だが、宋が亡びて元に仕え、出世したが無節操漢といわれた。無節

枝は節のない竹の枝、位の意(日本漢詩より)。この地に遣る雪峰三筆と寒鴎氏は言うo

福源寺寓居の雪峰の傍らには、常に門弟の女性が附添って世話をしていた。戦後のある

夏の目、筆者は母と共にこの老画家を訪ねた記憶がある。狭い部屋に立机をおき、椅子に

より、不自由な体ながらよく語り、絵を描くのをこれらの門弟の女性達が手伝うのだが、

賛は書き下るにつれて右に曲って行くのを危なかしげに見た思い出は、今の方が却って強

烈である。それらの女性は矢崎豊雪、新村玉雪、平原香雪(甲府の人)、佐藤水竹という

女史達とあとで聞いたが、勿論誰がどなたなど分らず、書く紙もない不遇な様子の中に

も、師弟の濃やかな感じやりん然とした風格だけが眼に焼きついて今にのこっている。

雪峰逝いて三十六年、今故郷に文化再び興る風潮の中で、雪峰の業績が改めて評価され

ている。最盛時は官展に背をむけたがため、世間的な声望は埋没され、晩年は絵画などか

えりみるいとまのない戦後混乱期の中で生を終えたことは無念といわざるを得ないであろ

う。然しこの道はもとより雪峰の選んだ道、世俗的な名利は捨て、無欲に自己の信ずる道

を進み、遂に無節枝にはならなかった南画道士大夫の道は、今いさぎよく孤高の富土にも

似て、われわれに長くその生きざまを示してくれることだろう。

(毎日新聞掲載稿をもとに加筆、補修した。)

渡辺雪峰年譜

西暦年齢

明治元年七月、父・平作(のち保と改名)、母・常の二男として、山形県七内 (ひちない)旅館

で生まれた。本名・精次。

藩主の命名によるという。父は甲州、下吉田村生れ。当時新徴組隊土として出羽庄内 藩に

帰属していた。桑原玄達も同じ道を歩 いていた。明治3(m×2)母・常死亡。鶴岡光明

寺に 葬る。

明治6年父に伴われ兄・済(わたる) 弟・長三と共に郷里下吉田(現・富士吉田 )

自由に出入りする便宜があった。

明治20年父瑞穂村下吉田帰郷、と共 に同地を本拠とし、自宅で画業に専念した。一方、

東京、関西、札幌辺まで旅行、 各地で画会、席画を行った。京都では大谷

光瑞と会っている。この年許嫁であった渡辺佐忠二女・豊子 (丸本本店の娘)と結婚。

この年兄・済と共同で、鶴岡光明寺ょり 母常を下吉田福源寺に改葬、父母顕彰供養

墓誌銘碑を同地に建立した。

明治21年長男・弘(医師)生まる。

この年龍池会(佐野常氏創立)が日本美術 協会と改称され、発足時ょり参加、審査 員、

幹事を歴任す。

明治23年次男・隆ハ薬剤師)生まる。

明治25年長女・富子(亡賀川弥四)生まる

父・保はこの頃東京市芝区神明宇田川町 (現・港区芝大門附辺)に居住していた

明治27年次女・常子E渡辺博三 ―教員―妻)生まる。

明治28(四月、京都市工芸学校予備 科教員となる。横山大観と一緒だった。

明治29年三女・寿子(亡片岡調郎 ―鉄道省勤務―妻)生まる。

明治35年三男・平生まる。

明治38年四女・喜代子(亡伊藤正―農林省勤務―妻)生まる。

明治40(妻・豊子死亡。難産の末生

明治44年父・保雪峰宅にぉいて死亡。

大正4年麹町区元園町に移る。

大正13年長男弘の開業先である小石川区小日向台町に移る。

昭和11年第一回ロ本文人画展開催、 役員に渡辺雪峰、中村不折等が名を連ね

る。この会は昭和十五年第五回展で以後戦争のため中断。同じく日本書道会(役員、

渡辺雪峰、尾上柴舟、中村春洋ら)も昭和十五年頃中断した。

昭和14年長男弘医院を閉じ、ァフガニスタン駐在日本大使館付医官として赴任

したので、世田谷区梅ケ丘代田に移住した。この年脳卒中発作のため半身不随とな

ったが、日本文人画協会の看板はかかげていた。

昭和20年戦火を避けて富士吉田市下 吉田丸本商店に疎開。

昭和21年下吉田福源寺に移る。

昭和24年十月十日同寺において死亡。福源寺に葬る。

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