桑原文庫と桑原家系譜

富士吉田市を山中湖に向けて東に抜けると光苔で有名な鐘山の瀧がある。瀧音が時に風

に乗って聞える松林の丘、熔岩が荒く地表に頭を出す台地に富士吉田市郷土館が建つ。こ

こは昭和五十五年創立され、富士北麓の歴史を、民俗を、産業を偲ばせる資料が充満して

いるが、その中のひやりと冷しい閲覧室に桑原文庫と称する一画がある。

和書、洋書整然と分類されてその数約二千八百冊、内容は歴史・政書・儒書・兵法・宗

教・地理。文学・音楽、更に辞書・類書・教科書・雑書そして医書に及ぶ。特に多いの

は、文学書約三百冊と医書約千冊、医書群は、初版解体新書、傷寒論、養生訓等有名書を

含み、江戸・明治・大正の希胡(きこう)本が多く眼につく。この文庫は富士吉田市明見

に江戸後期より昭和初期まで四代にわたった医の名家・桑原家の蔵本である。

本稿の主題は桑原玄達であるが『この人を含め富士北麓大明見に住し、医界・政官界・

法曹・財界・美術界に著名な人幾人かを生んだ桑原家について先ず述べモおこう。筆者の

医の先輩、羽田嘩(あきら)氏嶋医及び医史学に長じ、よく資料を集め、考証し詳しい

桑原家系譜を昭和五十七年十月発行「富士吉田医師会報」にのせているので、参考とさせ

て頂きながら記述していくことにする。

桑原家の祖は、後醍醐天皇船上山挙兵時に従軍、のち護良親王に随従(この地は同親王に

まつわる史蹟、伝承が多い)、親王鎌倉で兇刃に倒れた後、この地、大明見に土着したとい

う。(建武二年)

同家には本家と三分家がある。全部紹介する紙面がないので本家と第一分家について述

べよう。本家は鎌倉時代の遠祖より代を重ね、累代名主等を務めた家柄、近世・近代に続

いて竜宅・徳長(とくちょう)の名が出る。

徳長は明治初年、県下の養蚕業の指導者として県下を巡回、晩年は谷村(都留市)に富士

北麓最初の印刷所をおこし、「郡内織物新報」という織物業者向け新聞を発行、産業・教

育・文化に貢献、一

方漢詩、書道、和歌に長じた。

徳長の長男・竜興(たつおき)は京大卒、司法界に入り大審院判事にすすみ、退官後は

郷里の法律顧問、弁護土としてこの地に貢献あった人、二男・幹根は県立都留中学校第一

期卒、東大法を経て財官界に身を投じ、官選、公選知事として六期二十四年名古屋市を抱

える愛知県知事を勤め、世人の良く知る人である。二女・直枝は本稿主人、玄達の孫弘道

の妻、三女。葉摘(はつみ)は茶道、謡曲、能学に励み、今も富士吉田市で後進の指導に

あたる。幹根の長男、正昭は在バリの国際画家である。

医家、桑原家はこの桑原本家の第一分家にあたる。初代は桑原玄海(安永八年―天保十

四年、一七七九―一八四四)。この人は、文化七年(一八一〇)吉益東洞の長子・周助の古

医方家の門に入り、次いで杉田玄白晩年の門下生となった人で、富土北麓に初めて蘭方医

学を持ちこんだ医師といわれている。桑原文庫に蔵されている「解体新書」五巻には、玄

海が再読克明に朱書註記した筆の跡が見られる。二代が玄達(文化七年―明治三十四年)

三代が玄叔(天保十年―明治三十五年)、四代弘道(明治十八年―昭和十六年)と続き、五

代継雄で医業は廃絶した。

玄叔は玄達の長子、玄達を自由に活動させたのはその子玄叔といわれるが、この人につ

いて述べておく。

玄叔は安政六年、二十二歳時江戸に出て、幕府医官多紀示瑛に古医方を学んだ。後京都

に赴き、広瀬元恭の時習堂の門に入り蘭方医を修めたョこの広瀬元恭(文政四年―明治三

)という人ほ、甲州の生んだ偉大な医の先人、巨摩郡藤田村(現・若草町)の儒医の出、

十五歳で江戸の坪井誠軒蘭学塾に学び、たちまち頭角を現わし塾頭となり、同門の先輩緒

方洪庵と並び称された人だ。後京都に「時習堂」を開き、医業と医師養成の一方、佐野常

(日赤創始者)、陸奥宗光。吉田松陰らを教育ないし庇護した。天然痘絶減のための「新

訂種痘奇法」の著者、津藩藤堂家の藩医、維新後は一転官軍病院長になった先覚者だ。

玄叔はこの門に学び、郷里富土北麓明見郷に帰郷開業した。玄叔は内科医として医業に

専念する一方、政治面にも進出、明治十三年初代の山梨県議会議員、明治十六年明見村戸

長、明治二十二年初代明見村村長等医業、村政、県政にその活躍の場を拡げた。

本稿主題玄達を述べる前に、父・玄海、長子・玄叔に触れ、名門桑原家の生んだ偉人列

伝をまず紹介しておく。

玄達の経歴と新徴組

桑原玄達は医家桑原第二代、若くして京都に学び、御殿医堤但馬守に古医方を、北州道

立に蘭学を学び、更に江戸に出て父玄海の恩師、杉田玄白の子。立郷に師事して帰郷、父

玄海の医家業を継承した。治療を乞う病人は地元の外近隣更に遠くに及んだという。また

医業の外、農林業を主とする産業開発、不毛の地の植林に情熱をかたむけ、忍草山植林、

西念寺丸尾開墾等の業績は今に伝わっている。伝記によれば、「資性剛直厳格克己勉励事

を為すに倦くことを知らず、勤勉厘毛をおろそかにせず、少壮綿服の外着用せず、五十に

して初めて絹布を用いた」とある。写真を見ても有髭眼光鋭く、今こんな医者がいたら小

児科の病児なら皆泣きだすだろう、そんな顔貌だ。

その当時の医師は、医のみならず業績が地域全般に及ぶ指導者が多いが、玄達もその例

に洩れない。結局この人も郷里で医者だけやっておられた人でもなかったようで、文久三

年、五十四歳時、長子・玄叔の医業継承を確認すると新徴組に身を投じ、明治六年帰郷す

るまで約十年、郷里を飛び出してしまう。身内に血がたぎる熱血漢であったのだろう。

この新徴組というのは、前稿「渡辺雪峰」でやや詳しく述べたのでここでは補っておく

だけにする。新徴組が明治元年、賊軍の名の下に解体され、出羽庄内酒田藩にあずけられ

たのは、玄達も前稿の渡辺雪峰の父平作()も同じである。羽田嘩記によれば、「酒田

市郷土史家の、新徴組始末記によれば、玄達は藩政致道館の文学師範をつとめたが、明治

五年(一八七二)屯田兵事件に関連して脱藩、死所不明云々」と書かれていると言う。この

屯田兵というのは、庄内藩士を屯田兵として北海道に派遣することに反対し、扇動、実力

行使をしたことをさすらしい。死所不明とだけで、郷里山梨との関連には触れていない。

桑原金夫という人がいた。山梨時事新聞の記者で、後富士急行嘱託、現在の富士吉田市文

化協会の前身、昭和三十二年創立の富士吉田文化協会のリーダー、劇団表現座創設に援助、

指導、助言を与えた富士北麓文化活動の大先輩だ。現在も行われている富士吉田市主催の富

土登山競走もこの人の提言によると伝えられているが、この人は玄達七十一歳時の子、稀一

の長男、つまり玄達の孫である。桑原金夫は祖父元達の記述「在京日記」の存在を羽田陣氏

に指摘したというが、この貴重な文献は桑原文庫にもなく、金夫故人となった今、さがすす

べもない。

一体これ程の知識、名門の士が大挙して新徴組に身を投じたいきさつについては、前述

もしたが、山岡鉄舟、分部宗右衛門らの説得により尽忠報国、尊皇撲夷等の旗の下に、そ

の情熱をたぎらせたのはその通りだろうが、その当時の幕府の終末、維新の成り行きの世

情は読めぬ筈はないと思われる。それにもかかわらずの行動は、幕府に仕官して得られる

士族称号を得たい願望もあずかって力あったと推察もされるのである。

玄達後年の業績と人間像

明治六年、六十三歳、出羽より帰郷し、郷里での玄達後年の生活が始まる。死去は明治

三十四年、九十二歳だから約二十八年、高年だが、長子・玄叔の医をたすけ、医人、文人

としての黄金期の開花である。

玄達の著書に「摂生摘要」がある。明治十六年刊。全漢文、大橋辰、岩南谷、杉田玄端

ら鋳(そう)々たる土が賛序を寄せている。内容は生活環境、衣食住、浴場、水、睡眠、

房事、運動等について読破した書中の先賢の例と自験例を述べた衛生読本。地域予防医学

教本というようなものだが、学識豊富な文人医の面日躍如。巻末の語「上医治未病」は、

今より百年前、疾病を未然に防ぐ予防医学に挺(てい)身するを上医とす、との卓見で時

代を感じさせない。

玄達は、明治二十一年、コレラ予防について元老院議長、大木喬任あて建白書を提出し

た。(虎列刺病之儀ニ付建言)コレラについては「摂生摘要」にも触れているが、彼の持

論である「種乱警喩説(かくらんひゆせつ)」、「吐潟病預防(としゃびょうよぼう)一家

言」の参考文献をつけている。七十九歳時の仕事。かくしゃく恐れ入るほどである。

コレラは天然瘡、腸チフスとならび当時最も恐れられ多くの死者を出した伝染病だ。日

木のまた山梨県のコレラ流行史はこれだけでも膨大な記録であり、詳述する紙面ほない

が、日本の初発は文政五年(一八二二)、明治年間は、十、十二、十五、十九、二十、二

十三、二十六、二十八年と大流行があり、明治年間でコレラによる死者は全国で六十万人

を超えたという。山国にもかかわらず、山梨県は流行県、明治三十三年頃より衰退する

が、明治十二年よりこの年までで曜()患八千人を数える。(山梨県医師会誌より)

でも明治十二年八月の谷村町から初発したコレラは、患者(死亡)が魚商の妻だったため

全県下に広がり、患者数一〇三六人(内南都留郡六六九人)、死亡実に三八六人という大流

行となった。現富士吉田市でも市内尾垂山、堂尾山などは、死者を焼き埋葬した墓石群が

今に残り、今なお死人山の話は市民を恐怖に誘いこむ。このような時期に玄達は、建白書

を元老院議長に提出したのである。

この建白書はしかし、今見ると随分誤謬と偏見にみちたものである。玄達は建白書の要

旨として「コレラは古来有来る種乱(かくらん)にて伝染病にはこれなく、消毒法は無益

の事と確認する。」更に「開港貿易にかこつけて詐欺の消毒薬を売りつけ、わが国を衰退

せしめんとする外国の姦謀だ」とし、自説の「種乱警喩説」と「吐潟病預防一家言」を附

けている。ローべルト、コ,ホのコレラ菌の発見ほ明治十六年(一八八三)、この建白書提

出に先立つこと六年だから、明らかに玄達の医学知識の貧弱さを物語るものだが、政府が

指示する消毒剤がせいぜい石炭酸だけの時代、狸阪(しょうけつ)を極める大流行になま

じの消毒位は無効と思わせる程のものであったのだろう。明治二十一年元老院議員、岩下

方平は建白書について玄達に賛辞をおくり「虎列刺予防法の仁政なるは勿論なれどもいか

んせん費用多く細民は増税に苦しみ生活上の困難を訴ふ。予防法の費用を減ずるあらば莫

大なる仁恵ならんと希望せしに桑原翁の著書あり是れ国手の任を尽すものと云うべし」と

言っている。コレラ予防に費用がかかるのを桑原翁の言をいれて節約出来れば仁政だとい

うのだからコこの賛辞も随分乱暴だが、その時代の医学程度を知る資料としてあえて紹介

した。とにかくそれは別として、当時の一村医が元老院に建白する自尊心、これらを基礎

として明治三十年、今につながる伝染病予防法が制定されていく一つの陰の運動としての

評価はあたえてもよろしいと思われる。

玄達ほ医業の外産業、教育に尽力したことは前に述べたが、忍草山の植林、西念寺丸尾

の開墾等は良く人の知るところ、「百年の計は樹を植うることに成る」の信念の実践だ。

玄達は明治八年神官に奉職し神官として神道の布教なども行っている。生前権大教正、死

後におくられた大教正の尊号はこの活躍を物語っている。

激しい性格の玄達であったが、一面漢詩をよくし、書も良くした。玄達の漢詩一、二を

紹介しておこう。

冬夜読書

踏雪帰来既五更誰家童子読書声

推思今夜寒難忍後日必聞揚美名

玄達の書は少ないが、羽田嘩氏所蔵、自作田園詩の揮肇を富土吉田市郷土館で見ること

が出来る。

採桑婦 桑原玄達稿

煙花落尽葉茂天。煙火落ち尽くして葉茂る天。

晨昏促農鳴杜鴇。晨昏農を促がして杜綿鳴く。

隔上採桑誰家婦。陪上桑を採るは誰が家の婦ぞ。

心在双手不他顧。心は双手にありて他を不顧。

何村雲鼓驚耳声。何れの村の雲鼓か、耳を驚かすの声。

挙眉林外日欲暮。眉を挙ぐれば林外の日暮れんと欲す。

花と霞の春が過ぎて青葉が茂るこの頃。朝に晩に野良仕事をうながすようにほととぎす

が鳴く。道のかたわらで桑をつんでいるのはどの家の女性なのだろうか、心はその桑

を摘むことばかりにあってふり向きもしない。どこの村からか学校の時刻を告げる太鼓の声

に彼女はふと驚いて、外を眺めればもう夕日は林外に落ちようとしている。

珀上桑.楽曲。相和曲の名。趨王の家令王仁。妻羅敷が隠上で宿ほ道、上ほかたわら)桑を摘

んでいるのを趙王が見初めて言い寄ったが、美人の羅敷は承知しなかった故事を歌った詩。(

以上渡辺寒鴎訳ならびに解説)

枯淡にして優雅な筆致。学鼓は当時あった藤村式学校太鼓堂の音かも知れない。激しい

生きざまの果てに九十二歳の長寿を全うした円熟した人間像は、偉大なる明治の文人医家

としてその生命(いのち)を今に伝える。

(毎日新聞掲載稿をもとに加筆、補修した。)

西暦年齢

文化7年医師桑原玄海の長子として

甲州明見村にて出生。

文政12年京都に赴き、御殿医但馬守

堤に古医方を、北州道立に蘭学を学ぶ。

天保3m×ロ二十二歳頃、江戸に出て杉田立郷(玄白の子)に眼科・外科を学んだ

後帰郷、父玄海の医業をたすけた。

天保10年長子・玄叔生まる。

天保14雲父。玄海死亡。

文久3年玄叔帰郷、新徴組に身を投じ、江戸警備、ないし幕府医官として勤務

した。

明治1年江戸幕府大政奉還・新徴組解体・出羽庄内藩に移封さる。庄内藩政の

文学師範を勤めた。

明治6年郷里明見村に帰郷、玄叔たすけ医業を行う。かたわら西念寺丸尾開

墾、忍草山植林等治山産業開発を行った。

明治16年轟生摘要」を著わす。この頃神官として神道の布教にも勤めた。

明治21宍「コレラ予防之儀につき建白」建白書を元老院に提出。この頃は、東

京府麹町霞ケ関にも居をかまえた。

明治34年死亡。

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