秋づけば山中湖は群青に冴え、起伏なだらかな背向(そがい)の山が陽だまりの里をい

だく、ここ平野。夏はテニス姿の若者があふれ、冬は厚い氷の穴からワカサギが可憐な銀

鱗をおどらせる平和な村だ。この地にマダム・バタフライとして一世を風びした世界の歌

姫、三浦環がその晩年の数年を過したことを人はあまり知らない。

環が山中湖村平野で過ごした期間は、日本が一番惨めな暮らしを強いられた太平洋戦争

末期、戦火を避けて東京より疎開した昭和十八年二月十四日から精々三年以内である。後

に母・登枝も加わったが、燃料、食糧共に乏しく、ひとしお寒さが身にこたえるこの地

で、母は病床につき、あまつさえ寝たきり。その看護は環がほとんど一人で行ったとい

う。夜中に母の湯タッポを換える湯を沸かしながら、楽譜により勉強する芸の鬼、環の話

は今に語り伝えられている。 .

しかし、母は昭和二十年他界、地元の好意でこの地に葬ったが、環自身も昭和二十年

暮、病を得て入院のため上京、翌二十一年五月二十八日、渋谷の病院で死去、遂に生きて

再び平野の土を踏むことはなかった。同年六月七日、日比谷公会堂で音楽葬、環自身の希

望で今、平野寿徳寺の奥津城(おくつき)に母、登枝と共に眠っている。

古い外国の音楽人事典に、ソプラノ歌手として掲載されているのは、三浦環ただ一人だ

そうだが、宮沢縦一氏記述の年譜によって、その花の生涯のあらましを追ってみよう。

三浦環は、静岡の名門柴田家(酒屋)の出。

父は公証人・柴田孟甫。明治十七年貢京で出生。幼少より琴、長唄、舞踊を習い、美声

であったという。

明治三十年、東京女学館入学、そこの音楽教師・杉浦チカの強いすすめで、東京音楽学

(現・東京芸大)に明治三十三年入学した。.父は日本古来の芸術に進めようと思ってい

たので猛烈に反対したというが、紫矢耕(かすり)、エビ茶袴、靴ぼきの自転車通学という

恰好は、たちまち評判娘になったという。日本で歌劇全曲が公演されたのは、明治三十六

年ブルックの「オルフェオとエウリディIチェ」だが、環は音楽学校在学中にそれに初公

演、明治三十七年卒業と同時に母校の助教授となり、声楽を教えたというから、いかに俊

秀だったか分る。その門下生に山田耕作がいた。 この後ドイツに留学、帰国後明治四十

四年、この年開場した帝国劇場のモけらおとし「カバレリア。ルスチカーナ」でデビュ−、

そのまま同劇場歌劇部の専属技芸員兼声楽教師となった。この年医師三浦政太郎と結婚。

大正三年ドイツに渡った。たまたま第一次世界大戦勃発のため、英国に移り、ロンドンの

アルバ−トホ−ルで「蝶々夫人」に処女出演、これが外国でのデビューである。その後米国

のシカゴオペラと契約、蝶々夫人の外、「お菊さん」「ラ・ボエム」「イリス」等の歌劇の

主役として活躍、年百回、一公演当時で千ドルという売れっ子となった。大正七年、アメリ

カ、ニューョーク凱旋式でウィルソン大統領と二千の将兵の前で独唱したという経歴をもつ

が、世界各国での出演は二千回を超え、幾多の輝やかしい業績を土産に昭和十一年、五十三

歳で帰国、その後は主として日本で活躍した。

日本人としてはじめて欧米の大歌劇場で活躍した最初の国際的プリマドンナとして三浦

環の名は不滅だが、今様に言えば世界を股にかけたこの「遡()んでる女」が、どうし

て山中湖村平野と関わりを持ったか、不思議に思われるであろう。

歌声、湖にこだます

三浦環を山中湖村平野に疎開させるのに尽力したのは、今、同地に住む民宿「三国荘」

経営、長田四郎である。筆者は畏友、高村忠男の案内で、日差し明るい秋の目の午後、同

荘を訪ね、とら子夫人(昭和六十年死亡)を交えてその経緯を聞いた。

長田は当時、平野のYMCA寮の管理人、むろん三浦環など知るべくもない。たまたま知

人、落合氏(厚生省勤務、東京在住)から、環の夫名儀の平野所有地の確認を依頼されたのが

きっかけで交際、種々奔走した。時に戦火が東京に及び爆撃必至の情勢、落合氏も新潟に

転勤するという事情も加わり、環の疎開先に腐心した。既に郷里静岡に荷物一部輸送

は始めたものの、同地は既に安全の地でなく、山梨に是非に、というのが真相である。

長田はこれを受けて昭和十八年一月、東京九段坂上の三浦邸を初めて訪ね、困難な当時

の輸送事情にもかかわらず、家財一切、ゼアノも含めて平野に移送、ここで環の平野疎開

(三国荘別館)が実現した。昭和十八年二月十四目のことである。この疎開には、後に環

の母、永田登枝も加わり、この母と子の平野の生活が始まった。長田はこの年四月応召、

やむなく環親子を兄・長次宅に託して出発した。

長田家を始め村人の温かい配慮に支えられはしたものの、寒さと食糧不足と母の看病

で、環にとって生涯の最も困難な時代であった。まして人一倍奇行の多いといわれた環、

芸術家にありがちな周りを顧みない言動や服装は、直ちに村人と融けこむはずもなく、最

初は「東京から来た変な歌うたいのおばさん」だった。村人はあまり反応せず、反感、あ

るいは妨害などもあったと聞くし、環自身もそれを意に介せず気ままの生活をしたようで

ある。しかしその大らかな人柄は次第に村人の心をとらえ、大物を迎えた意識を地元に植

えつけていった。

子供好きの環ほ、近くに疎開していた成城学園の子供達のために歌い、乏しいながら食

物を与えたり、村の青年団にも歌や踊りを教えた。

今、三浦環を語る村の人々は、ほとんど中高年だが、皆一様に眼を輝やかせてその当時

のことを告げる。蝶の模様の豪華な衣装のこと、もう伝説化したような環の湖岸の発声練

習のことなど。

「環さんは毎朝ピアノに向かい、歌い、その声の素晴らしくて、大きかったこと…・・。

朝、湖の岸に立って歌うと、その声は湖の面を渡って向う岸に届き、こだまになって帰っ

てきました」。

素晴らしい声量は、素朴な村人にそのような驚きと感嘆となって聞えたのであろう。長田

が苦労して運び、環が愛用したヤマハ立型の古いピアノは、鍵盤が数個はがれたまま、環の

住んだ部屋共々、今、平野三国荘別館に保存されている。筆者ほその鍵盤をおしてみた。

強くおさないと鳴らない響きながら、その音は環のあでやかな、新鮮なあいさつのように

すら思われた。

祖国を歌った芸術家

三浦環の声量を伝える話ほ、前に述べた「歌声湖にこだます」のほかにも幾つかある。

昭和四十七年、日本コロンビアは「三浦環名曲集」として今までのものを再録したレコ1

ド集を発売した。この再録を担当した池田圭は「いわゆるマイク歌手でない環は、吹き込

み室で声量があり過ぎてカッティングレべルの調整に苦心した。また吹き込み時には、マ

イクから数メートル離れてもらって、フォルテの時は、さらに横を向いてもらった」

と、その余録に書いている。

「ある晴れた日に」「恋はやさし野辺の花よ」「乾杯の歌」等のオペラのアリア、バッ

ハやグノIの「アべマリア」「ミネトンカの湖畔にて」等外国の歌曲、「松島音頭」

「叱られて」「船頭可愛や」等日本の歌曲、「ラ・。ハロマ」「ローレライ」など、世界の民

謡、われわれが若き日にあこがれて聞き、又自らも蛮声高らかに歌い続けた環の「なつメ

ロ」のすべてだ。今、新しい流行歌謡が時代を風びし、カラオケが国民の大半の心をとら

え、これらの古典的な歌ほ口々埋没していくのは残念の極みだが、然し必らず伏流水とな

って、時に世に現れ、次の世代の心の中をも流れていく不滅のものであろう。

環が亡くなった時(六十三歳)、東大で解剖した彼女の声帯は、二十歳以下のそれだっ

たという話も有名だが、これとて単なる生理学的奇跡ばかりでなく、生涯の摂生の賜だっ

たのであろう。

長田とら子・三国荘夫人は、こんなことを話してくれた。「環さんは、ここにいた時、

おしゃべりはほとんどしない人でしたね。いつだったか、私はその理由を聞きました。環

さんは、八私は、歌うたい。風邪ひいてもどうtても歌わなくてはならない時だって、風

邪ひいてるとは言えないでしょう。私は喉(のど)のために余計なロほきかないのVそん

な答えでした」。

環が愛国者だったという話は、不思議のようだが本当だ。これは屈託ない大らかな性格

にもよるが、永年の外国暮らしの間に体験し、あこがれた理くつ抜きの祖国愛なのであろ

う。平野疎開中の環は、困難な交通事情ながら軍の慰問によく出かけた。今、平野寿徳寺

の墓碑面に、環自筆の「うたひめは強き愛国心をもたざれば真の芸術家とはなり得まじ環

」の文が刻まれている。

戦争中、多くの芸能人が軍慰問に駆り出されたが、この姿勢は、そんな消極的なもので

はない。前に、米将兵の前で歌った環のことを書いたが、日本の陣中慰問も、対象は異な

れ、ひたぶるに祖国を歌い、環の歌を歌っただけのことであろう。ここまで考えると、環

ほやはり、信念と自尊の明治の女といえるのではないか。

筆者の訪れた日、環の墓の下庭で、寺僧が一人落ち葉をたいていた。その煙がただよう

武田信玄ゆかりのこの古刹(さつ)寿徳寺の境内に、生涯の幾多のいきさつを乗りこえた

環とその母、登枝は、今、一つの墓石の下に静かに眠っているo

ニ浦環年譜

西暦年齢

明治17年東京に於いて出生。静岡・ 柴田家(酒屋)の出。父は公証人・柴田孟甫o

明治30年東京女学館入学。

明治33年東京音楽学校入学。

明治36年同校在学中に、日本人によるオペラ初公演「オルフォイス」に出演

明治37年東京音楽学校卒業。ただちに母校の助教授。門下生に山田耕作・鈴木

乃婦がいた。ピアノを滝廉太郎に、声楽を 幸田延に学んだが、発声は独自

で研究会得した。助教授時代ドイツに留学した。

明治44年帝国劇場開場。こけらおとしに「カバレリア・ルスチカIデ」を唱い、

歌劇部専属技芸員兼教師となる。医師、三浦政太郎と結婚。 .

大正3年夫と共に渡欧。第一次大戦 勃発のため、ロンドソへ。アルバートホー

ルで「蝶々夫人」でデビュー。シカゴオぺラと契約、渡米。

大正7)ニューョーク凱旋式・ゥイルソン大統領の前で独唱。

大正9年歌劇「お菊さん」初演〈シカゴ)。その後帰国まで西欧・東欧・中南

米・ロシアなどで約二千回蝶々さんに出演した。

昭和11年帰国。同年歌舞伎座で「蝶々夫人」公演。以後日本を主舞台に活躍。

昭和18年山梨県山中湖村平野に疎開。三国荘別館に住む。

昭和20年母・登枝死亡。八月終戦。

十二月、日比谷公会堂で自らの訳詩による冬の旅」をうたう。発病、上京、渋谷の

友人の病院に入院。

昭和21年入院中に放送と録音を行う。五月二十八日死去。六月七日、日比谷

公会堂で音楽葬。山梨県山中湖村平野寿徳寺に葬る。

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