富土こそわがいのち

厳然、孤高、秀麗、古来より限りなく歌われ、描かれ、写され、日本人すべての心に誇

りと望みと励ましを与えてくれる富士山。とりわけ富士山ろくに住む者にとっては、富士

は四季を通じて肌で感ずる母なる存在だ。その富士を地元民以上に愛し、肌にとりつき、

挑み、長い写真家の生涯の大半を富士を撮り続けた偉大なる男、岡田紅陽。その名は死後

十年以上たった今も、「紅陽の富士」として尊仰を集め、余人の追随を許さないカリスマ

的評価を保ち続けている。生涯に紅陽の撮った富士の写真は十万枚をも超すといわれ、人

間の追求するその極限の努力と執念が、愛や宗教的な昇華とさえたたえられる数々の名作

品を生んだ。

「富士こそわがいのち」と紅陽は言う。「富士山と私のめぐり会いは、大正三年の春で

あった。彼女を写し、あしかけ五十数年、それ以来富士に魅了され、今も尚限りない情愛

を注ぎこむ。はじめて私が彼女に接したころはとかくその形の美しさのみにこだわってい

たが、富士にはいのちがあった。彼女には血も通い、息吹も躍動していた。私は彼女の気

持ちの内容をつかむに悩んだ。いま私の富士ほ生きている。そして愛の鼓動が脈打ってい

るー紅陽」(顕彰碑完成記念誌《燦紅陽》より抜莱)

こんな嘆息のもれるような文章に接すると、富士はまさしく紅陽にとって惚れぬいた恋

人だ。この心ゆえに紅陽の富土の作品ほ、今も生きいきと息づく躍動をもってわれわれの

心をとらえる。

紅陽の輝かしき生涯を年譜を辿りつつ追っていこう。

岡田紅陽。本名。賢治郎、明治二十八年八月三十一日、新潟県は十日町生まれ。父竜松、

帝国議会の衆議院議員。兄正平、初代民選新潟県知事という名門の出。大正七年、早稲

田大学法律科卒。大正三年小型カメラで河ロ湖より富士を初めて写してそのとりこにな

る。大正十五年より昭和二年まで滞欧、滞南洋。昭和十二年妻智恵子と結婚。昭和十五

年同好者と「富士写真協会」創立。会長就任。同十九年「日本観光写真連盟」設立。同

理事長。この間天皇陛下に富土写真一作を献上(写真作品の献上はこれが晴矢)。昭和二

十二年渋谷に「写真スタジオ」創設。同二十七年「社団法人日本写真協会」設立、常務

理事。同二十八年「富土の会」設立 この間、米、英、独、仏、伊、瑞西等で富士山個

展。国内で写真の審査、講演、放送等に活躍しつつ富土山の写真を発表し続けた。著作、

大正十二年「関東大震災誌」発行以来、主として富士の写真集。特に昭和四十五年の求

龍堂出版「富士」は総集である。数々の受賞のうち、特に昭和四十一年、生存者叙勲の

勲三等瑞宝章ほ如何に紅陽の富土の評価が高いかを物語る。昭和四十七年七十六歳で亡

くなった。

産屋ヶ崎の紅陽碑

昭和十五年「富士写真協会」第二回の撮影会が河ロ湖をテーマに富士レ1クホテルで開

かれた。その席で紅陽はこう発言した。「富土山の中央部から爆発した小さい熔岩で自分

のお墓を造っておきたい」。皆が吃驚したが、この波紋の広がりが、今、河口湖畔産屋ヶ

崎に建つ紅陽顕彰碑の動機のようだ。

「俺が死んだら富土の見える所へ、路傍の石を積んで埋めてくれ何処でもかまわな

が出たなどといっているが、紅陽を尊仰する者達の間にこの話題と善意の輪は急速に

広がっていつた。しかもその輸は写真仲間だけのものではなかった。 場所もあちこ

ち検討され、最終的に紅陽が河ロ湖の逆さ富士と桜を主題にした写真を初。めて写し

た縁りの地、産屋ヶ崎が選ばれた。地域は国立公園区内、村から県、国への認可

中請もとんとん拍子、地主の河口浅間神社宮司・伴泰も同意協力、すべてが順調に進ん

だ。建碑が完成し、除幕式が行われたのは昭和三十一年四月二十九日。その式上で建碑委

員長、塩坂連峰から碑の一切の資産目録が紅陽に、紅陽から直ちに地元観光協会と船津村

(現・河ロ湖町)に贈られた。

ごの碑(写真参照)は単なる碑ではない。富土に向かう巨岩に埋め込まれ、これを見る

者は湖岸におり立ち、・逆に仰がねばならない。題字は横山大観(頌紅陽)、像製作・

朝倉文夫、詩文・徳富蘇峰(好漢紅陽子探奇抜入神乾坤不二岳 面目依君新)

選文並書・村上元三、建設者芳名板・福沢華雪書という豪華集合碑である。単なる碑

ではないとはその意味である。

この産屋ヶ崎は、神話、木花咲耶姫(富士浅間神社祭神)の八尋殿、無戸室の伝説、

つまり安産を意味する両が丘上にある景勝地。また同地内には中村星湖文学碑、望

月春江筆塚、芭蕉翁碑等が集中するミニ文学公園である。

従ってここは河口湖を訪れる観光客周遊の地としては絶好の地だ。しかしながら実際に

は訪れる人は少なく、環境整備もいまだしの感が深い。「美化、保存を図り、大橋側に駐

車場を、碑におりる道を含めて一周の道と、案内板を新設したい」と、筆者の旧友、故宮

下覚(元河口湖文化協会長)は生前、会う度に言っていた。紅陽の炎の如き情熱をたた

え、この偉大なる顕彰碑を完成した先輩たちに報ゆるためにも、なお一層の地元の関係者

の努力を願いたいものである。

この碑について更に残念な一事があった。昭和三十一年完成された当時の建設者芳名碑

(福沢華雪筆)が昭和三十九年盗まれた事である。幸い関係者の努力で昭和四十一年復元

されたが、今碑前面にある鉄柵は盗難除けと聞く。この柵はこの碑には似合わない。一日

も早く撤去され、多くの人がここを訪れ、三脚かついだ紅陽像に眼近く接する日の来るの

を願ってやまない。

新。智恵子抄内助。外助の妻

富士の路傍の石を積んで墓にしてくれといった紅陽。それ故河ロ湖畔産屋ヶ崎の顕彰

碑は、実質紅陽の墓といってもよいのだが、ある日、紅陽は妻智恵子にこんな事を言っ

o

「俺とお前と一緒に眠る所を造ろうよ」。そんな妻への思いやりの声に促されて枝見静

(富士の会事務局長)らの献身で死後富士霊園に墓所と追悼碑が建てられた(昭和四十

九年一月)

その表に川端康成はこんな意の碑文を書いた。「古来の富士の文学や美術が私たちの覚

えの中にあり、又目に残っているところへ、紅陽の富士山の写真が新しく浮び出てひろが

った。富土山から紅陽の写真を思い出し、又紅陽の写真から富士山を思い見る人も、今日

は多いであろう」。

昭和五十五年、富士吉田市文化協会主催の「富士山写真展」と昭和五十八年十一月、河

口湖文化祭「紅陽展」の二回にわたり来麓した紅陽夫人智恵子と話していると、つくづく

紅陽という人は二人の恋人「お富士と智恵子」に恵まれて大成した人だということが分か

つてきた。これは「新・智恵子抄」ともいうべき愛のロマンだ。

富士にとりつかれて予定通り帰宅せぬ夫のために、智恵子は家でスタジオを守り、写真

原稿を作成した。のみならず富士の取材には自らも夫に同行することが多く、シャ,ター

チャソスを狙う現場で共に寒空を仰ぎ続けた。内助・外助の妻とはこういうのを言うのだ

ろうが、しかも彼女は謙虚に言う。「私は岡田のお蔭で、今写真の仕事が続けられるので

す。

河ロ湖町、三ッ峠山荘主、写真家中村埠(たまき)氏は、永年紅陽の宿泊、案内、随伴

等、生活、行動を共にし、そのすごい仕事ぶり、苦しみ、人間味などを良く知る一人だ。

靖氏は言う。

「富士を撮るには、何といってもチャソス待ち。その点先生のねばりはすごく、狙い

出したら最後動かない。ある早朝、先生は一人で三ッ峠山頂に出かけたが、昼になっても帰

らないo心配になって見に行った.ら、板を見つけてきてその上に寝てました。

変だと思って声かけたら、《おい、富土山出たか》。余りにも現場できびしいので、気を

使うのがいやだったのか、弟子をあまり使いたがらず、やはり奥さんが一番よかったみた

いです」。

事実、紅陽は弟子ほ沢山とらなかった。その数少ない住み込み内弟子の中から、白績史

朗、棟沼光長、杉山吉良、星名善升ら俊秀が育っていった。

紅陽は撮影中なりふりかまわず、手拭で頬被りなどしている事が多く、しばしば間違わ

れたューモラスな逸話が残っている。また、現地に花の種をまいて歩いた話も有名であ

る。現に今も精進湖畔、忍野周辺にはその名残がある。

一方、写真のまいた種は、今、全国的な組織「紅陽会」となって大きく実り、紅陽を慕

って、紅陽の定宿に泊まり紅陽の現場で富士を撮す者は後を絶たない。

忍野の富士は紅陽によって名が知られた。その現場で今、富士は撮れないなどの声を聞

くのは残念でならない。富土北麓で紅陽作品が常設展示される「紅陽記念館」建設の声

が、ぼつぼつおきてもよいように思えてならない。

岡田紅陽年譜

西暦年齢

明治28年新潟県+日町中条に生まれるo

大正3年早稲田大学予科入学。小型カメラで初めて富士山を写す。

大正7年早稲田大学法律科卒業。

大正12年関東大震災で東京府嘱託として現状撮影。「関東大震災誌」発刊。

大正15年欧州、南洋見学。

昭和2(帰国。英・米・独・仏・伊の元首に大型富土山写真贈呈。

昭和4年「写真の知識」出版。

昭和7年「岡田紅陽の富士百影作品集」出版。

昭和12年智恵子夫人と結婚。

昭和14年「台湾国立公園」台湾総督府)出版。

昭和15年「富士写真協会」創立、会長就任。「富士山」(アルス)出版。

昭和18年天皇陛下に富士写真一作献上o

昭和19年「目本観光写真連盟」設立、理事長就任。

昭和22年渋谷区上通に写真スタジォを経営。

昭和24年厚生省国立公園中央審議員委嘱。

昭和25年郵政省審議会専門委員任命。

昭和27年「社団法人ロ本写真協会」 設立、常務理事。

昭和28年「富士の会」顧問、徳富蘇峰)創立。

昭和31年河ロ湖畔産屋ヶ崎に顕彰碑建設さる。

昭和32年「富士百景」(平凡社)出版o

昭和34年「富士」(明文堂)出版。

昭和36年「富士山」(社会思想社)出版。

昭和37年全国養老福祉施設に自作富士山写真百点を寄贈。

昭和40年「富士山」雪華社)出版。

昭和41年勲三等瑞宝章授与。第八回国立公園大会「自然に親しむ運動の功労

者」として厚生大臣表彰。

昭和42年ナィト勲章(騎士勲章)」並びに勲記授与。

昭和45年富士 求龍き出版。

出版記念会発起人。石坂泰三・川端康成・田中角栄・安井謙・藤山愛一郎・

梅原龍三 郎・林武氏ら。参加八百人。

昭和47年十一月死去。

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