生いたちとその生涯

富士北麓は今書道極めて盛んな土地。代表的な書道家、渡辺寒鴎、野村静谷らを含めて

書道人ロの層は厚い。然しこの隆盛も全く突然というわけでなく、少しさかのぼって行く

と、きっかけを作った草分けといえるような人にめぐり会う。その人達は山下涯石と萱沼

貞石に代表されるであろう。共に東方書道会・書壇院。毎日書道展系に属し、全国的に著

名な書道家。現在活躍中のこの地の書家もほとんどがこの二師の指導ないし影響をうけて

いるようだ。その中で先ず萱沼貞石をとりあげ、現在の繁栄する富士北麓書道会との関連

を考えてみたい。

書道家・萱沼貞石は富士北麓・富士吉田市に生を亨けた。明治三十四年四月十七日、本

名・貞治。生家は下吉田八一〇番地、通称西裏と称する地番である。五人の兄弟の三男、

長兄・重次ほ京都帝大在学中早世したが、その長男・素は今生家に住む。二男。光三、五

男・清は共に郵政省に身を置き、貞石もその関係で逓信講習所を経て、若い頃小沼(西桂

)局員を勤めた。郵政省、厚生省などを経て、戦後勧業銀行に勤務した。眼科医で漢

詩、随筆をよくした文人医、萱沼明(寒石)は、貞石の弟四男である。

年譜をみると、九歳で学芸会習字部に入賞し、郡長より硯を貰った、十一歳で「かな」

の線の美しさに開眼したなどとあるから、天性の書才に恵まれていたものと思われる。し

かし書は独学。斯華会、雑誌「不律」、正筆会等を道場にして、「かな古筆」をひと筋に研

究したという。大変な勉強家で、深夜いつまでも起きて勉励する様子を弟・明の書いたも

のの中に見ることが出来る。

昭和七年、三十一歳の時、旧東方書道展に「竹取物語」を出品、かな部の最高賞を受

賞、これが貞石の出世作となった。同時にこの年は、鈴木梅渓同門、同部の特選作家、大

谷利子(現夫人)と結ばれた生涯の記念すべき出発の年でもあった。

以来生涯につとめた肩書きは数多いが、東方書道会理事、鑑査員、大正大学講師、財団

法人書壇院評議員兼かな部審査員、新日本書道院審査員、毎日新聞全国書道展審査員等を

歴任した。自宅、東京東松原に「貞石塾」を経営する傍ら、書作、論説もよくし、著書も

数多い。

富士吉田市文化協会発行「雪解流」(第六号)に、地元の書道家で弟子でもあった野村

静谷は「身近にある書画」と題して貞石を書いているが、その中で

「貞石は仮名の作家ということになっている。仮名作家といえば、一般に平安貴族のみ

やびやかな物の中にトップリとひたった保守的な考えをもつ人を想像する。ところがこの

人はそうではない。人に接する態度、物腰の柔らかさ、その中にあるきまり良さ、温厚な

人格、これら表面にあらわれた物は平安の人であるが、作品をはじめ、書論、芸術論、更

に人間の生き方、考え方、またそれらを主張する姿勢には大変にたくましい息づかいを感

じられる一。

と述べているのは注目すべき言である。

昭和三十七年一月五日、三年間にわたる腹部ガンの闘病の末亡くなった。享年六十二

歳。告別式に際し、中村星湖は「悼貞石翁」と題し

貞石奮居障戸関 門前残雪委泥斑

聞書翁訃画僧寺 帰路過裁涙白潜

の七絶を霊前に供えた。墓は月江寺にある。

作品と著作

貞石は実作者であるが、指導者としての書に関する業績、著書も多い。領域もぺソ習字

まで広げ、昭和二十三年、主婦の友社のぺソ字専属筆者となるなど、教本も数社より出版

している。

昭和三十年出版の「毛筆の書き方」中にある「かなの筆意九法」は、かなの例の永字八

法のようなもので、かなの筆法すべてに通ずる貞石独自の説。これを更に広げ三十二法と

し、「書道実習講座」全七巻(昭和三十七年)に収めたのは不朽の功績といわれている。

前に静谷も述べたように、貞石の書や論説にはたくましい前進的なものが多い。おびた

だしい作品の中からそのような傾向の作品をさがすのは容易である。貞石は妻利子(かな

書道家・歌人)の歌を多く揮裏しているが、その中の一書、「数千の火の子散らして燃え

落ちぬやたに組まれし門の筆火」(利子歌集・尾花所載・吉田火祭)などは、歌材が動的な

ためもあるが、単なるかな書きではない。

大変進歩的な考えをもっていた貞石論説の一つに「左タテ書き論」というのがある。こ

れは日本経済新聞の昭和三十二年五月十一号に発表された三千字にも及ぶ長文のものであ

る。論は日本の文字の書き方の混乱ぶりを説き、例として週刊誌の本文は右縦書きになっ

ているのに、見出しや写真の説明だけが、左から横に読ませる仕組みになっている。右か

ら読んでいった静かな流れが、急に岩角にせきとめられて逆流する感じで、この混乱を何

とか調整し、合理的で能率的な方向にひきもどしてやることが、文化ヘの愛情だろう。私

は既に六年も前からひそかに実行していることだ。だいたい左から書けば、全体も見える

し、手も汚さなくてすむ。手紙の表書きとまでほ言わない。手紙の内容だけでも百の議論

よりも、まずは一の実行である。昭和の世代の人がこれをやりとげたなら、こんなに早く

書けて、しかも歴史的な縦書きは存続する。これは後世喜ばれこそすれ非難はされまいと

結んでいる。(以上、野村論文より引用)

書道家の論説としては極めて大胆な冒険的なもののように、われわれ素人にも思えるの

だが、自信に満ちている。今この論を実行している人があるのだろうか。

貞石が晩年病中に取り組んだ仕事に写経がある。これは田中親美翁に依頼した法華経三

十巻の書写であるが、未完「分別功徳第十七」が絶筆となった。これは漢字であるが、淡

麗精緻の中に生の緒を注ぎ込んだ側(そく)々と迫る凄い力と祈りが聞えるようである。

貞石死後、貞石追慕の門人を母体とする会「貞門会」が書壇院で結成され、同会発行の

追想録に「貞石書談百話」(萱沼明編)が載っている。これは遺稿ノ1トから百話だけピ

ックアップした寸言集だが、却って成書にないするどいものが多く、前述野村説を裏付け

るものだ。第四十四話「下風」の一例から一部抜すいしておこう。

「むかしから日本人は、外国の影響を受け過ぎ、心酔する傾向があるようだ。書道の方

面だから、外国といえば、とりあえず支那になるが、江戸時代からその傾向はあった。足

利義満などは明から永楽銭を貰ったりして国としての誇りを一向に感じていないらしかっ

た。()荻生但侠のごときは、江戸から品川へきて孔子の国に一歩近寄ったといって、

よろこんだとか(クソ野郎め)・・・略・・・日本風の書道は、平安朝に生まれたが、鎌倉以後年

々大陸との交通が開けると共に、発達を見なくなり、逆に大陸風が、次々ともたらされ、

唐様として日本を席巻したから、日本風を却って卑下する風潮まで生まれた。これはどこ

まで行っても、支那の下風に立つものだ。()

勉強と実践の上にたって、自分の立場を自覚した日本風の書道の確立を目ざすべきとす

る強い意見は、充分の説得力をもっているo

貞石の仕事の場は、主として東京であったが、実弟・明が眼科医院を開業していた

富士吉田市を殆んど毎週往復し、明が帰京する昭和三十四年まで続いた。従ってこの

地には多くの貞石作品の外、貞石揮皇の碑石が幾つか今に残っている。その一、二を

紹介しよう。一つは、昭和二十六年、富士吉田市の委嘱を受けて書いた「日本武尊望岳古跡の碑」

(撰文・西村賢三郎)で、今北口本官浅間神社裏、大塚(おつか)丘に建っている。

その外、昭和三十五年、富土古田市泉町、道路竣工記念の「道祖神」の隷書碑、年代は

分らぬが、下吉田第二小学校に今もある横書きの謹厳、端正な校名碑などがそれである。

貞石一門の流れをくむ本市の書真会(渡辺寒鴎主宰)も年々隆盛を極め、この地域の書道

界に貢献しているのも、貞石余徳の一つと言うべきであろう。 t

貞石家族・佳麗なる渾然

貞石を論ずる時、妻利子と弟・明(寒石・戸籍上は養子)をセットにして述べないと全

容が伝えにくいことはしばしば。それ程、この家族は同一の芸術的環境の中で、こまやか

な生活を送り続けた。

利子は大正二年、福島県白河市の生まれ、由緒ある旧家大谷家がその生家。父は五花村

と号し川柳をよくした趣味豊かな名門の出である。今風に言えば、才女の典型とも言うべ

き彼女は、旧東方書道会の特選第一位を連続四回受賞という華々しいデビュ1が縁で貞石

と結ばれた。現在、書壇院理事、評議員、審査員、郷土の書真会(渡辺寒鴎主宰)かな部

担当顧問、東京で貞石塾を主宰、貞石亡きあとその道を継承して多忙な毎日を送っている。

利子著「かな」は、貞石死後、昭和四十一年発行されたが、たちまち再版された名著。

これ程の実力者が、貞石生前は余り表に出ず、夫貞石と養子明に献身した謙譲は今も語り

草である。おいの萱沼素氏は、「叔父の生存中は、叔母があのような大家とは思わなかっ

た」と今も言う。

利子はまた歌人としても令名高く、歌集「尾花」を持つ。この歌集は、その歌材が殆ん

ど富士山麓の自然詠で占められ、正に「富士に詠う」である。利子は歌を柳原白蓮に師事

したというが、その作家態度は徹底したもので、対人詠、生活歌は殆んどない。女流歌人

としては誠に珍しい歌集である。この特徴については、想像するしかないのだが、生活を

共にしていた萱沼明の随筆集「眼のある随筆」に「歌のこと」というのがあり、参考にな

るかも知れない。この中で明は、「われわれの生活の中で、あまりに多すぎる感激や刺戟

の連続を避けて、無感激の魅力、生活のバランスを歌に求めたい」というのがあるが、無

感激では歌は出来ないだろうが、あるいはこの家族が、歌や俳句をこのような境地に求め

ていたとすれば、それは一つの解答であるかも知れないし、共感できることである。

とにかくこの歌集は、作者の抒情と自然が一如に昇華した美しい世界をわれわれに見せ

てくれる。巻頭の歌

夕映えに染み渡りたる亡の穂なみ打ちながら富士につづけりの透み徹る観照は全巻を通

じて流れる。この歌集は、初版は貞石が草稿をぺン字で書いたと聞く。再版は、夫貞石

の終焉を歌った

たな引ける夕焼消えて富士暗し 手術室より未だ見えぬ夫

の連作、その他補遺編を加えてあり、この絶唱ほよむ人の心を打つ。

それぞれ三人が、強烈な個性を持ちながら作りあげた佳麗渾然としたこの家族の魅力

は、余人には想像すべくもないが、明は貞石、明の関係を一石二鳥をもじって二石一鳥と

いったという。ほほ笑ましくも心温まる文人家族である。

萱沼貞石年譜

西暦年齢

明治34年山梨県富士吉田市に生まる。

大正元年かなの美しさに開眼、斯華会入会。

大正9年雑誌「不律」の競許欄によって自学自習した。

昭和4年「かなと歌」の正筆会に入った。

昭和7年旧東方書道会展に「竹取物語」を出品、かな部最高賞受賞。同じく特

選の大谷利子(現夫人)を知る。

昭和8年東方書道会理事、鑑査員、「書道芸術」の発刊に加わる。

昭和9年高野切臨発表。

昭和10年和漢朗詠集臨発表。中正書道会審査員。秋荻帖臨発表。

昭和11年鈴木梅湊の古筆講座に列し、田中親美翁を知る。大正大学書道講習会講師。

昭和13年「実作主義」「昭和仮名新制論」(書芸)

昭和14年「仮名扇面の練習」連載。

筋切の味を出したかな創作。

昭和15年財団法人書壇院評議員兼かな部審査員。かな書道講座を中正書道に連載し始む。

昭和17年京都帝大教育講座に列した

昭和18年ァッッ島玉砕の山崎保代部隊長の墓表を書いた。

昭和20年「藤原定家卿」(書壇)

昭和21年「かなの手ほどき」連載はじめる。(書壇)

昭和22年新日本書道院審査員。日本書道奨励協会審査員。実弟・明を養子として入籍。

昭和23年毎日新聞社主催全国書道展審査員。主婦の友社ペソ字専属筆者。

昭和26(m×m)富土吉田市「日本武尊望岳古跡の碑」同「明見町水道碑」を書く。

「ぺン字の書き方」「文字のくずし方」出版。厚生省の「ララ記念誌」に皇后陛下の

御歌謹書。各国に発送。

昭和28年「正しいペン字の書き方」 (あかね)出版。

昭和30年「高野切、腕法、臨書」発 表。「毛筆の書き方」出版。中に「かなの筆意九法」を発表。

昭和31年書道実習講座全七巻出版。

「書と南画四人展」書壇院展に「尾花」出展。「ぺン字手紙の書き方」出版。

昭和32年日経新聞に「左から右へ」と題し、左タテ書き論を発表。書壇に「かな習字に必要な心

がまへ」連載。富士吉田市泉町、山之神社道祖神碑識。

昭和33年雑誌「高校教育」に「左タテ書き論」発表。「ペン字講座」書壇連載。

昭和34年「かな条幅講座」書壇連載。随筆「墨色」(書道美術)

昭和35年夫人利子の歌集「尾花」の草稿をペン字で書写。「ぺン字書き方字典」

出版。八月、盲腸炎で開腹手術をうけ、陽癌が発見された。

昭和36年腸癌と戦い乍ら、田中親美に法華経三十巻の製作依頼。写経を続け

た。十月腸閉塞再入院、手術を繰りかえした。

昭和37年一月五日、病院にて死去。

富土吉田市貞石山荘で埋骨式。三月、書壇院で貞門会結成。

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