天賦の画才

本シリーズも既に十八回を過ぎた。幸い読んでくださる方々から「現在活躍中の生きの

良い文人をも時々登場させては」との声を聞く。御要望?にお応えして、現役の。パリパ

リ、飛び切り生きの良い増田誠(洋画家・)に御登場願おう。

昭和八年(一九三三)四月、大月町、旧制都留中学校(現・都留高)に茶目っ気多く、

天才的に絵のうまい一年生が入学してきた。谷村町(現・都留市)からやってきた増田

誠。現在。パリで活躍する最高峰の洋画家の若き日の姿であつた。

愛称は「マコちゃん」、谷村の下谷で床屋をしていた父・清治郎、母・かねの二男坊だ

(大正九年・一九二〇年生まれ)。そのころの都留中の電車通学組(富士山麓電鉄利用)

の一人のはずだが、ほとんど自転車で谷村から通ったのではないか、という記憶があ

る。もっともこの自転車は英語、数学のある日はよくバソクして図画の目は絶対しな

かったという名車?であったが・・・・・・。

いたずらっぼく行動的、しかも絵がうまいのでクラスの人気者。休み時間、黒板に当時

大流行だった田河水泡の「のらくろ二等兵」の漫画や次教課担当の先生の似顔を描く。

時に怒った先生もいたが、大概ほ「うまいな、似てるな」などと、しばし消すのを惜し

んでからの授業開始という光景もしばしばだった。

そのほか、少年増田は書もうまかった。「同窓・都留高のあゆみ」という本がある。同

書は山梨日目新聞に昭和五十七年六月から一年にわたって連載された都留高物語の集成だ

が、その中に、都留中二年、増田誠として先輩長田鋭二に贈った書「質実雄毅豪宕」が載っ

ている。増田は後に曙美夫人との間に生まれた一子に毅と命名したくらいだから好きな字だ

ろうが、とても中学二年生とは思えない天才的な字だ。

とにかく中学時代から絵の天才、美術部の至宝として名を成した男ではあるが、一面、後

に増田年譜に必ず登場する中島穣(由多禾)、増田の才能を引っ張り出した当時の若き図画

教師の存在も忘れてはなるまい。

この天賦の画才に恵まれた男は、しかし家庭的には必ずしも順風ではなかった。父は増田

が十一歳の時死亡、実際の養育ほ十ニ歳年上の長兄・徳太郎。一時学業を続けることさえ危

ぶまれたが、・同級生吉田乾の父、初狩法雲寺住職・吉田祖海に助けられて中学最終の約一

年は同寺から通学したo

三電噺′(ばなし)めくが増田と寺との縁は深く、曙美夫人の生家、富士吉田市西念寺

もその一つ。

ここは都留中卒業後、小学校時代の恩師、小林信太郎の世話で吉田尋常高等小学校(現・

富士吉田市立吉田小)の代用教員を務めたころの止宿先だ。教員、一時就職の後、昭和十六年

  1. 徴兵入隊。南支、仏印、シンガポール、宗谷、釧路、九州等を転戦ないし配属後、
  2. 太平洋戦争終結を迎えたo

終戦時陸軍中尉。この後北海道釧路にわたり釧路時代がはじまる。一九四五年料亭の娘、中村

芳子と結婚。しかし料亭の主人におさまり切れず帰農入植、さらに釧路市で光工芸社(絵の傍ら看

板業)創立等、苦悩と動揺の数年を送った。

このころ一線美術の上野山清貢を知り、その影響で画家として世をたてる日標が定まったのだが、

一方では家族を捨て、会社を売り独力でバリに遊学する大胆な計画を実行。上京は昭和三十一年

  1. 三十一歳時であった。私事であるが、筆者は旧制都留中五年間、増田誠と共に学んだ同級
  2. の一人である。

パリに奮戦す

日本における師、上野山清貢の影響でバリ遊学を決意。上京(前述)した増田は、東京

西荻窪善福寺止宿。ここで中央美術学園の郡山三郎や岩井弥一郎の諸氏を知り、その厚遇

をうけながら。ハスポ−ト中請と旅費工作にとりかかった。その頃は旅費も高く、旅券許可

はなかなかおりなかった。

昭和三十一年(一九五六)夏、筆者宅に増田誠が、突然現れた。十八年ぶりの再会、そ

の日から彼は拙宅に泊り込み、離れで絵を描き始めた。幾日滞在したか忘れたが、一点出

来ると蛸唐草の風呂敷に包み、増田がそれを背負い、筆者の運転するスクータ1に同乗、

知人を巡って懇請、買って頂いた。一点五千円、多くの方が快く買ってくれて渡仏費用の

いくばくかに充当した。

当時の希代圭司市長らの協力で「増田誠後援会」が発足し、個展(下仲会館)を開催し

たのもこの年だ。池谷芳平氏ら五湖美術会の協力も忘れられない。こんな輪は都留市でも

坂本哲・芳枝夫妻、小林信太郎氏らを中心に広がり、更に釧路市でも一九五七年「増田誠

後援会」が発足し、栗林定四朗、吉田利和、小船井武次郎の諸氏が奔走してこの渡仏計画

に協力した。皆売つて渡仏費にしたので当目の増田の絵は今筆者の手許に一点しかないの

だが、この「水仙」は想い出として掛け替えるこモなく今も拙宅玄関に飾ってある。

昭和三十二年(一九五七)七月二十八日、増田は初めて。ハリのオルリー空港に降り立っ

た。憧れの第一歩。年齢としてもむしろ遅い三十七歳。最初は日本人画学生が多くたむろ

するシテ・ュニべルシテのメゾン・ド。ジャポン(薩摩会館・日本人宿舎)に落ち着い

た。その後ザボのアトリエを経てホテル・リべリアに移り、ここを根拠に初期の「増田誠

バリに奮戦す」の凄い活躍が始まった。

渡仏翌年、一九五八年四月、サロン・デ・アンデ。ハンダソ出品。早くも。ハリ画廊の老舗

モランタン・ヌヴィョンの目にとまり契約。同年サロン・ドートンヌに出品、一九六〇年

五月にはシェルブール国際ビエンナーレ展でグランブリ受賞。同年十月、サロン・ドートンヌ

出品作が。ハリ市買い上げになるなど僅か三年で一躍国際画家の名声を獲得した。

この年一次帰国。既に前妻と離婚していた増田は、一九六一年、かつて止宿先であった富士

吉田市上吉田西念寺息女、浅沼曙美と結婚。決意あらたに新妻を伴って帰仏した。以来二十

三年、この琴露相和す家庭の中で増田は遣憾なく順調にその才を仲ばし、今や世界に通ずる画

家として不動の地位を確保して現在に至っている。

芸術のメッカ、バリの画壇について一寸触れよう。グラン・バレ(バリ最高の会場)

の開催展は、アソデ。ハンダン(四月)、ル・サロン(五月)、サロン・ドートンヌ(十月)

ナショナル・デ・ボザール(一月)だ。このうちサロン・ドートンヌは日本なら二科展、

ル。サロソは官展、それぞれ出展所属があるのはバリでも同じだそうだが、増田は一九六

三年、サロソ・ドIトンヌ会員、一九六五年、ル・サロン展無鑑査、六七年、アンデバン

ダン会員、七三年、ナショナル・デ・ボザール会員兼審査員とこの四展を総なめにした。

バリで絵だけで飯の食える画家は僅かだそうだが、増田はその中の輝ける存在の一人だ。

増田展は。ハリの外、オランダ・スイス・アメリカ・イギリスに及ぶが、日本での開催も

精力的だ。多くの百貨店や画廊展を経て、一九七〇年、小田急百貨店での第一回個展以

来、主としてここに拠り、一九八四年四月で第十四回を数える。特に一九七六年、小田急

での「。ハリ二十年記念展」は今も目に残る圧巻だ。一九八〇年発行の増田還暦記念の集大

成画集「増田誠」は彼の今までの努力の経過と業績を余すことなく伝える。

広い画域と交友

増田誠の持つ素晴らしい感性と個性は、至適環境バリで驚くべき開花をした。彼は飽く

ことなくバリの風景を、港、海、水を、そして街並みを、市井の群衆を、居酒屋を、ムッ

シュ及びマドモアゼルを目を見はらせる独特の技法で描き続ける。増田の絵は哀歓をたた

えつつも総てが明るい人間味あふれた抒情、現実肯定の自然主義、そしてそれを止揚した

リアリズムだ。渡仏早々増田の絵を発見した画商の伯楽、モランタン・ヌヴィョンはこう

言つている。

「増田誠は何よりもまず。ハリを描いて定評があるが、同時にまた灰色の大洋、輝かしい

海面の画家、偉大な風景画家、同時に注目すべき人物画家だ。このような作家を最初にフ

ランスに紹介したこユは私の誇りと喜びだが、一方このような芸術家をかくも永く。ハリに

引き留めたことを日本の皆さんにおわびする一

ここ数年、増田は[約聖書やギリシャ神話などにまでその題材を拡げ始めた。直接の動

機は一九七六年、ル・サロン展無鑑査のテーマが「リべルテ・自由」であり、為に旧約の

Eエジザト記」に取材したのが始まりといっているがハこの作品ほ爺出・rE

現・山梨県立美術館蔵)「中世からの宗教画の歴史を知らないと、ョーロッバの各美術館

を巡っても理解出来ない」と彼自身も言う如く、その旺盛な知識欲を物語るものだ。しか

しここでも増田が描く宗教画は彼の人間味さながらの現世的な明るさであり、その中に

描く裸婦の姿態などはむしろ官能的でさえある。

画評は評論家に譲るとして彼の身辺を述べよう。

増田は今バリの十三区、ジァンヌ・ダルク通りに住むが、それまでにいくつか住居を変え

た。前述のメゾン。ド・ジャポン以後ホテル・リべリアに続いて住んだカッシャンアバート

もその一つ、広い交友関係をつくった増田の根拠地だ。楢原健三、向井潤吉、中村直人、平

賀亀祐ら著名人はもとより、在バリ目本人の多くがその輪の中で「楽しいモソ。ハルナスの

時代」「カッシャン時代」を懐かしむ。

カッシャソ時代、長男・毅が生まれた。この時代、毅のべビーシッターもしたマダム・

シュバンヌとの交友は国境を越えた人間愛の美しさをわれわれにみせつける。

ちょっと古い話に戻ろう。これらの時代の仲間に故堀田清治(洋画家。日展審査員)

いた。ある日、堀田は増田と故和田英作の話をしたコ堀田は和田の直弟子。和田が昭和初

期、富士吉田市上吉田刑部旅館に逗留、富士を描いていた頃の絵具持ちだ。堀田は言っ

た。「あの頃和田先生が描いている後で、変な若い者がよく絵を描いていた」。増田「そ

れは俺だ」。昭和十三年前後、増田、古田小学校在職時代の話だろう。

大らかな交友は天性の社交好き、人間好きに加えて中学時代から培われた増田の人生観

「恩を忘れた奴は人間じゃない」の実践だ。面倒見の良さも随一。パリの日本人画家で

増田の世話にならぬ者はないといわれる程の親分肌。彼は来日すれば必ずかつての知遇の人

を歴訪すモ一九八一年五月、訪仏親善使節団一行の 一員として筆者らは全員増田邸を訪問、

歓待された。その時のフォンテンブローの森から採ってきた「わらび」や「ふき」の味は今

だに忘れられない。「増田の作品は現在、県立美術館、都留市、富士吉田市等の。ハブリック

をはじめ、個人にも多く愛蔵されている。富士五湖文化センターを訪れる人は、増田作、ホワ

イエの大壁画の前で憩い、「楽土たち」(一九七五年作)の百号の大作二点を間近く鑑賞して頂き

たい。

終わりで恐縮だが、この画家に何一つ雑事をわずらわさせず、家事、門弟の世話もろも

ろの事務一切を担当、増田をして「福の神」と言わせるフランス語堪能の賢夫人・曙美を

讃え、富士北麓の生んだ世界・のム.ッシュ及びマダム増田に心からなる祝福を贈ろう。

増田誠年譜

西暦年齢

大正9年山梨県南都留郡谷村町下谷(現。都留市)に出生。父・清治郎、母・

かねの二男。

昭和6年父・清治郎死亡。

昭和8年谷村尋常高等小学校を経て、山梨県立都留中学校入学。美術教諭中

島穣(由多禾)の指導をうける。

昭和13年都留中学卒。四月、富士吉田市吉田小学校の代用教員となる。西念寺

下宿。

昭和14(吉田小学校退職。国華工業

就職。

昭和15年母・かね死亡。

昭和16年国華工業退職。東部12部隊入隊。幹部候補生として南支、仏印、駐

屯。後千葉重砲学校。大東亜戦勃発。

昭和20(軍隊歴略)八月終戦。中村芳子と結婚。北海道清水町に入植農業に

従事。

昭和25年釧路市で光工芸社創立。上野山清貢を知る。

昭和27年第二回一線美術出品会友。

昭和28年第三回一線美術森永賞。師

上野山の影響で。ハリ遊学を決意。

昭和31年光工芸社を売却。上京、渡仏の準備。岩井弥一郎等と知る。第六回一

線美術奨励賞。

昭和32年第七回一線美術展でM氏賞。委員。富士吉田市、都留市、釧路市小

品展。三市に後援会。七月、。ハリに着く。

シテ・ュニべルシテ・メゾン・ド・ジャポンにおちつく。スペイン旅行。秋、在仏日

本人展出品。

昭和33年サロン・デ・アンデ。ハンダソ出品、ザボのアトリエに移る。モランタ

ン画廊と契約。サロン・ドートンヌ展出品

昭和34年名古屋、在仏日本人画家30人展招待出品。中村芳子と離婚。

昭和35年ボントヮーズ市展招待出品、ボントワLズ芸術会員。ノルマンディ

旅行。シェルブール国際展、グランプリ賞、。ハリ近代美術館とカンヌの「現代大家

と新進作家展」招待出品。サロン・ドートンヌ出品、。ハリ市買上。第一次帰国。

昭和36年白木屋個展、浅沼曙美と結婚。モナコ国際展。モランタソ画廊個展、

昭和37年サロン・ナショナル・デ・ボザール展、。ハオ市買上。バリ市近代美術

館会員。出展六回、個展二回。

昭和38年サロン・ド−トンヌ会員推挙、出展五回、個展四回。

昭和39年出展七回、個展ニ回、ジョヴィシー市国際展、名誉賞。

昭和40年サロン・ナショナル・デ・ボザール出品、会員推挙。東京、大丸個

展。。ハリ近郊、カッシャンに移転、ル・サン出品、金賞、ル・サロン無鑑査。出

展、五回、東京造形個展。第二次帰国。

昭和41年出展二回、個展三回札 幌、釧路、ロンドン)。ル・サロン出品作、

アメリカ大使館買上。

昭和42 毅、誕生。サロン・デ・ァンデハンダン出品、会員推挙。デール・ク

テン展、。ハリ市買上。ル・サロン出品作、 ゴーギャン賞。出展三回。

昭和45年小田急百貨店第一回個展。

一線美術二十周年記念展グランプリ賞。ル・サロン展金賞。宙土古田市市民会飴壁画

原画制作。出展四回、個展四回第三次帰国。

昭和48年サロン・ナショナル・デ・ザール出品、審査員。小田急第四回個

展。。ハリ13区の現住所移転。第六次帰国。

出展五回、個展一回。

昭和51年小田急第七回個展(在。パリ二十年記念展)、第九次帰国。

昭和53年小田急第八回個展、第十次帰国。

昭和56年小田急第十一回個展、第十三次帰国。都留市、釧路市個展。

昭和57年小田急第十二回個展、富士吉田市個展、第十四次帰国。

昭和60年小田急第十五回個展、第十七次帰国。

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