山梨県
(甲斐国)の歴史紹介山梨県の旧国名、甲斐の名は、山間の国、峡(かい)から来ているといわれているように、海をもたない県である。県の四周は2000M〜3000M級の山に囲まれている。
郡内は、旧き良きものを温存する地域であり山梨県東部と富士北麓、山中湖を源とする桂川流域を指し東京都、静岡県、神奈川県、埼玉県に接する。富士山麓には、富士の伏流水によってできたといわれる富士五湖や湧泉などがある。この郡内に、一六市町村が点在する。
ここ、郡内は甲斐の国に属したが、甲州であっても「国中」ではなく、「外地」であった。他国の武州や相州、駿州からしてみれば領国の地続きであり甲州への入り口に他ならなかった。この地は平坦でなく山また山に囲まれた山間地であり人の行き来は峠越しであった。徳川幕府時代には、江戸の西側の備えとして甲斐の国を天領とした。そのため甲府には江戸のミニ文化が花開いたのである。しかし逆に、甲州人の手による独自の文化・民生が甲州全体に広がることはなく、いつまでも武田氏の遺制のみ温存されて中世の世界が色濃く残存することになった。そのため甲斐の国は近世をもたず中世から一辺で近代へと移ったといわれているゆえんである。とりわけ郡内はこの傾向がはなはだしい。郡内は江戸時代には一時、天領でなく藩が置かれていた。甲州織物もこの頃藩主、秋元但馬守によって広められた。
二、国中
(くになか)国中は、甲府盆地地方と富士川流域の河内地方に分けられ、埼玉県、長野県、静岡県に接する。国中には四八市町村が点在する。
甲府盆地は古くから、甲斐の国の中心部であり甲斐国府であった。短い期間であったが甲斐の国を歴史の檜舞台にたたせた名武将、武田信玄の居館もこの地域である。ここ、国中に居館を置いていた武田氏は清和源氏の血を引く甲斐源氏でした。この国中地方は古くから甲斐国の中心地とされてきた。理由は言うまでもなく、国中は郡内に比べていろいろな面で便がいいからである。そして、甲州には金山が有り甲州金(通称:甲金)と呼ばれていた。武田信虎(信玄の父)の頃には「古甲金」と呼ばれる独特な金貨を貨幣として国中地方のみ通用が認められていた。甲金にはほかに「甲安中金」「甲安今中」「甲重金」「甲定金」などが各時代によって使用されていた。また、御張紙値段(公定歩合)を定め年貢を決める「大小切の税法」や甲州特有の「甲州枡(郡内では郡内枡)」などの国中だけの特権が武田の時代から続いているのである。
三、甲州街道
正式名称は始めは甲州海道であったが「甲州道中」と改称された。日本橋を起点に八王子・甲府を経て信州の下諏訪までで中山道に合流までの全長二一〇KM区間であった。宿数は四五であったが、うち二五宿が甲州内に置かれていた。
四、富士路
甲州街道の大月宿駅を郡内方面へ行くと、谷村(都留市)、小沼(西桂町)、を経て上吉田吉田(富士吉田市)の北口本宮富士浅間神社へと続く道である。この路は霊峰富士の信仰(富士講)に要した路でした。そのため吉田には御師(おし)の家が多く現在でも点在している。
五、甲斐路・鎌倉街道(往還)
八世紀頃、律令国家が唐に習って、駅制度を完備した都から国府を連結していく幹線道路であった。幹線道路は七道あり、各国府を連結するのは支路(道)であった。ここ甲斐国府へは幹線道路の一つ東海道の横走駅(御殿場市)より支路(甲斐路)が引かれ、籠坂峠(加古坂)を越え、加古駅(山中湖村)、河口駅(河口湖町)を過ぎ、御坂峠(御坂町)を越えて、水市駅(一宮町市または御坂町)を経て甲斐国府へとつながっていた。甲斐路には加古、河口、水市の三駅が置かれていた。
後に、鎌倉幕府が開かれると都の鎌倉が東海道に連結している関係で、そのまま鎌倉街道として重要視された。鎌倉街道は、石和宿、黒駒宿、本村、駒木戸番所、御坂峠、河口宿、上吉田村、山中湖村、国界番所、駿州須走村へ(途中、富士路の大月、上暮地、明見、山中湖村へ合流)と連結されていた。(甲斐国誌より)
