☆ 樋口範子のモノローグ(2016年版) ☆ |
更新日: 2016年12月01日
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2016年12月 |
中高の同級会や同窓会は、有志の幹事たちのおかげで、年に一回は行われて、ていねいな通知も来るが、たいてい土日開催なので、残念ながら欠席の返信で失礼をしている。ただ、山中湖という観光地に暮らしている利点で、プライベートな同窓会はしょっちゅうあり、これは思いがけない至福だと思う。かつて口をきいたこともない同級生と、今では当たり前のように仲良くつきあっているのが、ふと不思議に感じることもある。
ここ数年、予備校の同窓会という、怪しげな集まりにも呼んでもらっているのだが、これがまた実に愉快で楽しい。
今から50年前、高校二年だったわたしは、数学が苦手で、当時必修だった数UBという大きな壁の前で立ち往生していた。数学には、連立方程式をもって完全に見放されてしまい、各種証明問題にはじまって三角関数、確率など、まるで外国語で授業を受けているようだった。クラス内には、聡明な数学女子がかなりいて、わたしの目には眩しいくらい、いったいどんな食事をして、どんな雑誌を購読しているのか、想像もできないほどの距離を感じていた。
しかし、とにかく数学が必修である以上、10点でも点をとらなくてはならないので、必死だった。参考書を買ってもよくわからず、数学が得意だったという父に質問しても、質問自体がよくわからないという有様で、ついに代々木ゼミナール(代ゼミ)の、〈よくわかる数T講座〉という復習科目に望みをかけて、週末だけ通うことにした。
たまたま一年先輩のMさんが、同じ代ゼミの〈美大コース〉に通っていたので、「わたしたちはビルの最上階だから、数学講座が終わったら、のぞきに来たら?」とさそってくれた。数学講座に通いはじめてわかったのは、自分がこんなに数学を好きになりたいと思っているのに、まさにとりつく島がないという虚しさだった。ひどく気落ちして、当時5階だか6階だかの最上階にあがり、〈美大コース〉の扉をそっと開けてみた。
そのときのショック、今でも忘れない。広いアトリエの中央に、豊満な肢体の女性ヌードモデルがすわっていて、周りをぐるっと取り囲んだ生徒たちが、真剣なまなざしでクロッキーに没頭している。生まれて初めて目にする光景に、それも予備校内でいきなり、何? これ? と足がすくんだ。シーンと静まり返り、たった5分間の休憩で、そのおばさんヌードモデルがほっとしている間も、生徒たちの身体はゆるむことなくスケッチブックと睨み合いをしていた。こういう世界があることさえ知らなかったから、美大志望の同世代が、やはり眩しく見えた。休憩でMさんが笑顔で近づいてきても、なんだかぼおっとしていたにちがいない。それ以降、美大コースの生徒たちとは、夕方喫茶店に立ち寄ったり、安いご飯を分け合ったり、かなりの交流があった。
よくよくふり返ってみれば、数学講座で知り合った友人はひとりもいなかった。
そして、あれから50年。結局わたしは、10点もとれない数学には蹴飛ばされたまま、世の中にはもっともっと知らない世界があると自分に言い訳して、意識的に数学を迂回しつつ67歳にまでなった。連立方程式までわかっていれば、なんとかなるものだと強がりを言っていたが、最近ではもう、分数同士の割り算さえも???になった。
そして、あの代ゼミの最上階アトリエで、懸命にクロッキーに勤しんでいた生徒たち数人と、思わぬ再会があり、そして不定期だが同窓会に呼んでもらっている。なかでも、彫刻家でありながら地方の石材店に就職し、墓石の墓標を掘っているY君とは、偶然にも知人の寺の墓石を通した奇縁があった。予備校に卒業式はなかったが、みんなで乾杯をしたら、これで晴れて卒業した気分になった。感動するのは、その美大コース仲間数人のうちの半数が、今も美術に関わる仕事についていて、美術の話になると熱くなることだ。そしてだれもが、わたしが数学どころか美術にも音痴だということをよく知っていて、「ねえ、どう思う?」と質問しないことだ
今年のカレンダー最後の一枚にも、早々に書き込んだ、〈予備校の同窓会〉という文字。自分には、ちんぷんかんぷんの美術談義が実に心地よく、その場にいるだけで何かから解放されている気もちになる。まだまだ未踏の世界があるという気もちにもなる。
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2016年11月 |
中近東でも中央アジアでも、また北アフリカでも、多少の不便や不愉快はあっても、思わず言葉を失う絶景や先人たちの秀でた芸術、街角の美談にたどり着けば、マイナス部分はチャラになって、笑い話になりさえした。ぼったくり商人やタクシー運転手に騙される話は、ごまんとある。
しかし、ある日本人40代の夫婦が、実にあっけらかんと語った逸話で、いくらか考え方が変わった。彼らは、赴任先のアフリカの某都市に家族で二年以上住み、現地の人々と交流し、限られた食材や住宅環境で楽しみ方を見い出して、アフリカの音楽や手仕事に憧憬し、思い切って夫婦でタイコを習うことにした。近所の公園で、インストラクターの指導の下、ギャラを支払って小一時間練習するのだが、そのインストラクターが練習時間を守ったことがほとんどないという。遅刻、すっぽかしは普通で、あるときはインストラクターを交えて発表会をしようということで、日本人仲間を招待し、全員そろってさあ始まりという時点で、肝心なインストラクターが来ない。遅刻でもなく、結局すっぽかされ、仕方なく夫婦二人でつたない演奏をしたらしい。彼らの困惑、それでもと努力した笑顔まで察せられる。
その後、インストラクターと連絡がとれたが、なにやら親類の法事があって行けなかったと、悪びれる様子もないそうだ。その法事は以前から予定されていて、突発事項ではなかったというから、もって行き場のない憤りが、単に話を聞く側にも伝わってくる。
同じように、仕事を休んでまで参加した娘のダンスの発表会が、いつのまにかキャンセルされていて、茫然とした日本人の父親の話とか、果ては、どこかの政府高官が外国から訪問したのに関わらず、肝心な大統領が遠いカナダに行っていて留守だったとか、信じられない話が次々出てきた。
彼らは言う。「そういったことすべてが異文化だと受け入れなければ、到底やっていけない。暮らしていけない」はたして、彼らは引き続きその同じインストラクターに、今でもタイコを習っている。
〈異文化を尊重する〉のが、いかに生ぬるい美辞麗句なのか、わたしは思い知らされた。まず、〈異文化を受け入れる〉ことが、容易なことではないことに気づき、それは多くの衝突と代償、失望と忍耐を越えなくては得られない境地でもあった。抗議しても相手に通じないルール、理解されない失望、忍耐ほど辛いものはない。
アフリカや中近東で偉業を尽くしたシュバイツアー博士や野口英世博士、そして今もアフガンの治水工事や医療で身を粉にする中村哲氏や多くの名もなき人々が、そうした〈異文化の受け入れ〉を無言で越えてきたことに、あらためて畏敬を感じてやまない。
クリスチャンである中村哲氏が、現地にキリスト教会を建てるのではなく、現地の人々の信仰するイスラム寺院モスクを建てたことにも、氏の姿勢がじゅうぶんに察せられる。
一方的な批判をして、相手方に改良や改善を求めることは、案外短時間で結果が得られそうだが、こちらの文化の押しつけになる。そして〈異文化〉のすれちがいは、友人知人や師弟、夫婦、同僚、ビジネス関係、つまり人と人が接する場の細部にわたって垣間見られる。現実問題、互いの〈異〉をどこまで〈受け入れ〉られるか?!
今まで無意識に、安易にさえ使ってきた、いわゆる〈尊重する〉とか〈理解し合う〉などの言い回しを、一旦自分の中で咀嚼しなおしたい、長い冬を前にそう思っている。
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2016年10月 |
たとえば、自分たちに関心のある、かつて3世紀ごろシルクロードの拠点として繁栄したが、現在は廃墟となり、土器やガラス器の破片が散乱するブハラ郊外のパイケンド荒野とか、やはりつい数十年前まで数万人が暮らしていたという各町のユダヤ共同体などを歩いた。 たまたま、武田百合子氏の『犬が星見た』というロシア旅行記で、1969年に竹内好、武田泰淳、武田百合子の三氏が横浜を船で発ち、同じくサマルカンドからブハラへとつづく旅記録を読み、当時と変わらぬ風景や建物の描写に共感があった。武田夫婦の一人娘の花さんが、実はわたしの妹の中高での同級生であったため、その一か月の旅の間、高校二年だった花さんはどこで暮らし、お弁当はいったいだれがつくっていたのか? などと、つまらない想像もしたりした。ちなみに、19歳だったわたしはそのとき、イスラエルのアボカド畑で、トラクターに乗っていた。 ウズベキスタンには、第二次大戦後、ソ連の捕虜になり、強制労働で事故死や病死したのべ数千人といわれる旧日本兵の墓地が何か所かあり、そのいくつかは現地の日本大使館の尽力で墓地が整えられ、墓石が建てられ、墓標に名前が刻まれ、県人会などの墓参団による慰霊が、今も行われている。 タシケントという大都会の片隅にあるムスリム墓地の一角にも日本人墓地があり、わたしたちは二回とも墓参をした。大理石の墓標に刻まれた、ひとりひとりの兵士の名前と年齢、出身地を見ると、どの兵士も20歳前後と若く、出身は日本全国にわたっている。いつ帰国できるか全く予測のつかない異国の地での重労働、寒冷との闘い、栄養失調、伝染病の蔓延など、まさに想像を絶する彼らの日々を思うとつらい。 墓参の折、その一角を常に掃除したり、案内したりしている墓守のウズベク人に会ったが、その風貌は黒澤明監督の『デルスウザーラ』の主人公を彷彿とさせた。おそらく内面も控えめで、朴訥で実直なのだろう、いたく印象的だった。 二回目のウズベキスタン行きには、わたしなりの目的があった。それは、かつてのユダヤ共同体の今を見たい、ほとんどがアメリカやイスラエルに移民してしまったあとに残った共同体の教会、共同墓地を訪問したいという願いがあり、事前に、当地の民族の歴史や変遷を学び、旅に備えた。しかし、残念ながら、現在のサマルカンドには、ユダヤ人ガイドは皆無だとわかり、前回お世話になった、現在も京都大学で研究者であるムスリムのガイドさんに、遠慮しつつその旨を伝えたら、快く承知してくれた。たまたま彼の里帰りに時期を合わせ、二年ぶりにサマルカンドの旧市街で再会した。 サマルカンドのユダヤ人墓地にも寡黙な墓守がいて、黒い小犬一匹のお供もあり、零下5度の寒空の下、ゆっくりと墓地の中を案内してくれた。歳は50代後半だろうか、真っ黒い目と深いシワが際立つ無表情で、葬儀から納体までの経緯を説明、ガイドさんがその都度日本語に訳してくれた。葬儀には、移民先のアメリカやイスラエルから遺族が訪れ、墓標の打ち合わせなどをするという。日本では〈家〉の墓に石屋さんの手を借りて納骨されるが、現地では一人一基、土葬の上をコンクリートでかぶせ、墓標をたて、ちょっとした工事になる。最後に、わずかな寄付を申し出ると、「これは、わたしの仕事だから」と一旦は辞退したが、ガイドさんに促されて、タシケントの日本人墓地の墓守とおなじように、恐縮して受け取った。自分はイラン人だとその墓守が言い、現在の国家の政治的対立と宗教的異邦人の敵対を思うと、その意外性と寛大さに心が動いた。 サマルカンドから汽車で4時間ほど西に行った先、ブハラというオアシスの街にも、つい50年前まで二万人が暮らす大きなユダヤ共同体があった。現在は、たったの数百人だが、たまたま宿泊場所がユダヤ教会の近くだったため、そこを訪問したとき、ヘブライ語が通じるたったひとりのユダヤ人と出会った。なんと、イスラエルで数年間ヘブライ語を習った若いユダヤ人墓地の管理人だという。墓地は教会から徒歩10分の場所だから、明日なら案内できると言ってくれた。 そして翌日、わたしたちはブハラにある広いユダヤ人墓地を、ゆっくり時間をかけて歩いた。そしてたまたま、管理人室を訪ねてきた墓守のおじいさんと出会った。72歳だというその墓守もまた、日焼けした額に深いシワを刻み、味のある顔をしていた。管理人と墓守は、タジク語という、かつてユダヤ共同体で話された言葉を話し、その音は、ヘブライ語ともアラビヤ語ともロシア語とも全く異なる、別の星で交わされる言葉のようだった。わたしたちはここで、あえて寄付金ではなく、日本から持参した墓用の造花を無名墓地の一角にさした。そこは、今から70年以上も前、東欧やウクライナで迫害を受け、アメリカやフランスに逃げる途中で立ち寄り、不幸にも病死した名もないユダヤ人たちの墓だった。 墓守には、管理人にはない一種独特の雰囲気があり、それは、タシケントの日本人墓地やサマルカンドのユダヤ人墓地でわたしたちが感じたと同じ、寡黙で重厚な物腰、実直な視線が共通していた。出会った3人の墓守が、そろいもそろってそうした人格を滲ませていたことに、今さらながらおどろく。なぜなのか? 日本に帰ってもずっと考えていた。墓守の主な仕事は、墓地の草取り、掃除だというが、毎日たった独りで広い地面にへばりつくように働く彼らに、声をかけるのがだれなのか? 推して知るべしなのだが、彼ら自身が意識せずとも、そうした者たちと言葉を交わしているとしたら、なんという報われ方なのだろうか。 「これは、わたしの仕事だから」という言葉は、いまだにわたしを離さない。この世だけで通じるのが言語ではない、このごろはそう思えてきた。
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2016年09月 |
以前、〈喫茶店の定休日〉という連載コラムにも書いたことがあるが、30代で甲府の同人誌に参加していたころ、指導者である作家の先生たちから、二番目にあるものを書きなさいと言われていた。つまり、一番書きたいことには触れないで、その次に書きたいものを文字にしていけば、おのずと一番書きたいものがにじみ出てくるはずだというのが、恩師たちの教えだった。グラスの水に砂を混ぜてみる。砂粒が言いたいことや書きたいことだとすると、混ざっている間はまさに混沌として、何を言いたいのかわからない。しばらく放っておくと、砂はだんだん沈殿していく。「ゆっくり時間をかけて待ち、上澄みだけを書けばいいんです。樋口さんは、なんでそんなに慌てて書こうとするんですか」どれだけ注意されたかわからない。 待つことは難しいが、何度もその通りだと思った。上澄みはもう、ただの水とは異なる。沈殿した砂もまた、ただの砂とは異なるはずなのに、それがなかなか待てない。 残念ながら、恩師たちの教訓を生かせず、たいした作品も書けないまま、すでに30年以上もたち、自分が恩師たちの年齢になってしまったが、その教えはいまだにわたしの座右の銘にちがいない。 作品は書けなかったが、暮らし方には大きく影響していると思う。パソコンメールこそ活用しているが、フェイスブックは閲覧のみでほとんど発信はしないし、ラインも未踏ですんでいる。 あっ、〈この気もち〉〈楽しかった!〉 〈ああ、素晴らしかった!〉 〈ほんとうにありがとう!〉〈いいね、いいね!〉〈おめでとう! やったね!〉 気の合うSさんやAさんにメールすれば、どんなに共感してくれるだろうか、どんなにお礼の気もちが伝わるだろうかと、一日に何度も思うが、すべてスルーして、そのうち時間がたち、不義理のノリコさんと呼ばれて、思わず苦笑する。大事な人たちとの関係は、地下に何本も流れる水脈にも似ている。あえて目には見えないし、聞こえもしないが、常に淡々と静かに流れていて、肝心な時にふっと湧き出てくれる。何年も交信のない親友関係は、決して珍しくない。こういう気づきは、携帯電話をもたないことで確実に得られる。 ラインの反応がないからといって、不機嫌になることもないし、着信拒否されたといって、余計な心配をすることもない。「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」という名交通標語があったが、若い人たちがラインの返信に躍起になる姿を見ていると、「互いに気がすむだけの交信、そんなに急いで何になる」と言ってしまいたくなる。 周囲に、自分の気もちや本音を言葉にすることは、はたしてそんなに大事なことなのか? 子どもたちや若い世代に、「自分の気もちを正直に書きなさい」などと、さんざん勧めてきた側の反省からか、あるいは、今さら「本音なんか、気もち悪いから言葉にしないでくださいね」と言えない気まずさからか、最近は携帯電話をもたないことに、尚さらほっとしたりもする。
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2016年08月 |
知り合いが山中湖に遊びに来て、「リゾートだから、こういうの着られるのよね」と言って、アロハと擦り切れたジーンズを指さした。そのとき、この場所が自分には日常だが、知り合いの彼女にとっては非日常なのだと、今更ながら知った。 さてそれなら、いわゆるリゾート地を日常として暮らす自分には、いったいどこがリゾートで、心地よい非日常を感じられるのか? ふと考えて、すぐに思い当たる場所があった。わたしたち家族がこよなく愛す田貫湖畔が、たぶんその場所なのだと思う。ちょうど富士山の反対側、清潔で、広々としていて、一日中ぼおっと過ごすだけだが、心身ともにのびのびできる。擦り切れたジーンズをはく知り合いと同じように、無国籍の民族調パンツスーツも、田貫湖でなら平気で着られる。それも、うきうきと着られる。 しかし、田貫湖近辺に暮らす人々には、やはりそこは日常なのだろう。そして彼らにはきっとどこかに非日常の場所があるはずだ。もしかして、山中湖だったり? するかもしれない。人々が、そうして不確定の日常と非日常をぐるぐる回っているのを遠くから見たら、きっと面白いにちがいない。場所を移動、入れ替えするだけで、あの人たちはどうして表情が変わるのだろうか? と。 わたしの場合、都会は非日常だが、できれば、一刻も早く用事をすませて、山中湖にもどりたい。都会の時間に浸っていたいとは、けっして思わない。日常を出たからといって、かならずしも手足がのびのびするとは限らないのだと知る。 そして今、さまざまな破壊的天災、テロ、戦争、難民、事故、物騒な通り魔事件を経ている2016年の春から夏にかけて、当たり前に生活すること自体が、ありがたい日常なのだと実感している。世界中で今、リゾートだとか、非日常だとかを選べる人の方が、稀なのだと知る。3・11直後、それを痛いほど認識したはずなのに、いつのまにか忘れてしまった自分がいる。 災害や災難は、もはや他人事ではない。「十六歳の語り部」ポプラ社を読み、未災地に住む自分に気づき、「家族の軌跡」大西暢夫監督のドキュメンタリー映画の試写で、昨日のあなた、明日の我が身を目の当たりにすることができた。リゾートという単語が、遠く懐かしく思える日が、いずれ必ずくるだろうが、そのときに否が応でもふりかかる試練に、できるだけすっと移行できるよう、今を生きたい。
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2016年07月 |
人が人を好きになるのは、だれがどうなって、何がどうなるのか? という素朴な疑問を、科学ではなく、思春期の視点から描いたヘブライ語YA(ヤング・アダルト向き作品)の短編がある。『愛の手ほどき』という、あまりぴんとこない原題なので、わたしは『だれかを好きになる不思議』と邦題をつけて、7作品収録のその一冊を、もう10年以上各社に持ち込みをつづけているが、なぜか結果がでない。その理由はともかくとして、では実際に、自分の思春期はどうだったのか? をふりかえると、あるひとつの場所が思い浮かぶ。 渋谷にある〈東横のれん街〉という、昔の東横デパートの一階にある食品売り場がその場所だ。17歳の時、学校ではアルバイトが禁止されていたが、わたしは高3の夏休み、冬休み、春休みの短期バイトをその階に立ち並ぶ中の、某老舗食品店で販売店員として働いた。今から50年前の高校生バイトは、時給90円だったのをよくおぼえている。商品であったイギリスパンが50円、バターロール5個入りが70円だった。売り場の裏階段から抜けて行く巨大な社員食堂の定食が60円で、おなじみの天ぷらうどんが45円だった。 東横のれん街というのは、今もそうだが、交通の各路線(地下鉄銀座線、井の頭線、東横線)の中継点でもあるため、買い物目的ではない、単なる駅から駅への通行人が多く行き交う、たいへん混雑する場所で、ときには、学校の教師が店の前を通るので、思わず床に伏せて隠れたりもした。 幸い先輩店員や上司はみな人柄がよく、不器用な高校生バイトにいつも優しく接してくれた。ある日、わたしの自宅の近くで先輩女性店員の良子さんとばったり出会い、偶然にも彼女のアパートが目と鼻の先であることがわかった。良子さんは、夕食後に遊びにいらっしゃいと呼んでくれた。 地方から集団就職で上京した良子さんは、勤続10年と言ったから、たぶん25歳くらいだったのだろう。6畳一間の、水回り共同の昔ながらのアパートの一室で、つましいひとり暮らしだった。ほとんど家具のない部屋には、小さなちゃぶ台があり、そこで向かい合ってお茶を飲んだ。それから、仕事中に「今晩お茶飲みに来ない?」とさそわれることもあったし、また良子さんをうちにお呼びしたこともあった。 ある晩、ちゃぶ台の向こうにすわった良子さんから、思いもかけない話を聞いてしまったのだ。それは、実は加藤店長と良子さんの恋愛話だった。当時わたしが頻繁に通って夢中になった渋谷の3本立て映画館で観た、〈ブーベの恋人〉〈男と女〉〈リーザの恋人〉〈幸福〉などの洋画とは逆に、良子さんの話は、自分にはたいへん受け入れがたいものだった。40代の加藤店長には、妻子があった。なんとも生々しい話なのだが、良子さんは笑顔で話し、「気がつかなかった?」とまできいた。気がつくもつかないも、想像すらしていなかったから、頭が混乱して、翌日のバイトは、仕事に身がはいらなかった。フランス映画やイタリヤ映画で美しく、哀しいと感じたものが、実際に身近で起こると、なぜこうも嫌悪感を伴うのか? その数日後、たまたま友人を訪ねて代々木ゼミナールに行った帰り、明治神宮外苑の入り口で、今度は副店長と、のれん街の同じフロアーで店をはるお寿司屋さんの女店員さんが、手をつないで外苑に入っていくのを見てしまった。どちらも、たぶん独身だったであろうから、別に問題はないのだが、普段は全く他人の顔をして働くふたりが、そういう関係だったのかと知り、いたくおどろいた。 それまでの、活気のある食品街の光景が色あせて見え始め、昼間はつらつと働く人々の表情とか動きは、単なる一面にすぎない、その裏に見えないもうひとつの物語があるのだと知った。 そのうち、わたしは高校を卒業し、時給を120円に上げてもらい、さらにその数週間後、バイトを満期終了して、横浜港からナホトカ経由でイスラエルへと旅立った。 そうして月日がたち、『だれかを好きになる不思議』を日本語に訳しながら、こうして歳を重ねても、〈なぜ人は恋に落ちるのか?〉は、わからないまま どうやら思春期だけの疑問ではなさそうだと知る。自分もとっくに繁殖年齢を過ぎているが、すてきな男性が目の前に現れると、ドキドキ、ワクワクしてしまう。なぜか? ときめきの所以はやはりわからない。残念なのは、すてきな物語が思い浮かばないことだ。 渋谷はここ数年大きく姿を変え、昭和26年創業の東横のれん街はマークシティに移転し,たというが、あえてそこまで行く気にはならない。そのうち、旧東横デパートも取り壊しになると聞き、かつての光景が、自分の中ではまるで小説の舞台のように、いよいよ現実感のないものへとなりつつある。 そのひとつの要素として、あの時の良子さんが、ほんとうに店長と恋愛関係にあったのかどうか? 今ふりかえれば、疑わしい。きっと単なる片思いで、そのせつない胸の内を、近所の一女子高生バイトに物語として語ったのではないか? ただし、何もかも50年前の話だ。良子さんが、この物語をまだ切々と描いているとは、当然思えないが、70代半ばであろうその人の脳裏に、もしかして突如〈だれかを好きになった不思議〉が現れてもおかしくはない。 実家に行くたび、現在は瀟洒なマンションに建て替えられた、良子さんの以前のアパートの前を通り、あの質素な暮らしぶり、ちゃぶ台、そして東横のれん街を思う。最近とくに、ちょっとだけ、胸がきゅんとなる。 |
2016年06月 |
49年前にイスラエルで暮らしはじめ、昼食の食卓に野菜のトマトソース煮が並び、その形と色で、きゅうりの煮物だと思い、以来しばらくの間、日本に帰国してからもずっと、「イスラエルでは、きゅうりをトマトソースで煮て、それが軟らかくておいしいのよ」などと知ったかぶりで解説などしていたのだが、ある日中近東料理のレシピーで、それが実はきゅうりではなく、ズッキーニというかぼちゃ科の野菜だと知って、恥をかいた。 ズッキーニは、あれよあれよという間に日本で人気を博し、ラタトゥユやフリッターに調理されるが、うちではもっぱら、生でゆずぽんサラダ、にんにくと醤油で炒め煮(これはご飯に最適)、てんぷら、ぬか漬け(きゅうりの1・5倍の漬け時間)、みそ汁の具にまでなって、夏野菜としてすっかり定着した。 一方、アボカドも今ではだいぶ日本人に馴染みとなったが、うちではやはりイスラエル風に、レモンと塩、黒コショウでパンに載せている。わさび醤油やマヨネーズも悪くはないし、最近は下北沢の店で中華炒めものまで体験したが、自分ではまだ上手くつくれないでいる。 イスラエルでの二年間、わたしはずっとアボカド畑で働いていた。苗木植え、草取り、肥料やり、枝切り、そして冬の雨季中の収穫は、雨が目に入ってなかなか辛い仕事だった。今日本の店先で見るアボカドは、イスラエルではハースという種類で、5メートル以上の高い木のてっぺん付近に鈴なりになって垂れ下がる。バナナの収穫と同じで、緑色のうちに採って、熟成させてから主にヨーロッパ向けに輸出する、重要な農産物のひとつだった。わたしのいたキブツでは、他にザクロ、ビワ、グレープフルーツ、西洋梨、オレンジなども輸出用に栽培していたので、それぞれの収穫期には互いに加勢し合っていた。 アボカド畑の常勤者は、だいたい10人くらいで、わたしは紅一点だったので、畑のはじにある小屋での朝食係も兼ねていた。朝4時くらいから畑に出るので、7時の朝食は、だれもが待ちに待つひととき、パンを切り、コーヒーを温め、ひとりひとりに卵焼きを焼くのだが、目玉焼きや卵焼きの焼き加減の好みが各自異なり、18歳のわたしにはそれを会得するのが大変だった。目玉焼きをひっくり返して、さらにカリカリになるまで焼いてくれとか、黄身は半熟で白身にはしっかり火を通してくれとか、牛乳入りのスクランブルにしてくれとか、注文は10人10様にややこしかった。サラダはテーブルの真ん中にトマトやきゅうりを置いておくと、各自が自分の皿の上で、銘々にマイサラダをつくるので、わたしは、彼らがサラダをつくっている間に、卵料理をつくれば間に合うという段取りだった。働き手が増える収穫期は、フライパンを二個使って、一度に二人分を焼いた。 朝食の支度に早く小屋に行けるように、そしてすぐに現場にもどれるようにという畑のボスの采配で、小さなトラクターをあてがわれ、わたしはそのイタリヤ製の通称NBをほぼ毎日運転して、畑をあちこち走った。もちろん、無免許だったが、わたしがそれに乗って走ると、なぜ可笑しいのか? 仕事場の連中はみな笑った。 アボカドは重要な輸出用産物なので、自分たちの食卓にはめったに出せなかった。ハネものがあまりなく、収穫したうちの9割近くは箱詰めして出荷できたから、今から思うとロスの少ない農産物かもしれない。しかし、ハース以外の品種は、大味で水っぽくあまり人気がなかった。ボスたちと数人で、アボカド組合の会議に半日もかけて出かけたことがあるが、やはりそこでもハースが重視されていた。 輸出先のフランス農業組合の代表が視察に来るので、なんとか今後も良い取り引きを継続してもらうために、みんなでハースのオープンサンドをつくって、おもてなしをした日、レモンと塩と黒コショウのシンプルサンドは、好評だった。大勢のフランス人たちの言葉をだれも理解できなかったが、そのときの笑顔と拍手に、いくらかほっとした。ふだん、卵焼きに細かい注文をつける仕事場の連中といっしょに、必死にオープンサンドをつくったっけ。 そう、アボカドにレモンと塩とコショウをかけてパンに載せると、懐かしいという言葉さえ超えて、あっという間に、あの日にもどれる。仕事場の連中も、だれもが青か茶色の目をして同じような巻き毛なのに、わたしにはフランス人たちだけが外国人に見えた、不思議なあの日。 |
2016年05月 |
〈木〉 お花が散って 実が熟れて その実が落ちて 葉が落ちて、 それから芽が出て 花が咲く そうして何べん まわったら、 この木は御用が すむかしら 〈ぬかるみ〉 この裏まちの ぬかるみに、 青いお空がありました。 とおく、とおく、 うつくしく、 澄んだお空が ありました。 この裏まちの ぬかるみは、 深いお空で ありました。 〈こころ〉 お母さまは 大人で大きいけれど、 お母さまの おこころは小さい だって、お母さまは言いました、 小さい私でいっぱいだって。 私は子どもで小さいけれど、 小さい私の こころは大きい。 だって、大きいお母さまで、 まだいっぱいにならないで、 いろんなことを想うから。 こうした作品を含む31点を、日めくりにしたカレンダーがあって、20年くらい前に二点購入し、そのうちの一点を店のトイレ壁に掛けていた。毛筆字体の日めくりで、それぞれに味わいがある。 店をはって何年か経ったある日、若い元気のよい女性が、「あのう、トイレに掛けてあるカレンダー、いいですね」と言った。 あれは、たしか5月下旬で、その女性はうちの長男が連れてきた仲間12人のうちの一人だった。そういう評価をはじめて受けたので、わたしは思わず「もう一部買ってあるけど、もっていく?」ときいたら、「わあ、うれしい」と喜んでもらってくれた。 その2年後、その女性は、うちの長男の嫁さんになった。 彼らは結婚後すぐにイスラエル、日本、再びイスラエルと住まいを替え、今は家族でアフリカのガーナに暮らす。久々に一時帰国したとき、11歳の孫が、「あっ、このカレンダー、うちのトイレにも掛けてある」と言った。 長年、数回の引っ越しを経ても、カレンダーがずっと家族とともに移動していることに、少なからず感動した。 いつの日か、孫が大人になったとき、この同じカレンダーの詩をどう思うかをきいて、もし好きだと言ったら、31作品の中でどれが好きかをきき、何故同じカレンダーが二軒に、それもトイレの壁にあるのかを、話してやりたいと思う。
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2016年04月 |
ユーモアのある人に出あうと、その人の越えてきた人生が、ふと滲み出てくる。おそらく自らのユーモアに気づいていないだろうなと察すると、なお更ユーモラスに感じる。
最近は、ユーモアとギャクとを混同して、人を笑わせることがユーモアだと勘違いしている場合が多々あるが、ユーモアに寄り添うのはペーソスで、含み笑いはあるとしても、嵩笑いではないと思う。
例えば、小児病棟に入院中の子どもに、看護師がゼリーを食べさせようとするとき、「ほらね、ゼリーが怖くてぶるぶる震えているね」と言うと、病気の子どもは自分の不安感や恐怖心を、目の前のゼリーが共有してくれているような気がするだろう。
故障して止まってしまった時計は、進んでいるとか遅れている時計よりは、ましだという。なぜか? 止まってしまった時計は、少なくとも24時間中二回は正しい時刻を示すからだというのがその理由だ。
上記の二件は、外国人の口から聞いた、おそらく健全な部類にあるユーモアだと思う。ユダヤ人がユーモアにたけているのは、アンチテーゼの民であることと、逆境を越える一つの手段でもあったこと、また自己批判のひとつの楽しみ方でもあったなど、いくつかその背景が考えられる。したがって、理解しにくいユーモアもかなりある。
今から48年前、キブツ・カブリに到着したばかりの日本人グループ10人それぞれに、即一組の里親がついてくれた。日本人たちは、木造の掘っ立て小屋に寝起きをして畑に通う毎日だが、午後5時からは里親の家に行って、いっしょに夕食(食堂)をとるという日課になった。マザールとビニエという夫婦がわたしの里親で、夕方は彼らの家でコーヒータイムを楽しんだり、音楽を聴いたり、読書をしたりした。たまには散歩や旅行にも同行した。大人と子どもと合わせて600人が住むキブツに、テレビと電話がたった一台ずつという時代だったので、人々には仕事上や集団教育上の連絡事項で、生の会話が必要不可欠だった。どこでも、だれもが、ぺちゃくちゃ、侃々諤々、そうやって暮らしが成り立っていた。当然、ユーモアも飛び交っていた。が、人生経験の浅いわたしには、そのユーモアがほとんどわからず、説明してもらっても理解できないという有様だった。
里親家庭では、ポーランド出身のビニエが、寡黙ではあるがユーモアにたけているらしく、それをあえて疎む妻のマザールと、ちっとも理解できない日本の娘を相手に、ほぼ、あきらめの会話だったかもしれない。
ところが、二年目になったある日、わたしにはビニエの言い分が突然理解できたのだ。それは、ユーモアというより皮肉に近く、理解はできても、わたしは到底笑えなかった。ユダヤ人の自虐的な表現に、外国人である自分は笑ってはいけないと思った。それはどういう内容だったか、すっかり忘れてしまったが、それから、ぽつぽつわかるようになったビニエのユーモアの半分は皮肉で、いっしょに暮らすマザールには、耳障りにちがいないと、彼女の疎む理由もわかった。
この48年間に、短期で二回彼らを訪問したわたしは、そのたびにビニエのユーモアから皮肉だけを聞き流す努力をした。長年身についた言語習慣は、そう簡単に修正できるものではないと痛感しつつも、なぜ単刀直入に表現できないのか? 残念というより、気の毒にさえ思った。
つい先週、90歳のビニエが老衰で突然逝ってしまい、その訃報を耳にしたとき、今後はきっとビニエが決して語らなかったポーランド時代の苦渋が、透けて見えてくるだろうなという、つらい予感がした。
キブツはすでに、個人主義の時代で全体の食堂業務を廃止し、全戸に電話、テレビ、キッチンを設置し、先にマザールを亡くして独居になったビニエはこの2年間、フィリッピンから出稼ぎに来ているヘルパーさんのベンジアの支えで、キブツ内の福祉ホームに暮らしていた。幸い認知症に冒されなかったビニエは、そのベンジアとネットゲームに興じ、そのゲーム経過を、こともあろうに、ゲーム音痴のこのわたしにまで送信してくるような晩年だった。どう返信したらよかったのだろう?
葬儀後、友人から送られてきた、ベンジアのとなりにすわるビニエのくったくのない笑顔の写真に、彼がフィリッピンから来たヘルパーさんに、心を開いているのがはっきり見えた。わたしの浅はかな、ビニエのポーランド時代に関わる、つらい予感は見事に外れた。思いがけない笑顔がそこにあった。
少年期にポーランドからイスラエルに移民したビニエの世界地図に、はたしてフィリッピンがあったかどうか? 疑わしい。疑わしいが、予想だにしなかったはるか遠い人が、こんなにも近くなったのを、ビニエはもう皮肉ったりはしないであろう、それはたしかだった。
ベンジアとともに写った写真には、生きていること自体がユーモラスだね、と言いたげなビニエの口が、ぽっと開いていた。
ベンジアは、ビニエの葬儀の最中、ずっと泣いていたという。それを聞いて、わたしも泣いてしまった。
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2016年03月 |
イギリス人のBさんが、はじめて店にいらしたのは、もう17年くらい前だと思う。紅葉が真っ盛りで、いつもは地味な玄関前のもみじの葉が、見事にあめ色になっていた。
明らかに外国人とみられる父と6歳くらいの娘が、拙店の玄関に立ち、なかなか入ってこない。父はきれいな日本語で、「えーと、紹介されてきたんですが、えーと、えーと・・・」おそらく紹介元を言おうとしているらしいのだが、思い出せない。「ペンション・・・えーと」と、またつまってしまった。ペンションの紹介といったら、うちでは数軒しか思い当たらないので、その時点でわたしにはほぼ察しがついた。
ところが、その父親は、いきなり「ペンション もみじさんから紹介されてきました」と言い、となりにいた娘がすかさず、「ちがうちがう、ダディ、ペンション もみじじゃない、もみじじゃない」と、父の袖をひっぱった。しかし、娘にも思い出せない。せっかく頭に刻んできた名称が、真っ赤なもみじを見たとたんに、きっとふっとんでしまったのだろう。
「もしかして、ペンション まりもさんですか?」と水を向けると、父子は「はあ」と安どの声をあげた。無理もない。どんなに日本語が達者でも、まりもという植物名を知る外国人は少ないし、ましてや母語が日本語のその娘にしても、まりもという名詞を知る就学前の子どもはまずいないだろう。もみじが、人の記憶を消すほど紅葉していたということだ。
その前日、BさんとR子さん父子は、たまたま休暇が一日とれたので、ITで検索してペンションまりもに初めて泊まったのだが、ホールの本棚に拙訳の「キブツその素顔」があり、かつてBさんがイギリスにいたときにイスラエルのキブツに行って働いた経験から、なつかしくなり、それでチェックアウト後にまりもさんから紹介されて来店してくださったのだ。
ユダヤ系イギリス人のBさんが、イスラエルのキブツで働いた時期は、わたしの在イより20年も後のことだが、互いのキブツの位置が近いので、その日、なつかしい共通の思い出話をたくさんした。それも日本語で。
それから毎年のように、BさんとR子さん、それにママのY子さんは、ペンションまりもさんから拙店へのコースの常連さんになってくださった。当然R子さんは、17年の間に美しい白鳥になり、日本語(母語)と英語(父の母語)とスペイン語(自ら選んだ外国語)を使う仕事についている。ファッション雑誌の表紙のモデルさんみたいになったが、今も両親といっしょに拙店にみえるので、ほほえましい。
Bさんは一昨年から、夏の一日、うちの店のテラスにパソコンをもちこんで、仕事をされるようになったのだが、お客さんがいなくなると、ついつい店の者とおしゃべりしてしまい、たぶん、仕事はそんなにはかどらないと思う。店の者も、仕事の邪魔をしてはいけないと重々承知しているのだが、ついつい糸口を向けてしまう、困った仕事場だ。
Bさんの働いていたキブツは、イギリス出身のメンバーが多いらしく、英語だけで用が足りたので、彼はヘブライ語を習得しなかった。したがって、〈こんにちわ〉と〈さようなら〉の〈シャローム〉しか言えない。でも、帰るときは必ず、唯一知っているヘブライ語を発して、車の運転席から右手をふる。これがわたしたちの年に一度の、別れの挨拶だった。
ところが昨夏、一日の仕事を終えて帰るとき、動き出した運転席からいきなりきいてきた。「〈またね〉、は何て言うんだっけ?」
「レヒットラオト」
「そうだ、そうだった、レヒットラオト」
いよいよ、〈さようなら〉だけでは足りない、また次に会うこと、会えることを意識する年齢になってきたということだろう。
近所の友人たちとも、〈またね〉を言い合うときの、なんともいえない寂しさを感じる。
紅葉の季節をすぎればどうなるか? 20代のR子さんにはまだわからない、もみじの葉の物語、それに、〈またね〉の一年後に〈また会える〉ときの、とっておきの幸せ。
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2016年02月 |
中学一年の時に、宮沢賢冶の「春と修羅」に出会い、まさに雷に打たれたように衝撃を受け、それから学校の図書室で宮沢賢治に関する書物を片っぱしから借りて読んだのを覚えている。思春期のころは主に、童話より詩に惹かれたのだが、年齢を重ねるごとに「よだかの星」をはじめとする物語にも注目し、「星めぐりの歌」にいたっては、もう身動きできないほどの感動をおぼえて現在にまでいたっている。
中学二年の五月に、修学旅行で花巻に一泊でき、いまでもはっきりと脳裏に浮かぶ、夕食後の〈鹿踊り〉(ししおどり)観覧と翌日の小岩井農場見学には気が昂ぶりすぎて、その晩は眠れなかった。その後半世紀もたって、再び中尊寺を訪れたときも、歩き始めてすぐに賢治の詩碑が建っていて、その「中尊寺」との思わぬ再会に胸が躍った。
例えば「下ノ畑ニ居リマス」と黒板に書かれた有名な一行にも、なぜこんなに感動するのか説明できないのだが、この一行に接したとき、大人になったら、このように生きたいと思ったのはたしかだった。そして、じゅうぶん大人になった今は、「下ノ畑ニ居ルシアワセ」と「下ニ畑ノアルシアワセ」を日々味わうシアワセをありがたく思っている。
こうやって賢治を師のようにして長年生きて、「イー・ハ・トーヴ」を当たり前のように発音してきて、去年の春はじめてそのエスペラント語の意味を知った。たしかに、トーヴという、ヘブライ語で、良い、おいしい、すぐれた、うまい、良質の、という形容詞には似ているなあとは思ってはいたが、まさかそれが、ヘブライ語そのものとは思いもしなかった。さまざまな語源説にとらわれていたせいもあり、たしかにウイキュペディアでは、多種類あって、どれにもうなずいてしまいそうな解釈がある。
しかし今、これが自分には一番ぴったりくる解釈にたどりつけた、つまり、ヘブライ語でイー(island)ハ(the)トーヴ(good)は、the good island 、わたしたちのいい島(島は、特別に区切られた一画という意味もある)、盛岡をして、自分たちの住みやすい場所だと賢治は名づけたかったにちがいない。エスペラントを国際言語として創造しようとしたポーランド系ユダヤ人のザメンホフは、ロシア語、ヘブライ語、ポーランド語、イディッシュ語を元に共通語を造ったと言われ、人工語といっても、単語のひとつひとつを創造したわけではなかった。
イーハトーヴ、決して耳にやさしい響きではないし、いわゆるお洒落でかっこいい音ではないが、当時のお変人であった賢治の心を、なぜかとらえたのだろう。法華経信者であった賢治が、お経に似た不思議な音に惹かれたとも考えられる。
長い旅路の末に、やっとたどりついた解釈が、あまりにも身近にあって呆然とし、半ば自分に呆れて、ほぼ一年がたとうとしている。では、賢治がさらに身近になったかと問われれば、やはり彼は 下ノ畑ニ今モ居ル 、そういう人なんだと思う。
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2016年01月 |
夕暮れになると、森の木々が黒いシルエットになり、木間に夕焼けが広がる。ほんの束の間、わずか15分くらいの美しい影絵劇場が、はじまったかと思うと、すっと消える。山中湖にわたしたちが住み始めて早40年になるが、この景色はおそらく最初からあって変わらないはず、なのに、気づいたのはつい数年前という実に呆れた話だ。 たしかに、若いころの夕暮れ時は、家事の後始末や夕食の準備などで、じっと空をながめて動かずになんて、悠長なことはとてもできない時間帯だ。必要なときに必要なものを見ないことが、どれだけ大きな損失になるか、後になって身に染みた。見ておけばよかったのに、見なかった、それを悔やんだのだ。そしてそれを残念がった過去の時期もまた、見ておけばいいものを、実は見ていない、たぶんそういうことなんだろうと思う。 シルエットになった黒い木々が、身の回りで逝った人々の後姿になぞらえて見えたときがある。どの故人も、夕日に向かってだまって立っていた。細く、静かに、さりとて倒れるわけではなく、気高くじっと立っていた。A叔父さん、Yくん、Sくん、Oさん、Tさん、Jさん、Nさん、・・・・・それらを見ていると、彼らの生ききった最後の姿が思い出され、火葬された後でもこうして形をともなって遺された者たちに背中を見せるのだなと、いたく感じ入る夕暮れがあった。 もの言わぬシルエットは適当な間隔ですくっと立ち、もの言う者たちを圧倒して消え去った。しかし、暗闇に紛れるだけで、そこから立ち去ったわけではない。また翌朝になれば、鳥や小動物を自由に遊ばせて、枝を広げてすましている。わたしは思わず時計を見た。シルエットになるまで、まだ十数時間ある。 若いとき、シルエットが見えなかったのは、単に忙しかっただけではなく、身の回りで逝く人々の数が少なかったからだと気づく夕暮れもあった。 そうか、40年前からあったわけではない。そこになかったから見えなかったのだと気づけば、今見えないものを見えないからと残念がる必要もないかもしれない。あのころはまだ、みんな木になってはいなかった。 真冬のシルエットは特に美しい。葉が落ちて、骨ばった枝がとなりの木の肩に手を伸ばしたりして、こっちにいる者たちとともに、しばし西の空をながめる。あっちに逝ったと思った者たちの、そのまだ先に、あっちがある。どうやらそうらしい。西の空は遠い。それを、ともにながめる時刻になった。さあ、影絵劇場がまたはじまる。
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