☆ 樋口範子のモノローグ(2018年版) ☆ |
更新日: 2018年12月1日
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2018年12月 |
ほぼ日手帳という、某コピーライター企画の手帳を携帯しはじめて、二年目になった。それまで、手帳も携帯電話ももたない自分は、キッチンの壁に貼ってある大きめのカレンダーに、家族と自分の予定を書き込んで、それで事が足りていた。
・ほぼ日を きょうから旅の 道連れに ・ふと気づく 二人三脚 ほぼ日と ・のっとられ てたまるか たかが ほぼ日に ・ほぼ日よ 君はこの頃 せっかちだ ・空白に ひそむ出来事 これもよし
その5か月後にイスラエルに行ったが、このときは学習課題が多すぎて、川柳どころではなかった。 ・パスポート ポケット地図に 電子辞書
そして今秋、息子家族を訪ねて、はじめて単身太平洋を渡ることになった。相変わらずの高所恐怖症だから、飛行高度や気流情報は絶対無視。
・二年目の ほぼ日ひっさげ 初渡米
現地ワシントンDCは、紅葉真っ盛りで、息を呑むほどの美しさだった。ここ富士山麓と同じく、政治も人心も貪欲で、損得ばかりの下界だが、自然界はほんとうに素晴らしい。
・大地とは 国家と人種を越えるもの
韓国市場には、ゴボウ、レンコン、白菜などの野菜がそろっているので、嫁さんと、オカズづくりをした。ゴボウをささがきにしながら、普段気づきもしない日本語の単語が、??をつけて、とび出してくるから不思議だった。 ・異国にて キンピラとチンピラ 検索し
連日、朝から夕方まで、近くのスミソニアンモールに通い、一日一館というぜいたくな時間を過ごした。どこの博物館でも館内ツアーに参加して、ときには10%しか聞き取れないガイダンスでも、それはそれで興味津々だった。自然館では、84歳の車椅子ガイドが、「kids, follow me」と参加者10数名を、なんと90分間も連れ廻って、くぎ付けにした! ・異国でも bird and man watching ・白と黒 赤と黄色に 空青し
週末は、家族と近くの川沿いをサイクリング。紅葉した落ち葉に木漏れ日が差す中、日本では見かけない野鳥や野生のりすに、つい頬が緩んだ。 ・燃える秋 絵画の中に いるわたし ・オレンジの 胸してはばたく 君の名は? ・せせらぎを 耳にペダルを こぐ至福 ・人生の 秋がまさかの ワシントン ・ABC 教えた息子に J習い
何もかも巨大で、面食らうことばかりだったが、大型ショッピングモールを出た空の中ほどに、いつのまにか、折り紙のような、まさにペーパームーンが出ていた。 ・三日月や ここアメリカにも 山河あり
14歳の孫と、映画や小説の話ができたのは、予想以上の喜びだった。 ・異議もあり 孫という名の 未来かな ・孫にきく この街の風 その住処
そして、何のトラブルもなく帰国できた。 ・無事帰国 機内映画の 画(え)も混じり ・ほぼ日の 〈ほぼ〉とは何か? 時差数え 来年の旅予定は未だないが、3年目のほぼ日手帳が、我が家にはもうすでに届いている。
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2018年11月 |
言語とは何か?
パラリンピックの広報ポスターで、「障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ」という某選手の発言ポスターが、一般の障害者を傷つけるものとして、撤去された。その選手の本来の思いは、「健常(者)の大会に出ているときは、負けたら『障がいがあるから仕方ない』と言い訳している自分があった。でもパラバド(バドミントン)では言い訳ができない。負けたら自分が弱いだけ」という実に個人的な心情表現で、決して他者への批判や扇動ではない。それをキャッチフレーズのように、一部のみ抜粋したことにも問題があるが、その大胆な行間を読みこもうとしない軽率さも残念だ。
こうした、言語によって傷つくこと、また傷つけ合うことが多発して、発言に恐怖をいだく人々が多くなった。もちろん、慎重に発言することは大事で、公人なら、尚さら求められる姿勢だが、他を傷つけまいとするあまり、自分の判断や発言に自信がもてなくなるのは、他との信頼関係を拒み、結局は自分自身が傷つきたくないのかもしれない。
都内で行われた某言語圏文化国際会議で、複数の研究者による言語の多様性や文学の普遍性について学んだ。それによると、言語とは、話者とその子孫の集合的記憶の再構築であり、特に母語は自己意識の再生であるという。実に明解、まさに合点、と一瞬胸に落ちたが、しばらくして、それは落ちた気がしただけだと気づいた。
そもそも集合的記憶の集合とは何か? ということが、わかっていなかった。この時代にあって、個人の帰属意識はすでに国家という政治経済の価値枠を越えていることがほとんどだが、では、人が帰属する某集合体とは、特定の場所なのか? 特定の民族、宗教なのか? 特定の人々を指すのか? あるいは、特定の血縁を指すのか?
まず、わたしたちが無意識に使う「みんな」という便利な主語を、もう一度調べる必要があると思った。
「みんなが言ってた」
「みんなってだれ?」
「みんなで団結すれば」
「みんなってだれ?」
昨日参加した看取りの勉強会で、ひとりの医療ライターがいみじくも発言した。「みんなって、怪しい」。わたしも同感だった。みんなという主語は、空想的要素を多分に含む、おおいに利己的な意志が表現される場合がある。
となると、あらためて集合体とは何か?
集合的記憶というのは、集合的内面を指すのではないか? と、今現在のわたしは考える。その内面は、母語で構築されることがほとんどだが、外国語であってもおかしくない。故郷は、必ずしも出生地や現住所と一致しないし、また、思考もさまざまな文化や暮らしに根差すことが、珍しくなくなった。
わたしの場合、口げんかやクレームは、母語である日本語より他言語の方が、ずっと楽な気分でできるが、それはもしかして、他言語の背景にある集合的内面に、自分が一方的に甘えている結果かもしれない。
親友と、かなり個人的な話をするときも、互いの母語や方言をはなれると、他言語や他方言の記号的な解釈に救われて、えらくすっきりした気分になることがある。
母語は自分の身体からにじみ出る大事な言語だが、ときとして自分を煩わしく呪縛することもあるからだ。
一方、寒い冬に、だしのきいた関西風うどんをすすったとき、思わずもらす感動は、ぜったいに母語である日本語か、あるいは、どの言語にも属さないため息に限るかもしれない。
生まれて初めてのアメリカ渡航を三日後にひかえ、英語圏で暮らしたことのない自分は、そんなことを母語で思っている。
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2018年10月 |
人生を横切る線路
この歳になって、それもトランジットで一晩も、その国に滞在記録があるというのに、わたしはイタリアという国について、ほとんど知らなかった。
ミラノ・ファッションだの革製品だの、イタ飯だのと、華やかなイメージに包まれた国のほんとうの暮らしは、数年前に旧友が教えてくれた「小さな村の物語 イタリア」というTV番組(BS 4)で、とても身近になった。ほぼ毎週末観ているが、大地に足をつけて労を惜しまず働き、祖先を敬い、家族を大事にする市井の人々に、どれほど励まされたか知れない。 長い間、ドイツやスイスに出稼ぎをつづけ、あるいは大陸に移民してまで家族を養った人々の歴史は、時には痛みや悔いも重く、深く、当然ながら決して明るい事例ばかりではない。
そして、さらに須賀敦子という作家によって、わたしはイタリアに暮らす人々の内面、文学性にいたく目を開かれ、カトリック左派で詩人という某神父の存在には、ぞっこん魅了されてしまった。
須賀敦子。以前から、この人には気をつけなくてはと、かなりブレーキをひいていたのだが、たまたま地元の図書館の係の方が、「新しく購入したんですよ」と書棚まで案内してくれたこともあって、思い切ってその文庫全集八冊のうち、二冊を借りた。のが、まずかった。図書館の書棚の間を歩くのは、まるで森の中を歩くようだと喩えた方がいるが、須賀敦子の作品は、それ自体が森で、活字のひとつひとつが、すべてみずみずしい樹木だった。そんなわけで、わたしはしばらく、広大な森に迷い込んで、出られなくなってしまった。
第一巻の中で、彼女は亡き夫が鉄道員の息子で、1930年代に鉄道員官舎で子ども時代を過ごした所以から、ピエトロ・ジェルミ監督・主演の「鉄道員」(1956年)について言及している。モノクロの古い名画だが、ほとんどの日本人は、少年の叫び声が響くそのサウンドトラックに馴染みがあると思われる。貧しさや不運の中にあっても、鉄道員の妻と末っ子の少年が、泣き言も言わず、日々の暮らしを淡々とつづけるのが、あの映画の底力だと、何度観ても心が洗われる。
未亡人になってから初めてその映画を観たという須賀敦子は、舞台となった鉄道官舎の寒々しい階段や間取りが、夫の実家と同じなので、手に取るようにわかると言い、映画で語られる鉄道用語は、彼女のイタリア語の原点に立つものばかりだと書いている。1960年代のふたりの生活の中を、鉄道線路はしっかりと横切っていたと回想する。線路はつづくばかりでなく、ときに横切るものだとは、当事者ならではの実感だろう。思わず、あやかりたいと胸が熱くなった。
須賀敦子が描く、ミラノにある書店での出版に関わる人々の生き方、思想と活動、夢とその結末、人生模様は率直で重厚、さらに書き手の人柄を通して、温かさや思いやりまで滲み出てくる。
第一巻、第二巻は結局二回も貸し出し延長で読み終わり、次に第三巻と第四巻を借りた。森はさらにもっと深くなり、秋風と木漏れ日が心地よく、あえて抜け出さなくてもいいかな、と自分に言い聞かせたりした。
図書館に返却した後、夕ぐれの線路にぽつんと残された寂しさに、ついに文庫全集を全巻、それも新品で手に入れた。中古書購入が常である自分には、眩しいほどの八巻が、本棚の隅に並んだ。
自分の住む村には、鉄道がない、ということは、線路もない。ならば、まずは車窓の風景を愛でようか? ついつい頬のゆるむ初秋の午後、二階の窓をそっと開けてみる。
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2018年9月 |
人が詩人になる時
つい最近、とある眼科の待合室で椅子に座っていたら、見知らぬお爺さんがエレベーターから降りてきて、わたしの近くで待っていた身内らしき人の隣に座った。
そのエレベーターは、上階にある手術室から、術後の患者たちを乗せて降りるのを、わたしは知っていた。というのは、その15分前に、自分の身内が同じように降りてきて、わたしの隣に座ったからだ。その患者たちは、すでに術後の眼球写真を、上階で見せられているのも知っていた。眼球が鮮明だったと、身内が話したからだった。その日の午後は、白内障や緑内障などの手術、治療が、集中的に行われる日だった。
エレベーターに乗って上階に行く患者たちはだれも、中老も大老も、身をこわばらせているのが、後ろからでもよくわかった。そしてその数十分後に降りてくる同患者たちは、解放感からか、別人のような明るい表情をしている。
術後のお爺さんは、決して笑っているわけではないのだが、安堵感につつまれているのがわかった。ふと、だれに言うでもなく「きっと、猫も世の中がこんなに美しく見えるんだろうな」とつぶやいたのを耳にして、わたしはいたく感動した。
術後の眼球写真は、まるで猫の目のように鮮明に画面に映し出される。手術前の濁った眼球写真とは、明らかにちがう。
お爺さんもきっと、自分の澄んだ眼球写真を見せられて、飼い猫の眼球を思い浮かべたにちがいない。そして、自分の視界が、いつのまにか猫の視界に投影されたのにも気づかずに、思わず実感を発したのだろう。
お爺さんの朴訥とした風体と、女子高生のようなつぶやきが、あまりにもかけ離れていたのも意外だった。無防備、無意識は人の発想や発言を自由にするが、たとえ短時間でも、手術という命に向き合う時間を越えた者は、もしかして詩人になる、どうもそうらしい。
震災直後の報道でも、被災者たちの言葉には胸に響くものがいくつもあった。「もう、笑うしかない」と言いながらも笑えなかったお婆さんとか、向けられたマイクの前で絶句した数秒間の沈黙に、実は溢れる言葉を伝えた少年とか。
当時小学生だった親類の女の子は、「周りは、色のない景色」と電話口で語った。
命に向き合い、世間体や見栄や虚勢が外れると、人はほんとうの言葉を語ることができる。
医院の待合室という、一見安穏な空間は、実はだれもが切迫感に押しつぶされそうな明暗を分ける場でもあるが、そこでたった一行の詩に出逢えた日。一時の気休めや言い訳、形骸化した慰めが飛び交う中で、一瞬でもほんとうの言葉に出逢えた日。
それは、ふだん、決して嫌いではないが、猫が苦手な自分にも、猫にまつわるこんな感動があるものかと苦笑した日でもあった。
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2018年8月 |
映画〈しあわせの絵具〉
今春、渋谷のBunkamura ル・シネマで、映画〈しあわせの絵具〉を観た。カナダが誇る画家モード・ルイスと夫の半生が、今から約80年前の実話をもとに描かれている。主演は、サリー・ホーキンスとイーサン・ホークというぜいたくな組み合わせで、迫真の演技というか、命はじける2時間だった。
素晴らしいのは、舞台であるカナダ・ノバスコシア州の美しい真冬の風景、画面で表現される深い人間の尊厳、困難を越えていく底力など、いくつかあるのだが、わたしが一番胸を打たれたのは、主役のふたりが二回目に出逢う場面での会話だった。
若年性関節リウマチを患う女性モードは、手足が不自由で、普段の歩行もままならない。それを見た男エヴェレットが、「障害があるのか?」ときく。モードは笑顔で、「そうじゃない、歩き方が変なだけ」と答える。
障害があってとか、病気があってとか、病名を言えば、そのせいにできる。ああ、そうなのね、その病気のせいで、あるいはその障害のせいで、あなたはそうなのね、そうよ、結論は、決して自分のせいじゃない、あなたのせいじゃない、という流れが一般の大方の会話だろう。枕詞をつけたおかげで、空気が軽くなる気休め。なのにモード・ルイスは、歩き方が変なだけ、と答えた。空気はずっと重くなるが、一方で何かが晴れる。歩いているのは、まぎれもなく彼女の二本の足だ。
この時点で、観客は彼女の生き方を、まず直感するだろう。本気で生きる姿勢を知った観客には、モード・ルイスの絵が売れようが、世界中から評価されようが、それはあくまでも二番目の筋書きで、後からついてきたオマケのように感じられたにちがいない。
この映画が、単なる「苦渋を越えれば、必ず成功への道が開ける」的な作品ではないのが早々にわかった観客は、唯物的な価値観から解放されたいと思いはじめる。
わたしたちは、今までどれだけ、自分の弱点や隠したい点を、自分の年齢や昨日呑んだお酒、先週使った石鹸や、過去のあるいは現在の身内、周囲の他人や出来事、それどころか、天候や、政治や、国や、時代や、地球のせいにして、言い訳して生きてきただろうか?
自己責任という流行語にも、自己という好都合な虚勢部分にだけ、責任を転化しているような狡さを感じる。
自分だけではない、周囲に対しても同じ言い訳を求めている。例えば、こういうことがあった。出入りの配達人に、目も合わせない、とっつきにくい、対話もできない人がいた。その配達人が来ると、わたしはいたく不愉快だった。なにもオベンチャラを求めてはいないけど、少なくとも「やあ、いい天気ですね」「ほんと」「道路は混んでましたか?」「いえ、ガラガラでしたよ」くらいの乗りがあってもいい。
ところがあるとき、その配達人がある障害を負っていることが、間接的にわかった。それならそうと、最初から教えてくれればいいのにと、わたしは内心、彼の雇用者を責めた。しかし、モード・ルイスの笑顔に出逢ってから、それを知ったからといって、いったい何が変わる? 彼を見る目が変わる? まさか? 彼のせいじゃないとしたら、何かのせい? 障害のせい? そんな枕詞は、どうでもいいと思えるようになった。そういう人だと思えばいい、コミュニュケーションが苦手なだけ。
今は、その配達人が来ると、愉快でも不愉快でもない。が、玄関で迎える自分は、だいぶ楽になった気がする。自分はなんで、あんなにこだわったのだろうと、ふり返れるほどになった。
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2018年6月 |
久しぶりの新宿御苑
小学校低学年のころ、たまたま近くに住んでいたので、新宿御苑には徒歩でよく行った。たしか、遠足も新宿御苑だった記憶がある。
この5月、イスラエル・キブツで近所に住んでいた旧友が、ご主人の仕事で一年間東京に滞在することになり、通学している日本語学校が新宿にあるというので、新宿御苑で再会することになった。当時、彼女は16歳で、わたしは18歳だった。その後、彼女はキブツを離れて、エルサレムやアメリカで暮らしていたため、50年間再会の機会がなかった。
某地下鉄駅のA1出口で、待ち合わせたのだが、約束の時間を過ぎて10分経っても、20分経っても彼女が現れないので、急にいやな予感がした。直前のメールで、ぜったいに遅刻しないとあったから、こちらが待ち合わせ場所か時間を間違えたにちがいない、携帯電話をもたない自分は、どこかで公衆電話を探して、彼女の携帯電話に、とハラハラしているところに、彼女がご主人と駆けつけてきた。
「悪かったわ、待ったでしょう? ほんとに、ごめんなさい」
「そうよ、50年も待ったわ」
泣いたらどうしようかと危惧した再会は、思いがけなく、大笑いではじまった。
わたしたちは、新宿御苑の大木の下にシートを敷き、実はヘブライ語の構文授業を受けるはずが、予想通り、互いにそんなことはさておき、ついつい思い出話に花が咲いてしまった。海苔巻きやサンドイッチをつまみながら、一応は広げたテキストを脇目に、3時間以上も、互いの50年間を行き来して過ごした。
「こんなに暑い日なのに、日本人はだれひとり、上半身裸になるわけでもなく、芝生にすわっているのね。このモラル、欧米人には、考えられないわ」
「だけど、欧米人が男女別の温泉にも水着で入るのは、わたしたち日本人には考えられない」
まったく、文化習慣の違いには、不思議で可笑しなことが多い。
そのほか、さまざまな言葉の意味についても、わたしたちは多くの意見交換をした。たとえば、〈うらやましい〉という日本語には、ジェラシーがほとんど含まれていないけど、辞書にあるヘブライ語の〈うらやましい〉は、半分以上ジェラシーがあるから、うまく使い分けしないといけないとか。
彼女もかつて、英語からヘブライ語への翻訳を仕事にしていた時期があり、意訳がどんなに難しいか、身に染みている。
今、わたしが取り組んでいる難解な戯曲翻訳にも、手を貸してもらった。
少女たちは、ばあちゃん同士になったが、よくよく考えてみれば新宿御苑とも60年ぶりだった。おそらく苑内の桜の木は、かなり成長しているのだろうが、さすが自然界の変化は緩慢で、辛抱強くもある。高層ビル群に囲まれて、次第に狭くなる空の下で、じっと静かに緑を維持している、ように見える。
当時16歳だった彼女は、透き通るように美しく、ポニーテールに青い目、短パンから長い足をおしげもなく伸ばして、すまして歩いていた。近所なので、彼女の家族とわたしの里親とは、かなりの交流があったが、彼女はいつだってすましていた。彼女の視線の先を、だれも追えないほど、異星の雰囲気を漂わせていた。なのに、今になって「あのころ、日本人たちが、気になってしかたなかった」などと、それもすまして言い、当時の日本人グループ10人の面影をかなり正確に描写して、わたしをおどろかせた。
まったく、人の内面はわからない。わかったつもりで、あれこれ推測するのがいかに無駄なことかを痛感した。
縁遠かったものが実は近くなり、その逆もおおいにある。彼女の日本語学校は、あと半年間はつづくという。また次も、この場所で会おうね。新宿御苑はわたしたちふたりにとって、こんなにも身近な場所になった。
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2018年5月 |
やさしさぶる、こと
先月死去された、スタジオ・ジブリの高畑勲監督の生前の言葉の中で、はっとするものがあった。「平和というのは、やさしさぶる、ことのできる状況だ」というのだ。
少年時代に空襲を体験した高畑氏は、戦時中を生きることと、戦後の平和を生きることの違いが身に染みているにちがいないが、「やさしさぶる」ことしか、してこなかったわたしたちは、その発言の意図することが、なんとも苦々しく胸に落ちる。
あるいは、平和とは、隣人の痛みや苦悩を尻目に、自分は平気で生きられる社会と定義した人もいる。
事件や事故、災害を生きのびた人々には、ほんとうに申し訳ないが、わたしたちのほとんどは、極限を生きたことがない。
うわべだけの安っぽい世辞、涙、同情、喝采、バッシングが世の中に横行して、それはすべて、やさしさぶることの逆説的表現だとさえ思う。これが疑似平和なのだと、日本だけではなく、先進国と言われる国々を見れば、一目瞭然の感がある。
官僚のトップになった者が、〈大臣が無能だから、実はおれさまが国を動かしている、何をしたってゆるされる〉との潜在意識にあぐらをかき、大きな勘違いをするのは、セクハラ以前の人間の資質の問題で、まさに裸の王さまを地でいっている。なんて情けない、恥ずかしいことか。
さらにピンポイント的な法律論を掲げて、そうした者を擁護しようとする体制側もまた、裸の行列に並ぶ家来どもにすぎない。それを憂えずに、高額な退職金の数値だけに目くじらを立てる一部の野党もまた、浅ましい限りだと思う。
同時期に某タレントが、未成年にわいせつ行為を強要したとして、200人ものマスコミの前で、50分間も懺悔をさせられる場面を見て、まるで2000年前に群衆に石を投げられたマグダラのマリアを思い浮かべた。芸能活動をする者が、人として、してはいけないことをしたのだから、法の裁きを受ける前に、カメラの前できちんと謝罪をした。野次馬たちは、それ以上、彼にいったい何を求めるのか? みんな、そんなに清く正しく生きてきたのか?
偉そうに、よってたかって裁く者たちの、人間性を問いたい。群衆は残酷だ。これもまた、やさしさぶった挙句の、世の中の空気なのだとしたら、少なくとも自分はその中に混ざりたくはない。
高畑氏の憂えた疑似平和の中にあって、戦争をしないほんとうの平和とは何か?
折しも南北朝鮮の共同宣言が発表され、世界中で報道されたが、真意も今後もわからない。また騙されるのか? それとも、ほんとうの平和に向けて、ほんとうの和解ができるのか? 無念のうちに戦死していった無数の兵士たち、粛清された者たちを脳裏に描き、思わず正座して政治の行方を見届けたくなる。
高畑氏の投じた一石が、さらに重みを増す春、いつもとはちがう春。
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2018年4月 |
座右の一冊 中学一年の時、宮沢賢治の「春と修羅」に出会い、まさに雷にうたれたような感動を得、それ以降、学校の図書館でさまざまな詩集を開いたが、当時の現代詩は難解すぎて、まどみちお、谷川俊太郎、永六輔以外は、あまりぴんとこなかった。 この歳になって、珠玉の詩集と座右におくのは、二年前に刊行された「ファインマン語録」(岩波書店)で、言わずと知れた「ご冗談でしょう、ファインマンさん」「困ります、ファインマンさん」「光と物質のふしぎな理論」などの数々の邦訳で知られる、物理学者ファインマン氏の発言、および各紙掲載記事を、実娘が集大成した、文字通りの語録である。もちろん、詩集ではないのだが、どのページを開いても、そこには肩の力の抜けた抜群の知性とユーモアがちりばめられ、一言一句が輝いて目にとびこんでくるので、わたしにはりっぱな詩集だと思える。まえがきは、チェロ奏者で物理学にも造詣の深いヨーヨー・マの寄稿という贅沢な一冊だ。 なんというご縁か、邦訳者の大貫昌子氏の、姪っこさんとわたしが旧知であったおかげで、わずかな来日期間の合間に、二度も拙店に足を運んでくださるという幸運に恵まれた。 大貫昌子さんは、父親の仕事の関係で、京城(ソウル)市に生まれ、6年後に中国の奉天に移住され、そこでさらに10年間を過ごして終戦後に引き揚げられ、山口県の高校から、長崎県の活水女子短大へすすまれて、中学の英語教師になられた。20代前半にフルブライトでアメリカに留学、大学を卒業し、その後は日本で働かれたが、20代後半に分子生物学の日本人研究者と結婚され、カリフォルニアの研究所に赴任する夫と共に再度渡米する。大陸で16年間、アメリカで50年間以上、人生のそのほとんどを外国語の中で過ごされた。ところが、おどろくべき、その日本語が実にこなれている。戦時中も戦後も、読書環境を察すれば、おそらく書物も読書時間もままならなかったにちがいないし、増してや他言語の暮らしの中で、いったいどうやって豊かな日本語を培われたのか、想像すらできない。旧知の姪っ子さんによると、勤労奉仕を免れた中で、父親の蔵書を読破したということだが、大貫さんの邦訳をうめる、あの生き生きした話し言葉には、単に書物から学んだだけとは思えない情感がある。 カリフォルニアで、子ども同士が同じ幼稚園に通う縁で知り合ったというファインマン氏と大貫さんは、おそらく個人的な信頼関係から、直々に邦訳を依頼され、遂行されるにいたったのだろうが、それがこのロングセラーを生む重厚な核となった。物理畑には全く無縁の大貫昌子さんを、訳者に選んだファインマン氏の眼力もさることながら、ファインマン氏の人柄を知った上での訳者の翻訳手腕に、うなるばかりである。少しという表現を、〈ちょいと〉〈ちったあ〉、気にするなを〈かまうこたあない〉という粋な江戸弁で語るアメリカ人ノーベル物理学賞受賞者が、読者にはちっとも不自然ではなく、むしろ痛快でさえある。 大貫さんは、アメリカに長年住まわれているのに、あえて表立った自己主張はされず、寡黙で物静かな方で、昨年の9月下旬に二人の息子さんを伴って来店されたときも、おだやかに微笑み、わたしの宝である布カバー付き詩集「ファインマン語録」を目にされて、喜んでくださった。 そして、次回はカリフォルニアでお目にかかりましょうとお見送りしてわずか3カ月後、大貫さんが自宅でのホスピス・ケアを受けながら死去された報を受け、愕然とした。享年84歳だった。息子さん二人と、亡きご主人に縁のあった北海道を周遊した後の、あの日のすがすがしさが、今でも思い出される。病状を覚悟なさったうえでの、最後の旅だったのであろう。大貫さんは、ご自分から積極的に発言される方ではなかったので、こちらから山ほどの質問をすればよかったと、今になって悔やまれてならない。 翻訳のコツは、接続詞をうまく使いこなすことだという一言が、今では唯一の教えになってしまった。さて、接続詞だが・・・・ その一冊の詩集より 生徒というものは、「あのたわごとめいたごたく」を、単なる「たわごと」として認めるだけの柔軟さとスキルをもっているのです。そもそも、王さまの着物を見抜けたのは、子どもなんですからね。 教科書は、良い教師の単なる助手でこそあれ、支配者であってはならないとぼくは信じます。 それについて少しばかり知ったことで、神秘には何の害も及ぼしはしない。 生命同士は、互いに近いものです。生きとし生けるものの深みにひそむ化学現象の普遍性は実に美しく、すばらしい。ところが我々人間はいままでずっと偉ぶっていて、動物とそんなに近しい関係があるなどと、認めようとはしませんでした。 2018年、未踏の地カリフォルニアは、わたしにとって、思いがけない憧れの地となった。
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2018年1月 |
ごんぎつねと兵十 新美南吉が「ごんぎつね」を発表したのは、1932年(昭和7年)というから、今から84年も前のこと。なんと南吉、17歳のときの作品だという。 今では、ほとんどの小学校の教科書に載っているので、子どもたちも、おそらく30代、40代まではだれもが知る物語だと思われる。「ごんぎつね」がね、と口を切ると、だれもがまず「ああ、ごんぎつね」と憐みのこもった声を発する。ほんと、一様にそうなる。中には、涙ぐむ若者もいる。 なぜか? ごんという名の狐は、兵十という名の男の仕掛けたワナから、かかったウナギを、単なるいたずら心で放してしまうが、後日、兵十の病床の妻がウナギが食いたいと言って、それが叶わず、無念にも死んだのを知る。 自責の念にかられたごんは、せめてもの償いと思い、イワシ売りの籠からイワシを盗んで、兵十の小屋に投げてやる。 ところが、兵十はイワシ売りから盗人と疑われ、とんだ濡れ衣を着せられて殴られてしまう。 自分の思いと裏腹に、兵十を二回も傷つけたこと知ったごんは、栗や松タケをそっと兵十の家の前に置く。申し訳ないという思いを、何とか伝えたい、それがごんの願いだった。 しかし兵十は、それが神さまからの賜物と思い込んだため、狐のごんにしてみれば、ますますの苛立ちとなる。が、ごんはけなげにも、栗運びをつづけた。 ある日、栗や松タケを置いたごんを、いたずら者と勘ちがいした兵十は、銃で撃ってしまった。 ところが、散らばる栗や松タケを見た兵十は、「ごん、おまえだったのか、いつも栗をくれたのは」と言い、ごんは静かに目を閉じ、兵十の銃からは煙が立ち上って物語は終わる。 哀しい、無念の物語だが、読者はほとんどだれもが自分をごんに投影して、同情する。この物語の最後では、時すでに遅し、ごんの善行が兵十に明かされるのだが、現実ではほとんどの場合、人の願いや思い、行いは表面化しない。通じない思い、伝わらない真意、だれもが、一度や二度、あるいは始終、そうした痛み、悔しさ、わかってもらえない辛さを体験している。親子、兄弟、夫婦ケンカの場合も、相手にわかってもらえないというのが、その一番多い原因かもしれない。 でも、自分たちは、狐のごんであるばかりではなく、ときとして兵十でもあるのを、ついつい忘れている。自分だって、他人や相手の真意をわかっていない。わかろうとしていない。思い違いをした多くの場合、自分自身は傷つかなくてすむから、反省の色も薄くなる。 わたし好みではないが「ファミリー・ヒストリー」、というNHKのTV番組がある。自分の知らない先祖や家族の物語が明らかにされていく中で、どのゲストもその経緯や真意を知らないことに唖然とする。じっさい、そうなのかもしれない。生身の人間としての身内の思い、日常を過ごす生活者としての身内の行動を、知っているつもりで、全く知らないのが、ほんとうなのかもしれない。 身内や知人が次々と他界していく中で、彼らの不可視の足跡を思い違いするのだったら、いっそのこと、知らないことに気づける一年でありますように。そして、知らない、わからないことから始まる思考に、しがみつける一年でありますように。
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