☆ 樋口範子のモノローグ(2020年版) ☆ |
更新日: 2020年12月1日
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範子の著作紹介
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2020 年12月 |
〈風の盆〉 その思い出 今から6年前の9月2日から二泊、富士吉田市のお寺のご厚意で、富山市八尾地区内で行われる〈風の盆〉に誘われた。江戸時代から毎年行われてきた二百十日の強風(台風)を鎮めるための祈りの行事である。もともと観光目的ではない祭なので八尾地区内には宿泊所や駐車場がなく、年々加熱するのべ20万人といわれる見学者は、遠くの街のホテルから貸し切りバスで日帰り観光か、あるいは若者であれば、町内のベンチか駅構内で夜を明かすしかない。 富士吉田からマイクロバスで到着したわたしたち10数人は、お知り合いのお寺の本堂に雑魚寝させてもらい、朝の周辺道路のお掃除、本堂でのお経に参加の後は、ぜいたくで自由な丸二日間をいただいた。宿泊先のお寺に、わざわざ踊りを教えに来てくださった町の有志の方は、稲の種まきから収穫までを表現する踊りのひとつひとつの所作を解説された後、この町流しと呼ばれる祭をできるだけ静かに、カメラなどを向けずに観て行って欲しいと頭を下げられた。 三日間、夕方から明け方にかけて、新町、諏訪町、鏡町などの各通りでは、参加する踊り手にも、所作にもそれぞれ違いのある越中おわら節が、民謡には珍しい胡弓のむせび泣くような音色に合わせて、まさに風のように町の狭い通りを通り抜けていく。何ともいえぬおだやかな調子は、自分たちの普段の浅い呼吸を、深く、長く、無理なく鎮めてくれた。 やがて祭は終わり、わたしたちも再びマイクロバスに乗って帰途についた。ところが、八尾を出た辺りで、大きな音と共にバスの窓ガラスが割れ、バスは急ブレーキで停まった。何が起こったのか、騒然とする中、後部座席に座っていた仲間の女性二人が額から血を流しているのが眼に入った。すれ違った大型トラックが道路わきの金属製ポールに接触し、その衝撃でとんだ金属片がマイクロバスのガラス窓を直撃して、たまたまその窓ガラスの席に座っていた女性二人が負傷したのだった。すぐに救急車が到着し、女性二人は救急病院へ運ばれていった。路肩に駐車を余儀なくされたマイクロバス内のわたしたちは、仲間の負傷を案じつつ、車窓からパトカーの取り調べを見ていた。 やがて陽が落ちはじめる中、先ほど取り調べを受けていた、やせ細って見るからに気の弱そうな大型トラックの運転手がいきなりバス車内に乗ってきて、わたしたち乗客の前に立ち、深々と頭を下げた。「わたしの不注意がもとで、みなさんの旅行を台無しにしてしまい、ほんとうに申し訳ありませんでした。みなさんが風の盆を見に来てくれたと知り、なんとお詫びしてよいのかわかりません。どうか、この町を嫌いにならないでください。どうか、これからも富山に来てください」ボサボサの髪で、蒼ざめた顔をさらに暗くして、運転手が再び頭を下げた。近頃は、保険の査定までは先に謝っては不利になるとか、反省よりは損得を考えるべきだとかの方法論が先行する時代でもある。それを見事に無視した彼の発言そのものが、まず驚きだった。 そして次に、朴訥で寡黙であろう彼の日常から、咄嗟に絞り出された「この町を嫌いにならないでください」の言葉に、わたしたちは圧倒された。しかし、言葉では何も返せず、ただ呆然と座っていた。 その後、わたしたちは救急病院に仲間を見舞い、頭に包帯を巻いて出てきた二人の姿にいくらかほっとして、夜遅く全員で富士吉田市にもどることができた。大型トラックの運転手も同行して、病院を出る負傷者とわたしたち全員を見送った。 中央道のサービスエリアで、「あの運転手、たぶん免許停止になるだろうな」と仲間の男たちが言うと、マイクロバスの運転手は、決して同情はしまい、自業自得だと言わんばかりの厳しい顔をした。どちらの思いもわかる。 コロナ禍で、今年の〈風の盆〉が中止になったのをニュースで聞いた。〈風〉のヘブライ語は、文字通りの空気とか風という意味のほかに、精神とか心もち、霊魂という意味をも表わす。人はめったに本心を言葉にしないし、また耳にできないのを、あらためて知る。 |
2020 年11月 |
On the boat その8 夫なるもの、父なるもの 秋になり、店先で梨を見るたび、わたしは吉野せい(1899年 明治32年生)を思う。戦前、戦時中と、電気、水道もない福島県いわきの荒れ地を開墾し、わずかな梨畑をなりわいとした家族の記録、吉野せいの短編に常に見え隠れする夫、三野混沌(みのこんとん)の影。書き手のせいは、その夫への憎しみ、醜い心の毒、やるせない憤りと闘った。 混沌は、あるときから梨畑の労苦を、妻であるせいと10代の息子たちに負わせて、自分は名も知らぬ福島県内の貧しい農民の間を何千里も歩き続け、かれらの慟哭に耳を傾け、ものを書き、せいに言わせると、だれかが救われる謙虚な仕事に彼が酔っているとしか思えない、家庭を顧みない日々を送っていた。 折しも戦時中、子ども5人を抱えた家庭を支えるのは、自分しかいないという妻せいの自負心は、傲慢の思い上がりを越え、やがて冷酷な頑固さにまで到達した。それもまた、混沌をさらに遠ざける悪循環に拍車をかけた。文学や社会主義思想では同志であるはずの夫婦が、貧しさの中で無言の闘いをつづける。壁も床も空気も情けも、何もかもが冷たい家の中で、子どもたちはいったいどういう言葉を交わしていたのだろう。 昭和17年の出来事である『公定価格』という短編の中で、せいは権力をふりかざす駐在所の巡査にたてついた。それを目の当たりにした18歳の長男が、「あっさり謝ればいいのに、気ばかり強いからいつも余計な苦労をする」と母親をたしなめた。その夜更けにそっと、離れの小屋にもどった夫に、妻は一言話したいと思ったが、話す機会も勇気も失せていたと書く。 かたくなに閉じた互いの言葉の隙間に、ふとヘミングウエイの『老人と海』が読みたいとつぶやく妻のせい。高等小学校卒だけの学歴で、あとは山村暮鳥の指導と感化で文学や社会思想を、ほぼ自力で学んだという。 亡き混沌の新盆があけて、水石山の山頂に初めて息子家族と登ったせいは、その景観にボルヒェルトの短編『たんぽぽ』を思い浮かべ、放牧された一頭の馬をして、混沌の魂に出逢う。あんなに凍りついた憎しみが、あたたかい血になって指先を流れる和解の一瞬を、読者は図らずも感動をもって共有する。だから読書はやめられない、つくづくそう思う。 須賀敦子(1929年 昭和4年生)が描く実父須賀豊治郎(1906年 明治39年生)は、貧しさとは対極にいたが、家庭を顧みず、1935年(昭和10年)に単身ヨーロッパ、アメリカを旅して、文学や美術の造詣を深め、ベルリンオリンピックまで観戦した。身内の期待に反して、帰国後も仕事に身が入らず、ふたつの家庭をもち、わがままでひとりよがりな生涯を送ったという。しかし、娘敦子には、なくてはならない文化芸術の師であった。幼くしてこういう父親に大事にされた娘の人間観は、寛大にならざるを得ないにちがいない。 須賀敦子の傑作『コルシア書店の仲間たち』の、まさに主人公であるダヴィデ・マリア・トゥロルド(1916年 大正5年生)は、カトリックの神父だから妻帯はしていないが、信者を束ねる父親的存在だったはずだ。詩人であり、ミラノの大聖堂でインターナショナルを唄って大司教の不興を買い、ミラノ城壁外に追放となったいわゆるカトリック左派のリーダー。ところが、自己顕示欲が強く、大声で抑圧的、周囲の声に耳を傾けず、他と衝突を繰り返し、威張りつづけて恥じない不徳。しかし、情も濃く、憎めないというのか、信者たちの心配をよそに、わがままでひとりよがりを貫いた。この人物がいたからこそ、須賀敦子は『コルシア書店の・・・・』を書いたのだと思える。〈全く、しょうがないなあ〉と思いつつ、ダヴィデの行動や詩集を達観した須賀敦子には、豊かな母性さえ感じられる。 さらに須賀敦子が傾倒したフランスの女性作家ユルスナール(1903年 明治36年生)の父親ミッシェル(1853年 江戸末期生)は、結婚後も賭け事と旅に明け暮れた文学青年で、妻が産後急死した後も、幼い娘ユルスナールを連れてヨーロッパ中を旅して財産を使い果たし、その中で娘に古典の手ほどきをしたという。 須賀敦子がイタリア語から翻訳した『ある家族の会話』の著者ナタリア・ギンズブルグ(1916年 大正5年生)のユダヤ系の父ジュゼッペ(1850年代生)はトリノ大学の解剖学の教授だったが、家では怒鳴りちらし、周囲をバカ呼ばわりして、身内の意見にはすべて反対する、厄介な人だったらしい。 ここ半年間、吉野せいと須賀敦子の作品を繰り返し読んだ自分には、夫とか父とかいう生き物が、実に珍種に見えてきた。忍耐や思慮、倫理道徳、秩序などに頓着せず、生まれもった強情やこだわりに素直に従い、自分のしたいことだけをし尽くした男たちの、なんと多かったことか! その反面、須賀敦子自身の夫ペッピーノの、あるいは詩人ウンベルト・サバの、薄幸ながらも知的で謙遜で、うずまく感情を文学に昇華させて必死に生きた姿が尊く感じられる。 しかし、暴走する夫も父も、うまく一時停止できる夫も父も、そのどちらも、自分たちの人生をまったく正当化しなかったことに、読者はおおいに救われる。 On the same boat で出航して早8か月。相も変わらず漂流boatには目的地が見えず、二回目のロックダウンに見舞われている海外の仲間もいる。地球号という同じboatにはちがいないが、ひたすら漕ぐばかりでは徒労に終わるかもしれない。来月から当ブログのboatは、無意識下の岩陰にそっとつないでおくことにした。 |
2020 年10月 |
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2020 年9月 |
On the boat その6 ある 父と子
ベニーがアボカドの作業小屋に入ってきた朝を、まるで昨日の事のようにおぼえている。わたしたちアボカド畑の働き手たちはそれぞれ、朝食後のコーヒーカップを手にしていた。
薄暗い小屋の中、着席した彼はすぐにボスたちとアボカドの収穫時期について話しはじめたので、農業組合の人だと思い、朝食係でもあったわたしは、彼の前にもコーヒーカップを置いた。
ベニーがアボカド栽培の専門家で、かつて同じキブツのメンバーだったのを、後になって聞いた。そしてなぜ、キブツ内の食堂ではなく、作業小屋に立ち寄るのかも聞いた。ベニーはタマルという女性と離婚して、彼女と3人の子をキブツに残していたが、タマルはすでに別の男性と再婚していたので、生活圏から少し離れた作業小屋に立ち寄るのは双方のためだとボスが説明した。はたしてベニーも新しい家庭を築いたかどうかは、ついぞ知らない。それから2,3回立ち寄った彼にコーヒーをすすめたが、言葉を交わしたことはなかった。
そしてその5年後、わたしがすでに日本に帰国後の1975年、ベニーの次男エリアブ19歳が、レバノン国境付近のゲリラ襲撃で戦死したのを聞いた。
そしてさらに30年以上の時がたち、旅行で来日した友人Sの口から、図らずもベニーの名前が出た。通称ベニーと呼ばれる新種のアボカド談義が発端だった。
「ベニーって、あのベニー? 深い海のような眼で、ハンフリーボガードに似た声をもつ、あのベニー? エリアブの父親のベニー?」一気に舞い降りた遠い日の記憶が、次々と蘇った。
まさしく、あのベニーのことだったが、次男を失った彼のその後を、友人Sが語った。ベニーは、国防省から届いた上辺だけの弔文を送り返し、息子の命を奪った敵を憎むのではなく、イスラエルという国家に虐げられた彼らパレスチナ人の境遇に寄り添い、不当逮捕されて残された家族、家を破壊された家族を支援する運動を起こし、反政府デモに積極的に参加するというおどろくべき人生を歩き始めたという。
次第に右傾化する国家の中での反体制運動が、社会的にどんなに不利、不当な制裁を受けるか、孫子の代までどんなに孤立と差別を強いられるか、推して知るべしの境遇だった。
そしてまた時がたち、偶然開けたIT現代史サイトで、91歳で亡くなる2年前のベニーのインタビュー映像に出会った。老人施設内でのベニーは、さすがに声だけはハンフリーボガードではなかったが、まだカクシャクとして、あの深い海のような瞳を輝かせ、インタビューに答えていた。それによると、20世紀初頭にウクライナから当時のパレスチナに移民した両親の元に生まれ、成人期にはイギリス委任統治支配に対する抵抗運動パルマッハに参加し、イギリス撤退後はキブツ運動、イタリアのユダヤ人救出、対アラブとの戦闘に身を投じて独立戦争をくぐりぬけたという。しかし、次男の戦死を機に、権力側が放つ陶酔感から目覚め、空軍予備役を拒否し、紛争で傷ついたイスラエル人、パレスチナ人双方の遺族の対話をすすめる民間運動に転じたと語った。
「世界中を旅してわかったことは、だれもがかけがえのない人間同士だということ。特別な民族意識や宗教間の差別があってはならない。南アフリカのアパルトヘイト、イスラエルの占領地政策は恥ずべきものだ。平和には一歩たりとも近づいてはいない」
肩越しの壁には、あどけない童顔の兵士、次男エリアブの笑顔の写真が架けてあった。今生では、ほとんどいっしょに暮らせなかった父と子は、ここ数十年は互いに伴走し合って歩いたはずだった。
そしてまた月日がたち、つい最近、わたしはエリアブの夢を見た。わたしの知る彼は12歳から14歳の二年間だけなので、夢の中でもまだ少年だった。子ヤギを抱えて元気よく走り回るエリアブ、君は何を伝えたいの? わたしは起床してすぐにPCを開け、イスラエル国防軍サイトにある彼の記録を読んでおどろいた。その日8月20日は、奇しくもエリアブの正命日だったのだ。45年前のその日、彼は自分の生まれ育ったキブツを見下ろせるレバノン国境近くで命を落とした。
2020年の夏、コロナ禍出入国の制限で、両国の渡航距離が途方もなく不明確なった今、53年間におよぶイスラエルとわたしの距離は、彼らふたりの確かな足跡に呼ばれたのか、突如こんなにも縮まった。 |
2020 年8月 |
On the
boat その5 〈だるまさんが転んだ〉 たまたま読んでいた本で、〈1・2の3 魚の塩漬け〉と呼ばれるヘブライ語の子ども遊びに出会い、それが日本でいう〈だるまさんが転んだ〉と同じ遊びだということがわかった。ユダヤ人のいう魚の塩漬けとは、ロシアやポーランド料理の前菜で知られる、いわゆるシャケやニシンの塩漬けのことだが、ではなぜこの一品が、遊びの名前になったのか? イスラエルの友人にきいた結果、くわしい経緯はわからないが、魚の塩漬けが、微動だにしないものの象徴とされたのではないか? とのことだった。
一方、日本語の〈だるまさんが転んだ〉の由来は、達磨大師が9年間壁を前に座禅を組む修行をしていたとの言い伝えから、壁を向いて9拍(9秒ではない)数えていた遊びの中のオニが、10拍目の「・・転んだ、の、だ」で、後ろを向く、つまり、10年目に修行者が躓いて、世間に目を向けたという想定の遊びになっている。宮城県では、「くるまのとんてんかん」、和歌山県では「へいたいさんがとおる」など、10拍に相当する掛け声は、各地で異なるようだが、どうやら日本古来の遊びではなく、明治以降に広まったらしい。
おどろいたことに、世界中に同じ遊びがあって、英語では〈彫像ゲーム〉と呼ばれ、それはオニ以外の子どもたちが、彫像のように動かないことに起因している。オニが数える9拍のかけ声は、アメリカでは「青信号 赤信号」、フランスでは「1・2の3 太陽」、スペインでは、「1・2の3 イギリスのチョコレート」、韓国では「むくげの花が咲きました」とさまざまだが、ルールはほぼ同じなので、その遊びの起源と由来にも、興味をそそられる。
しかし、今回の本題は、実はその遊びそのものではなく、〈だるまさんが転んだ〉を彷彿とさせる、自然界のある現象についての話である。
朝顔や月下美人のように、ツボミが開花するまでの数時間を、人が眼で追えるのは非常に稀で、自然界のほとんどの植物や動物たちの個体は、人知れず命をつなぎ、そして人知れず、どこかで枯れ、あるいは隠れて死んでいく。
植物ばかりでなく、生き物たちは、まるで、「だるまさんが転んだ」とオニが壁を向いたわずか9拍の間に、急速にあっというまに移動したり、変態したりして、10拍目には、何事もなかったように、彫像のごとくすましている。これは、決して自然の成り行きや定速度ではなく、安全か危険かのふたつのスイッチだけで生き延びてきた彼らの、あえて種を存続させるための、身体智のなせる業だと思える。観察者である人間どもが、きょうこそ肉眼で、サナギになる蛹化(ようか)を観ようと、幼虫のそばを動かない間はまったく進展せず、そのうち、しびれを切らして、ちょっとした家事や他所に目を離したすきに、不動であった彼らは、まんまと事を成す。お見事としか言えない生き物たちの〈だるまさんが転んだ〉術に、何度舌を巻いたことか! 彼らは全細胞で、周囲に暮らす人間どもの呼吸、声、そして行動をキャッチして、最も安全な状態で変態に臨もうとする。
これは、わたしたち家族だけの体験ではない。長年、自然界を撮影している映像カメラマンが言う。「昆虫の変態が秒単位で押し迫り、今か、今かと、じっとレンズを向けているのに、全くすすまない。ふと、別の出来事に気をとられたり、機材を設置し直している瞬間に、あっという間にしてやられる。いつもそうだ」
教壇に立つ生物の教師が言う。「生徒たちに昆虫の羽化を見せようとするが、なかなか始まらない。じゃあ、トイレ休憩だと、生徒たちが教室を出て行った途端に、この子たちは羽化する。悔しいが、そういうことなんだよ」
さらに、完全変態術にはその状況に応じて微妙な差がある。わたしたちは、昨年からアサギマダラの羽化には、何回か遭遇できたが、蛹化については空振りばかりで、撮り人知らずのユーチューブ画面で見るしかなかった。今年は、6匹中5匹の蛹化を惜しくも僅差で見逃し、最後に残った1匹の幼虫がサナギになる数分間を、まさに初めて、祈る思いで瞬きもせず、見届けることができた。ではなぜ、蛹化に遭遇できる確率はこうも低いのか? つまり、卵から孵化して以来ずっと移動していた幼虫が、以降しばらく定着不動を強いられる蛹化は、羽化という自由への羽ばたきよりずっと、周囲に脅かされる危険度が高く、無防備になれないリスクを負う、そういう根拠ではないか? と気づいた。壁を向いていたオニが、背後を振り返った時、10拍目ではすでに遅いと知る、自然界との時差でもあろう。
しかし、それを命と人生の時差というか、異次元の差であるとオニが体感するには、まだ何か、それも大事なものが足りない気がする。そしてこれは、調査や検索でわかるものではない気がする。 |
2020 年7月 |
On the boat その4 家族と家庭、そして居場所 今から60年以上も前のことだが、わたしたち家族は新宿区戸山アパートに住んでいた。戦前と戦中は陸軍演習場だった広い戸山が原に、戦後に建てられた鉄筋コンクリートの都営アパート団地で、間取りは棟によって各種あったようだが、我が家は六帖と四帖半の畳敷き二部屋に、狭い台所と和式水洗トイレ、風呂はなかった。 総武線の大久保駅と山手線の高田馬場駅のほぼ真ん中に位置する30棟以上のその団地には、近くに公務員アパートも10数棟あることから、幼稚園、小中学校、商店街、診療所、公園などが、ほぼ完備していた。そして当然、銭湯も3軒あった。 映画「三丁目の夕日」の、まさにあの時代、新宿の空き地にもモンシロチョウが飛び交い、子どもたちは土管遊びをして、夜はラジオの「一丁目一番地」に耳を傾ける、暢気な都会暮らしの一端があった。 そんなわたしたち家族4人の、たった二間の狭いアパートに、時折り身内が飛び込んできては、数日間滞在するという出来事があった。 母の妹である京子叔母は、当時吉祥寺に姑、夫、ふたりの幼い子どもたちと住んでいたが、なぜかよく我が家に来て、今から思うと、ちょっとした家出だったのか、数日間いっしょに暮らした。わたしは、小学校でカタカナを学んでいた時期だったから、おそらく6歳くらいで、シとツの読み書きに苦労していた。 京子叔母は見かねて使命感に奮い立ったのか? わたしを相手にシとツの特訓をはじめた。叔母には、時間的余裕があったので、下校するわたしを、まさに手ぐすね引いて待ちかまえ、実に熱心に、根気よく教えた。しかし、わたしには、その二つのカタカナ文字の違いがよくわからず、何度読んでも、何度書いても、シとツに混乱するばかりだった。叔母は、出来の悪い姪っ子に手こずり、当のわたしは次第に、学校帰りが憂鬱になった。〈叔母さんは、いったいいつまで、このアパートにいるのだろう? 家族のだれか、早く迎えに来てくれないだろうか〉。そのうち、叔母は吉祥寺に帰って行ったのだろうが、シとツはわたしを悩ましつづけ、ワープロのキーボードが誕生してやっと、区別ができるようになった。恥ずかしながら、今でも自筆ではあやしく、シャツなどというカタカナは、読めても正確には書けない。 京子叔母は、現在90歳。町田市内の老人ホームに、入所ではなく、ボランティアで習字を教えに行っている。ほとんどが歳下であろう生徒を相手に、熱心に教えているのは、ぜったいにまちがいない。 その後、母の姉も短期間で滞在していった記憶があるが、その伯母は19歳で戦争未亡人になり、数年後に仏門に出家したので、頭は剃髪で袈裟を着ていた。伯母が我が家に来ると、頭をきれいに剃ってもらうために、近所の床屋に伯母を連れていくのは、わたしの役目だった。当時は自分も、床屋でワカメちゃんカットをしてもらっていたので、夕暮れの坂道をふたりで下り、通りすがりの人たちにジロジロ見られながら帰宅したのを、未だにおぼえている。その伯母は現在96歳、仏門尼寺の隠居として、都内の老人ホームで、読書三昧の日々をおくっている。 その後も、中学生の従兄が阿佐ヶ谷から徒歩で、本人曰く家出して来て、うちの食卓でカツ丼二人前を平らげ、それでほぼ満足したのか? 翌日バスで帰って行った。彼は今現在、おそらく日本で最高齢の旅行添乗員として、月に一度はヨーロッパにとんでいる。 あれからも、大きな家からわざわざ、どうしてこんなに狭いアパートに来るのだろう? と思われる身内が、泊まっては、また帰って行った。 わたしは高校生になり、机やら二段ベッドやら、タンスで身動きの取れない団地の二間に、座る場所もなくなり、そのうち家族と共に、目黒区の一軒家に移り住んだ。その翌年、はるか遠い中近東の集団農場にたどりつき、血筋ではない家族の縁を得て、アボカド園で二年間働いた。53年たった今も、自分のもうひとつの居場所は、かの地にある。 家庭とは、家族の居場所だという。しかし人は、家族や家庭という枠を越えて、さらに居場所を求める生き物でもある。 あるいは、結果論なのだが、衝動的な家出を含め、必然的に家を出ることは、あらためて家族の意味を再認識するのか? あるいは新たな家庭、居場所をつくる分岐点なのかもしれない。その分岐点には、どうやら家族と家庭の枷が、重く、苦く、時には暖かく交差していることも知った。 我が家では今、アサギマダラの幼虫が、蛹(さなぎ)になるための移動をはじめた。専門用語では〈分散〉と呼ぶそうだが、わたしは勝手に家出と呼んでいる。完全変態の彼らは、蛹化するために、できるだけ遠くに家出をする。近親交配を避けるための、野生の知恵だという。すっかり成長した幼虫が、いつのまにか、音もたてず、窓の桟やカーテンレールを上り始める。野外では、10メートル以上の移動も確認されているという。彼らには血筋はあるだろうが、家庭という身体智はない、たぶん、ないだろうな。でも、たった一匹で、かなりの時間をかけ、行きつ戻りつ吟味して、そのうちちゃんと居場所を定める。その後しばらく瞑想でもするかのように、一日以上じっと動かなかった幼虫は、脱皮を経て、頭を下に、まるでグリーンの宝石のように美しく吊る下がる。 2020・6・28 |
2020 年6月 |
On the
boat その3、地べたに生きること 地べたには、ふたつの意味がある。まず、物理的、可視的な土の地面。アスファルト道路やコンクリートに囲まれてはいない地べたの暮らしは、特に新型コロナウイルス感染防止で外出自粛になってからの長期間、つくづくありがたいと思う。土の上に立ち、みどりの風に吹かれ、大空を見上げる至福。
もうひとつの地べたは、ほとんどが不可視で、その半分以上が個人の頭の中にある。社会的地位や肩書、収入、学歴や家柄、仕事の高評価による優劣思考で、すでに二階にいる者も、あるいは屋上に登ってしまった者もいる。自ら、はるか地べたを見下ろして、優越感に浸る者もいるだろうし、上昇途中で上だけを必死に目指す者もいるだろう。努力して登った者は概して取り巻きにおだてられ、自分はひとかどの人間だと勘違いをして、法や道徳を犯し、セクハラやパワハラ、果ては公人としてあるまじき行為に出ても、それでも自分は悪くないと内心で思っているだろう。何を発言しても許される驕りの巨塔には、恐ろしく美しい魔王が潜み、それは案外、下から見上げる者には、目指すに値する魅力だったかもしれない。その階段を登ることが、生きることだと思い込んでいた者たちも多かったはずだ。
しかし今、ほとんどの者が娯楽や気晴らしを慎み、友人知人とも直接の対話をせず、生の文化芸術に接しない中、自分に向き合う時間が多くなり、当然「掃除や洗濯をすることが、はたして生きるということなのか?」、「自分はなぜこの人たちと、ここに生きているのか?」と、真正面から自問することになる。今まで、時間や社会通念、世間の常識に追われていたことは、もしかして生きることそのものではなく、二次的なまやかしや虚しい飾りだったのかもしれないと思いはじめている。そういう時、地べたにいる者は強い。いつのまにかハシゴを外された二階で、行き場を失ってととまどうこともないし、今さら降りる場所も必要ない。「自分はなぜここにいるのか?」と、命のへりを歩く辛い自分に気づいても、所詮答えのない問いを受け止める豊かな土壌が足元にある。
宮沢賢治の枯れない命を考える時、生涯地べたに生きた人の大きさを思う。今でこそ、彼の作品は多くの人に読まれ、愛され、評価を得ているが、当時は出版社に持ち込むも刊行まで至らず、詩集『春と修羅』、童話『注文の多い料理店』を、父親に借金して自費出版したが全く売れなかった。裕福な出自をもつ青年の単なるご道楽、理想主義、欧米かぶれだと馬鹿にされるだけで、もちろん無名だった。しかし、一年後輩の保阪嘉内(ほさかかない)との友情を支えに、科学や哲学への芽を育み、受賞や名誉どころか、出版とも文壇とも無縁の環境で、ひたすら膨大な作品を書き続けた。頻繁に上京したというから、おそらく世俗的な上昇志向もあっただろうが、結果として、一度も二階に上がったことのない書き手であり、農村教師であり、信仰者であった。地べたに立ち、土壌、星、鉱物、昆虫、植物、音楽を追い求め、農民に寄り添った37年間であった。
さてここで、すでに漂流ボートに乗って3か月以上もたったが、住居や食事という生存権を脅かされる人々が、世界中に激増してきた。彼らを、まず地べたにまで引き上げるにはどうしたらいいか? どうやって助け合ったらいいのか? 多くの知恵に優れた故人を思い浮かべ、もし彼らが今生にいたらどうしたであろう? と考えてやまない。そう、賢治だったら、はたしてどうやって、手をとり合ったであろう?
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2020 年 5月 |
On the boat その2、再び、文学とは何か 二年前のエルサレム・ブックフェアで、「文学とは何か」という小さな石を自分自身に投げたが、石の大きさ自体は変わらないまま、わたしの中でその波紋はどんどん広がっていく。 まず、文学とは決してアカデミックな範疇ではないという原点は、この機に及んでさらに強固になった。日本語では「学」という漢字が含まれているので、ついつい学問のひとつだと勘違いされ、たしかに実学だと言う人もいるが、「学」にとらわれると、その本質から遠ざかる。わたしは「人の生き死に」だとも発言したが、それもあまりに大雑把すぎて、もっとかみ砕いた定義にこだわりたくなった。哲学も心理学も、「人の生き死に」にはちがいない。 ブックフェアのスピーチでは、アーサービナード氏と沼野充義氏との誌上対談から、「言わないで言うのが文学」という定義を引用したのだが、わたしの表現力、ヘブライ語への翻訳力が乏しかったせいで、その矛盾に満ちた言い回しが参加者にはうまく伝わらず、「行間を読む」という底浅の方法論で括られるのが精いっぱいだった。「行間」と言った時点で、すでに行を読んでいる行為が、残念ながら自分の意図したこととは異なる。 では、「言わないで言うのが文学」を英語でどう表現するのか? は辞書で調べてもわからないので、たまたまその年の秋に、都内で行われたアーサービナード氏の講演会で、直接本人に訊くしかないと思って出かけた。ところが、講演後のサイン会場で並ぶ、おばさんファンたち(自分もその中のひとりでありながら)の熱気と制限時間に押され、ついに目的は達せなかった。 そして昨秋、もうひとりの対談者であったロシア・ポーランド文学者である沼野充義氏にお目にかかれる機会があり、生まれてはじめて本郷の赤門をくぐった。同大の現代文芸論教室で、ヘブライ語翻訳者の母袋夏生氏の特別講演があり、同席のご縁を得たからだった。ところが、わたしがあまりにも唐突に「沼野先生!」と挙手して質問したためか、おそらく数年前に行われた誌上対談の記憶にまでたどりつくことができなかった。しかし、沼野先生の屈託のない笑顔によって、もしかして、その定義はアーサービナード氏の詩的表現のひとつではないかとだけ、察しがついた。まさにこれこそ、沼野充義氏が言わないで言ってくれた、大事な答えだったかもしれないと、今はありがたく振り返る。また、どこかの誌上で、「文学は、政治のペテンを暴くもの」と沼野氏が発言されたのを読み、いたく痛快だった。政治のペテンは、政治では暴けないのは、だれもが知っている。 そして今、コロナウィルス感染、不確実性の真っ只中にあって、読書中の若松英輔著「種まく人」の中で、文学を構成するいくつもの重要提言に出会った。 ・物語を文字に還元するのではなく、文字たり得ないものを文字に記す。この矛盾に挑むこと、そこにグリム兄弟の試みがあった。 ・カズオ・イシグロが話していたのは、物語は最初から文字の姿をして訪れるわけではないということだ。 ・ウイリアム・ブレイクを引用して、「文学」は単に小説や詩、批評といった狭義の様式を指すのではなく、人間の内なる生命を言葉によって示そうとする営みそのものを指す。 ・鮎川信夫の1951年の作品解説で、いつからか日本の現代文学は、思いの表現に力を注ぐようになって、その技巧を磨いてきたといい、もっとも伝えたいことを胸に秘めたときは、しばし言葉を発することをやめ、沈黙のちからを借りる。さらに詩は、不可視なものの実在を証明する。・・・世の政治的な事象にも訴える働きを持ち、隠蔽されたものを暴き・・・・内面に巣食うものと戦う力を喚起させると書く。 ・極めつけは、わたしがこのボートで漂流中、一日の締めにかならずページをめくる須賀敦子作品集の中から、フランスの作家ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』須賀敦子訳の一節にもあった。「ここに書いたことはすべて、書かなかったことによって歪曲されているのを、忘れてはいけない」 わたしが投げた小さな石は、今や自分の中で、ひたすら波紋を広げるだけで、まったく外に出ていこうとしなくなった。しかしその石は、重くも痛くもなく、時には愛おしく、ボートで大海を漂流する身には、なくてはならないものになった。 医療現場をはじめ、わたしたちの暮らしを支えるために、日夜(にちや)命をはって、前線で働いている多くの方々に、心からの感謝を申しあげます。 2020・4・27 |
2020 年 4月 |
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2020 年 3月 |
「ヒヨコです!」 毎年2月、母の誕生日をダシにして、静岡県田貫湖畔に身内が集まり、今年は、姪っ子、甥っ子家族が参加して、総勢11名の二泊三日となった。
雪の少ない表富士を真正面に、大人7名、小学生4名、それも8歳から94歳までという年齢差をかかえる一同が、南は三重県から東は三鷹市から集合して、連日にぎやかに過ごした。
田貫湖一周をサイクリングしたり、自然塾内で遊んだりして、二日目は、同じく静岡県にある〈富士花鳥園〉(旧称 国際花園)という観光スポットに行った。べゴニヤとフクロウ、大型鳥類を飼育、一般に観覧する広い施設で、わたしたち夫婦はほぼ毎年立ち寄っている。
全員で、ペンギンやフクロウ、ハヤブサのバード・ショウを見た後、世界中から集められたフクロウのケージを廻っていた時、甥っ子のK39歳が、ケージ内にいた飼育員に、「エサは何ですか?」ときいた。
飼育員の若い女の子は、元気よく、それも笑顔で「ヒヨコです!」と答えた。
「ヒヨコ?」Kは、一瞬ひきつった。フクロウが猛禽類なので、肉食ということは知っていたが、まさかという答えと、その女の子の無邪気な笑顔が、おそらく予想外だったのかもしれない。Kは中高時代に養鶏場を手伝ったことがあり、ヒヨコの孵化や飼育などを身近にして育った。ケージの前で、同じく養鶏が身近にあった妻と、いったいヒヨコをどのようにしてエサにするのだろうと、小声で話していた。猛禽類のエサ用に、ミンチにしたものを仕入れているのか? それとも、近くでヒヨコを飼っていて、毎日絞めるのか? とか。
二人がそんな具体的な話をしていた時、飼育員が産毛のついた肉片を、指先からフクロウに与えはじめた。次の瞬間、大きなケージの中に、目を疑うようなものが並んでいるのを見た。数十匹のヒヨコの死骸が、頭を同じ向きに、等間隔にずらっと並べられている。どのヒヨコも目を閉じ、濡れた産毛は黄色で、くちばしはオレンジ色だった。冷凍ヒヨコを、室温で解凍しているらしい。
「わっ」わたしは、声を押し殺して、後ずさりした。Kの妻も「うっ」とひるんだ。
「子どもたちには、見せちゃいけない」と言うわたしの後ろから、いつもはおだやかで、反論などしないKが、眉をきりっと上げて、「いや、見せなきゃいけないんだ」と言った。彼の何かが、ぎくっと変わったのを感じた。
Kは、小学生の子どもたち4人を呼んで、ケージの前に連れていき、ヒヨコの死骸の並列を、無言で見せた。子どもたちは、だれも騒がず、動かないヒヨコをじっと見つめた。
教育論や心理学を越えた場がそこにあった。Kの妻が、涙をいっぱいためた目で、わたしを見た。「もっとひどい現場に、毎日立ち合っているんだもの。電車の事故とか・・・」
そうだった。Kは、消防士でレスキュー隊員として、救急車にも乗る。それが、彼の選んだ仕事だった。ヒヨコは可愛いという通念に寄り添う一方で、毎日、限りある命の過酷な現場に駆けつけなくてはならない人たちのことを、わたしたちはほとんど知らない。
当たり前なのだが、ニュースにも、活字にもほとんど取り上げられない、「いいね」や「シェア」にも無縁な隠れた日常が、実はものすごくたくさんあることに、あらためて気づかされた。
長距離トラックの運転を生業としている、もうひとりの寡黙な甥っ子48歳が、焼酎のグラスを片手にボツボツ語った仕事の一端も、そのひとつ。
三日間もいっしょに過ごして、さんざん喋って、笑い合って、互いに何もかも通じ合えた気がしたが、それはそういう気がしただけで、それぞれの暮らしや心の奥底は、ヒヨコを見た子どもたちの内面も含めて、全くわからない。たとえ身内でも、たとえ生まれて以来の間柄でも、わたしたちはそこまではたどりつけず、「また会おうね」と振り合った手の重さは、日毎にわずかな愛おしさを増して、未だここにある。
今朝の3時ころ、すぐとなりの林で、野生のフクロウが数回啼いた。 あの日、よたよた歩きで花鳥園に同行した94歳の母は、たまたま離れたベンチにいて、ヒヨコを目にしなかった。
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2020 年 2月 |
尾車親方を知っていますか?
大相撲ファンになって、すでに10数年たつ。さすが、両国や各地方の体育館には足を運ばないが、毎場所ほぼ毎夕テレビ観戦している。半年前にキッチンテレビを設置、以来料理はさておき、大相撲観戦に熱が入る。歯に絹着せぬ解説も実に面白く、特に北の富士の解説になると、わたしはもはや、キッチンにいても料理はしない。刃物をもつ自信がない。
力士の国籍は問わず、かつてはエジプト出身の大砂嵐、モンゴル出身の日馬富士、照ノ富士、現在はケガを治療中の宇良など、猛烈に応援した。今は、旧グルジア(ジョージア)出身の栃ノ心、炎鵬、朝乃山、そして今場所からはモンゴル出身の霧馬山を応援している。
勝ち負け、強弱はともかく、若い力士たちの〈凌ぐ〉姿というか、決して諦めない心意気にほれ込んで10数年、隔月の大相撲はわたしの熱源になった。土俵際のあのねばり、負けたかと思うと勝ち、勝ったかと思うと負ける、不甲斐なさを地元の後援会や全国にさらして、負け越しという汚点を拭えぬまま迎える千秋楽、どんなに辛く、恥ずかしく、悔しいだろう。
今場所十両の照ノ富士は、かつて幕内で大関にまで昇りつめ、優勝経験もあり、それがケガであっというまに十両に転落したが、引退はせず、今場所は十両優勝で立ち直りつつある。しかし、その長い道中たるや、凡人には想像もつかないほどの恥辱に耐えてきたはずだ。某お茶漬け海苔のコマーシャルに出演すると、どういうわけかほとんどが星を落としていく。その恥辱と後悔、ケガに苦しむ下降線、しかし、そうした胸の内は、一言も発しない。
たしかに、痛い、苦しいと発言したとして、取り組みには何の効果もないどころか、相手に付け込まれる。
元琴風、今は尾車部屋の尾車親方が、60歳の誕生日に、家族でバースデイケーキを囲んだそうだ。ごく当たり前の家族風景の翌朝、たまたま某放送局のインタビューに応じた親方は、満面の笑みを浮かべ(彼にはえくぼがあるので、ペコちゃんというあだ名さえあり、笑っているつもりがなくても笑顔になる)「もう少しで、ありがとうと言ってしまいそうだった」と、極当たり前に語った。
ほとんどの視聴者には、親方の真意がわからなかったにちがいない。誕生日を、それも還暦を祝ってくれた家族に「ありがとう」と言うのは、当たり前ではないか? それが、喉元まで出かかって、言わずにすんだという安堵感、逆説的な仕合わせ感を、いったいどれくらいの視聴者が理解できただろう?
わたしは、これを若い人たちの集まる様々な場で問いかけたが、半分以上の人は???と首をかしげる。
その反応はよくわかる。今はとにかく、だれにも「ありがとう」「ごめんなさい」「すみません」「うれしいです」「楽しかった」と自己表現することが、必要、かつ大事だと言われている世の中だ。
ある外国人に、日本では夫婦間でも「愛してる」などとは、そう頻繁に(あるいは、ほとんど)言わないといったら、「じゃあ、日本人には愛がないのか?」と、真剣に問われ、あらためてその発想に驚いたことがある。感謝を口にしない文化を肯定するわけではないが、尾車親方の心情が、わたしには良くわかる。
そして、「ありがとう」を生の声で聞かなかった親方家族の平穏も、良―くわかる。両者とも、あっぱれだと、・・・ついついこちらも笑顔になる。
そして迎えた千秋楽当日、1月26日(日)夕暮れ、平幕、それも幕尻という名を背負って結びを闘った徳勝龍が優勝した。わたしは、個人的には正代を応援していたけれど、引っ叩いたり、押したりしないで、しっかり組んだ平幕の両者に、高々と杯を掲げたい夕暮れだった。
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2020年1月 |
雪の朝
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