☆ 樋口範子のモノローグ(2026年版) ☆

更新日: 2026年8月1日  
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範子の著作紹介

2025年版

2026年8月
              

 〈祈りの丘〉への遠足

 子どものころ、蜩(ひぐらし)が啼くと、いよいよ夏が終わるのだと、もの悲しい気もちになった。子どもにとって、夏休みは夕方遅くまで外で遊び、プールに行ったり、親戚中で旅行をしたり、花火を観に行ったりと、毎日が非日常の連続だった。それが、蜩の「かな、かな、かな」という啼き声で途端に胸が陰り、具体的に悲しいことがないのに気もちが重くなったものだ。

 それが今、初夏でも盛夏でも蜩が啼く。世間の夏はまだつづいているので、単に自分の夏が短くなったのか? 啼き声による条件反射なのか? と、もの悲しさにうち沈む。

 そんな時、一組の母娘が、東京から日帰りで来てくれた! それもいっしょに、山中湖畔にある明神山に行こう! という嬉しい計画。わたしたち夫婦は、その山を〈祈りの丘〉と呼んでいる。

 連日の雨が晴れて、いい朝を迎えた。高速バスから降りた母娘とわたしたち夫婦の4人は明神山パノラマ台を通り抜け、三国峠駐車場に到着。わたしにとって、すでに今季数回目の登山だが、いつも変わらず緊張する登山口。わずか25分の直登の道が目の前に伸びている。最年長の自分が、もし夏バテしたらどうしようかと、少々不安もあった。ただ、不安というのは、もの悲しいとは異なる感情らしく、気もちは重くならなかった。

さて出発、今回はおしゃべりしながら登ったのに、まったく疲れがなく、あっというまに頂上に着いた。417日に野焼きをした山肌の葦はすっかり伸び、青々と風になびいて、その上を数羽のトンビが飛び交っている。たしかに一回立ち止まって休憩したが、それは景観を眺めたかったからで、決してくたびれたからではなかった。時計の文字盤を一度も見ることなく登ったのも、めずらしい。真夏の富士山頂は雲に隠れているものの、どっしりしたすそ野に底力をため、眼下に広がる湖面、遠くに連なる南アルプスの山なみは、まるで初対面のように光り輝いていた。

いつものことながら、山頂には人の姿がなく、自分たち4人は「地球戦没者慰霊の碑」に手を合わせて小石を奉納し、「おお御霊よ 鎮もりませ」(中小路彰 作詞、波多野苗子 作曲)を唄った。有史以来、この地球上の戦火で亡くなった兵士、民間人のすべての鎮魂を祈るこの碑を前に、静かで豊かな昼を過ごした。いきなり低空飛行になったトンビに、おにぎりを奪われないように腹ごしらえをして、互いの写真を撮り合って下山した。この間、行き交った登山者は、いずれも単独の3人だけ。

下山後は、我が家のベランダで4人共通のシルクロード思い出談義に花が咲き、しばし風に吹かれて時間を忘れた。

 

夕暮れに彼女らを見送り、急に寂しくなったが、蜩(ひぐらし)は啼かなかった。思い切って、「なぜ、蜩が初夏にも盛夏にも啼くようになったのですか?」と、セミの研究者に訊いてみた。先生曰く、「蜩は秋の季語であるのに、元から7月初めにも、盛夏にも啼く。決して晩夏だけに啼くセミではないんですよ。たまたま8月の終わりに残っていた蜩が啼いて、秋の季語になったのかもしれないし、つくつくぼうしの啼き声を、蜩とまちがえたのかもしれない」とのことだった。

 その翌日もまた、蜩は啼かなかった。夏の初めに自分が耳にした蜩は、どこに行ったのか? それとも、胸が陰りそうになると耳に届くのが蜩の啼き声で、それがたまたま某俳人には秋だったのか?



2026年7月
              

 家族シアター

 きっかけは二年前、久しぶりに会った当時49歳の次男が、ふと、「今年は『大草原の小さな家』のDVDセットを買うんだ」と、まるで誓いをたてるように言ったことに始まる。1975年から1980年代にかけて、夕方に何度も再放送されたこのNHK番組を、母子で観ていた。といっても、台所とテレビのある居間を何往復もすわたしが観るのは、インガルス一家の面々と、草原を荷馬車が走る断片的な画像だけで、ストーリーまではつかみきれなかった。やがて再放送のたびにストーリーがつながり、そのうち、単なる西部開拓物語ではないことがわかった。

 最初から腰を据えて、じっくり観たいと思うようになったので、ある時、都内に住む次男に「DVDセットを買ったら、わたしたちに貸してほしい」と頼んだら、「それが母ちゃん、良く調べたら208話もあって、DVD38巻・・・観る時間もない」と、要は未だ手元にない様子がうかがえた。

それで村内の図書館でDVDを数枚ずつ借りたり、再放送中のBSKチャンネルで観たりしたが、やはり物語の最初からちゃんと観る! と、今度はわたしが誓いをたてて、DVD38巻格安セットなるものを入手した。たしかに208話もあり、毎晩1話ずつ観たとして、半年以上はかかる計算だった。そして、昨秋から始まった観客二人の家族シアターは、じっさいに半年以上をかけて全話をクリヤ、今はアンコール・シアターと称して、できるだけハラハラ・ドキドキせずに、刺激が少なく、かつ深層に迫る話を選んで観ている。さらにアンコールが重なる予感さえするので、今後も先は長くつづきそうだ。ウオルナット・グローブという彼らの小さな村が、今ではすぐ隣にあるような奇妙な錯覚にも陥る。

格安DVDセットなので、各篇はいくらか編集カットされており、途中吹き替えが消えて、日本語字幕になる場面も多い。しかし、今から140年も前の、1882年(明治14年ころ)~1890年のアメリカ大陸中部の人々の暮らしには、先住民をはじめ黒人、ユダヤ人、中国人、日本人、眼や耳、肢体の不自由な人たち、ホームレスなどが行き交い、それぞれが関わる白人との葛藤や共存が、実にきめ細かく描かれている。決して美談に集約されない脚本の練り方、極力削りこんだ短いセリフは、観る者の潜在意識に直にとびこんでくる。理路整然と言語化される意見の深層に、案外子どもじみた妬みや意地悪が巣食う事実に、観る者は思わず自分の胸にも手を当てるはずだ。矛盾や脆さに正面から対峙する登場人物のだれもが、長所と短所の両面を見せる。勧善懲悪ではないから、村の牧師や医者でさえ、常に悩み、自分の行いを反省しつつ、気もちは村民と共にあり、けっして指導的な自意識に浸ってはいない。

村の人々は、優しいかと思えば意地悪もするし、勇敢かと思えば気弱になる、欲深なはずなのに慈悲心があるなど、一人の人間がいくつもの顔をもち、そのたびに周囲の思いがけない反応や変貌によって成長していく。主人公が脇役になり、脇役が主人公にもなるという人格の柔軟な描き方は、登場人物の人格を矛盾のないように限定するシナリオの基本的な書き方には反するかもしれないが、あえてそうした対等な人間観がこのドラマの魅力だと思える。人間の一面をもって、その人の全人格とは言い切れないからだ。    

しかし、オルソン夫人のように損得とうわべの階級意識だけで自他を裁く者もいれば、20年も前の南北戦争のしこりを抱え続ける農民、先住民や異人種を憎みつづける保安官など、動かしがたい価値観の違いは多々ある。それでも、自然災害や感染病拡大の危機には、共同体としての助け合いが機能していた時代であった。

物語は必ず、2つの類似した設定の同時対比進行で進む。そして難題課題がひんぱんに生じるたび、それを解決する方法は論理説明や宗教的な説教ではなく、大自然への畏敬、人間の深層に横たわる思いやり、動植物に学ぶ知恵によって介される。故に、セリフ自体は少ない。

今でも、世界のどこかでかならず再放映されているという稀なるこのドラマは、長期間にわたる広大なセット撮影だというが、140年前の風景、鉄道、荷馬車、街角の正確な描写と動き、昆虫から野鳥、動物たち(牛馬、オオカミ、犬、ウサギ、ネズミなど)にいたるまでを動員しての驚くべき撮影の根気は、おそらく原作者のローラ・インガルスにも予想できなかったにちがいない。

また、移民の出自によって、哀愁を帯びたロシア民謡、ユダヤ民謡、アイルランド民謡、イタリア民謡が背景に流れるあたり、アメリカ人と呼ばれる人々の内面に息づく遥か遠い故郷が思い浮かぶ。このスケールを創り出した1960年代、70年代の優れた製作者と脚本家たちの、奥深い洞察力とその哲学に感動してやまない。時(とき)と時間の両方を生きる人間のドラマがここにある。

DVDセットは、すでに我が家の家宝になり、やがて息子たちに相続され、きっと彼らもいつかシアターの前に腰を据えるだろう。



2026年6月
              

 帰属を迂回する日々

 今秋、この小さな村に暮らして50年になるが、4年に一度の村長選や村議選で、村民のほとんどが、かならず「あっち派、こっち派」に分断されて、そのたびに人間関係が狭くなる。

時には、かつての敵陣営が味方になることで、思わぬ誤解の糸がほどけて和解したり、姻戚関係が友人関係を融合することもあるが、選挙が終わると概して長い間大事にしてきた関わりが壊れる。片や選挙陣営には、非日常の一体感、魔力があって、少なくとも孤立感からは免れ、普段見えない隣人の本音が見えると面白がる人もいる。

しかし、一人一票だけの枷に、人はうわべの生返事や二枚舌や三枚舌で立ち回ることができなくなるのは確かで、するとどうなるか、普段の付き合いをそこそこに控えることになる。そうしないと「あの時、こっちの陣営だって言ったじゃないか?」と、選挙で板挟みになって追い詰められ、つまらない傷を負うことになるからだ。選挙に巻き込まれるのを避けて、あえて住民票を移さない移住者もいる。

 小さな自治体を離れたいわゆる世間一般でも、支持政党や海外の国家支持で「あっち派、こっち派」に分断されつつあるのを感じる。支持政党への推し発言ではなく、度を越した投票依頼や、親ロシアか、親ウクライナか、親イスラエルか、親パレスチナか、親イランかと決断を迫り、どちらでもないと発すると「中立はずるい」と言われる。

 ずるいと言われてもいい、わたしは特定の国の国旗を掲げたくない。青と黄色、赤と緑、青と白も、特定の組織のプラカードと無縁でいたい。でも、一旦何かが起こったら、賛成か、反対かをはっきり言う。軸足は大地にある。対等な人間同士の非戦、反戦、非核武装、反テロを目指すことで、どこにも帰属しないということは、たぶん今までの友人関係が薄れることもあるかもしれないが、それはそれで一つの道行きだと思うことにしている。軽い同調発言はしない。したがって、帰属や所属に順じる安心感も快感もない。

 最近、そうした大勢で味わう団結の中にいたいとは思わなくなった。この分断社会を迂回して生き延びていく孤独を、怖がらなくていい。鳥の声や風の音に耳を澄ます時、自らの身体の、この大自然に帰属する至福と孤独が、何にも増して安心感をくれる・・・今ごろになって気づいた。
 


2026年5月
                  

石鹸が跳んだ日

 イスラエルとアメリカのイラン攻撃が二か月間もつづき、身体中がざわざわしている。満開の桜でさえ、世の中を偽装しているようで、素直にきれいだとは思えなくなった。そんな中、桜吹雪の舞う都内で、たまたま自分が呼び掛け人に名を連ねた会合があり、副都心線西早稲田駅に降り立った。ところが、どうやら出口を間違えたらしく、地上に出たところの見慣れない風景に、足が一瞬止まった。ここは、いったいどこ? 出口2と出口3の距離間にとまどい、やっとのことで、行き先の交差点をかなり先に発見した。しばし歩くことにしたのだが、数歩のところで、「戸山公園」という看板があり、頭の中がいきなり逆転し始めた。

70年近く前、新宿区内の西戸山小学校に通学していた自分は、広い戸山公園が遊び場で、その一角で粘土を掘ったり、旧陸軍演習場跡地の塹壕穴から薬莢を拾ったりしていた。その後、たしかその場所に早稲田大学理工学部が建つという話を聞いたことがあり、自分も目黒区に引っ越したことで、頭の中から公園はすっかり消えていた。それが、あれから半世紀以上もたった今、大学のキャンパスの端の方に、戸山公園は細長い緑地として、わずかに残っていたのだった。

住んでいた都営団地はもう跡形もないと聞くので、いずれ母校の西戸山小学校だけには足を運びたいと思っていた。しかしその日、大事な会合に向かっていながら地下鉄の出口を間違えたことで、まさか戸山公園に再会するとは、いったいなんの因果かと、頭どころか足まで逆走しそうだった。

 幸い、会合は予想外のハプニングにもめげず、仲間の協力で無事に乗り切り、数時間後には夕方の居酒屋でビールの乾杯もして、仲間と手を振り合って帰りの電車にも乗れた。優先席を譲られ、不思議な一日だったと目をつぶった瞬間、ある場面が、いきなり思い出された。

昭和30年代の都内の銭湯で、当然のように見られたそれは、男湯から女湯めがけて石鹸が跳ぶ光景だった。当時、一家族に一個しかなかった石鹸が、「〇〇子、いくぞ!」という掛け声とともに洗い場の仕切りの向こうから跳んできて、名前を呼ばれた○○子がキャッチするのだが、時にはうまくいかずに、見知らぬ婦人の背中に当たったり、湯船に落ちたり、なかなかスリルのあるものだった。

 女湯の洗い場にいた女たちは、それを、あえて目で追うでもなく、笑うでもなく、ただ淡々と子どもたちと自分の身体を洗うことに専念していた時代でもあった。笑いのツボが、今とはちがっていたかもしれない。

新宿の風呂なしの都営団地に暮らしていたわたしたち4人家族の記憶が、つい数年前に、じつは多くの銭湯組と共有するものだと知り、「そうそう、あの頃は石鹸が跳んだよな」と初対面なのに、まるで共に育ったかのように笑い合うことがあった。「今だったらきっと、石鹸の跳ぶ順番は、男湯からではなく、女湯から男湯になるにちがいない」、などとも合点した。

大真面目で過ごした時間は、時として微笑ましい記憶になると思いたい。苦手な春の日が、満開の桜に騙されることなく、過ぎ去る車窓の一枚の絵になって、そのまま新宿の一角に残された。

 


2026年4月
 
                     「なぜ?」と問う春

 戦争が始まって早一か月がたとうとしている。地政学的問題、核保有問題、民族間の対立などの要因に加えて、宗教的(ユダヤ教とキリスト教福音派、イスラム教の終末思想)理由、ユダヤ議定書に起因する陰謀論的理由が大手を振るようになった。だれもが、戦争の理由を「これだ!」と図星をつきたいのだろうが、それはあくまでも要因であって、闘いの発端は大国のだれかの狂った一声があったからだ。昨年6月の12日間戦争をはるかに超える長期戦となり、民間の犠牲者が増えつづけている。だれかの一声で停められるのなら、もう一度、そのだれかに狂ってもらいたい。

 たまたまこの戦時中に、拙訳が刊行となったので、ここで広報させてください。

https://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/a/1432.html

『女がひとりで』訳者あとがきの一部

 なぜ、なぜホロコーストを体験した人々の国が、ガザや西岸地区の無抵抗な民間人に対して倫理破壊行為、ジェノサイドを行使できるのか? 自分の痛みばかりを主張して、相手の痛みがわからない、察せられないということはどういうことなのか? 重く垂れこめた雲の中で、限りなく自問して月日がたっていく。

2016年の秋だったと思う。この『女がひとりで』の原書がイスラエルで発刊されて数か月以後に、著者のイラナ・ハメルマンが現地のラジオ・トーク番組にゲスト出演し、当時話題になった本書について語った。ネット配信によるそのトーク番組のリスナーであったわたしは、しばし耳を奪われた。

 番組の司会者で、今は亡き演劇プロデューサーのヤアコブ・アグモン氏が、長年続くイスラエル国防軍によるガザ攻撃について、「事実が隠ぺいされているから、わからないのですね?」とハメルマンに訊いたところ、彼女は堂々と「隠ぺいされてはいません。だれもが聞いても見ても、〈知ろうとしない〉とか、〈見たくない〉から、本当のことが分からないのです」と答えた。人間の耳や目が不都合な事実や数字には閉じてしまうのを、いかにも隠ぺいされているという言い訳にすり替える、なるほどと合点がいった。決して声高ではない、彼女の淡々とした語り口も印象的だった。

 それで、すぐに現地の翻訳協会に問い合わせたところ、当時の協会長の「この本をぜひ読んでもらいたい。恥ずかしながら、わたし自身も知らないことが多く、目が開かれる思いだった」との返信があり、ヘブライ語の原書と英訳が送られてきた。夢中で読み、ハメルマンのパレスチナ・アラブ人との交流に触れて心が揺さぶられ、すぐに訳出にかかった。そのときはまだ、こうした草の根交流が二度と起こり得ない、歴史的な記録になるとは思いもしなかった。

訳出をはじめて半年後の20176月、エルサレム・ブックフェアに先輩翻訳家の母袋夏生氏と参加できることになり、二人でハメルマンをエルサレムの自宅に訪ねた。小一時間、互いに語り合う中、予想通りのピュアで率直な人柄で、別れ際に「何も政治的な本を書いたわけではないのよ。この地域の日常を正直に書いただけ」と語ったのが、いまもずっと訳者をはなさないでいる。               20262月現在  樋口範子               



2026年3月
                 

 賢治の一篇              

 宮沢賢治に夢中になったのは中学二年のころ、今から60年以上も前なのだが、その時手に入れた『少年少女日本文学選集 宮沢賢治名作集」あかね書房刊 が今も書棚にある。表紙が擦りきれ、背文字もすっかり消えて判読できないが、背文字が消えている本はこれ一冊なので、逆にすぐわかる。1960年(昭和35年)発行の本書は、監修が志賀直哉、谷川徹三、編纂、解説が串田孫一と記されている。わたしが宮沢賢治作品を好きになった最初の作品は、『春と修羅』という長い口語詩で、今読み返すと、なぜ賢治だったのか、それもなぜ童話ではなく詩だったのか、理由はわからない。その後、何篇かの短い詩も好きになり、この選集を買いもとめ、以来幾度の引っ越しにも必ず携え、後生大事にしてきたのだと思う。

 ところが、久しぶりに本を手に取り、表紙を開けたところ、数ページ目の空欄に、たしかに自筆とわかる鉛筆文字で「19684月、範子が横浜港からイスラエルに出発する際、荷物の重量制限のために、この本の十数ページだけを切り取って手荷物に忍ばせた。ところが、ナホトカ港からハバロフスク間のシベリヤ鉄道車中にて、旧ソ連の警察官による荷物検査があり、切り取って持参した5篇の詩が没収されてしまった。「雲の信号」「風景」「東岩手火山」「鈴谷平原」「スタンレー探検隊に対する二人のコンゴー土人の演説」がその5篇だった」と書いてある。そういえばそうだった。同行10人の仲間もそれぞれ、手帳とか文庫本を没収されたという。本のページを切り取るとはとんでもないが、当時の自分には、苦肉の策だったにちがいない。しかし結果として、5篇以外のまさに本体だけは日本に残っていて、今もここにある。本も記憶も古い。

 あの時、シベリヤ鉄道の寝台車両にいきなり飛び込んできた警察官姿の数人がわたしの手荷物から没収したのは、友人の住所録と便箋と5篇の賢治の詩だった。きっと、貴重品だと直感したにちがいない。結局、わたしはイスラエルでの二年間、たとえ5篇でも賢治の詩に触れることができなかった。それに、旧ソ連の警察官が、その没収した詩を読んだとも思えない。

  帰国してから再会できたのが、以下の「雲の信号」

       春と修羅より   雲の信号      宮沢賢治
     
           あゝ いゝな  せいせいするな 
           風がふくし
           農具はぴかぴか光ってゐるし
           山はぼんやり

           岩頸だって岩鐘だって
           みんな時間のないころの夢をみてゐるのだ
             そのとき雲の信号は
             もう青白い春の
             禁欲のそら高く掲げられてゐた
           山はぼんやり
           きっと四本杉には
            今夜は雁もおりてくる

 1922年(大正11年)27歳だった賢治の、ストイックでありながらも、みずみずしい作品、妹トシを見送る半年前の心境、何度出逢っても、わたしには初対面の感動がある。〈時間のないころの夢〉、今もずっと、時間のないころの賢治の居場所がある、そう思える。

 


  
2026年2月
   
                      世の中の風

 年明けの116日(金)、浦和市に時間設定の用事があり、夫と二人で早々に出発した。ところが朝8時過ぎに京浜東北線と湘南新宿ラインに停電トラブルが起こったらしく、渋谷駅に着いた途端、都会の通勤混乱に巻き込まれてしまった。路線図にも疎い自分たちは、何が何だかよくわからないまま、とにかく池袋から先に進むべく電車に乗った。乗ってすぐに優先席が空き、どうにか座れて、安堵感にやれやれと一息ついた。ところが、目の前の優先席に腰を下ろしたばかりの、おそらくわたしより歳上だと思われる婦人がさっと席を立ち、車両の中央に移動した。??せっかく座ったのに?? 彼女が咄嗟に席を譲った相手は、片腕にギブスをつけ、その腕を首からの包帯で吊った若い男性だった。座席に座るどころか、高齢者意識にすっかりアグラをかいた自分が恥ずかしかった。・・・

やがて、速度を落とした新宿ラインは途中駅までしか行かず、わたしたちは乗り継ぎをして目的地の浦和駅に着き、予定時刻より少し早かったので構内のカフェで、しばしの休憩をすることにした。ところが、どこのカフェも時間調整の乗客で満席、だれもが手元のスマホを睨んでいる。仕方なく、駅の外に出て、日当たりのよいビルの合間のベンチに腰を降ろして、一息ついた。真冬の午前中、戸外のベンチにゆっくり腰を降ろすなど、富士山麓では考えられないので、思いがけない陽にあたって、しばし体が伸びた。

 9年前の2017年、やはり真冬の1月、わたしたちはウズベキスタンのフェルガナからリシタンへの2週間の旅を終え、タシケント空港から韓国のインチョン空港経由で成田に帰国予定だった。ところが航空路線トラブルで、タシケント空港内で足止めになった。空港内アナウンスがウズベク語とロシア語と韓国語なので、どれも全くわからず、ただ乗客の流れが滞っている様子に戸惑い、まずはベンチを確保した。アナウンスに従って動き出す乗客の動きを真似て、立ったり、座ったりを繰り返し、たまたまそばに立つ日本語のわかるウズベク人学生の助言で、数時間後にやっと搭乗口に進むことができた。幸い飛行機は離陸して、8時間後にはインチョン空港に着陸したが、成田行きの乗り継ぎ便には間に合わなかった。大韓航空から、ウオンのお詫び飲食券をもらって、空港内の出店で温かい麺をすすった記憶がある。「あんなこともあったよね」などと浦和駅舎外のベンチで話をしながら立ち上がり、目的地に向かった。

 二時間後、無事に用事を済ませて、高速バス出発の新宿までの帰路となったが、昼食どころか、のっけから新宿方面の電車が未だに不通とのことで慌てた。登った階段をまた降りたりして、(エスカレーターもエレベーターも休止)今回は日本語アナウンスに誘導された。十条駅での折り返し運転を条件に、まずは赤羽駅までノロノロ運転で到着でき、そこで全員が降りることになった。案の定、ホームには乗客があふれ、数か国語が入り混じり、それでもだれもが落ち着いて事態の好転を待っていた。日本語アナウンスを理解できない外国人乗客は、どうやって事情を把握しているのか? SNSで把握できるのだろうか? などと案じる中で、一番怖かったのは、ホームドアのない赤羽駅で、もしここで、だれかが押したら大勢が線路に落ちてしまう、という危機感だった。そこに電車が入ってきたら、逃げられない。そうした不可抗力の流れが怖かったので、じっと足を踏ん張っていた。やがて、ほぼ満員の電車がホームに滑り込み、でも乗るしかない、と意を決して乗り込んだ、まさに60数年前の、あの通学ラッシュと同じで、体と体が隙間なくくっついて、自分の足はどこに行ったのか? というとんでもない状況になった。でも、電車はどうやら新宿までは行くらしい。荷物は少ないし、水も携帯しているし、後は天に任せるしかない。

 ふと、前に立つ若い女性が、彼女の身に着けたレザージャケットの裾をつかんで、わたしに何か言った。えっ? 何? どうやら、この裾をつかんでくださいと、助け舟を出してくれている、なんてこと! さっそくお礼を述べて、彼女のジャケットの裾につかまらせてもらった。夫もその様子を見ていた。彼女が下車する池袋駅まで、わたしはずっと温かい気もちでいられた。都会も、まだ捨てたもんじゃない!

 やがて新宿駅に着き、無事に高速バスに乗ることができた。安堵したバスの車窓から、発生からすでに一週間以上も経つ、大月、猿橋付近の山火事の煙が立ち昇るのを目にした。すぐ近くに、民家の屋根がいくつも、じっと空を見上げていた。



2026年1月
   

2025年の読書ノートより

2025年の読書数は例年より少なかったが、主に夏季のベランダのハンモックにて120冊くらいを読むことができた。人はハンモックに身体を委ねる時、頭部の重さから解放されることで、活字が活きたまま身体に直球で投げられる至福を味わう。

読書がらみでもうひとつ、中高の同期会夏合宿のくじ引きでツイン同室になったK子さんと、二晩つづけて思いがけない読書談義ができ、それはそれは楽しかった。中高時代は互いに疎遠で、関心分野も縁遠かったが、卒業58年目にしてこんなにも距離が縮まるとは! それも、二人そろって偏向読書と言いながらも合点回数が多発して、眠るのが惜しいほどだった。

さて、2025年、個人的に唸らせてもらった数冊を挙げてみたい。  

☆小説

・『夏物語』川上未映子著 文藝春秋 2020

 同作家の芥川賞受賞作品『乳と卵』の登場人物が、それから8年後に織りなす続編物語。同じ姓をもつ別の作家さんの本と間違えて借りてしまったが、まさに怪我の功名とはこういうことか。以来、図書館のカ行書架では、この著者名を必ず確認するようになった。才色兼備の上に、歌手でもある川上未映子さんの内面の淀みが眩しい。

・『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬・著 早川書房 2021

・『歌われなかった海賊へ』逢坂冬馬・著 早川書房 2023

奈倉有里さん(ロシア文学者・翻訳家)の実弟であるとはいえ、驚くべき若冠30代の作家さん。独ソ戦をめぐる物語は史実に沿い、夢中でページをめくるうちに、戦争の真っ只中で個人としての人間はどう行動して、どう変わっていくのか? に重く対峙させられた。

☆評論集

・『日本語が亡びるとき』水村美苗・著 筑摩書房 2008

 欧米と日本の両大地に、その都度しっかりと軸足を置くこの大作家さん。『大使とその妻』などの長編小説も素晴らしいが、当評論で言語、翻訳についての多くを学ぶことができ、今後も手放せない一冊となった。

☆ノンフィクション

・『極北の動物誌』ウィリアム・ブルーイット・著 岩本正恵・訳 新潮社 2002

ヤマケイ文庫  2022

アメリカの核実験場開発計画を環境調査によって阻止し、そのためアメリカを追われることになった動物学者による大ドキュメント。1967年に刊行され、星野道夫氏は「アラスカの自然を詩のように書き上げた名作」と評した。50歳で他界された名翻訳家の岩本正恵さんの訳出中の姿が、タイガの森に見え隠れする。

・『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』川内有緒・著 集英社 2022

この女性ノンフィクション作家は、優れた感性と筆力に恵まれ、さらに長距離と長時間をいとわない旅人でもある。『バウルを探して』幻冬舎 2013年 に圧倒され、もし自分が20歳若かったら、彼女のバックパックにもぐりこんででも旅に同行させてもらいたいと懇願したにちがいない。

☆評伝

・『匿名への情熱』楠田實評伝 和田純・著  吉田書店  2025

・『鶴見俊輔伝』       黒川創・著   新潮社  2018

 側近として多くの時間を身近で接し、長年の資料精査をもって書かれたこの2冊には、無私の思い入れを感じてやまない。なぜ「この人物」の評伝を書くことになったのか? を決して説明しきれないだろう著者たちの熱量が、わたしのような政治に疎い読者をも惹きつける。

☆グラフィック・ノベル

・『あと2時間で新年です』ファルハード・ハサンザーデ文 愛甲恵子訳

トップスタジオHR  2025 

 イランの絵本として刊行されているが、時(とき)と時間を行き来する太陰暦による哲学が、羨ましいほど人々の暮らしに根づいているグラフィック・ノベル。ところどころに広がる見開きの一枚絵、現代ペルシャの雨降る街がいとおしい。

                  2026年も、多くの本に出合いたい!


   


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