☆ 樋口範子のモノローグ(2015年版) ☆

更新日: 2015年12月01日  
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2015年12月

  
 このモノローグの今年の5月版に、今から20年前にヘブライ語で書かれた、老人病院を舞台にした一般小説を紹介した。あれから半年たち、今は11月下旬、その400字詰め原稿用紙約900枚分の邦訳は、未だ六合目をうろうろしていて、持ち込み先も決まっていないのだが、わたしは細々とずっと訳をつづけている。

 そのイスラエル男性の著者が、実に細かい取材と観察で書いた心理描写、情景描写は見事で、特に女性の化粧の様子など、その正確さには脱帽する。一応は女性である自分にも、よくわかっていなかった化粧の順序、髪の手入れの仕方を活字で読み、なるほどと、ただ唸るばかりの表現が随所にある。

 また、老人間の恋愛感情なども、心理学者の探求姿勢に近く、形容詞の解釈に四苦八苦しながらも、時代や国境を超えて、人間に等しく備わった崇高かつ低俗な感情を再確認したりしている。

 主人公の78歳の独身女性は、気丈でわがまま、他人にどう思われようが屈しない自己顕示欲、強気の持ち主だが、その反面、虐げられたアラブ人には優しく、彼らをうとむ同族のユダヤ人には正義感をもって叱咤する。

 いつ訳が終わるか、その後、はたして版元が決まるかどうかも、まったくわからない現時点だが、自分の胸におちた原文を、版権の発生しない程度の部分訳で、ここに紹介させてもらいたい。

 ラフィの弟は、芝生の左側にある生垣の刈り込みを終え、枝や葉を庭の隅にかき集めて山盛りにしてから、ちょっとはなれた場所にある別の生垣までハシゴを引きずって行った。またそれに上って、元気よく、同じリズムでかがんだり背を伸ばしたりを繰り返し、再び刈り込みをはじめた。モスコビッチ夫人はつぶやいた。あの子は足が不自由で知的障害もあるアラブの少年、そしてわたしはテルアビブの北にマンションをもつユダヤ人のフランス語教師、でも、あの子の方がわたしよりずっと、今をちゃんと生きている。このたしかな思いは、自分を涙ぐませたり、あわれんだり、世の中の不条理に憤りをおぼえさせたりはしなかった。ただ、疲労と眠気をさそった。

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故人は、夢の中ではなく、深く愛し合った人の前に、いきなり姿をあらわす。行き交う人に乗り移ったごとく、見知らぬその人の姿形が瞬間的にそっくりだったりする。ほら、彼の顔だわ、ほら、彼の背丈、まさに彼の歩き方だわなどと、あなたの目の前を、彼が通りすぎることもある。たとえそれが初めてではなく、その幻影の結末がわかってさえいても、ときめきは科学論に屈することなく、夢の果てまでとことんもっていかれる。彼がそこから、スパイのように人混みに飲み込まれ、あっという間に消えてしまったらどうしようかと、その場所に急いで駆けつけるのだった。

以上、老人病院の単調な暮らしの中で、主人公の内面が揺れるのを、わたしには普遍的な視点で、どこの国でも、どんな人にも起こりうる、いとおしさにとらえる。それを日本の読者にも読んでもらいたいと、まずは七合目をめざして、えっちら、おっちら・・・・寒風の中、足をすすめ・・・・る? すすんでいるのかな? 頂上はまったく見えない。


2015年11月

 
  実子ではないが、シゲキ君という若者を失って、早10か月がたつ。享年46歳だった。毎週末、拙店のドアを遠慮気味に押す、その〈チャリーン〉という音が聞こえなくなって、自分たちには穴の開いたような午後3時以降となった。何もそんなに遠慮しなくてもと、その音が聞こえるたびに、自分たちは思った。もっと堂々と入ってくればいいのにと。

 「入っていいのかなあ?」ではなく、「オッス」くらいの気もちはないのかよ? と喉元まで出かかった一言を、どれくらい押しとどめただろうか?

 それでも彼は、精一杯のつくり笑顔で、腰をかがめ、極力音をたてずにスリッパをはいて入店した。みんなの心配や不安を、すべて引き受けてくれそうな笑顔だった。

 彼がいなくなって、その笑顔にみんなが甘えていたことに、だれもが気づいた。

あの〈チャリーン〉はもう、聞かれなくなった。

わたしの愚痴に、耳を傾けてくれる若者もいなくなった。

そして10か月がたち、穴の開いた午後3時以降、ぽつりぽつりと、寡黙なメンバーが集まるようになった。〈チャ、チャ、チャリンリン〉

シゲキ君を知っている人もいれば、まったく知らない新人もいる。でも、だれかしらが来ては帰り、言葉の行き交う夕暮れになってきた。

開店19周年を迎え、夕暮れの木漏れ日が森の向こうから射し込んでくるその美しさを、自分たち二人だけではなく、共に味わう人たちが、〈チャ、チャ、チャリンリン〉と来てくれる。

願いもしなかった夕暮れ、もしここにシゲキ君がいたら、彼はどんな笑顔を見せるだろうかと、つい思い浮かべる余裕もでてきた。

彼の遺影に、やっと向き合えるようにもなった。

実はこういうとき、人はほんとうに泣けてくるのだと、はじめてわかった。



2015年10月


 9年ぶりにヘブライ語からの拙訳が刊行され、その内容がコルチャック先生の孤児院での物語なので、この二年半、そして刊行後の今現在も、コルチャック関連の資料を読みつづけている。彼の生涯を知れば知るほど、そのあまりの過酷さに愕然となる。

少年期から青年期にかけての精神疾患をかかえる父との葛藤、家庭内の混乱、そして医学生となったのちの軍医として三度の出征で、目の当たりにした戦争の地獄、ロシア革命では翻弄され、あるときは投獄され、それでも信念を曲げずに孤独と危険、艱難辛苦を耐え抜き、あやうく自殺未遂にまで追い詰められたこともある度重なる絶望と不幸。この辺りの生涯は、ずでに絶版となったサイマル出版会の「子どもたちの王様」ベティ・リフトン著 武田尚子訳に実に詳しく書かれている。

 では、いつもどん底にいた彼を、いったい何が支えていたのか? この世的には、タバコとウオッカ。深層にある真髄では、やはり子どもという生き物の魅力にちがいない。

「教育者は、子どものファーブルたれ」というコルチャックの提言は、子どもに対する彼の観察眼そのものを代弁していると思う。当時の大人たちに目を開かせた彼の多くの著書の中で、こういう箇所がある。

子ども―― 百面相の大役者。

 母親、父親、祖母、祖父に見せる顔、厳格な教師、寛大な教師、料理人、女中、友だち、金持ちと貧乏人に見せる顔。その一つ一つが、全くちがっている。無邪気でいてずるく、謙虚で尊大、優しいかと思えば恨みっぽく、行儀がよいくせに意地っ張り。あんまり上手に化けるので、振り回されるのは大人の側だ。(コルチャックの『子どもを愛するには』から)

 そのとおりだと思う。子どもという生き物を神聖化して、子どもは純粋だとか子どもは正直だとか(ついつい、自分も安易にそう発言してしまうが)、そういう一方的な見方は、子どもに見透かされて、結局子どもにバカにされているだけだと思う。

 だれもが、自分というずるい大人を通してしか子どもを見ていない証拠で、実さいの子どもの姿とは、大きく隔たりがあるのだろう。

 生涯独身で、一度として小市民的な家庭の幸福や安定を味わったことのないコルチャックならばこその、実に冷静で正確な観察眼とその記録を、わたしたちは70年以上たった今こうして受け止めている。コルチャックは当時のドイツやポーランドでたしかに知名ではあったが、彼の教育論や哲学には反論も多く、今ほど受け入れられてはいなかった。常識からかなりかけ離れた発想が多かった。

 例えば、これは拙訳の中にもあるのだが、ユダヤ人の子どもを侮辱するキリスト教徒の子どもたちに対しても、そういう行為を行う者は、自身をもはずかしめるという見解をもっていた。これは明らかに、〈目には目を〉とは全く対極にある哲学で、理解もそうだが、なかなか実践しがたい考え方だ。

 周りから理想論だと一言でくくられても、めげることなく、逆境にある子どもたちを励まし続けた。最後の二年間は飢餓と同胞たちの裏切りの中で、ゲットーに移り住んで200名に増えた子どもたちの食糧調達と看病(ほとんどが栄養失調と伝染病に冒されていた)に、昼夜を通して追われていた。この間、コルチャック自身も心臓や肺に疾患をかかえ、脚にまで水がたまって、歩行にも支障をきたしていたという。

 この世の価値観では、最期まで報われることのなかった人生。がんばってもがんばっても、安泰の日のなかった人生。特定の組織や宗教には属さず、それでもだれよりも祈る人であったというコルチャックに、ただ畏敬をもって励まされるだけでは、ほんとうに申し訳ないと思うようになった。



2015年09月


 たった一か月間、31日間というが、わたし個人には半年くらい経った感じがする今年の八月。営業以外にとびこんだ身内の生死にかかわる情報とその対処。家族だけでこなす店の限界で、やむを得なく二回の臨時休業をした。

 父方の親類、九一歳の叔父を見送った八月。何もできなかった無念さだけが残り、つらい別れだった。大事な人を見送るたびに学ぶ、その人の生き方。あらためて、とても真似できない、すごいなと思う。肉親とは死別ばかりの薄幸な人生を恨むことなく、クラシック音楽やダンス、スキーを積極的に楽しみに、けっして愚痴ることのなかった叔父は、いったい何を日々の支えにしていたのか? 問うこともなかった。

 そんな中、生まれて初めて婚姻届の証人にもなった。片方で、あの世に人を見送り、また片方で、この世のふたりを祝福し、こういうことが日々の暮らしなのだとは思うが、深呼吸せずにはいられない悲喜こもごもを味わう。

 共に六〇代半ばの、店を通じての知り合い男性と、わたしの後輩の女性が結婚するといってきたのだった。ついては、婚姻届の証人になってほしいと咄嗟に言われ、「えっ? なんなの? ほんとう?」などと言っているうちに、婚姻届なる書類が目の前に置かれた。

 翌朝までにサインをと言われ、しばし字の練習をすることにした。六月に昆虫採集で捕虫網エルボになった結果、手がふるえて字がうまく書けないでいるので、役所に出す書類となると、余計に手がふるえて困った。新郎新婦に言い訳をして、練習もそこそこにサインと捺印をした。残りの人生を、ふたりで生きようと決めたのだから、喜ばしいことだ。多数決のきかない夫婦だけの暮らしの困難は、どこでも同じだから、外野の老婆心はない。

 きゅうに秋風が吹き、八月も終わった。実に長い一か月だった。知人から結婚記念日おめでとうとメールが入り、すっかり忘れていたきょうの日を思い出した。たぶん、45回目くらいだと思うが、この一年もわたしには特別長かった。だから、いつの間に45回目とは、決して思わない。しかし、婚姻届を提出してから45年もたったのだと思うと、やはり感慨深いものがある。あれから、夏も秋も、それぞれ45回ずつ体験してきたのだと振り返ると、卒倒しそうになる。



2015年08月


 喫茶店という場所が、行きかう人々の人生の交差点で、喫茶店を営む者はその交差点の真ん中に立っているのではなく、共にスクランブルを行き交っているのだと、以前書いたことがある。ばったり出会うこともあれば、すれちがうこともある、うしろ姿しか見ないこともあれば、まったく行き会わないこともある。でも、時間と速度は異なっても、同じポイントで、あちこちの方角に向かっている共感が、コーヒーカップを介して安心感になったり、笑いになったりするのだと思う。

 観光地で暮らしているおかげで、拙店は親類同士や同窓同士の思いがけない交差点にもなっている。長くは半世紀ぶりの再会もあるし、だいたいがそれに近い久々の出会いで、話題は当然、過去へと遡る。昭和のはじめから、平成のはじめ当たりまでが、ほぼ自分たちの〈なつかしさ〉の時代幅になるが、時として、出会うことのなかった曾祖父母の人生まで耳にすると、それは大正から明治へともっと遡る。まるで一冊の物語のような波乱万丈、奇想天外の逸話を耳にすることもあるが、それらはかなり脚色されているから、信憑性は低く、いわば伝説に近くなっている。つい先日も、89歳の母を訪ねて高齢の親類がみえ、戦前の話になったが、途中から年代と世情が混乱し、幸いそれに気づいた来訪者が大笑いで訂正した。昭和生まれの伯父が、日露戦争に応召されたと、まことしやかに語られると、やはり〈ちょっと待った。それは多分、人違いじゃないですか?〉となる。

 気づいてよかったと、外野はつくづく思った。

 実は、まったくその逆もある。中高時代は思春期と重なるため、発言や行動に一貫性がなく、またかかえる秘密や謎も多い。卒業から半世紀もたって、店を訪れた旧友から、自分に関するとんでもない噂を聞き、必死に否定したこともある。

〈あなたって、東大の一次試験は受かったけど、二次試験で落ちたので、それでイスラエルに行ったんでしょう?〉と、真顔で言われて、呆気にとられたことがある。〈あら、そういう噂よ〉と追い打ちをかけられ、なぜかひどくがっかりした。〈なにそれ?〉につきる。というのは、小学校時代はまあ勉強した方だけれど、中学でも高校でも勉強をしなかったため、数学は三角関数で完全に落ちこぼれ、英語は構文でいやになってしまった。したがって、周囲が大学受験で躍起になっている中、わたしは土日は縄文遺跡の発掘手伝いで調布の飛田給に、ウイークデイの夜はフォークソングに夢中になってコンサートに通い、勉強は全然しなかった。自慢ではないが、学校の成績別クラスは英数とも最低のランクにいた。東大どころか、大学受験は到底無理なのに、なぜそういう噂があったのか、ほんとうに呆れてしまった。その根拠がわからない。でもまあ、再会することで、噂をうち消すことができて、よかった。

 店をはって、初めて出会った親類も何人かいて、また学校時代はつきあいのなかった同級生と、今は親しくするなど、予想外の展開も実に多い。店をはじめる前には、こういう効用には気づかなかったから、オマケをもらったような気もちになる。このお得感だけでも、店をやってよかったと思えるときがある。

 巷では、呑べえの親父さんのいる一杯呑み屋がすたれて、計算に強い堅物の店主のいる居酒屋が盛り、偏屈マスターのいる喫茶店文化が減少して、かっこいい店主のいる新しいカフェスタイルが流行してきた。もしかして、喫茶店文化には、お節介で窮屈なわずらわしさがあって、人々は知らず知らずのうちにドライなカフェスタイルを望むようになったのかもしれないと、自らカフェにすわったときそう思った。そこが交差点かどうかはわからないが、他人の歩行がまったく目に入らず、気にもならない場所で活字を読み、メモを書き、飲食をする。そういう信号待ちみたいな場所もまた、自分には必要だと思った。



2015年07月


 数年前だか、はじめて「吾亦紅」(われもこう)の歌を聴いたとき、世間同様、やはり衝撃的だった。こういう歌を(というか、歌詞を)聴いたことがなかったので、しばし呆然、そしていつのまにか泣きもした。作曲者で、作詞者でもある杉本真人というミュージシャンは、自分と同世代でもあり、そうした時代の共感もあった。

 しかし、何年かたつうち、〈あやまりたい〉のは、なにも子ども側だけではない、親だって同じ思いがあると気づいた。もちろん、子どもに対してだ。

 いつだったか、谷川俊太郎さんの詩の朗読会に参加したことがある。そのとき、たぶん、今から20年近く前だったと思うが、谷川氏は、今、自分の子どもに何を声かけしたいかと質問されたときに、小声で〈ごめんなさい〉と言いたいと発言した。これも衝撃的だった。谷川氏は、はじめの結婚で手放したお子さんに対して、こういう思いなのだと短絡的に思った。わたしがまだ、40代で強気で生きていたころだった。

しかし、あれから20年以上たち、〈待てよ〉と思うようになった。親子間で、あるいは友人間で、または夫婦間で、あやまりたいという思いの種は、おそらくいくらでもあるじゃないかと思うようになった。というか、気づいたと言ったほうがいいかもしれない。

 こうした心のひだを、ひとつひとつ、言葉にして発言するか、歌うか、綴るかは別として、外に向って発信するのが、はたして意味あることなのかと考えると、それもまあ、自由だなと思うようになった。発信したい人はすればいいが、たとえ発信されなくても、察し合うのが人情なのではないかと思える年齢になった。それで完結できない余りみたいなものを、ひしひしと感じる年齢になった。

 ましてや内面にかかえる矛盾とか憤りなどは、言葉や音にしつくせない奥行きや色をもつので、文字やメロディに昇華しきれなかった、その余りみたいなものを、察し合って生きたいと思うようになった。

 おそらくそこには、はっきりした言葉や音や形がないかも知れず、目や耳に訴える感動はないかもしれない。しかし、そこには、大事な思いや心境があるとしたら、ある意味、怖いなあと思う。

 仏頂面の裏側で、〈ごめんなさい〉や〈ありがとう〉があふれている、そんな粋な関わりを、すごいと思えるようになった。

 舞台やスタジオで、数百回となくあやまってきた杉本真人さんはきっと、いったい何をあやまっているのか、今はわからなくなっている、それもまた哀しいと、わたしは察している。


2015年06月


 東京都内、および近郊の路線バスが、ワンマン運行になったのは、1960年代以降というから、わたしが中学生くらいから高校にかけてだと思うが、その変わり目をよくおぼえている。今まで、切符を売っていた車掌さんがいなくなり、バスはいきなり運転手ひとり運行になったのだが、当初は乗客のだれもが右往左往した。切符販売機の使い方がわからず、つり銭が出なかったり、両替に苦労したり、また降車駅の伝達や確認もうまくいかず、乗り越したり、迷子になったり、通学以外でバスに乗るのが億劫で一仕事だった。

 あのころ、スーパーマーケットではセルフサービスなるものも出現し、御用聞きでの配達や各商店の対面販売から、無言カゴ入れ・レジ一括払い方式もはじまった。暮らし方での大きな転換期だったと思われる。

 そして、あの転換期から50年以上たち、今やワンマンバスは当然で、だれもがスムーズに乗降をこなしてはいるが、運転手の仕事内容は日毎に多様化し、大きく変化している。

 わたしは、独居の母のサポートで、10日に一度は上京するので、毎回高速バスを利用している。まず、高速バスの運転手には、さまざまな性格的パターンがあると思われるが、共通するのは接客が負担にならず、突発事項の発生対処に強く、けっして気弱ではなく、気丈ではあるが強面ではないということで、これは必要条件にも思える。その仕事内容を見ると、ほんとうに卒倒しそうだ、この多様な仕事を、限られた時間の中で、ひとりでこなしているのが、信じられないほどで、実におそれいる。

まず、安全運転は基本中の基本で、それはまさに当然の義務として自覚しているにちがいない。それだけでも、すごいと思う。その傍らに切符の販売、予約状況の把握(携帯電話で予約の乗客は、予約画面を運転手に見せることになっているらしい)、つり銭の手配、観光客のスーツケースなどのトランク収納、乗降駅の案内、昨今増加する外国人観光客への外国語での応対(一度、中国語と英語で見事に説明する運転手に乗り合わせたことがある)、運行会社との緻密な連絡、交通状況の察知と迂回変更、車内温度管理、忘れ物現場窓口係。

そして、このほかに起こる突発事項が、乗客の利己的な要望まで含めて実に多彩でおどろくのだが、放置しておくわけにはいかないし、じっくり解決するわけにもいかない。つまり、バスは運航中で、定刻に目的地に到着しなくてはならない。車掌や客室乗務員がいるわけではないから、たいへん孤独で追いつめられた状況での解決が求められる。

日常的に起こるのが、乗客の降車駅変更とその運賃差額の計算、昨今多いのがトランクに収納されたスーツケースの取り違いトラブル、SAでの集合時間に間に合わない乗客への対応、車内温度についての各意見の調整、空調や料金箱などの備品故障への対処、痴漢騒動を含む乗客同士のトラブル。

さらに、わたしがここ10年間に400回近く乗車した経験の中では、よその高速バスの集合に間に合わずにSAに取り残された乗客のピックアップ、乗車の際につまずいてケガをした乗客への応急手当(なんと、運転手は応急キットで素早くケガ人の止血をして、乗客全員に賞賛された)、車内に跳ぶ羽虫(乗客はハチだと大騒ぎ)の駆除、予定降車駅になっても爆睡して起きない若者への声かけなど、涙ぐましいほどの骨の折りようだ。つい最近などは、人気キャラクター絵柄の車体の前でポーズをとる中国人カップルが、運転手に写真撮影を依頼している。それも、何組も並んで待っているから、気のいい運転手にトイレ休憩はなさそうだ。

一度、夫婦でイスラエルの高速バスに乗り、テルアビブからエイラットまで6時間の荒野横断をしたのだが、途中数箇所のSAで、運転手は早々にバスを離れ、カフェに腰かけ、出発時間になると乗客の人数も確認しないまま、さっさとエンジンをかけた。わたしたちは、万が一砂漠の真ん中に取り残されてはたいへんなので、夫婦交代でトイレに行き、常に運転手の居場所を目で追っていた。

同じ職種なのに、こうも違う。だれが、どう異なるのか? を考えるとき、人員削減には目をつぶり、クレームをおそれ、責任をとりたくないバス会社と、自分たちを王様だと勘違いしている乗客が、まず大きな違いだと思った。そのどちらかが、早々に何かを是正しないかぎり、運転手への負担は増えるばかりで、その結果、安全運転に支障が起きるかもしれないと危惧している。


2015年05月


 日本が高齢化社会に入ったせいか、老いや死をあつかった書籍やテレビ番組が目につくようになった。この世に生まれた者の宿命で、還暦をすぎれば、だれもが向きあわねばならない自らの老い、なかなか手ごわい坂道だと思う。人生を川にたとえることはできても、老いに突入する日々は、簡単に、〈川の流れのように〉とはいかない。

 銀行や郵便局に行くと、《詐欺に気をつけましょう》とか、《それは詐欺です》などと、あちこちにステッカーが貼ってあるが、それでもオレオレ詐欺や還付金詐欺が後をたたない。お金を引き出したり、振り込みに来た老人たちが、《詐欺》にひっかかっている認識がないのだから、いくら警鐘をならしても気づかない。危ないとぴんときた銀行員がお年寄りに声をかけても、はじめは逆に「身内を助けようとしているのに、なぜ邪魔をするのか?」と、くってかかられるのが常だという。

 孤独に沈んでいる老人が、頼りにされたり、大事にされたりすると、自分の存在が認められた嬉しさで、特異な心理状態になるらしい。あるいは、自分宛のお願い電話によって、不安や心配から一時的に解放されて、一種の使命感に燃える場合もあるらしい。自分が助けなくては! と、周囲が見えなくなる。

 たまたま、ヘブライ語で書かれた老人病棟ものを読んだのだが、そこに書かれた現実に唖然とした。この本は20年前に書かれたのだが、現代にもじゅうぶんに通用し、その証拠に今もなお数ヶ国語に翻訳されて読まれている。

まじめな付添婦や介護士、ヘルパーも多くいる中で、実にたくみに、資産のある独居老人患者に近づき、うまくとりいって信用させ、遺産相続人になれるような文書を、弁護士立会いで書かせてしまうワルがいる。あるいは、ひとりの患者をめぐって、複数の詐欺師が近づき、それぞれの悪口を言って競い合い、その結果患者をとりこめた者が遺産相続人のひとりになるという箇所もある。文書が偽造でない限り、犯罪にはならないから質(タチ)が悪い。

資産は、たとえマンションの一室だけでもじゅうぶんに価値があり、大それた貯蓄額でなくてもいい。歯の浮くようなほめ言葉、念入りなオイルマッサージ、心のこもった手料理の差し入れ、こまめな介護などを武器に、彼らの不断の努力が重ねられて獲物を捕らえる。そして、騙される者もうすうす怪しいとは感じているのだが、優しくされる快感から、ついに文書にサインをしてしまうという、実に哀しい結果になる。この本の場合、騙される患者は、骨折などの外傷患者で、けっして認知症患者ではないので、一応の判断力はそなえている。しかし、孤独感や不安感が、その判断力を鈍くさせるのだ。

物語の中には、ユダヤ人のアラブ系市民に対する心無い差別や暴力まで書かれていて、現代イスラエルの恥部も明らかにされている。

 ヘブライ語版も英語版も、「The way to the cats」という書名だが、のら猫が最後の方でちらっと登場するだけで、猫が主役ではない。しかし、西洋では、猫は本来9つの命をもつと言われている(容易に死なないという意)ので、もしかして、そういう比ゆが含まれているのかもしれない。

 邦訳する場合の文字数を概算してみたら、400字原稿用紙900枚と出て、これはたいへんな作業だなと腰がひけた。しばらく、原書を前にうだうだしていたが、数年がかりで訳してみようという気になっている。それは、自分自身の気もちがよりそえる場面が多く登場するからだ。 作者は当時50代のイスラエル人ジャーナリスト兼男性作家だが、実に細かい状況描写、女性の心理描写にたけていて、よほどの綿密な取材を元にしたと察せられる。イスラエルでは、寡作ではあるがベストセラー作家であるにかかわらず、彼の邦訳はこの日本ではまだ一冊も刊行されていない。

 日本国内のこれに似た事例の詐欺ルポでは、まじめに働いている介護士さん、付添婦たちの心情を傷つける危惧があるが、海外の小説であれば、客観的に観られるのではないか、高齢化社会への警鐘になるのではないかと、前期高齢者となったわたしもまた、一種の思い込み使命感に燃えている。


2015年04月


 都内にあるわたしの実家に、50年近くにわたって、お米を配達してくれているよっちゃん。昭和30年代後半に、静岡県から単身上京(たぶん15歳だったと思う)世田谷区にあるY精米店に就職し、以来ずっと、電話注文を受け、米をすり、配達するという日課をつづけている。小柄な体に似合わない張りのある大声と、筋肉りゅうりゅうの両腕とでっかい両手、それにいつも元気な応対は、世の中の還暦過ぎのおっちゃんたちには、とても真似できないと思う。

 50年の間に、以前は専売だった米は、どこのスーパーでも売られるようになり、Y精米店は間口を縮小し、よっちゃんは先代の社長から店をうけついだ。

30歳代後半で結婚し、4人の子どもに恵まれ、そのうち、近くにあった跡継ぎのないy酒店の経営をも、うけつぐことになった。しかし、酒もどこのコンビニでも売られる時代になり、量販店までできている昨今、労多くして実入りの少ない酒店の経営状態はじゅうぶんに察せられる。お米とお酒という、ずっしり重い商品を、バイクや軽トラで配達するうち、宅配集配業もかねるようになり、そのうち、高齢化した配達先の住人たちに頼まれて、電球の交換や雪かきまで無償で引き受けているのが彼の日常だ。

89歳で独居のうちの母は、たまたまお米の配達直前に、ラップのギザギザで指を切り、その傷を見たよっちゃんに応急手当をしてもらった。カットバンだけではなく、消毒後ていねいに包帯が巻いてあった。そのほか、高い戸棚にある物の出し入れや、重い物の移動など、かなり介助してもらっている。ほんとうに、ありがたい。

「いいよ、いつでも言って」よっちゃんは、くったくなく笑顔でそう言ってくれるが、わたしたち留守家人は恐縮しっぱなしだ。

Yy店の固定電話がしじゅう留守電になっていることにより、よっちゃんの奥さんが難病で、入退院を繰り返していることを知った。

ある年の暮れ、器械でついて伸した大量の正月用もちを夜遅くまで配達するよっちゃんに、おせち料理をつくってくれる人のいない境遇を知った。幼い4人の子どもを、いったいどうやって育てていたのか、わたしは知らない。なぜなら、配達するよっちゃんは、いつもの大声と笑顔のよっちゃんで、お客の苦労話はよく聞くが、自分からは笑い話しかしないからだ。マッチを売っていても、自分にはマッチで暖まる暖炉のない、アンデルセン童話の〈マッチ売りの少女〉の姿が、わたしには重なって見えてしまった。

一度、彼自身が交通事故で入院したとき、近所の店員が見舞いに行ったら、よっちゃんなんて名前の患者は入院していないと、よっちゃんという名前の医者に言われたという。実は、米屋のよっちゃんの苗字が伊藤さんだったということを、その店員もわたしたちもはじめて知った。Y精米店やy酒店の屋号が所以なのではなく、〈よし・・〉という下の名前から、よっちゃんだったのだ。

やがて彼の子どもたちは成長し、一番下の子が高校生になったが、奥さんはまだずっと、一年のほとんど入院中と聞いている。店番がいないので、近頃の注文は携帯電話で受けるようになった。

自筆のコピーで、〈よっちゃんだより〉という、ミニコミ誌を年に数回発行し、配達先に配っている。季節の挨拶や高齢化したお客の体調を案じる内容から、Yy商店のおすすめを紹介してくれるのだが、うちの母のような独居老人は、寒もちや吟醸酒の広報より、よっちゃんの人柄を感じるそのレイアウトそのものにほっとするだけで、直接の売り上げには結びつかない客にちがいない。

昨年末は、東京でも数センチの積雪があった。暮れの30日にもちを配達していたよっちゃんは、一軒の住宅の玄関先で滑って転び、置いてあった陶製の傘入れに上半身をぶつけて、しばし起き上がれなかったという。お客さんがあわてて救急車を呼ぼうとした。

「お願いですから、救急車は呼ばないでください」よっちゃんは叫んだ。自分がもし入院ということになったら、もちを配達する者がいない。お客さんに、正月は来ないのだ。痛みをこらえて配達を終え、「正月明けに医者に行ったら、あばら骨が折れていた」と、またしてもくったくなく笑った。

 その必死のお願いを、彼の家族に聞かせたい、とても笑えないわたしは思った。うちの主人は、思わずよっちゃんをハグした。東京もまだ捨てたものじゃない、よっちゃんを知る者たちは、そう思う。


2015年03月


 先月につづき、旅談義をひとつ。今回は愛知県、和歌山県、奈良県、京都府を旅して廻ったのだが、甥っ子宅でも、ビジネスホテルでも、宿坊でも、ユースホステルでも、どういうわけか、夜6時以降のNHKニュースだけは、かならず見ることになった。たぶん、その時間帯に夕食時間が重なり、ニュースを報じるテレビが食堂にあるからだと思う。

 そこで、全国ニュースの前後に報じられる地方ニュースもかならず見ることになったのだが、それが実に面白かったというか、旅のもたらす大事な時間でもあった。まず、地方ニュースは県が主体なので、どこでも県所属のアナウンサーがニュースを読む。見慣れないアナウンサーが、見知らぬ土地名を当たり前のように発音し、一日のできごとを報じる。できごとは、どこでもたいてい似たり寄ったりの交通事故か傷害事件かで、旅人たちは、ああ、ここでもねえ、と単純に思うのだが、現地独自のイヴェントや祝祭行事の画面になると途端にユニークで、なぜこれを自分が知らないのだろうかと不思議に思う。これだけインターネットが普及し、世界各地の情報がいつでもどこでも入手できるご時世でも、ちょっと離れた地域にある様々な文化や日常を、自分たちは知らないでいる。自分はまさしく旅人であると実感する。 

例えば、神社で行われる奇祭であるとか、道の駅で売られる珍しい野菜であるとか、県境を越えるとまったく別の文化が息づいていることに、唖然とする。農民歌舞伎に参加する中高生の部活以上に厳しい稽古、早朝から沖に出る漁師の魚網つくろい。大相撲の期間であれば、その日の郷土出身力士の勝負の結果、または取り組みビデオが画面に流れ、まだちょんまげを結えない序の口の若い力士の取り組みが、熱心な応援解説と共に報道される。しかし皮肉なことに、大都市で行われる大相撲の早い時間帯、土俵のまわりに観客はほとんどいない。

生き生きとした地方文化が、こうして全国ニュースと対になって報道されるのを、残念ながら、大都市に暮らす人々は知らない。ほとんど観客のいない国技館で、相撲をとる序の口の力士を、これだけ多くの県民が熱く応援しているのを、国技館の地元民は知らない。人口が多く、暮らしが多様化すれば、そこでとりあげられるニュースに、自分自身が関わることなど滅多にないからだ。ニュースとして見るのは、いつでも遠くで起こっていること、自分には無関係のできごと。

でも、地方に住んでいると、ニュースに近所の風景や知人たちが登場するのは、そんなに珍しいことではない。映しだされる行事も、すでになじんでいるものだ。それが、いったん他県に出ると、自分がまったくの異邦人になってしまうから、可笑しい。

山梨ニュースに慣れすぎた自分は、和歌山ニュースのアナウンサーの見慣れない髪型や、奈良ニュースに登場するゆるキャラの大衆性に、ついつい違和感をいだき、そのあと苦笑する。これが、現地の当たり前の暮らし、その文化に触れたくて旅に出たのではないか!と。 明日香村で発掘された大きな古墳は、舒明天皇か蘇我蝦夷の墓かもしれないと、研究者たちが解明に拍車をかける。1000年以上昔のできごとが、現代の日常に生きている村の特異性にわくわくしたかと思うと、その三日後、また移動して、そう今度は京都ニュースで、老舗の人気喫茶店の火事を報じるアナウンサーに目をみはる。アクセサリーのない襟元が寒々しい。

わたしは再び山梨にもどってきたが、名古屋城の修復はまだ終わってはいないし、奈良では古墳の解明報道がまだつづいているだろうし、和歌山の動物園で生まれたパンダは、すでに飼育室を出て、人々の歓声を浴びているだろう。ぐるっと廻ってきた紀伊半島の各県では、今晩もあのアナウンサーたちが地方ニュースを読んでいる、これはたしかなこと。

山梨ニュースのその向こうで、他県のアナウンサーの姿や声が、わたしには具体的に思い浮かぶ。しかし、彼らの伝えるほとんどのニュースの内容は、今現在、他県にいるわたしには、手のとどくものではないし、想像の範囲を越えるものにちがいない。それを情報としてではなく、臨場感をもって味わうのも、旅の楽しみのひとつと知った。

いつだったか、元山梨所属の男性アナウンサーが、たまたま自分たちの旅先で、他県の県民ニュースを読んでいるのを見た。眼鏡は変わっていたが、体型も声もかつてと同じ、なつかしさがこみあげた。もちろん、国内転勤したのだろうが、なんだか借り物アナウンサーのように見えてしかたなかった。


2015年02月


 年が明けてから、紀伊半島へ10泊の旅に出かけた。まずは、東京の新宿から中央ライナーという高速バスで名古屋に行き、そこから南紀へと下ったのだが、つぎつぎ表れる地名、駅名の面白さに、退屈しない数時間だった。

 おそらく、その多くが当て字なのだろうが、岐阜から愛知にかけては、神坂(みさか)、昼神(ひるがみ)、瑞浪(みずなみ)、天徳(てんとく)、恵那(えな)などの抽象的な名称がつづき、西に入ったとたん、蟹江(かにえ)、亀山(かめやま)、桑名(くわな)、鈴鹿(すずか)など、具象化できそうな名前に変わってきた。

紀伊勝浦で二泊したのだが、熊野の本宮近くの店で「紀南の地名」という、地元の風土研究会が刊行した冊子を購入、はっきりした所以はないにしても、例えば、〈勝浦〉は植物の〈かづら〉、伏菟野(ふどの)はフドという蔓草がなまったものではないかとか、さまざまな推測が記されていた。

 また、二日目に個人的に古道歩きにお願いしたガイドさんによると、〈熊野〉は、〈おくまった〉、また〈波田須〉(はだす)は、〈秦氏が住む地域〉の当て字ではないかということだったが、地理的な形容詞、あるいは当時の住み分けが地名になるのは、ごく自然に納得がいくものに感じられた。

 南紀から和歌山、高野山にたどりつくまでにも、興味深い駅名、地名が多くあった。船戸(ふなと)、岩出(いわで)、打田(うちた)、名手(なて)など、短い中にも、古い時代の逸話がありそうな名前にきょろきょろした。

 人名にも、親の熱い思い入れが感じられるが、人々がなにかを命名するとき、また名前をつけて呼ぶとき、時の権力によって強制的に命名されたものは別として、かけがえのないものを忘れない、忘れたくないとする心情が、まず第一にあるかもしれないと、この旅によってあらためて知ることができた。

 実は、今回の旅の途中、わたしたちは、日々の店の仕事、絵本ライブなどのイヴェントに、ずっと協力してくれていた大事なスタッフであるシゲキ君という45歳の若者が、急性肺炎で急逝した訃報を受けた。旅に出る数日前も、いっしょに夕食を共にしたばかりだったから、その訃報が間違いであってほしいと思いつつも、神社や寺にたどりつくたびに、彼の冥福を一生懸命に祈った。神倉神社や三輪山の頂上でも、また高野山の奥の院では、寒々しい本堂にひびく読経と焼香の香りに、次第に現実となっていく彼の早い旅立ちを重ねて、大きなため息をついた。

 山中湖に帰宅して、彼の霊前、墓前にまいり、楽しかった思い出の数々が頭をよぎった。そして昨晩、シゲキ君とわたしたちが最後に味わった白菜と肉だんご鍋をつくり、ふたりで夕食にした。たった三週間前、ふだんは必ず自宅で夕食をとる彼が、たまたま母親が留守ということで、30年以上のつきあいの中で、奇しくもはじめて我が家で夕食をいっしょにした晩だった。湯気の向こうで、美味しそうに箸をすすめたシゲキ君の顔を思い出しながら、我が家では今後、この鍋を「シゲキ鍋」と呼ぼうとふたりで話した。思いがけない命名であった。


2015年01月


 イスラエルに二年間も暮らしていながら、ユダヤ教の信者との交流はほとんどなかった。

その国の数パーセントであるユダヤ教信者は、数々の宗教戒律の中に当然食事規定をもち、特定の食材や食事を摂らなければならず、ふつうのレストランやホテルでの一般外食はしないことになっている。イスラム教信者のためのハラールと似たような細かい規定があり、どこの飛行機会社でも、〈コーシェル〉という特別な機内食が用意されているほどだ。

ところが、1930年代から50年代にかけて創設された多くのキブツ(集団農場)では、それまで着古したユダヤ教という上着をあえて脱ぎ捨て、無信心の労働者として生まれ変わろうとしたヨーロッパからの移民が多くを占めていたので、ふだんの暮らしに宗教的な戒律はなかった。そんなわけで、また、エルサレムにもなじみがないので、わたしにはユダヤ教信者との交流がなかった。

 そんなキブツでも、旧約聖書に基づいた祝祭などは歴史的行事として積極的に行われ、全員参加(600人前後)のにぎやかな夕食が、なつかしく思い出される。体育館に並べられた細長い食卓について、食前に歌を歌い、詩を朗読したりした。ほとんどアルコールを口にしないキブツの人々も、過ぎ越しの祭りや新年、ハヌカの食卓では、赤ワインや黒ビールを楽しんだ。大勢で食事をする醍醐味は、わたしの身体にすっとしみこんだ。

 ユダヤ教の戒律で禁食となっている豚肉などを闇市で買ってきた者が、バーベキューと称して野外で集まることもあった。とんでもなく硬くて、まるで樹皮のような肉を、美味しそうに頬ばる彼らの顔が、今も忘れられない。そんなとき、わたしは玉ねぎばかりに手をのばしていたが、味そのものより、その場の身内意識の方が美味しく感じられたものだ。

 宗教的戒律とは別に、イスラエル人にはなぜかベジタリアンが多く、せっかく日本に来たのだから、美味しいラーメンやカレー、すき焼きなどをごちそうしてあげたくても、肝心なダシやブイヨン、肉などを口にしないので、張り合いがないことが多い。我が家を訪ねてきて、「何でも食べられます」と言ってくれるイスラエル人は、数をかぞえるほど少なかった。次第に、こちらも頭を抱えなくてもすむように、イスラエル人用メニューのベスト・ファイヴを常備するようになった。ダシ抜きお好み焼き、ブイヨン抜きのあんかけ硬い焼そば、野菜天ぷら、ダシ抜きの湯ドーフ、ナスの味噌田楽、この5メニューには大いに助けられて、完食ほぼまちがいがない。

 ところが、今年の秋、ベジタリアンではなく、ユダヤ教の正統派信者の女性Rさんが、午後のひととき訪ねてきてくれた。日本人であるYさん宅で二泊したらしいのだが、戒律を守るため、自分専用の鍋を持参のRさんは、毎食持参の食材で食事をつくったという。「だから、お茶だけでいいのよ」とYさんは、わたしに気をつかって言ってくれたのだが、晩秋の、それも雨のふる寒々しい我が家のリビングで、お茶だけしか召し上がらないというのは、なんとも残念なお客さんだった。あたたかいココアやホットケーキ、フルーツをいっしょに味わえたら、どんなに話もはずむことかと思ったが、ところが、意に反して、話はすすみ楽しかったのが、なんとも不思議だった。

日本人は、とにかく〈同じ釜の飯を食べる〉ことで、意気投合したり、トラブル話もうまくまとまると言われているし、まずは食事をふるまうことで、こちらの気持ちを表現できたり、共感を得られることもあるのだが、〈同じ釜の飯を食べない〉人たちとは、いったいどうやって文化を分かちあえるのか? 幸い、Rさんとは気もちが通じて、今も遠距離で交信しあう仲になったのだが、それはたまたま互いの関心分野が同じで、縁があったからにちがいない。

この体験から、ユダヤ教信者といくらか交流のある日本人の知人に「わたしたちは彼らの食卓に招かれて食事はできるけれど、彼らはぜったいにわたしたちの食卓には招かれることがないのよねえ」と問いかけたら、「そうなんですよ。でもね、彼らがわたしたちの食卓で、たとえ何の料理に手をつけなくても、彼らが持参のものだけを食べようとも、それは彼らの勝手だから、その信心を尊重して気にしなければいいんですよ」と、大事な助言をしてくれた。そうか、彼らの勝手を尊重する、こちらの勝手でふるまうよりずっと難しそうだけど、そうするより他ないなと思うことにした。

異文化交流、それが必要だと思う人たち、はたして、なにが交流するのだろう? 異文化交流など、まったく必要ではないと思う人たちもいる、これも交流の結果、知ることになるのだろうが、そういうこと?


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