☆ 樋口範子のモノローグ(2025年版) ☆

更新日: 2025年10月1日  
森の喫茶室あみんのHPへ
範子の著作紹介

<2024年版>

2025年10月
   

終わらない命          

 今回のガザのジェノサイドがはじまってすでに二年がたち、その犠牲者の数が6万を超えたというが、それはあくまでもガザ保健省の発表であって、じっさいはもっと多数だと各所で聞く。倍近いという情報さえある。なんて恐ろしいこと。数字と化した人間の命は、ニュースで垣間見る人々の慟哭を視聴者に麻痺させて、時には歴史上の数々のジェノサイドの数字、あるいは桁との比較にさえ使われる。安部公房の「死んだ有機物から、生きた無機物へ」という言葉を思い浮かべる。彼はきっと、満州からの引き上げでそれを実感したのであろう。

 機能しない国連決議を見ても、エルサレム復活祈願のキリスト教福音派という狂信派を見ても、停戦を願う者がいかに少数で無力かと愕然とする。それだけを考えたら息が詰まり、おそらく普通には暮らしていけない。この矛盾に満ちた世の中を、次世代にどうやって説明すればいいのか。

 申し訳ないほど普通に暮らす中で、母が99歳と7か月という天寿を全うして旅立った。食事を拒み、目をつぶって呼吸をしての約一か月間、全く苦痛を見せずに静かに逝き、わたしたち家族をじゅうぶんに慰め、励ました。完全老衰という言い回しがあるのも初めて知った。

 30年以上前に逝った父も、最期はすっと消えた。家のローン以外は、書籍も衣類も絵画もお金も、形あるものは何も残さなかった。普段から「愛」とか「神」とか「感謝」とか、そういうたぐいの言葉を発したことがなく、立ちはだかる壁をだまって超えつづけた父だったが、生死については一言、「一度は死ななきゃいけない」と、それもふざけ半分につぶやいたのをおぼえている。その「一度」というのが、若かった当時の自分にはわからなかったが、今になって、一度は死ぬが、それは死んだっきりではない、という意味かなと思えるようになった。たしかに父は消えた、しかし、それは終わりではなかった。決して目立たず、地味を通して生きた人の、今はその小さな有言実行におどろく。

じっさい、あれから30年以上たつ間に、どれだけ父に助けられたかしれない。岐路に立って迷った時、自分の欠点に真正面から対峙した時、迷いを越えて途方に暮れた時、父はいつもそばにいてくれた。死んだっきりではなかった。

 国際社会が傍観する中で、膨大な数字と化したジェノサイド,飢餓による犠牲者たちを思う。ひとりひとりの無念がどのように遺族や地球の後世を支えてくれるのか? 暴走しつづける加害者の狂った妄想を、どうやって停められるのか。終わらない無数の命に、その無念を問う無念の2025年秋。

 

 物が失せた時

 人が忽然と神隠しに遭ったように、今ここにあった物がいきなり失せてしまう、消えてしまうことが多くなった。そのたびにかなりの時間をかけて探すのだが、ほとんどの場合見つからない。不思議なことがあるものだと気落ちし、時間も気も取られたせいで、うっかりすると次の物を失くしてしまう。

 物が失くなったことに、いろいろな意味づけがあるにちがいない。例えば、もう必要がなくなった、縁きりのチャンス、道行きの変更とか。たしかに、そうした気休めを含む意味があるのかもしれないが、わたしは、物が失くなった、という事実だけに向き合うことにしていた。

 大事にしていたわっぱ弁当箱の蓋が、食器棚の最上段にしまう際、うっかり手からすべって棚の向こう側に落ちてしまった。それもカランという木の音とともに。すぐに棚の向こう側を探したが、蓋は見つからない。不思議なこともあるものだと何度も探したが見つからず、神隠しとはこういうことだと、あえて代用を見つけずに、わっぱ弁当箱を使わずにいた。

 一年以上たち、ふと、あのカランという木の音は、ほんとうに蓋の音だったのだろうか? と気づいた、というか気づかされた。疑いの通りだった。わっぱの蓋は、食器棚の最上段のそのままの位置に置かれてあり、落ちたのは、おそらくそばにあったお猪口だった。落ちたお猪口を拾った当時、まさかそれが音の主だとは思わなかった。物が神隠しに遭ったのではない。つまり、蓋は棚に置かれて落ちなかったという事実が、頭の中では「落ちた」と勝手に思い込んだことによる神隠しに遭ったのだ。

 同じく大事にしていた某会員カードがなくなった。使う直前にカードケースから出して、バッグの外ポケットに移したまでは覚えているが、その先の記憶がない。バッグはもちろん、ゴミ箱の中まで探したが、見つからない。再発行は可能かもしれないが、お金で買えない物を失くした時が一番こたえる。情けなくて、がっかりして、わざわざケースからバッグに移したことを悔やんだ。ついつい一歩先を見越して余計なことをするのがわたしの悪い癖で、どうやらまたやらかしてしまった。

 それが、やはり一年以上たったある日、そのバッグをうっかり床に落としてしまった時、ひっくり返った外ポケットの奥からカードが一枚ぽろっと顔を出した。バッグの外ポケットの奥底で、カードがずっと息を止めていた事実が、頭の中では「ちゃんと探したからここにはない」と勝手に思い込んだことによる神隠しに遭ったのだ。

 あれ以来、物が失せた時、まずはほんとうに失くなったのだろうか? ともう一度「失くした」ことを疑ってみるのを自分に課すようになった。

それでも、見つからない物は、まだまだたくさんあり、車の鍵、印鑑、大事な手造りのブローチをはじめ、自慢にもならない数々の物を、その都度なんとか奔走して埋め合わせてきた。そのうちに失くしたことさえ忘れている物や事柄が多々あることにも気づき、それは頭の中での、もうひとつのありがたーい神隠しのおかげなのだと思うようになった。



2025年8月
 

 森の山荘にて          

国道から森に導かれるその細道は、某大学の山荘への門前でもあった。昨夏につづいて今夏も、その山荘で旧友たちとの二泊三日を過ごし、語り合ったり笑い合ったり、唄ったり、思う存分リラックスして、あっというまに三日目のチェックアウト時を迎えた。 

 最後の散策とばかり、湖畔から山荘にもどる時、その細道の両側に目立たぬ木柱が立ち、そこに墨字があるのに目が留まった。門柱にしては低く、楚々と立つに木柱の墨字に、自分たちは今まで何十回もそこを通っていながら、気づかなかった。今回、仲間で腰をかがめ、じっくり読んだ? というか、漢字を追った。それが以下の縦書き二文だった。

        「山中無暦日」  「寒尽不知年」   

 さっそく仲間の一人が山荘のフロントに訊ね、それが禅語でそれぞれ

 「さんちゅう(山中)、れきじつ(暦日)なし」「かん(寒)尽くるも、とし(年)を知らず」と教えていただいた。

 

 昭和の時代に山荘を創建された主の思いが込められているのであろう。帰宅後に検索してみると江戸時代の臨済宗禅僧であった一絲文守(いっしぶんしゅ)の唐詩からの引用だという。丹波の山中にてわずか39歳で入寂したというこの禅僧についてのネット検索で、以下の記述があった。

       

一絲文守(いっし・ぶんしゅ) 16081646

もともと、一絲は唐の大梅法常(だいばいほうじょう)に学び、丹波に大梅山法常寺を開く。法常は、洪州馬祖につぐ大弟子の一人だが、天台山の一峰をなす大梅山に隠棲し、終に世に出ることがなかった。偶然に路に迷うて、その草庵に来た僧の問いに、ただ四山の青んでまた黄ばみ、黄ばんでまた青むのを見るだけの、40年であったと答える。
 夜は日の余り、冬は歳の余り、老いは生の余りである。39歳の一絲には老いといえるものがなかったが、一日一日が除夜であった。唐詩選に収める太上隠者の作にいう、山中、暦日なき一生であった。すくなくとも寒尽きても知らぬ隠者であった。
  

以上


 山中(さんちゅう)とは、山(やま)の中(なか)に限定されないとの付記もある。たしかに、可視、不可視の山中がいくつか頭に浮かぶ。

図らずも、後期高齢者になってしまった旧友仲間は、集いの最後に共有したこの漢詩を胸にそれぞれの家路へと向かった。はて、各人の山中は、前にあるのか? 後にあるのか? それとも内にあるのか? 外にあるのか?

 もし来夏も同山荘に集えたら、きっと自ずと話題になるにちがいない。



2025年7月
 

記憶の連動

 この世に生を受けて75年、この村に暮らしてもうすぐ50年になろうとする今、50年間という年月が、ひとつの塊(かたまり)としてはっきりと体感できるようになった。東京から移住してきた時、20代だった自分たちは今、後期高齢者になり、幼児だった村のあの子もこの子も、すでに50代半ばで孫を含めた大家族を率いて立派に時代をつないでいる。当時高齢者だった世代はすべて他界して、思い出話にだけ登場する。村のたたずまいや家並み、路地はほとんど変化していない中で、村人や暮らし方の世代交代、森林破壊は明らかに行われたという事実、それを実態として自分の体がちゃんと記憶しているのがありがたい。この50年間という塊の10倍が500年間、20倍が1000年間だというのも、うすうす感じられて、〇〇時代という歴史認識が、地つづきの生身をもって感じられる。さすが縄文時代は遥かに遠いが、鎌倉時代はもちろん、法隆寺や遣隋使には手が届くかもしれない。

 そんな折、この歳になって初めて、夏目漱石の『三四郎』をゆっくり読むことができ、その本文中に、ふだんは文京区本郷に拠点を置く若き主人公が、知人である野々宮宗八を新宿の大久保に訪ねる場面が何度も登場した。漱石の分身でもある三四郎は、「大久保駅から仲百人(百人町)の通りを戸山学校(陸軍戸山学校)の方へは行かずに、踏み切り(現在は高架線)からすぐ横に折れる細い道を歩く」とある。

昭和26年(1951年)から同41年(1966年)までの15年間、陸軍戸山学校の跡地に建てられた戸山アパートに住んでいたわたしは、理科の観察授業や美術の写生授業で、大久保駅から新宿方面を何度も徒歩でまわった。あたりの光景はしっかりおぼえている。一説によると、『三四郎』に登場する野々宮とは、熊本の五高で漱石の教え子だった物理学者の寺田寅彦ではないかという。彼らの交流は明治31年(1898年)以降とあり、はたして寺田寅彦自身がその時代に大久保近辺に住んでいたかどうかは別として、少なくとも漱石自身の足がその周辺を熟知していたのは確かなようだ。ということは、大久保駅周辺を漱石が歩いたそのわずか50年から60年の後に、わたしはその同じ場所の記憶の中にいたことになる。もちろん、震災や空襲で街の景観は大きく変化したであろうが、地理と地形はほぼ変わらない。今から約150年前に生まれた夏目漱石という、感受性が豊かで、悩みすぎるほど悩んだ人は、実はこんなにも近くにいてくれた。これが小説『三四郎』の最終ページに行きついたわたしの感動だった。

 人々の記憶の中に周囲の風景が刻まれるだけではなく、個体個物や風景、森羅万象の記憶の中にも人々が息づくということを、つい最近知った。さらに、記憶とは単に過去に起因する記号ではなく、忘却の反対語でもなく、未来への法則になり得るとも知った。その気づきは、わたしにとって大きな喜びであった。この星のもつ長い記憶のはじっこに、ちゃっかり連動している自分は、細く長く何かとつながってきて、これからもつながっていく超極小の点、そしてこの星もまた、測り知れない銀河に息づく超極小の点のひとつ。


2025年6月
 

 「友だちがいない」

 相田和恵はわたしの父方の従妹で、おぼろげながら、彼女が生まれたのをおぼえている。和恵には3歳年上の兄がいたので、「今度は女の子だった」と祖父母や父母たちが語るのを8歳だったわたしの耳が聞いていた。

この兄妹とわたしたち姉妹は、都内の徒歩わずか25分の距離に住む近い親戚だったのだが、年齢差のせいか、一緒に遊んだこともなければ、言葉を交わしたこともなかった。親戚が集まる墓参りや正月の会食で、わたしたちは大人の陰に隠れておとなしくしている中高生、小学生にすぎなかった。

 それが数十年後、58歳になった和恵の唯一の年長従姉として、わたしは個人的に関わることになった。昭和50年代、わたしが自分のことに忙しく親戚とは全く疎遠だった間、和恵は中学校2年で統合失調症を発病して不登校になり、引きこもり、自殺未遂を起こし、長年の通院治療に苦しんでいたという。「和恵は変わった子だ」「だれとも口を利かない」などと叔母たちが心配していた実情を、直にわたしが知った時、彼女はすでに兄も母も失い、やがて父も失い、独居から力尽きて精神病院に緊急入院していた。叔母たちが超高齢者だったため、年長の従姉であるわたしが彼女の保証人になり、月に一度は都内の病院内で和恵と面会し、主治医、看護師、カウンセラーとのカンファレンスにも参加した。

 子ども時代から一挙に年月を飛び越えた和恵との面会は、院内レストランでの甘味や院内庭の散歩に助けられ、それまでの長年の疎遠をものともせずに、いわゆる雑談までできるようになった。外出可能な時期は、病院近所の美容院や専門クリニックに付き添ったこともあり、帰りには必ず彼女の希望でラーメンランチに立ち寄った。彼女が愛猫家で、愛読書は高村薫だということも知り、テレビ映画で見た「男はつらいよ」の寅さんの相手役であるリリーが大好きだと言って、そのせりふまで披露した時は、驚きに紛れて笑い合った。ただ時おり、呪文のように「友だちがいない」と唐突に吐き出すのが、二人の間に流れていた時間を止めた。

還暦を越えた彼女は幻聴や幻覚に悩まされ、会話も歩行も困難になり、主治医との相談で転院治療も試みたりしたが、結果は一進一退だった。時おり、まるで夢から覚めたように、いきなり「ノリちゃん、年とったね」などと言って、一瞬ゆるむ時間もあった。高村薫の著書は、わたしには難解過ぎて話題にはできずじまいの中、中島みゆきの「世情」の歌詞を和恵がすらすらと諳んじた時には、彼女の内面に初めて触れた気がした。「その歌はわたしも好きなのよ」と言ったが、はたして彼女が理解したかどうかはわからない。病院のカウンセラーが、「樋口さんと和恵さんは、深いところでつながっているんですね」と声をかけてくれたのは、そのころだった。たしかに血は濃くつながっているが、暗中模索の言葉はいつも行きちがう。深いところって、いったいどこ? ほんとうにつながっている? 以来ずっとそれらが自問の種だった。

 やがてコロナ感染がはじまり、彼女の入院先もクラスターに見舞われ、面会謝絶となった。和恵がコロナに罹患したことを知り、以来1年近く面会が叶わぬまま、彼女は肝臓ガンを併発して総合病院に転院した。内科の主治医が頻繁に病状報告の電話を下さり、「毎朝、和恵さんに体調をうかがうと、『友だちがいない』のお返事で、最初は意味が分からなかったんですが、それがいつもと同じ体調という和恵さんの精一杯のお答えなのだとわかりました」と温かい報告までしてくださった。エッセンシャルワーカーという任務が、物理的な領域を越え、こうした内面の理解にまで手をのべていることに、おおいに力づけられた。

しかし、ガンはあっというまに大きくなり、転院してわずか半年後のある朝、彼女は逝ってしまった。享年63歳という年齢で棺に納まった和恵を、当時95歳だったわたしの母とわたしたち夫婦と、うちの次男の4人で見送り、四十九日の納骨日まで彼女のお骨は我が家の一室で、時には共に「世情」を聞きながら過ごした。

「友だちがいない」という彼女の記号化したフレーズは、具体的な事情が解けぬまま、わたしの中では凍ることなく、むしろ体温を伴い、ゆっくり静かに染みていくのを感じた。


2025年 5月
               

     屋根             樋口範子

           

〈寒村の辻にて〉   

富士北麓の小さな村、湖岸からわずか100メートルにある四つ角交差点

鎌倉時代から人々が行き来したその辻に建つ庚申塚、

しゃれた二階建てカフェの屋上には、無造作にテーブルや椅子が並び

観光客たちは、その屋上から間近に迫る勇壮な富士を眺め、シャッターを切り、

コーヒー片手に自撮りもして満足な午後を愛でる

わたしも屋上に上がり、なぜか富士に背を向けて

眼下に広がる家々の屋根に眼を瞠る

重なり合う屋根の隙間にのぞく路地は細く、そして暗い

屋根は軒にさえぎられ、物干し台やテレビアンテナ、

はては太陽光パネルにまで占領される

この村に住んで50年、初めて目にする鳥瞰の屋根

屋根と路地と四つ角とが、パノラマではなくジオラマになって わたしの視線をとりこむ

代々暮らす村人や、御坂や篭坂の峠を幾度となく行き来する旅人や行商人たちの道行き

彼らの足が決めたであろう、伸びる路地もあれば、なぜか行き止まる路地もある

昭和19年にこの辻前の家屋に疎開していたという金子光晴と森美千代は、

始終家庭内での言い争いを繰り返し、短い夏には野菜を作り、

おそらく、書けないのはインクも凍る寒冷のせいにして、

その合間には本道をしばし北に上がり

同じように疎開していたというピアニストの原千恵子や

湖畔で発声練習をしていたというオペラ歌手の三浦環を訪ねたであろう

彼らには大正半ばに共通したドイツ、ベルギーでの長い滞在歴があり、

もうひとり対岸に疎開していた三木清も、大正末期ベルリンに学んでいた

はたして、陽の当たる午後、三木清は荷馬車か自転車でこの対岸を訪ね、

どこかの縁側ではヨーロッパ談義が交わされたであろうか

戦後80年、眼下に広がる村の屋根は、まさかカフェの屋上から見下ろす者がいるとは知らず

長い時を経ても尚変わらず、路地の行方をじっと見守る

 

           〈中央アジアの旧市街にて〉

中央アジアのシルクロード 1989年に旧ソ連から独立したウズベキスタンという国

その国のブハラという古えの街にかつてあったユダヤ人街

わずか1キロ四方のその旧市街には、シナゴグ(ユダヤ教会堂)から墓地まで現存している

今ではウズベク人の経営する小さな宿に三泊した折り、

狭い部屋の壁に吊るされたタペストリーに ふとのぞいた本の背表紙

タペストリーをめくると そこにはロシア語の蔵書がぎっしり並ぶ、

すでにユダヤ人街のほとんどの人口が、ニューヨークかパレスティナに移民したというので

この部屋を書斎にしていたロシア語話者のユダヤ人の家主もきっと、

そのどちらかに渡ったのであろう 

第二次大戦前なのか後なのか モスクワからこれだけ離れた旧ソ連一共和国の村で

この書斎の読書家は、何を生業として、何を考えて生きていたのか

これだけの蔵書を残してまで、移民しなければいけない理由があったのか

思いがけない遭遇は、翌朝にも引き継がれた

夜明けと同時に「クック、クルル、クック」と啼くハトに起こされ

思わず開けた木枠窓の外には、朝日に照らされた家々の屋根

目の前に重なり合う低い屋根を この家主も毎朝見て、そこには鳩も啼いていた

彼はこの光景の先に、はたしてニューヨークやパレスティナをどのように描いたのか?

古代より、遥か北アフリカやヨルダン、バビロニアからシルクロードを渡り 

ペルシャ、トルコ、ユダヤ、アラブなど数多くの民族による砂漠のキャラバンが

このオアシスにてしばし留まり 交易を生業として築いた街ブハラ

キャラバンの末裔だったこの家主はもう、この世にはいないであろうが、

彼の朝は繰り返し、この星を一周してここに生まれ来る

翌朝もまた、わたしは木枠窓から刻々と色を変える屋根を眺め 

鳩の啼き声にさそわれ、その下に伸びる石畳の狭い路地を見下ろす

長く細い歴史が刻まれたキャラバン・サライの路地 

その石畳に古え人の絶え間ない足音がひびく 

珠玉の朝のひととき 

シルクロードの終着地からやって来て 書斎の窓辺に立つわたしは、

路地の足音を拾いつつ、屋根の語りを聞き逃すまいと木枠窓にしがみつく




 2025年4月
 

昭和の友

 彩子さんと初めてお目にかかったのは、20年ほど前だった。同じ村民、同じ世代でありながら、互いの居住間には10キロメートル以上の距離があり、たぶん趣味も異なるせいで、二人だけでお話しする機会がなかった。

それが、2009年にIVV OLIYMPIAD JAPAN( 国際スポーツ連盟)大会が富士五湖一帯で行われた時、山中湖村の英語通訳ボランティアでご一緒する機会に恵まれた。世界各国から参加されたのは、勝ち負けのないウオーキング、サイクリングを愛する、主に欧米からの中高年たち数百人。朝7時半の集合に、彩子さんは山中湖の対岸から路線バスで、わたしは自分で運転して湖畔会場に着き、夕方まで参加者の順路案内や誘導、質問などに対応して各日の任務を終えた。幸い、大きなトラブルはなく、実に緩く和やかなイヴェントだった。たった二日間のご縁だったが、彼女とは最小限の言葉で通じ合うことができ、さらに笑いのツボも近く、勝手な共感があった。

 その後、彩子さんの家の近くに住むシゲル君が、たまたま我が喫茶店の常連客であった所以で、年に12回、「このイチゴが彩子さんからの預かりものです」などと、彼の手によって庭や畑の旬が行き交った。ところが2015年の真冬、シゲル君が急性肺炎のために享年43歳で急逝して以来、わたしたちは互いの伝言まで託せるメッセンジャーを失い、湖を挟んだ二点でしばし孤立してしまった。

たぶん彩子さんはスマホをもち、ラインもされるのだろうが、わたしがパソコンのメール交信しかできないので、固定電話が唯一の連絡手段のまま、彼女とはあえてメールアドレスを交換せずに今に至っている。それがここ数年、気まぐれのように年に12回、互いの住まいの中間点にある湖畔のファミレスでお茶飲みをするようになった。母が同居していたころは、耳が遠くとも外食が大好きな母も同席して、季節のデザートに目を細めた記憶がある。話題を選んでいるわけではないのに、とっぴなバカ話に時間を忘れてしまうわたしたち。帰りがけに、一品野菜やぬか漬けのZiplocが互いのバッグを行き交い、彼女は自転車か徒歩で帰途につく。たぶん20分はかかると思われる道行きを、彼女はあっけらかんと「うちは、すぐそこ」と言い放ち、そのたびに、わたしたちは昭和の友なのだと思い知る。

いわゆる社会通念の「お返し」というルールや義務感をも、無意識に迂回できる間柄。ここ数年、巷ではメールやラインの既読だとかレスポンスなども、承認欲求を介した「お返し」の範疇に入ったと思われる。一般に、何かを贈るとすぐに値踏みされたり、周囲の「早くラインを返さなきゃ」の呪縛を耳にするたび、本質が置き去りにされているのを痛感する。人間同士の関りが疎遠になった反面、かつての思いをこめた「お返し」は、いつのまにか形骸化してポイントの差し引きのごとく盛んになった。

彩子さんとはファミレスのタブレット注文に両手を挙げつつ、互いの素材だけで午後のひと時を過ごし、メールもラインもしない(できない)仲なので、今回のこのブログも電話口で音読して、運よく承認を得ることができ、わたしはきょうもホッとする。


 2025年3月
 

細胞のありか

数年前から、自分の感じ方や考えは脳ではなく、ましてや心とかいうあいまいな器官でもなく、身体が主体になっていると自覚するようになり、昨年あたりからは細胞が感知している、発言していると実感するようになった。もともと勘が鈍い方なので、突発的に現れたその認識が自分にはとても意外だった。森の中を歩いたりすると、いきなり細胞が自己主張したりして、その受け止め方にとまどう時期もあった。科学にも運動にも疎い自分にはよくわからないまま、少なくとも脳は邪魔することはあっても、たとえ神経のメカニズム上とはいえ,脳という器官自体が喜んだり痛がったりすることはないと思っていた。
 それが分子生物学者の福岡伸一氏の動的平衡説に説明された細胞のメカニズムを読み、いたく納得した。多くの脳科学者を敵に回した彼の細胞の相補性(一個の細胞はせいぜい前後左右の細胞としかコミュニケーションがとれないのに、全体としてはうまく機能するとか、細胞はあらかじめ機能が決まっているわけではなく、周囲の細胞の動きによって相互に変化していく)などの数々の不思議、非常に文学的な解釈に、わたしの細胞が図らずも「そうなんです!」と落ち着いてくれたのだ。
 S細胞、がん細胞、ips細胞、免疫細胞については、まだまだわからないことが膨大にあり、研究者も巷の人間も、諸説、仮説の海を泳いでいるらしい。「細胞というのは、自分を自分では規定できない、常に周りの細胞との関係性でしか規定できないので、人間の場合も関係論的に自我が成り立つ」という福岡氏の論法もよくわかる。
 福岡伸一氏は、作家の川上未映子氏との対談の中で、「脳って、昔の電話局みたいなもので、体のどこかの細胞から発せられた信号を、別のどこかにつなぐ交換機のような役割を果たしている。〈考える〉という現象は、身体のあちらとこちらが話している、その会話そのもののことだと思う。末梢こそが人間の本質だといえる」と発言している。これは2008年の対談なので、あれから17年たった今現在の研究では、また異なった科学的結論が出ているかもしれないが、研究者としての確固たる視点だけは変わっていないに違いない。
 たまたま読んだ『コルチャックゲットー日記』2023年みすず書房に、今から83年前のコルチャックの非業の死(19428月)のわずか3か月前の記述がある。「世界の人口は20億だ。しかし、わたし自身が、その何百万倍もの細胞から成るひとつの社会なのだ。したがって、わたしには、自分が責任を負っている自分の中の何十億もの存在に対して、それらを大切にする権利があり、義務がある。(中略)それに、〈わたし〉という生命の宇宙とその繁栄が、同時代の他の全人類に関係していないと、はたして言えるだろうか」
 医師でも作家でもあるコルチャックの身体感覚が、生命の宇宙として他の人類や大自然と繋がっているという記述を読んだとき、自分にはまだ他の細胞が動的に感じられはしても、不透明にしか見えないのがよくわかった。関係論的に成り立っているはずの自我が、まだ自覚されていないとういうことらしい。
 しかし、コルチャックが投げかけた生命の宇宙とその繁栄が、今も尚生きつづけているとしたら、細胞とは、理科の授業で習ったあの形と生物体を組成する単位を越え、自他をも時空をも越えた光と闇の大きな流れのようなものかもしれない。コルチャックは18歳の時、弁護士であった父を自死(梅毒による精神病発症)で失い、以後ずっと、自身も死の恐怖と誘惑から逃れられずに深く苦悩していた。日露戦争と第一次大戦ではロシア軍軍医、ソ連・ポーランド戦争ではポーランド軍医として召集され、常に死と向き合っていた。60歳を過ぎ、いよいよナチスの足音に追いつめられたコルチャックがこの日記を書いた時、動かしがたい孤独と絶望の淵にいたはずだ。
 2025年真冬日の朝、目覚めるたびに、時差をもって夜中に激変する世界情勢の有り様に愕然としつつも、ふと何かの声と動きに呼び止められて励まされるのは、嘘や幻聴ではない。


 2025年2月
 

初対面の言葉

 この歳になっても、日々新しい出逢いはある。特に、それが手応えのある言葉であった時の感動は大きい。

 10年位前に、都内池袋で行われた日本西アジア考古学会を聴講した。2011年と2013年にウズベキスタンをバックパッカーで旅をした時、数日間ガイドを務めてくださった現地の青年が、京都大学に籍を置くシルクロード・ソグド人の研究者であった所以で、その彼の研究発表に足を運んだ。各研究者の発表が終わり、係が前に出て「20周年の〈やちょう〉が、まだ少し残っているので300円でお分けします。そこに並んでください」と聴衆に声をかけたので、〈やちょう〉というのが少なくとも〈野鳥〉ではなさそうだという予想だけで、すぐさま挙手をして並んだ。走るのは苦手だが、こういう時のわたしの足はとても速い。

〈やちょう〉とは、なんと〈野帖〉(フィールドノート)だった。それも、緑色の硬い表紙に「日本西アジア考古学会」という金刻字とカエルのマークのある、3ミリ方眼の薄いノート。カエルは、古代の人々にとって命の循環、再生の象徴だと言われている。〈野帖〉は野外の発掘や測量調査、観察道中の必需品とは聞いていたが、それまで一度も携帯したことはなかった。中学校の校庭で縄文土器のかけらを拾って以来ずっと、考古学マニアであった自分には、遅ればせながらもワクワクする逸品になった。ウズベキスタンには2017年に3度目の旅をして、シルクロードの砂漠やオアシスが身近になりつつも、わからないこと、知りたいことはますます増えている。最近は、大相撲のカザフスタンやモンゴル出自の力士の背後に、かの道がつながって見える、と〈野帖〉に記した。

 昨秋、都内のライブハウスで、ペルシャ語の詩朗読とイランの楽器サントゥールの演奏会があった。会の終わりに日本人サントゥール奏者の楽器説明があり、彼の発する〈こんちゅう〉という言葉に、聴衆全員の耳がぴくっと動いた。まさか〈昆虫〉ではないだろうが、否、魅惑のペルシャだもの、あり得るかもしれないと、きっと誰の頭にも巡ったにちがいない。彼曰く、〈こんちゅう〉は〈魂柱〉と書き、ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器の表板と裏板を直接つなげ、音の振動をうながす円柱の小さな部品だという。当然サントゥールにも仕込まれているその部品は、英語では単にsound post、イタリア語でanimaアニマ(魂)ということからの邦訳らしく、楽器職人はその〈魂柱〉をどこに仕込むかは明かさないという。じっさい、外からは見えない。固定はされているが接着はされていないとも言われ、聴衆はペルシャの風に吹かれた上に、なんとも神秘的、かつ哲学的な余韻に浸って、夜空の家路についた。

 藍を種から育て、素人ながらの藍の生葉染めを体験しつつ、志村ふくみさんの著書を同時に愛読する昨今になった。そこで、〈ばいせん 媒染〉という言葉を知った。草木の天然染料の多くは、それだけでは発色しにくく、岩石や金属、灰汁から抽出された物質を〈媒染〉として、思いがけない色に変身するという。大島紬を泥で洗うのは、泥の中に含まれる鉄分が〈媒染〉になってあの色が生まれる。志村ふくみさんは、それを自らの人生に例え、生まれたままの姿ではなく、そこに痛み、苦しみが加わって変動していくことに触れている。アルミニウム、ニッケル、ミョウバンなどが、植物と反応して思わぬ発色がおきるのは、おそらく偶然から生まれた過程であろうが、最初にそれを体験した人の感動の一部が〈媒染〉という音とともに伝わってくる。

〈やちょう〉〈こんちゅう〉〈ばいせん〉、と声にするたび、どの漢字の音もその意味を湛え、深く広く、じわじわと温かく、わたしの身体の隅々に沁みとおっていく。


2025年1月

  いくつかの出会い    

  2024年という一年間も、近所の介護施設に入所する98歳の母の安泰で、わたしたち夫婦は夏に2泊程度の      

国内旅行ができ、また、手元に本があることで、かなりのinner tripにも恵まれた。

 自分たちの留守中も、森にいる鳥や小動物、そして枝を広げる木々たちに、あらためて近しい思いが生まれた一年でもあった。

    ❀忘れられない訪問場所

1・青森県小牧野遺跡のクリ林と縄文時代環状列石

2・江の浦測候所の風に鳴く竹林、メソポタミヤ時代の楔形文字粘土板のある化石窟

3・静岡県小山町にある豊門会館の林と庭

   ❀著者と訳者、版元に感謝を込めて、わたしの読書2024年ベスト3

小説

1・『ハイファに戻って』G・カナファーニー著 黒田壽郎・奴田原睦明 
               アラビア語からの訳 1978年の復刻版河出文庫
 

その中から特に「路傍の菓子パン」と表題作「ハイファに戻って」

2・『非色』有吉佐和子著 1964年の復刻版河出文庫

3・『コンビニ人間』村田沙耶香著 2016年文芸春秋

         随筆・論考・記録

1・『人類はどこで間違えたのか』中村桂子著 2024年中公新書

2・『一色一生』志村ふくみ著 1993年講談社文庫

3・『女性受刑者とわが子をつなぐ絵本の読みあい』村中季衣著 2021年かもがわ出版

4・『色を奏でる』志村ふくみ著 1998年ちくま文庫

    ❀できれば2025年に訪ねたい場所

14度目のウズベキスタン、それもブハラ旧市街を徒歩で廻る

2・初めてのキルギス、イシク・クル湖の湖畔に立つ

3・何度目かの奈良明日香村を自転車で廻る

4・初めてのイラン、ペルセポリスの巨石に触れる

 そして何より、一日も早い中東地域の休戦ではなく、停戦を願ってやまない。

あまりに多くの犠牲を目にして、何もできない国際社会の一員であることが恥

ずかしく、悔しい。

   


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