| ☆ 樋口範子のモノローグ(2012年版) ☆ |
更新日: 2012年12月01日
森の喫茶室あみんのHPへ
| 2011年版 <= | 2013年版 => |
| 2012年12月 |
|
今秋の10月29日、満月の前の晩、わたしたちは息子家族といっしょに、富士山のちょうど向こう側にある田貫湖畔の休暇村に滞在していた。三年前から、この休暇村が気に入って、年に二度は足を運んでいる。充実した施設と、若いスタッフの生き生きした働きぶり、そして富士山をひとり占めしたような田貫湖畔のたたずまいは、わたしたちにとって最高のリフレッシュとなる。毎回予想以上の経験や賜物を持ち帰り、しばしその余韻にひたることができるのだ。 今回も、思いがけない感動にであった。それは、富士山頂にあがる月、月光に出逢ったことだった。 昨今のカメラブームで、ダイヤモンド富士であるとか、パール富士の人気は知っていたが、地元にいながら、あえてそれを見たいとか、写真に撮りたいとか思ったことは、一度もなかった。 ところが、たまたま休暇村の館内放送で、「今夕5時22分に山頂左付近にムーンライトが見えます」と知らされると、自分が旅という非日常に身をおいていたせいか、その非日常の月光を見てみたいと、ごく自然に思った。館内放送後、富士山を真正面に見渡せるラウンジに、宿泊客が三々五々集まってきて、すでに寒くなった外のテラスにまで、カメラ片手の人々が陣取りはじめた。わたしは、普段からカメラが苦手なので、肉眼だけをたよりに、時計の秒針と富士山頂を交互に見ていた。 やがて富士山は真っ黒なシルエットになり、うす暗い空にうかびあがった。だれかが、「ほら、もうすぐ22分だ」とつぶやいて・・・・そして、つぎの瞬間、富士山頂に光のかたまりが現れた。それは、予想していた淡い光ではなく、まさに煌々と輝くずっしりした黄色の光だった。そこにいただれもが、重厚な歓声をあげた。まるで、切り落とされたばかりの竹から、かぐや姫が生まれたような、強烈な光。自分の視力と視界を、やすやすと突きぬけるほどの迫力があった。光は次第に形を変え、そのうち月の本体が現れ、それは次第に大きく大きくなり、まんまるくなると同時に、ぷつっと富士山頂をはなれた。そして、黄色を徐々にうすくしながら、空の上へとのぼっていった。生きものみたいに。 たぶん、ほんの数分だったと思うが、その間のわたしは、一眼レフカメラの連続シャッター音を背後に、脳味噌をすいとられたみたいに、ぽかーんと立ちつくしていた。 今まで見たことのない月、そして月光。ラウンジにいた人々も、口々に感動を分かち合い、興奮さめやらずといったひととき、空っぽになったフロントへ、あわててもどる若いスタッフの背中も、はずんでいた。 場所と時間が限定される月光は、その日の山中湖畔では遭遇できず、富士南麓のその地点だけの一期一会といえる。 満月のはずの翌日の晩は、残念ながら月はおぼろで、はっきりとは見えなかった。休暇村のあちこちで、「昨夜はすごい月だった」と言うのを何度も聞き、そのたびに、すごい月に出逢った自分たち家族の至福を味わった。主人と、嫁さんと孫は、同じラウンジにいたが、息子は湖畔のジョギング中だった。しかし彼は運良くその月を見たという。「あまりの感動で、そばにいるだれかに声をかけたかったよ」と息子は言った。 一ヶ月以上たった今も、あの山頂の月光はわたしの中で消えない。動植物や人間だけではなく、地球も月も生きている、その実感が色をともなって、自分の中にたしかに刻まれた晩。 きょうも、地球のどこかで、きっとだれかが月との一期一会の感動にひたっている。夜は闇ではないし、眠るだけではもったいない、あの日から、そう思うようになった。 |
| 2012年11月 |
|
我が家のテラスの目の前、クルミの木のウロに、ムササビが時おり帰ってきては、その眠そうな顔や、日没後の出巣、滑空を見せるようになって3年目。 今年は、5月、8月、10月のそれぞれ数日間、まさに気ままな帰巣で、われわれを楽しませてくれた。8月の下旬と10月の上旬は、ウロに二匹を確認し、えっ、夫婦なの? えっ、親子なの? 単なるルームシェアなの? と、その四つの光る目にハラハラさせられたが、けっきょく10月7日の昼に撮影した映像に、授乳場面がはっきりと写っていて、母子であることがわかった。 感動の場面は、母ムササビの乳首に子ムササビがすいついて乳を飲み、そのあと、子がウロから落ちないように、母が皮膜のついた短い手で、しっかりウロのはじを押さえている。さらに、いたずらっ子は、なんとか外を見ようと、母の頭上から顔を出し、そのユーモラスでヤンチャな場面に、われわれは文字通り釘づけになった。 子は、再び母の胸に抱かれ、のんびりした午後(彼らにとっては夜中だが)を過ごす。それから数日間は、毎朝二匹で帰巣し、二匹で出巣、母だけが滑空して、子は木の枝をわたるうちに森が真っ暗になって観察不能となった。 ところが、10月18日夕方5時半の出巣後、二匹はそれぞれ別の方向の木に登り、互いにギュルギュルと声をあげて、そのうち見えなくなった。 今から思うと、それが子の巣立ちで、母子の別れだった。その鳴き声を、あえて解釈はしないが、明らかに対話のような間があった。翌日からは、母だけが帰巣し、そのうち、母もまたどこか別のウロに行ってしまったが、人知れず、こんな目立たぬ森の一角で母性を発揮し、一生懸命に子育てをする生きものの営みにうたれた。 ここ二週間、ウロにはなにも帰ってこない日がつづいている。 その真っ暗なウロに後ろ髪をひかれながら、わたしたち夫婦は、用事で上京せざるを得なくなった。都内でバスに乗ると、乳幼児を連れた若い母親たちが目に入る。いつもなら、ごく当たり前の車内光景なのだが、今回はなにかがちがう。母親たちは、乳幼児の世話に一生懸命で、それは、あのウロの中のムササビの母子を彷彿とさせた。 ひとりの母親は、歳の近い乳幼児を二人連れて、そのうちの一人がぐずりだしたら、自らが座席に腰をおろして、その華奢な膝の上に、二人を抱えこんだ。幼い方の男の子は、まるであの日の子ムササビのように、母親の両手をすりぬけようとする。母親は、その子の腰にやさしく手を回した。 別の母親は、眠りこんだ子に、そっとケープをかけてやる。ああ、ここにもありありと母性があるではないか! わたしは、いたく感動してしまった。 主人も同感だったようで、「今までとちがって見えた」と、バスを降りながらつぶやいた。広い自然界の生きものたちの営みの中に、自分たち人間もつながっている。 |
| 2012年10月 |
|
今春から夏にかけて、「奥の細道」を皮切りに、かなりの数の古典にふれることができた。もちろん、現代語訳で読んだのだが、「枕草子」「方丈記」「徒然草」「更級日記」「平家物語」「蜻蛉日記」「土佐日記」など、脈絡のない選書だったが、たいへん充実した読書だったと思う。 日本の古典は、そのほとんどが中国の漢詩や、日本のさらに古い文学からの引用やパロディを含んでいるので、例えば「奥の細道」一冊を読むには、杜甫や李白の漢詩にさかのぼり、さらに「源氏物語」「徒然草」、西行の和歌にも通じる下地がないと、うまく理解できない仕組みになっている。代々の古典が、実にしっかり絡み合い、影響し合って、太く長い綱が編まれているので、うっかり〈読み物〉だと勘違いして足を踏み入れてしまうと、筋がわかるまでに、相当な読書量を要求される。現代語訳でさえ、古典をたった一冊だけ読んで、その一冊がわかることは、まずない。 はじめの一冊「奥の細道」で、その途方もない広がりがわかったものだから、江戸時代の古典から遡って、室町、鎌倉、平安と、やっとなんとかたどり着き、「源氏物語」と漢詩は、今冬用にとってある長旅の途中といったところだ。 なぜこんなことになったかというと、5月に来日したイスラエル人の置き土産が発端だった。大の日本ファンで、日本人の妻をもつR君が二年ぶりに来日して、富士山周辺をいっしょに旅したおり、愛読書であるヘブライ語訳の「奥の細道」を置き土産にし、ここから東北の松島へ、さらに山形の立石寺へと旅をつづけていった。芭蕉の旅路を自らたどるという、しゃれた計画をたてたR君のセンスに、わたしはしばし立ち止まった。はて、「奥の細道」は、そんなに面白いのか? それで、まずはヘブライ語版を読み、その後日本語の現代語訳を読み、その後さらに原本と弟子の曾良の随行記にも目を通して、芭蕉のきめ細かい感受性や、古典の引用をしての感動表現などに、はっとさせられることになった。「奥の細道」は、登場する地名や名所が現存するのに、当時の文化や風習があまりにも現代とかけ離れていて、それでも芭蕉の気持ちの変化などにはおおいに共感できる、たいへん魅力的な紀行文学だと再認識できた。 徒歩は無理としても、わたしも同じように、松島から平泉、尾花沢、立石寺へと峠を越えてみたいと思うようになり、昨今の「奥の細道」ブームにはうなずける。 R君は相撲にもくわしく、今年の5月場所は、両国の国技館ではじめて観戦したといって、目を輝かせた。哲学する内向タイプの彼は、「白鵬のように、じっと冷静さを保つ力士もいいが、実は正反対の朝青龍も好きだった」と、正直な感想を述べた。そうかもしれない。理想とする対象と、まったく正反対の要素にも惹かれるのは、人情としてよくわかる。理想の要素ばかりが魅力になるとは、限らないからだ。人間の好みの複雑さを、R君は若干30代で自覚している、わたしは再び立ち止まった。 「ゴーエードー」が、「豪栄道」であるのを知ったのは、恥ずかしながら、つい二ヶ月前だった。 そして、今場所の大相撲、わたしは初日から夢中だった。ごひいきの鶴竜はもとより、稀勢の里や隠岐の海にも声援を送り、千秋楽の白鵬と日馬富士の結びの一番には、なにもかもが報われるような感動をおぼえた。横綱も大関も、どちらも素晴らしい取り組みだった。 R君が帰国して早5ヶ月、認めないわけにはいかないことに気づく。日本を案内してあげようとしたR君に、わたしは逆に、日本を案内されていた。そしてこの道行は、どうやら当分つづきそうな予感さえして、少々とまどう秋である。 今後、来日する外国人の友人たちに、わたしは何を、どこを案内しようか? 稼業に忙しかった夏を終え、やっと物事をじっくり考えられる秋になったが、皮肉なことに、秋の夜長は、考えても考えても、なかなか明けてはくれない。
|
| 2012年09月 |
|
わたしが、18歳と4ヶ月ではじめてイスラエルに行ったとき、最初に言葉を交わしたイスラエル・ユダヤ人が彼女だった。キブツ事務局の一角で、当時42歳のマザールは、日本人研修生の里親希望者のひとりとして、わたしたち11人の日本人と向かい合って並んでいた。ひとりひとり名前を呼ばれ、初対面の里親に引き合わされ、それぞれの自宅に連れていってもらうのだが、いったいどの人が自分の里親だろうかと、期待というより不安の方が大きかったあの夕方を、今もはっきりおぼえている。 マザールの黒い目と黒い髪、彫りの深い顔は少々とっつきにくかったが、その笑顔と聞き取りやすい英語のおかげで、なんとかうまくスタートがきれた。そして、その日以来45年間、彼女はわたしにとって、かけがえのない人となった。 キブツ内では、特に目立つメンバーではなかったし、キブツの意義を饒舌に語る人ではなかった。幼児の家の世話係として、掃除や食事のしたくなど、地味できつい仕事をもくもくとこなしながらも、日々を淡々と肯定的に暮らす人だった。当時は、食事、洗濯はすべて共同で行われ、またテレビも個人宅にはなかった時代なので、夕方からの長い自由時間は、読書や手芸、庭仕事などについやされた。マザールも、刺繍やレース編みを手元に、つねに両手を動かしながら、体をやすめていたのが思い出される。夫のビニエは、キブツ内の木工場の腕のいい職人で、メンバー宅の家具や調度品をつくるのが仕事だったが、夕方も庭に出て花の手入れに余念がなかった。 ユダヤ人はどちらかというと、根気のいる手仕事や土仕事には向かないと言われているが、彼らふたりには当てはまらない定義だと思う。 早朝4時半から、アボカド畑でずっと仕事をしていたわたしも、夕方になると、里親夫婦といっしょにコーヒーを飲み、マザールと編み物などに精を出し、午後8時になると、キブツの中心にある食堂に歩いて行き、夕食をとるのが日課になった。 穏やかで温かい人柄の彼らに支えられ、わたしは二年目も同じ場所で働いて暮らすことができ、なんともありがたい里親との縁が培われた。 彼らが半生を語らなかったので、わたしは彼らの出自や経路など、45年もの間、一切知らずにいた。ところが、この2月に体調をくずしたマザールは、わたしと何度か電話で話すうち、どうやら膵臓に腫瘍があるようだと不安気で、そのわずか3ヶ月後に容態が急変して帰らぬ人となった。87歳だったが、ふつうに元気に暮らしていて、病床にふせっていたわけではなかった。 以前より、里親のどちらかに不幸があれば、かならず葬儀には出向く考えでいたが、折しも5月の連休の真っ最中で、様々な悪条件が重なり、わたしはイスラエル行きを断念せざるを得なかった。しかし、たまたまテルアビブに赴任中で、彼もまたビニエとマザール夫婦の5人目の里子であるわたしの長男が、家族をともなって葬儀に参列してくれた。 葬儀ではふつう、弔辞が長々と語られて、故人の人生をたたえるのだが、マザールは今際につきそった知人に、「自分の葬儀では、だれも、なにも語らなくていい」と数行の言葉と、流して欲しい歌二曲だけを託したという。それで、その数行によると、彼女の両親はイラクのバグダッドからイスラエルに移民して、彼女はガリラヤ湖畔の地で生まれ育ち、その後、キブツ運動に賛同し、数々の変遷をへて、カブリを安住の地とした。その後、22歳だった次女を交通事故で亡くしたのは辛い経験だったが、キブツでみんなに支えられて幸せだったと結ばれた。そして、だれもが知っているリズミカルで明るい二曲が流されて、遺言通りの葬儀は終わったという。 なんと、彼女らしい素朴な人生の閉じ方だろう。数々の辛苦をじっと抱えこみ、それでも笑顔を絶やさず、物静かな態度で周囲を励ましつづけた彼女には、今もずいぶんと学ぶことが多い。亡くなった次女とわたしは同じ年齢で、文字通り姉妹のように過ごした。 「葬儀でのその二曲がとても明るくて、かえって悲しくなった」と、長男が語った。葬儀には、親類や知人が多く集まったらしく、長男は「ぼくはその時、お母さんの45年前の仲間に囲まれていたよ」と、わたしの旧知の名前を次々にあげた。その人々は、イスラエル国内はおろか、遠くアメリカからもとんできた参列者で、亡くなった次女の連れ合いとか親友も、含まれていた。その名前を聞きながら、自分の中ですっかり凍結していた過去の人々が、突如溶けた氷から動き出してきたかのように感じた。その彼らもまた、きっと同じように、あの45年前に日本から来ていた女の子の次世代に会えるとは、想いもしなかったにちがいない。 しばらく、マザールの笑顔写真を、PCのトップに貼りつけていたが、PCを開くたび、胸が痛んで仕方なかった。それが日増しに辛くなったある日、PCの故障で、その写真が突然ふっと消えてしまった。痛いのは、わたしだけではなかったようだ。 なんとも、ありがたい故障があるもので、それがマザールの仕業かもしれないと思うと、さらに彼女がいとおしく、なつかしくなった。得意なのは、手芸だけではなかった、どうやらそうらしい。
|
| 2012年08月 |
|
「コール・ニドレイ」という、クラシック音楽の愛好者なら、だれもが知っているチェロとピアノの協奏曲を、わたしは60歳になるまで知らなかった。さらに、その曲名がヘブライ語で、ユダヤ教会シナゴグでの礼拝で、演奏されることも知らなかった。 はじめて「コール・ニドレイ」をわたしに教えてくださったのは、ピアニストの中島その子さんだった。「ユダヤの音楽には、素晴らしい曲がたくさんあるのよ」とおっしゃり、わたしは、すぐにユーチューブで聞いてみて、それが自分には初耳であることがわかった。その子さんは、海外のインターナショナル・スクールで学んだとき、学友にユダヤ人の子どもたちがいて、祝祭時の歌や楽曲を彼らから教わったという。また、彼女のピアノの師匠は、スイスに住むユダヤ人の婦人だそうだ。 わたしは、二年間もイスラエルに暮らし、その後もずっと縁をつないできたのに、ユダヤ教やその背景の文化に、全くうといことが、あらためてわかった。わたしは彼の地で、毎日キブツのアボカド園で働き、トルストイの農本主義や社会主義を軸に生きようとしたユダヤ人たちに囲まれて、開拓者精神あふれる流行歌やビートルズを日々聴いて暮らしていた。 キブツを創設した人々は、古いヨーロッパでのユダヤの衣をあえて脱ぎ捨てようとした人々で、ユダヤ教を宗教とは見ずに、歴史ととらえていた。今からふりかえれば、おそらく自室では「コール・ニドレイ」などのユダヤ・クラシックを聴いていたかもしれないが、対外的には一般のクラシックや当時の流行歌を聴いていた。 測らずも、ふたたび「コール・ニドレイ」という曲名に再会した。山中湖畔のある山荘でチェロとピアノ、ヴァイオリンのコンサートがあり、チェリストのベアンテ・ボーマン氏が、ユダヤ人作曲家であるブロッホの「祈りとニグン」を演奏された後、ユダヤ音楽の「コール・ニドレイ」にも言及されたのだった。 コンサート後、ボーマン氏の演奏CDに「コール・ニドレイ」が録音されていることがわかり、さっそくサイン入で購入して、帰宅後ずっと聴いている。そして、その重厚なメロディと情感こもった演奏に、すっかり魅せられてしまった。 「祈りとニグン」を作曲したスイス人(後にアメリカに移住)のエルンスト・ブロッホ(1880−1959)はユダヤ人だったが、「コール・ニドレイ」を作曲したマックス・ブルッフ(1838−1920)はドイツ人で、父親はプロテスタント教会の牧師だったというから、えっ? どうして? という疑問をぬぐえないでいる。 マックス・ブルッフがイギリスのリバプールのオーケストラの指揮者として任命された後、リバプールのユダヤ人コミュニティから依頼されて作曲したのが、この曲といわれている。ユダヤ教の贖罪の日に、神、および人との約束を果たせなかった自責の念を解放する祈りの曲だというが、異教徒のブルッフがどうしてユダヤ人コミュニティに依頼されたのか、ほんとうに不思議でならない。それに、ユダヤ人の心情が、なぜ理解できたのだろう? ナチスドイツの台頭以前の19世紀後半のヨーロッパに、ユダヤ人排反の火種がなかったわけではなく、ロシアやフランスでは焼き討ち事件などが多発した時代で、ユダヤ教信者にとっても、クリスチャンにとっても、双方が異教徒にほかならなかった。 21世紀のこの時代にあっても、つい先週イスラエル右派の国会議員が、国会でただひとりのクリスチャンであるアラブ系議員の目の前で、新約聖書を燃やしたという、いたく感情的で稚拙な行動に出て多くの非難を浴びたばかりだ。 ブルッフについて調べていくと、やはり彼のユダヤ音楽に対する思い入れに疑いがかかり、ナチスドイツはブルッフの死後、彼の作曲演奏を禁じたとの記録もあった。ブルッフはユダヤ人だとの説もあったらしい。 一方、ヒトラーの好んだワグナー(彼自身も反ユダヤ主義だった)の曲は、イスラエルではタブーとされていたが、今から10数年前に指揮者バレンボイムがタクトを振り、以来、批判と退場者を承知で、まれではあるが演奏されるようになった。 政治的、民族的、宗教的背景を超えて生きつづける音楽の命とはなにか? 「コール・ニドレイ」を何度も聴いているうち、いつのまにか、異教徒うんぬんの疑問が、わたしの中で消えつつある。だいたい、ユダヤ人でも異教徒でもない自分が、こだわる疑問ではないかもしれない。 大きな川の流れのような余韻に、言葉では説明できない、また説明の必要もない、ブルッフへの作曲依頼背景が察せられ、依頼の双方に畏敬を禁じえず、その深い低音のうねりに胸動かされている。
|
| 2012年07月 |
|
6年前、はじめて広島を訪れた折り、尾道から瀬戸内海のしまなみ街道を、船や自転車で渡り、その輝く日の出や夕陽を満喫した。
瀬戸田(せとだ)や因島(いんのしま)、大三島(おおみしま)の風景、さらに船で三原に渡って、鉄道で宮島に赴き、厳島神社の奥宮である弥山(みせん)からの徒歩下山も忘れられない。観光客のほとんどが、ロープウエイで下山してしまうため、たった一時間の徒歩下山を楽しむのは、主に欧米のバックパッカーか、わたしたちのような時間に拘束されない個人旅行者だけで、奥深く細い山道は静寂につつまれていた。鹿や団体客でにぎわう眼下の厳島神社の喧騒とは別世界の暗い山道には、一千年前の絵巻が、ふと見え隠れするようだった。
この一週間の旅に、もうひとつ忘れられない出来事があった。それは、尾道の坂をのんびり歩いていたときに出会った、ひとつの文言をめぐってのこと。立ち並ぶ寺のひとつの掲示板に、墨で書かれていた文言、それは〈楽が多くて強い分、いずれ受ける苦しみは甚大である〉、といった文言だった。わたしたちは、それを何度も読み返して、「これって、逆じゃないの?」「そうだよなあ、苦にたどりつくというのは、救いがない」と、ふたりそろって首をかしげた。楽は、気楽や安楽の次元ではない、煩悩からの解放、無心に近い状態を想像した。
「たぶん、どこかの経典から引用した、この寺の住職の写しまちがいだ」これが、自分たちの出した結論だった。
それでも、ずっと心にひっかかっていたので、旅からもどり、知り合いの住職にきいてみた。「この文言って、逆じゃないですか? 苦の先に楽があって、救われるのではないですか?」
住職の答えは、「まちがいではありません。そのとおりなんです」その住職の反応が、あまりにも期待に反していたので、そのあとのていねいな哲学的苦楽の解説はうまく咀嚼できなかった。しかし、自分たちの解釈が、いかに自分中心で浅はかであったのか、思い知らされた一瞬だった。〈救い〉の次元がちがうのだった。
3・11以前、自分たちは浮かれていて、世の中をなめていたから、苦があっても、いずれは楽になると、勝手な解釈で、思い通りにならない日々を叱咤激励していた。しかし、今から思えば、自分たちが思っていた苦は、今になって気づいた苦とは、比べものにならないくらい甘かった。
人の苦楽には、個人差があるだろうし、あえて自分の苦楽をここには具体的には書かないが、それらは、おそらく普遍的な苦楽の共有部分を含むと思う。
生きる意味や死ぬ意味の、答えをもとめて考えはじめたら、それはすでに苦のはじまりになる。なぜかというと、それは生存欲に根ざしているからだろう。
そういう部類の苦の向こうに、もしかして無心の楽があるかどうか、またしても苦の向こうに楽を求めてしまう自分。この可笑しな発想は、いったいどこからやってくるのか、思わず苦笑する。〈念じれば花ひらく〉とか、〈練習はうそをつかない〉とか、そんな甘ったるい感傷の後遺症にいつまでも呪縛されている証拠だ。
生存そのものが苦であり、その苦であるが故に美がうまれるという釈迦のおしえは、思いがけず、尾道への旅の続編になりつつある。しかし、世俗の美と哲学的な美のちがいは、さらにますます難解になる。
掲示板に、引用文言を書いた尾道の寺の住職もまた、邪念や煩悩と闘いながら、その苦を深く認識する修行者であったのだろうが、まさかその文言を写しまちがいと解した旅人がいたとは、予想もしなかったにちがいない。修行者にとっては逆に、世俗は遠ざかっていくのかもしれない。
|
| 2012年06月 |
|
今年3月下旬の重たい雪で、この地域一帯の樹木の幹や枝が、大きな被害をうけた。あるものは根元から折れ、あるものは小枝をぜんぶそがれ、巷の春風とは裏腹に、無残な姿をさらしていた。湖畔一周道路にかぶさった大小の枝は、安全上早々に取り払われたが、奥まった公有地や私有地の幹や枝は、今もなお放置されたままでいる。 我が家の庭でも何本かの枝が折れ、高所には手が届かないので、策のないまま放置してあり、それが四六時中目に入ると、いたく気がめいった。そのうちの半分は、すでに枯れ枝になってしまったが、残りの数本には、けなげにも葉が出て、逆さになった大枝の形で薫風に吹かれている。 映像カメラマンの伊藤さんが立ち寄られて、しばしその逆さの大枝に目をやって、「葉がひっくり返っているのがわかりますか?」と訊かれた。とっさに、その意味がわからない自分たちだったが、よくよく目をこらすと、逆さになった大枝の葉は、裏返しではなかった。つまり、葉は光合成できるように、ちゃんと天を向いているのである。四六時中見ているつもりで、実はなにも見ていず、自分たちの乏しい思考回路で、〈可哀想になあ、なんとか元の形に直せないだろうか〉が、精一杯だった。 その場所を動かない植物の知恵と実践に、あらためて舌を巻いた午後だった。長く膨大な植物の歴史は、こうして今もなお、生き延びる知恵を編み出し、人知れず闘いぬいている。 「だれの命令かわかりませんがね」伊藤カメラマンは、くったくなく笑った。 大雪で折れた後、おそらく発芽時期になって、天が逆さにあることに気づいた芽が、ねじれて伸びることにし、そのとなりの芽も、〈ぼくもそうしよう〉と決心し、〈ぼくも、ぼくも〉と連鎖反応がおきて、ついに全体の芽が裏返しに伸びた結果、見事に光合成がうまくいった、ということだろうか? もの言わぬ命の威力に圧倒されて、陽が暮れかかる。 「ですから」伊藤さんは、重要なことを、どうしてこうさらりと言えるのだろうか? 「今から、あの枝を元にもどそうなんて、思わないでくださいね。彼らが混乱しますから」 そのとおり。浅はかな人間の知恵で、どれだけの植物の尊厳を傷つけてきたのかが、思い測られる。もしかして、夫が発作的に枝を修正しようと木登りして、運悪く落下するのではないかという、個人的な危惧もぬぐわれたわけだが、そんなつまらない心配も、樹木の前では、恥ずかしい。それでも、樹木は呆れた顔ひとつせず、今の今を生きようと、天を向く。新緑はまさに、その勢いにふさわしい色に感じられた。 |
| 2012年05月 |
|
長年、自然を撮り続けている映像カメラマンさんにガイドをお願いしての山麓歩き、山麓探偵団に参加した。 静岡県の小山町にある、名もない雑木林の1.5キロを、なんと4時間かけて総勢9名ののっそり寄り道隊が歩いた。もちろん、ほかのだれとも出会わなかった。 まずは、道端の春蘭からスタート。前日に下見をされたガイドさんが、盗掘されてはいけないからと、そっと小枝をかぶせておいてくれたので、無事に御目文字。色といい姿といい、蘭の気高さをじゅうぶんに納得。その後、雑木林に足を踏み入れると、ウグイスカグラ、ツルカノコソウ、セントウソウにはじまって、つぎつぎと春の芽吹きに遭遇。冬芽が日本三大美芽といわれるコクサギにも初対面。 すかし俵と呼ばれる、クスサンの網繭や、うす緑色の山繭を目にしながら、しばし蛾や寄生についての奇想天外な話。コモリグモ、ワカバグモを一時捕獲してのクモ談義、はてはオナガグモの松葉擬態をじっさいに目の前にして、みなさん絶句。ふだん接することのない小さな生き物たちの、巧みな生き延び術におそれいるしかなかった。クモの生態は、機会あるごとにそのガイドさんから聞いてはいたが、あまりにも多種にわたって無数の生態があるためか、こうして毎回新鮮な情報となって、自分たちのなにかを刺激する。 シジュウカラのさえずりを耳元に、さらに足をすすめると、保護色に身を染めたアマガエルやヤマアカガエルがあわててジャンプして、われわれの頬をゆるませる。いつしか、みんな夢中になって、枯れ草の地面に目をはわせていた。 芽吹きばかりではなく、ドングリの根吹きを発見、すでに芽は双葉に、根は地中にしっかり張っている。そのうち、肉厚の双葉を栄養に、成長するのだという。 スギ花粉や毛虫苦手な面々も、雑木林で過ごす時間とともに、樹木に対して嫌悪より魅力のほうが勝っていくとしたら、なんてステキな時間。 やがて夕方になり、わたしたちは林をぬけ、車道にもどった。後ろの方で、だれかがふと言った。「みんな、がんばって生きているのね」 もうひとりが、「オケラだって、ミミズだっての、あの歌よ」と付け加えた。わたしも内心、〈手のひらを太陽に〉のあの歌詞をなぞっていた。「みんな、みんな、生きているんだ」まできて、そのつぎに本来なら「友だちなんだ」がつづくのだが、思わず喉元でつかえた。 かつて、日本中が浮かれていた時代は、自然界の小さな生き物たちを友だちだと呼んで、だれもおかしいとは思わなかったが、今はそんな軽い言葉では呼べないのを、みんな感じているにちがいない。フェイスブックの友達、アメリカの友だち作戦、友だちはますます軽くなった。 さて、友だちではない彼らを、なんと呼べばいいのか? 隣人だという人もいるだろうし、同志ではないが同士だという人もいるだろう、仲間だという人もいるだろう。少なくとも、友だちではない彼らの、必死で生きるすがたが、こうして里にもどったあとも、まぶたにはっきりと浮かぶ。 山繭をひとつ、ポケットにしのばせてきた。耳元でふると、なんだか小石のような音がカラカラする。繭に穴がないので、本来の山繭蛾は羽化できなかった。きっと寄生されたにちがいないので、中からいつ寄生バチが出てきてもいいように、蓋つきの虫かごに入れて、部屋のすみに置いた。さて、そのうち出てくるだろう寄生バチを、わたしはなんと呼ぼうか? |
| 2012年04月 |
|
今から六年前の9月、友人のエツコさんが拙店を訪れて、たわいない話をしたあと、「実はね、来週大腸がんの手術で入院するから、退院したらまた来るわね」と、別れ際に早口で言った。 顔色もよく、食欲もいつもと変わりなかったので、「じゃあ、待ってるからね」と手をふり、彼女の車を見送った。一人っ子で、生涯独身をとおし、八十代の二親を見送ってからも、大きな家に独りで暮らしていた。昔から勉強が好きで、大学院を出てからは、失語症治療の言語療法士として老人病院で働き、その合間にいくつかの外国語の習得、短歌も学んでいた。手術後に電話がきて、退院したのだが、体調がすぐれないので、また近く入院すると言った。理由はわからないが、抗がん治療を拒んだのだという。 再入院する前に、母校でお世話になったS先生にぜひとも御目文字をと、90歳の恩師を訪ねて、浦安の老人施設まで行ってきたという。 「先生とふたりで、江戸川のほとりを歩いたのよ」彼女は、うれしそうに電話口で話した。 その数日後に、再入院した彼女を、わたしははじめて見舞いに上京した。まだ顔色はよかったが、両足には水がたまって、象さんのようだった。彼女は他人事みたいに、医者から余命あと一ヶ月だと告げられたと言った。さらに「それを告知されたのは、一ヶ月前だけど」とつけたして、わたしを狼狽させた。 どう返答していいのかと迷うわたしの脇で、彼女は自分で酸素マスクを外してアイスクリームを口にはこび、ラジオのドイツ語講座のテキストをめくっていた。そして、その数時間後、彼女は医者の予測どおり、あっけなく逝ってしまった。 エツコさんは、二親を見送った時点で、けっきょく天涯孤独になり、自分の余命を告げられた時点で、自らの葬儀の手配や相続を、専門の窓口に依頼していたらしい。葬儀に呼ぶ人名リストから、親から相続した財産寄付のあて先まで、きちんと手配して、車も売却し、パソコンのアドレスもすべて閉じたというから、その幕引きの潔さにおどろくというより、おそれいった。 90歳のS先生の耳にも、彼女の訃報がはいったらしく、S先生からわたしに電話がきた。「わたしは自分が恥ずかしい。エツコさんと江戸川のほとりを歩いたとき、彼女は病気のことはなにも口にしなかった。それを察することが、自分にはできなかった。自分のほうが年寄りだから、ぜったい先に逝くと思い込んでいた。自分は教師なのに、生徒の心中がわからなかった。わたしはきょう、ひとりで江戸川のほとりを歩きながら、彼女にどう謝ったらいいのかを、ずっと考えた。考え抜いて、自分なりにケリをつけたので、今後一切わたしの前でエツコさんの話はしないでほしい。一周忌もなにも、一切おしえてくれなくていい。わかったね」と電話をきられた。 わたしは、90歳のS先生の教師としての慈愛と誇りに圧倒され、しばらく口がきけないほどだった。エツコさんとS先生の、はからずも同じようにすぱっとしたケリのつけ方は、いったい何が根っこにあるのか、不思議でさえあった。 昨年、S先生は96歳で天寿を全うされた。大病も認知症もなく、最期までご家族と言葉を交わしていらしたと聞き、最期の最後まで、ドイツ語講座のテキストをめくっていたエツコさんの姿に、美しく重なるものを感じた。ふたりとも、形あるものと、不可視のものとのちがいを、はっきりと見極める眼力をそなえ、この世を去るときには、そのどちらが大事なのかも、よくわかっていた。どちらも、今の自分にとっては、ぬきんでた先達にちがいない。 |
| 2012年03月 |
|
T子さんと初めて会ったのは、今から12年前、富士吉田市のとある福祉施設の会場だった。たまたま、地域の福祉関係者の代表ということで、10数名の参加者の中、席順でとなり同士のご縁だった。たぶん同世代で、おだやかな雰囲気のT子さんのとなりは、会の小むずかしい内容から一息つける、たいへん居心地の良い席だった。会合の後、近くのレストランにおいて、懇親会をしますので、みなさん移動してくださいとのことで、T子さんは車の同乗をさそってくださった。 T子さんは地元の方なので、地理に詳しいだろうと、同乗させてもらったのだが、彼女は「あれっ、おかしいなあ」と、車のハンドルを何度もきって、けっきょく二人で迷子になった。なんと、そのレストランは、福祉施設とは、ほんの目と鼻の先だったのだが、町中をさんざん走り回ってたどりついたとき、懇親会はすでに終盤で、わたしたちはみんなに呆れられて、笑われて、ふたりそろって〈極度の方向音痴〉のレッテルを貼られる羽目になった。T子さんは、恐縮しつつも、うふふと笑って、わたしを和ませた。 その後、かかりつけの東京の歯科医が脳卒中で急死したので、わたしは地元の歯科医をさがすことになった。そのとき、評判の歯科医院を紹介してもらって出かけたら、なんと、あのT子さんが、白衣を着て患者の治療にあたっていて、うれしいやら、おどろくやらの再会となった。さいわい、歯科医の腕と方向音痴の性分はまったく関係ないことがわかり、それ以来ずっと、彼女はわたしの大事な歯科医なので、以下はT子先生と呼ぶことにしよう。 T子先生の歯科医院は、歯科医が3名、衛生士が10名、技工士2名、事務員2名のたいへん大きな医院で、診察台が8台もある。歯科医特有の、あの金属製ドリルの音は、たしかに耳をかするのだが、世間話や笑い声や、T子先生のうふふが聞こえる、実に和やかな空間だ。いつだったか、「口をゆすいでください」という歯科助手の示唆に、いきなりガラガラとうがいをはじめたお年寄りがいて、診察室はおろか、待合室までもが大爆笑に沸いた。 T子先生がすかさず「○○さんは、入れ歯が一本もなくて、それに歯医者に通ったことがないんですものね」と、フォロウして、うふふと小さく笑った。なるほど、歯科医に縁のない患者に口をゆすげと言ったら、うがいをするしかないだろう。 ある日、待合室で若い知人に会った。彼女は、虫歯はないのに、年に一度はこの歯科に検診にくるという。その理由は、T子先生の人柄にあった。「あの先生に診てもらうと、なんだか、日々の悩みまで軽くなる」そうだ。「まるで、やさしいお母さんみたいなんだもの」 〈やさしいお母さん〉という表現をきいて、わたしも大いに納得した。そのとおり、T子先生は、お母さん先生の雰囲気がある。立ちっぱなしの長い治療時間、困難な治療内容にもめげず、T子先生はいつもゆったり、安心感をあたえてくれる。その安心感を求めて通う患者もいると知って、うれしくなった。ところが不思議というか、皮肉なことに、T子先生は独身なのだ。 実生活では、お母さんではないのに、そういう特質をもった女性が他にもいる。となり村のK子さん。結婚はされているが、お子さんはいない。なのに、みんなのお母さんなのだ。わたしみたいに、実生活では失敗ばかりの、とんでも母まで、暖かく包容してくれる、やはり、みんなのお母さん。 T子先生やK子さんが、もし実生活でもだれかのお母さんだったら、はたしてみんなのお母さんになれただろうか? とまで考えるようになった。 この冬、わたしは自分の不注意によるケガで、ある整形外科病院に通院していた。ある日、大きなマスクをした患者が、危なげな足元で、リハビリ室から出てきた。あっ、T子先生と思ったけれど、いつもの泰然自若とした雰囲気がない。人違いかしらと思ったが、会計係が呼んだ名前で、やはりT子先生だとわかった。思い切ってお声かけしたら、ひどくばつが悪そうに、「肩があがらなくなってね。でも、ここの先生、いい先生でしょう。おかげで、だいぶ良くなったのよ」と答えられた。でも、うふふはなかった。歯科医師で肩があがらないというのは、ほんとうにつらいだろうと察せられた。 その整形外科医の先生は、T子先生の言うとおり、権威にあぐらをかかず、患者を楽(らく)にしたいと願い、それを実践されているのが、にじみでてくる先生だった。みんなのお母さんであるT子先生も、病んだときには、こういう先生の元にかけつけるのだと知り、なぜかほっとした。 そして、この外科医の先生も、歯痛に悩まされれば、きっとT子先生の歯科医院にかけつけるにちがいない。T子先生は、虫歯をかかえて手も足も出ない外科医の先生を見れば、またうふふと笑うだろうな。わたしはそんな場面を思いえがいて、本来なら緊張するはずの診察台の上で笑ってしまい、若い看護師さんに怪訝な顔をされた。 |
| 2012年02月 |
|
正月明けに、小出裕章先生(京大原子炉実験所助教)の講演会が甲府であり、仲間に声をかけあって出かけた。ネット上で、かなりのレクチャーを耳にしているが、それでも先生の生のお声に接したいという願いが、会場にはあふれていたように思う。なんと2000席が満席で、おそらく山梨全県、また近隣の県からも足をはこんだ方々も多かった。 放射能の科学的な数値やグラフはもとより、小出裕章というひとりの学者の生命哲学にまで言及された講演は、人の命や地球の歴史をあらためて考える上で、たいへん胸に落ちる二時間半だった。最後に、ふとジョンレノンの名を口にされた時は、はからずも涙がこみあげた。 ところが残念なことに、途中で乳幼児の泣き声がかなり目立ち、泣いても退場しない様子が察せられた。もともと、3歳以下は入場不可であり、3歳以上にはわずか500円で託児室が設けられているはずだった。 わたしは、自分が保母(現在は保育士という)の資格保持者なので、講演の1週間前に託児室のボランティアを申し出たのだが、託児室には講演のスピーカーがないというので、ボランティアはあきらめて、視聴者に徹した経緯があった。 一階の3列目にすわれたので、先生の講演は一言もとりこぼさずにすんだのだが、背後から聞こえる乳幼児の泣き声は、またかと思わせるほど頻繁で、そのたびに気がなえた。乳幼児は、泣いたりぐずったりするのは当然で、特に午後になれば機嫌は下降をたどる。 スタッフ側がルールを守らず、乳幼児をかかえた母親たちをなぜ入場させてしまったのだろう? ロビーにも大型スクリーンが設置されていて、そこにはソファもトイレもあり、乳幼児をかかえた母親たちが、じゅうぶんに講演を聴くことができるはずなのに。 たしかに子どもたちは、社会全体で育み、目をかけていくものだが、講演会、コンサート、ライブ、朗読会など、大人たちが静かに時をすごす会場には、ちゃんとした線引きとルールがあり、それを守ってこそ子どもの人権が認められるのではないかと、常々思っている。それが守られないケースに多々遭遇するたび、お節介とはわかっていても、ていねいに、きわめて穏便に口を出すことにしている。「小さいお子さんは、ご遠慮願えないでしょうか」。それを、意地悪ととるのなら、もうどうしようもない。 同僚だった保母は、都会で乳幼児を一時預かってもらうのは、たしかに不可能に近いほど難しいが、それでもだれかを探して頼むのも、これも育児のひとつだと言い切っている。頼ったり、お願いしたりするのは、面倒かもしれないが、ぜひともそこを超えてもらいたい。 親類や近所や、子育て支援センターに、短時間でも乳幼児を預かってもらい、大人だけの時間をつくって、大人だけの場所に行くのは、母親にとっても社会にとっても大事なことだと思う。ちなみに拙店では、ふだんの営業中は乳幼児は大歓迎だが、年に一度の「大人のための絵本ライブ」と「楽器もちよりライブ」には、小学校高学年からのみの参加を募っている。さいわい、そのルールを伝えた上でのトラブルは、今までに一度もない。 さて、ここでもうひとつお願いがある。わたしの時間的都合があえば、いつでも託児のボランティアに出向く準備でいるので、どこかで大事な会合、勉強会、音楽会などを催す場合、どうか、このおばさんを託児係に活用してほしい。 |
| 2012年01月 |
|
大晦日の昼ごろ、目の前のクルミの木に小リスが三匹上り下りしているのを見た。どうやら遊んでいるようで、サルのようなキャッキャという声が聞こえる。三匹も、とおどろいていたら、近くにもう一匹いて、ウロの水を飲んでいる。すごい! 四匹もいる、とたまたま居合わせた甥っ子家族と、小躍りして双眼鏡をのぞいた。 春以来、リスの姿をほとんど見ることがなく、秋になってようやく数回見る程度だったので、この年末におよんでのリスの来訪はうれしかった。皮肉なことに、クルミは大豊作だったから、貯食するリスの数が少なく、森全体が寒々しかった。 わーあ、四匹もいる、とみんなで騒いでいたら、左奥のほうから、また一匹がやってくるではないか! ええっ? まさか、の五匹? 過去最高の勢ぞろいになった。親子なのか、兄弟なのか、それとも仲間なのかわからない。でも、全員小リスなので、もしかしたら、この春に誕生した新世代なのかもしれなかった。 やはり年末だったが、12月10日の皆既月食の晩、ぐうぜんにムササビを二匹も目撃。オレンジ色に変わっていく月をめでる、なかなか粋なムササビを、仲間七人で見上げたのだった。一昨年の9月8日の大雨以来、まったく姿を見せなくなったムササビだったが、声は何度か耳にした。特に昨年の9月下旬の夕暮れには、夕闇のお出まし時間に、あのカラスのウガイのような声を何度も聞き、木の上をさがしてもみた。しかし、なかなか巣穴がわからず、半ばあきらめていた矢先の目撃だったから、もしやの場合に備えておいた赤いセロファンでくるんだ懐中電灯の赤い光で必死に追った。うれしいというより、興奮の再会だった。 昨秋、たまたま食用に購入、到着した生きどじょうに交じって、我が家に来て、命をすくわれたオタマジャクシは、水が変わっても、たくましく元気に生きていた。しかし、たった一匹なので、自分がオタマジャクシだという自覚がないらしく、なかなか手足を出そうとしない。水温もさがり、このままだと凍死もまぬがれないので、思い切って、某水族館に里子に出した。 その日以降、仲間と仲良く暮らしているかなあ、ちゃんとごはん食べてるかなあ、と気になるけど、こちらの里心がつきそうなので、水族館には電話をしないことにした。 自分たちは、犬やネコのペットを飼ったことがなく、そしてたぶん、今後も飼う予定はない。でも、たまたま近くに暮らす小さな生き物たちに、こうして共に暮らすよろこびを分けてもらえて、ありがたい。 と思いきや、オタマジャクシと同じ水槽で出荷され、我が家に購入、到着した生きどじょうは、早々に日本酒に酔わせて丸煮して、笑顔で賞味をしたのは事実。小さな生き物たちとかなんとか言っておきながら、片方で疑いもせずに殺生する矛盾にも気づいている。食物連鎖という便利な口実で、けっしてくくれない人間の嗜好のエゴ。 命とは、なんぞや? 考えてもよくわからない。英語やヘブライ語では、〈命〉と〈暮らし〉、〈生活〉がそろって同じ単語(それぞれライフとハイーム)で、どちらも〈生きる〉の名詞だが、日本語では異なる、つまり〈生きる営み〉ではなく、〈生命〉または〈命〉という独立した単語なので、ついつい考えてしまう。 考えてもわからないこと、言葉にできないことが、幸か不幸か、大災害を体験してわかる、少しわかった、少しだけわかってしまった、という一年だったような気がする。人の命は、かつて考えていたような、とびぬけて高度な霊長類の特別な生命ではなく、大自然の中では、リスやムササビやオタマジャクシと、まったく同じ〈生きる営み〉であることが、やはりわかってしまった気がする。それが自分にわかったことは、不幸というより幸だったと思えてならない。 |