☆ 樋口範子のモノローグ(2013年版) ☆

更新日: 2014年1月5日  
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2013年12月


 「ふりかえらずに、前を向いて生きよう」とか、「人生は前向きに」とか、悪いニュースがつづくと、人々はまるで呪文のようにそう口にして、言いながら自分自身をなぐさめるのか、相手の反応をきかずに、語調を強めて文言をとじる。

しかし実際、前だけを向いて日々を過ごすのは、なかなかむずかしい。それをだれもが知っている。

 ところが、わたしにはたったひとり、真からそれを実践している友人がいる。彼女にとっては、すでに実践ではなく、体質そのものになっているのが、傍から見て素晴らしいと思う。

彼女、ミイさんとは、知り合って約40年になるが、それもひょんなきっかけで、まず母親同士が同じ仕事で関わり合い、その仕事の延長でわたしの主人とミイさんが知り合い、その後、ミイさんの結婚相手が、わたしの小学校の同級生という偶然にもみまわれた。そんなわけで、ここ20年間は毎冬、互いに縁のある夫婦四人で一泊旅をしている。

上京時には、わたしの実家が彼女の家の近くなので、それに自由が丘の同じ体操教室に通っているので、わりと頻繁に顔を合わせる。

まず、彼女からは、ほとんど愚痴らしきものが聞かれない。といって、けっして平穏な日々ではない。10数年前に自ら大病に見舞われ、入院、手術をへて、見事に快復。つらい数年間が察せられるのに、病気の思い出話や病状説明は一切しない。

怒り顔や不満顔、つくり笑顔もない。自分の意見は、かなりはっきり正直に発言するが、陰での発言がなく、そういえば、人の悪口も言わない。

実にさわやかに、当たり前のようにつきあいがつづいている。クヨクヨ、イライラもないみたいで、3:11後、東日本のだれもがざわついた時期、動揺するわたしの横で、彼女はいつものように平静だった。かといって、無関心ではないのが、その発言内容でわかる。あえて努力して、そういうこころもちを身につけているとしたら、逆に相当なストレスになるだろうが、彼女の場合はとても自然体で、頭で考えてそうしているとは思えない。

特別な信仰はもっていないし、哲学や宗教に特に関心をもっているわけでもない。

あらためてその体質を確認したのは、つい最近だった。5ヶ月前、彼女は実母88歳を亡くした。約4ヶ月間の看病を淡々とこなす最中だったから、こんなに早くと、がっかりしたにちがいない。

いつも家の中で、手芸や読書に専念していたお母さんの、その空席は家族にとって、相当な痛手と思われる。

その後、ミイさんの母親をよく知るわたしたちは、ときおり街中でその母親に似た姿が目に入ると、思わずどきっとして、人違いにがっかりするのだが、ミイさんの感じ方はまったくちがうのだった。

彼女もまた、亡き母親に似たお年寄りを、街でよく見かけるというが、「ついつい、がんばってねって、応援したくなっちゃうのよ」と言って、わたしをおどろかせた。

ほんとうに、ミイさんには、未来、前だけがある。過去を悔いたり、現在を嘆いたりしない。そういう見方、生き方が、周りと異なることにさえ、彼女は気づいていない。

自分の周りを見回して、そういう友人は、やはり彼女ひとりだけだ。たったひとりの人間から、こんなに大きなことを学べるのかと、おどろくわたしだが、もしそれを彼女に伝えたとしても、「えっ、やだあ」と、簡単に一言で終わるにちがいない。

そして、おいしいランチの相談などして、ふつうに日が暮れて、そのうちその話も過去におしやられる。いいことも、悪いことも引きずらない生き方、すごいと思う。



2013年11月


 うちの長男と大学で同学寮だったY君と、わたしがはじめて会ったのは、彼が19歳のとき。今から22年前、くわしくおぼえていないが、Y君はなぜか、わたしの運転する車の助手席にすわっていた。あの日、Y君はどこからどうやって山中湖に来たのだろう? 

無愛想でもないのに、どういう分野に関心があるのか、簡単にはわからない雰囲気の青年で、あえて話かけもせず、そのあともだまって、我が家でいっしょに鍋をつついた。それだけは、おぼえている。寡黙がちっとも気にならない心地よさがあった。

 不思議なのは、あの日以来、自分の息子Hが留守のとき、我が家にはY君がいることが多く、そんなとき、自分たちのHはどこにいたのだろう? と、今になって夫と話す。

我が家が、パンの卸しをしていた時期、配達に村中を回ってくれたり、喫茶店をはじめてから、夏の忙しい時期に、手伝ってもらったこともある。そのほとんどが、Hではなく、Y君だった。新しいメニューは、かならずY君のチェックとアドヴァイスが必要だった。

 そんな中、Y君の尋常ではない読書量、絵や工芸のとびぬけた才能、食物に対する実に繊細な舌とその適切な表現力に、わたしたちは目をみはる。ほかにも、語学力とか思考力など、秀でた能力がありそうだが、直接そういう話にうちの日常が関わることはなかった。

 息子Hは、その同じ学寮で、彼自身とそっくりな環境で育ったY君に出会って、おどろいたと言うが、なにが似ているのか、わたしたち家族にはわからない。共通するのは、ふたりが長男同士ということだけで、Y君の家庭はアカデミックでおだやかで、ご両親は助け合い、うちのように始終ゆれてはいない。

 Y君は、スポーツはしないが、かたやHは野球少年で、10代の頃は、漫画はおろか、読書する時間もないほど、野球部と生徒会に没頭していた。

 Y君は、今でも無類のバイク好きだが、Hは、バイクには関心がなく、のんびりJRライダーを自称する。

 Y君は、音楽より美術、Hはその逆。

 行動パターンも趣味も異なる、そんなふたりに共通な話題などあるのか、未だに想像もできないのだが、それぞれ別の大学院にすすんだあとも、ずっと親友だというから、これこそ希な縁なのだと思う。

 やがて、それぞれが社会に出て、しばらく山中湖は遠くなったにちがいない。その間のY君の仕事上の苦渋を察することはできなかったが、Hともども相次いで転職したり、身を固めそうになるも、うまく固まらなかったりして、あっというまに30代半ばになった。

 Hの結婚式に、こともあろうに寝坊したY君は、全体写真撮影にも間に合わず、わたしにえらく怒られた。今となって、あの日はさらに悔しい!

まあ、いくつかの逸話をへて、ふたりとも40路を越えたといい、これを万感の思いというのかと、わたしはしみじみ感じる年齢となる。

女の子だったら、いろいろ話してくれるのだろうが、男の子は、あまり自分のことは話さないので、もしかして、いくつも山を越えたのかもしれないが、Y君とHのくったくのない笑顔には、ほっとするものがある。たしかに、笑顔だけは似ている、とはじめて気づいた。

そして、Y君もHも父親になった。

Y君は今月、二児の父親になる。読書量は減っただろうが、その読書の好みは、ますます独特の味を求めるようになったのか、レビューに共感できることが少なくなった。当然のことだ。還暦過ぎのおばさんと、愛読書が同じだったら、気もちが悪い。

「だから、安心してほしい、Y君、いっぱしの大人になったね。もう怒らないから、勝手に寝坊してくれ。そのうち、チビたちに怒られるから、そうなったら、あっぱれ、しめたものだよ」



2013年10月


 自分が子育てをしている最中は、あまり気づかなかったことだが、子どもは大人よりずっと研ぎ澄まされた五感をもち、するどく、そして新鮮な感じ方をする。

 先入観や固定概念にとらわれることがなく、世辞を言う必要もないので、正直な感想をずばっと、それもさらっと言ってのけたりする。なかなか手ごわい。

一昨年のバターが問屋でも小売でも欠品がつづいた時期、しかたなく、輸入品バターでバターロールをつくった。常連さんの子どもが、「いつものパンとちがう」と言った。その日以来、市場に国産バターが並ぶまで、わたしはバターロールは焼かず、ショートニングをつかったブレッチェンだけを焼くことにした。

うちのシチューはホワイト・クリームシチューなので、ココットの中の色は、白っぽい。あるとき、やはり別の常連さんの子どもが、「ピンクだ」と言った。親御さんは、「ホワイトシチューだから、白だよ。ピンクだなんて」と笑った。わたしは、子どもの目に脱帽した。かなりの量の赤ワインを隠し味にしているので、ピンクに見えて、けっして間違いではない。

数は少ないが、ヤマガラが拙店のテラスにとんでくるので、お客さんたちは、テラスのへりにヒマワリの種を並べたりする。ある子どもが、種を並べてエサという文字を表した。しかし、字はテラス側からは読めない、つまり上下が逆になっている。なぜと聞くまでもなかったが、子どもは「こうしたら、あっちから飛んでくる鳥が読めるよ」と言った。鳥が食べるエサだから、鳥の視点に立って考えたのだ。

1930年代の小児科医で作家、そして教育者であったポーランドのコルチャック先生は、「教育者は、子どものファーブルたれ」と言って、子どもの特性をよく観察するように常に発言していたという。教育者にかぎらず、大人はすべて、子どもを単に未熟な者と見ずに、子どもゆえの感性に目をとめてほしい。そして、だれもが、自分もかつて子どもだったことに、なつかしさとは別の、あこがれに近い発見をしてほしい。

一方、子どもは純粋だなんて、それも大人の大きなカン違い。かなり手のこんだ立ち回りをやってのける。うそもうまいし、ずるがしこく、逃げ足も速い。子どもだから、こんな言い訳めいた動きはしないはず・・・・とは、けっして言えない。巧妙に大人をまく。

子どもが、大人の小型ではなく、大人の従属物でもなく、ある数年間の子ども時代を生きるいっぱしの人格であることを、60を過ぎてやっと、ぼつぼつ、気づきはじめた。おそすぎる。



2013年09月


 今から45年前、はじめてイスラエルに行ったとき、自分の名前を名のると、だれもが「ノリコさーん」と、なつかしそうに呼びかけてくれた。そのうち、それが、「のりこさん」という、写真本の書名だということがわかり、その本がだれからも愛されていることを知った。初版から今日まで、50数年間になんと28回も版を重ね、イスラエルで生まれ育った人なら、だれもが知っている、いわば国民的愛読書である。

 おかっぱ頭で着物を着た、5歳くらいの日本の少女のりこさんが、日本文化の中でどう暮らしているのかを紹介し、スウェーデンから来た少女エヴァさんと会って、互いの洋服と着物を交換しあい、広い日本庭園でいっしょに遊ぶ物語。撮影場所はあきらかに日本だけれど、一年中、七五三のような着物を着て、ひな壇の下でおままごとをしたり、お膳を前に食事をしたり、かなりデフォルメされた内容に、思わず笑ってしまう。

 スウェーデンの著名な児童文学作家で「長くつ下のピッピ」を書いた、アストリッド・リンドグレーの原作で、今から50数年前に、イスラエルのすぐれた詩人レア・ゴールドバーグによってヘブライ語に翻訳され、そして以来ずっと読まれつづけている。

 イスラエルのラジオ・トーク番組で、「毎晩寝る前に『のりこさん』を読んでもらって」とか、小説の中にも「寝る前に、『のりこさん』を読んでもらい、遠い国を夢見て眠った」などと、今もなお、のりこさんは登場しつづける。「のりこさん」という本をとおして、イスラエルの人々は、幼なかった自分たちの時代をふりかえり、枕元で読んでくれた両親をなつかしむ。

じっさいの日本では、すでに見られない光景や習慣だと、ほとんどのイスラエル人が知っているにもかかわらず、それでもなお、「のりこさん」が50年以上も愛される理由はなんだろう? と、今もわたしは不思議でならない。

 その「のりこさん」は今どうしている? と、写真のモデルになったのりこさん探しがはじまったのは、一年くらい前だったかもしれない。突然わたしのところに、イスラエルのテレビ局のディレクターから電話がかかってきて、のりこさんを探す番組を企画しているので、なんとか情報はないだろうか? と、途方もない依頼があった。

 50数年前に5歳だとしたら、撮影後すぐに本が出版されたとしても、今現在は60代前半、わたしとほぼ同年齢にちがいない。幼女から大人になり、当然外見も変わっただろうし、のりこさんが本名かどうかもわからないから、探しようがなかった。知り合いのイスラエル人が、フェイスブックに載せたりしたが、なんの情報もなかった。

 そのうち、別のイスラエル人女性(映画監督)が、日本の大手新聞に有料でたずね人記事を出したらしい。そして、女医になったエヴァさんを、スウェーデンから伴って来日した。

のりこさんは必ず見つかるという彼女の自信に、いささかおどろく。そしてつい先日の8月中旬に、新聞記事を見たのりこさん本人が、スウェーデン大使館に電話して名乗り出たという。こうして、エヴァさんとのりこさんは58年ぶりに再会したのだった。

 その再会ニュースがNHKの朝の番組で放映されると知った前晩、わたしは興奮でなかなか寝つけなかった。あの可愛らしいのりこさんは、いったいどんなおばちゃんになっていたかと思うと、わくわくして、どきどきして、なんだか自分の分身にでも再会するようだった。

 そして放映当日の朝6時半、NHKのアナウンサーが「のりこさん」の本を紹介して、いよいよのりこさんがスウェーデン大使館の門を入る後ろ姿が映った。のりこさんは、ご主人らしき男性と、娘らしき女性に付き添われていた。さあ、待ちに待ったエヴァさんとのりこさんとの再会場面。

 しかし、顔が映ったのはエヴァさんだけで、のりこさんは終始うしろ姿のみだった。なーんだ、こんなに楽しみにしていたのにと、わたしは肩すかしにあった気もちになった。

 アナウンサーは、「のりこさんは、現在都内で静かに暮らし、取材は受けないがメッセージだけを伝えた」と説明して、「のりこさん」の本やエヴァさんとの再会についての感動が、品の良い日本語で伝えられた。

 そのコーナーは数分で終わり、わたしは自分の期待が大きすぎたので、いたくがっかりしてしまった。

 ところが、しばらくして、なんともいえないさわやかな思いにつつまれた。「のりこさん」は、あの5歳のままで、読者のこころにずっと生きつづけると知り、あえて本名も顔も明さなかった今回ののりこさんの判断に、思わず「お見事!」と軍配をあげたい気もちになった。

 いつのまにか自分も、うわべのヴィジュアル商業主義に慣れてしまって、安っぽい一瞬の再会劇に、ついこころを動かされていた、あぶない、あぶない。そうした浅はかなロマンにストップをかけてくれたのりこさんに、「やっぱりあなたは、遠い国の日本で暮らすのりこさんなのね」と、感謝と畏敬をこめた。

 イスラエルでも、このニュースは大きく伝えられたが、はたして人々は、5歳ののりこさんを、いとおしく思ってくれただろうか? それとも、やっぱり、がっかりした・・・・だろうなあ。



2013年08月


 父の命日が七月なので、毎年猛暑の中を、門前仲町にある菩提寺に墓参りに行く。地下鉄の日比谷線茅場町駅で東西線に乗り換えるのだが、87歳の母の足腰が弱り、昨年あたりからその乗り換えと駅の階段の上り下りがままならなくなった。そこで、銀座まで日比谷線で行き、そこからタクシーをひろうことにした。

 ところが、銀座口の地上に出たら、東西南北がまったくわからず、ふたりでしばし途方にくれて立っていた。角に三越、あちらに和光、ここは銀行、はて、いったい、東京湾はどっちの方向なのか? もたもた、きょろきょろ、それにしても暑いなあ。

 そのこころもとない姿が、よほど目立ったにちがいない。こともあろうに、逆にタクシーにひろわれた。「どこへ行かれるのですか?」

 行き先を告げると、「じゃあ、乗ってください」との返事で、ああよかった、すぐに乗車となる。

「門前仲町の、伊せ喜というどじょうやさんの先を・・・」

「あの伊せ喜は、土砂災害で閉店しましたよ」

「そうですか、閉店したのですね」

 どじょう好きのわたしたち母娘は、お墓参りの帰りに何度かその店に寄って、戦後の佇まいを見せる店の雰囲気を楽しんだことがある。高下駄をはいた店員、エアコンがなくて、扇風機とうちわだけの奥まった部屋、山盛りのネギが香る鍋。しかし、どじょうが高級食材になってから、どんどん値上がりする品書きの数字におどろき、最近はほとんど足を向けなくなっていた。閉店したとなると、とたんに残念がるのが、浅はかな食い意地根性だ。

「うちは江戸川の近くに住んでいるもんで、週に一度は家でどじょうを煮るんですよ」と、善良そうな運転手さんが言った。「それが、洗っている最中に二匹逃げたもんで、それを救って水槽で飼ってたら、だんだん太くなって」運転手さんが笑う。

 こちらも、なんだかつられて笑う。じっさい、我が家でもどじょうを何度か洗った経験があるので、そのピチャピチャ、ぬめっとした感触が思い出される。

「いやね、女房とふたりなもんで、同じ水槽に、金魚も飼っているんですよ。赤いのと黒の出目が、それぞれ一匹ずついましてね、食事の時間になると、まず女房が水槽をトントンと2回たたくと、赤いのが顔を出して、つぎにわたしがトントントンと3回たたくと、黒の出目が顔を出す。ちゃんとわかっているんですよ、自分たちの食事の時間が」

「へえ」なんと涼しげな話題だろうか。耳の遠い母は、知らん顔をして車窓に見とれているが、わたしはその話がいたく気に入って、後部座席から乗り出して聞いていた。

「どじょうは、もう太りすぎたので食べる気はしなくなりましたが、金魚はますます可愛くなりましてねえ」

 東京の下町、川の近くに住む50代夫婦が、交互に水槽をながめてはトントンたたく様子が、実にほほえましく描ける。落語の一場面のようでもあるし、なんだか、のろけられているようでもあった。

「そうだ、お客さん、どじょうがお好きなら、安くてうまいどじょうやがこの先にあります。今からいっしょに行きませんか?」

「はあ?」

 母は、相変わらず車窓に顔をつけたまま、なにも聞いていない。

「まあ、それはありがとうございます。でも、わたしたち、これからお墓参りに行くもので」わたしは、笑いながら言った。

「あっ、そうでしたねえ、こりゃ、残念です」

「こちらも残念ですが」いや、ほんとうに残念だった。これが墓参りの帰りなら、喜んで連れて行ってもらっただろう。

 カンカン照りの清澄通りと葛西橋通り交差点を左折し、タクシーは寺に横づけになった。「着きました。ここでいいんですよね」

「ええ、ありがとうございました。お気をつけて」

「お客さんこそ、お気をつけて」

 タクシーをおり、わたしたちは寺の通用門を入った。物心ついたころから、年に数度、今は故人となった多くの身内とくぐりなれた通用門だったが、その日はなぜか、時代をくぐる門のように感じられた。ひんやりした石畳に導かれ、住職の住まいの呼び鈴を鳴らす。 お顔を出された寺の現住職が、先代の住職の面影と重なり合い、行き交うリヤカーや下駄の音が、今にも聞こえそうになった。明らかに、どじょうマジックが効きはじめている。

 そして、一対の榊と線香を手に、墓地へと向かうとちゅう、先を行く母がふときいた。「さっき、タクシーの運転手さんと、なにを楽しそうに話してたの?」

「どじょうの話」わたしの声は、石壁にひびいて、〈どおおじょうううう〉と、聞こえたはずだ。なのに母には、ちゃんと聞きとれたらしい。「前はよく、どじょうを食べに行ったわね」と答えて、若いときと同じように、水桶と柄杓を、きちんと手にとった。

 母にも、なにかマジックが効いているらしいが、どじょうやタクシーのそれではない、ことはたしかだった。




2013年07月


〈バッハとお経のコラボ〉とうたったイヴェントにさそわれた。

そもそも、バッハとお経の共振は、偶然の成り行きだったという。ある日、忍野村の真宗慧光寺にて、二階の本堂で朝のお勤めが行われているとき、宿泊していたピアニストが一階でバッハを練習されていて、階段の途中にいたお手伝いの女性が、いきなり胸を打たれたことが発端だった。

 へえ、そうなんですかあ? 興味津々で足を運んだわたしは、まったく想像がつかないまま、一階のホールに座った。

 まず、ピアニストが話した、八年間ドイツでピアノの修行をしているあいだ、彼はエジプトやトルコを一人旅した。カイロやイスタンブールの街の通りを歩いていると、ふと通りの右のモスクから、アザーン(イスラムのお祈り)が聞こえてくる。すると、左のキリスト教会の鐘がなる。この、偶然の音の交差が、なんともいえぬ感動を引き起こしたという。双方が、申し合わせたわけではないのに、音が交差する。どちらも一神教で、ほかの宗教を受け入れないはずなのだが、そして、世界ではこれが故に、多くの血が流れているはずなのだが、この音の交じり合いには、それを超えた感動があったという。

わたしにも、同じ体験がいくつもあった。カイロ、イスタンブール、エルサレム、モロッコ、ウズベキスタンの街の通りで、各教会から聞こえる様々な音が、まさに、はからずもそこを通る者のこころを打つのだった。鐘の音であったり、祈りや説教の声であったりする。

どの宗教も、他宗教とのコラボなど、予想もしていないし、願ってもいないだろうが、それが、だれの意図かは知らず、重なり合う不思議は、イスラム圏の街角に立つ醍醐味でもあった。

慧光寺のご住職が、お経を唱える同志を募ると、四人の男性が手をあげ、どの人も読経はほぼ初体験だというから、ほんとうに度胸のよい挙手だった。これも、実にさわやかで、あっというまに決まった。

ご住職とピアニストは、簡単な打ち合わせをしただけで、それぞれ二階と一階に分かれた。

わたしたち女性軍は、階段の途中に数人、あとは一階ホールに座っていた。

やがて、バッハのピアノがはじまった。静かに、重く奏でられていくうちに、ふとある一点で、お経が重なってきた。お経はけっして重くはなく、単音階の太いうねりだった。

不覚にも、涙がこみあげてきた。なんなの、これは!! 俗に言う、〈鳥肌がたつ〉とは、こういう、ぞくーっとする体感を言うのだろうか。

その不協和音に近い、双方の音が外れたり、重なったりしながらの音の流れは、五分くらいつづいて、消えるように終わった。

だれも、なにも言えない。しばらく、みんなだまっていた。

二階から、お経を唱えた男性たち全員が降りてきて、またしても有意義な沈黙があり、ご住職がどうでしたか? とおもむろにきいた。

同じくドイツで長くピアノを学んだ女性が、「お経が重なってきた瞬間、涙があふれました」と感想をのべた。

わたしは、自分のイスラム圏での街角体験がよみがえって、もしかして涙があふれたのかもしれないと思っていたので、イスラム圏を知らないその女性の感想をきいて、この感動は、個人体験によるものではないと知った。そう知った瞬間、またしても胸がいっぱいになった。

あえて美辞麗句ではくくらないが、祈る人々の根底に流れるなにかが、ふとすれちがうのかもしれなかった。副住職がいみじくも語ったのは、お経にはなぜかバッハが一番合うのだそうだが、理由は、推して測るべしだと思う。

けっして計算されたものではない。けれども、だれの胸をも打つこのふたつの音の共振は、五線紙とかコラボとか、お寺の門をもとびこえて、人々を奮い立たせる、大きな力のようにも感じた。平和はもう、語りあっているときではないと、切実に響きあうものがあった。


2013年06月


 店のお客さん(そのうちのひとりは、まだ二歳)と、五人でいっしょに裏山の石割神社から、平尾山へとハイキングに行った。二ヶ月前から約束をしていたので、当日の晴天は、ほんとうにありがたかった。

 さおりさんが、今まで石割神社に行ったことがないというので、計画したのがそもそもの発端だった。

 二歳の雫ちゃんは、おとなしい女の子。それでも、はじめてのハイキング、途中でストライキを起こすことを予測したお母さんの美恵さんが、オンブヒモを持参してきた。案の定、早々に「だっこ」をせがんで、歩きはじめてまだ一時間もたたないのに、背上の子となる。

 ほんと、雫ちゃんのごきげんな顔をながめながらの気楽なハイキング、八重サクラがきれいだねえ、このアメは美味しいねえ、シジュウカラがさえずっているねえ、なにもかもに感嘆詞がついて、そのうち、勾配が急になり、息がきれてきた。

 息がきれてくると、だれもが無口になって、ああ、お腹がすいた、ああ、心臓がぱくぱくする、ああ、のどが渇いたと、声には出さずとも、マイナス文句がつぎつぎ湧いてくる。

 登りはじめて一時間半、やっと石割神社につくと、階段の好きな雫ちゃんは、背中から降りて、にこにこと階段を何度も往復する。たまたま登ってきた中高年グループが、「まあ、えらい。こんなに小さいのに、がんばって上がってきたのね」と、雫ちゃんに声をかける。

 そう、雫ちゃんが得意そうなので、わたしたちはだれも否定しない。ほんとは、よくがんばったのはお母さんの美恵さんなのだけど、まあ、いいか。みんなが笑顔だから、そういうことにしよう!

 小一時間ほどゆっくりして、神社から、石割山山頂を目指すことになり、昼食はおあずけ。雫ちゃんは、またまたちゃっかり背上の子となる。

 道は狭く、ますます急になり、ああ、きついなあ。早くお弁当にならないかなあ。山頂って、こんなに遠かったかしら? 足がなかなか前へすすまない。

 午後一時半、やっと山頂につく。富士山のみごとな全景が目の前に広がり、報われた気もち。五人で、お弁当を広げてみる。さっきの中高年グループは、これから下山して温泉だそうだ。「じゃあね」「お元気で」「またね」

 すっかり静かになった山頂で、しばしの休憩。温かい味噌汁なんかつくったりして、雫ちゃんがいるから、なつかしいおままごと気分。

 ハイキングも、幼い子が仲間にいると、ずいぶん新鮮に感じるものだと、これは体験してこその実感。

 雫ちゃんは、こうして外にいるときは、おとなしいけど、家に帰ると、いろいろおしゃべりするらしい。あとで、なんて評論されるか、ちょっとこわい。

 帰りは平尾山経由で、足元の不安定な下山だったが、石割山と平尾山の分岐点にかかると、マユミやサクラの木が並ぶ平坦でおだやかな道。山中湖の湖面を眼下に、ミニ縦走気分。

お腹がいっぱいになった雫ちゃんは、やっぱり背上の子となり、そのうち眠ったようだった。

 下山道で、樹皮が下から上に剥けあがり、上の方に爪痕がのこる木を何本も見て、一瞬どきっ、これはシカや小動物ではない。そのときの美恵さんの、一瞬ぴくっとした頬が、今も思い出される。お母さんだもの、子どもの身の安全を思うのは当たり前だけど、わたしも、これはたいへんと、足がもつれそうになった。二ヶ月前にその下山道を通ったときは、まったくなかった爪痕だったので、おそらく新しいにちがいない。

「冬眠から覚めた直後の、クマの爪研ぎかなあ?」 と、さおりさんが、のーんびり言った。

「さおりさん、そんなに、のん気そうにしている場合じゃないよ、早く下山しないと」

 登りとは異なる、別の息がきれて下山、午後三時半、五人とも無事に帰着!

翌日、木にのこる爪痕の写真を、村の鳥獣対策の人に見てもらったら、やはり「これはクマです」と言われて、冷や汗ものだった。最近は、ハイキングコースにも平気で現れるそうだ。

さっそく、村の有線放送で、ハイキングコースにクマが出没しているので、気をつけるようにとの緊急放送が流れた。

でも、村外に住む美恵さんには伝えなかった。今になって、無駄な恐怖心を、あおることはないだろうから。

でも、さおりさんには伝えた。予想通り、「そうでしたか」で終わった。あらためて、この人の胆力におどろく。

雫ちゃんが、もう少し大きくなったら、どちらの話をしようか? 「森のクマさん」の絵本か、それとも、近所にいるらしい森のクマさんの話か。

あらためて絵本をひらいてみて、絵本に登場する可愛らしいクマさんは、作家さんにとって、きっとETみたいな存在なのかもしれないと思った。



2013年05月


 児童養護施設という、昔の孤児院の現在は、けっして孤児ではなく、親も身内もいるが、さまざまな事情で育てられない子どもたちが多く措置されている。例えば、親からの虐待、アル中や薬中毒に起因する育児放棄のために、帰る家庭のない子どもたちが、年々増えている。

 わたしが児童養護施設の保母(保育士)をしていた25年くらい前も、そういう境遇で措置される子どもたちが、若干いた。その中で、親もまた同じように養護施設で育った経歴をもつ者たちが多く、なぜ家庭環境を受けついでしまうのか、残念でならなかった。

 親に暴力をふるわれた子どもは、自分が親になったとき、同じように子どもに暴力をふるってしまうとか、身内に自殺者があると、自分もひきずられてしまう場合があるとか、受けつぐ要素がマイナスであっても、かなりの確率で次世代に受けつがれて、その数におどろく。

 それがどうしてなのか、類似した家庭や社会環境要因は別として、内面的な分析でいたく納得した説があった。それは、たとえ自分が、ひどい虐待を親から受けていても、親のことを慕ったり、好きだったりすれば、親の虐待は子の中で肯定されてしまい、自分も親になったときに肯定されるべく虐待をするという、理路整然とした説だった。

 虐待をしたあとで優しくなる親を、子どもは深いところで、もっともっと好きになる。その思いがある限り、子どもは親をなかなか見放さないから、うわべでは虐待を恐れていても、奥底では仕方ないと思い、自分にとっての闇の逃げ場にもなる。危険だから、親から離れていなさいと指導して、素直に離れる子はまずいない。

 わたしが働いていた施設でも、虐待のたびに帰園する幼い子が、それでも母親を慕いつづけ、「ママ、ママ」と泣くのが、やるせなかった。親の権利を主張して、「今度はだいじょうぶだから、ひきとりたい」と、年中行事のように園にとびこんでくる母親は、けっきょく一週間もたたないうちに、また子どもを園にもどしてくるのだった。あの子どもは今ごろ、もう30歳をこえているだろうから、もしかして人の親になっているかもしれない。心理連鎖を想像すると、ぞっとする。

身内の自殺も、ときによっては恥や傷をこえ、遺された者たちの憐憫の情を一気に集めるわけだから、一種のあこがれ、最後の切り札としての逃げ道になりかねない。

 道徳的判断や物事の善悪をこえたところにある、自分勝手な逃げ場の選択。それをくいとめるのが、もしかしたら家族の役目かもしれないが、自分もふくめて、なかなかむずかしい。家族同士が、お互いの深層をどこまで見透しているかと問われれば、まず、答えはにぶくなり、不可視の部分がほとんどを占める。

 同じ家族であっても、互いになにを考えているのか、わからないのが普通で、ただ、本能的な危険信号だけには、アンテナをはっていたいと、そのわずかな直感を鍛えるのが精一杯。

 これだけ、絵本や音楽やミュージカルやドラマなどの情操教育が、子どもたちにあふれんばかり提供される時代にあって、家族のコミュニュケーションの質が、〈個々の事がら〉ではなく、〈個々のつながり〉にするにはどうしたらいいか、ついにそれを頭で考える時代がきたというのも、悲しいなあ。

 たまたま、児童養護施設関連の物語やドキュメントに接する日々がつづき、唖然としつつも、なんとか虐待や自殺の連鎖をとめないと、社会現象化するのではないかとの危機感にせっつかれている。

 ふだん、野鳥や野生の小動物がおとなりさんの暮らしをしているので、人間の心理や社会性について考えるとき、どうしても言語で組みたてなくてはならず、それがとても人工的な作業に感じられる。

 
あなたたちはえらい! おとなりさんへ、またしてもエールを送る、人間おばさんの夕暮れ。



2013年04月


 3月16日、実はこの日は、ここ34年間にわたり、個人的には鬼門の日なので、毎年じっと息をとめる一日だったが、今年はなぜか忘れて素通りしてしまい、気がついたのは、翌日だった。

 その16日は、遠くに住む9歳の孫を連れて、上野の科学博物館に出向いた。折しも、85年もの間、膨大な人々の行き交った渋谷駅の東横線ホームが前日に閉鎖になり、文字通りだれもが新人で、渋谷の地下5階の新ホームを右往左往した、良くも悪くも記念すべき日にはちがいなかった。

 科学博物館の、実に良く網羅された数々の部屋を見て回り、いささか(というか、かなり)くたびれて、上野公園に出た。その翌日が桜の開花予定だったせいか、意外な人出に思わずおどろき、上野駅方面に向かった。楽しみにしていた大道芸は、かつてよりずっと芸人の数が激減し、はては、みんなプロになって巣立っていったのかと冗談を言うほど、閑散としていた。

 公園内の本道で、人だかりがしている一箇所があり、さっそく近づいてみると、まだ一分咲きの桜の枝に、猫が二匹、首に絹地をまきつけられて(たぶん、アクセサリーのつもりだろうが)眠っているのか? 寝そべっているだけなのか? 大勢のカメラマンの注目を浴びている。

 子猫ではないので、その奇妙なポーズがたいへん目立つ。カメラマンたちや携帯で写す人々は、いろいろな角度から二匹の猫を撮り、その枝の下では、すでに現像された大判の写真を得意げに見せているおじさんもいる。いつ撮ったのか、二匹が同じように絹地を首にまいて、枝の上で目をとじている。たぶん、この人が仕掛け人なのだと思った。

やっぱり、おかしい。可笑しいのではなく、不愉快なおかしさを感じていると、野次馬のほとんどの人たちからも、懐疑的な声が聞こえてきた。「へんねえ。人がわざと、猫にポーズさせているのよねえ」「だれかが、演技させているんだよ」はては、「気もち悪い」という声も聞こえる。

わたしも同様に、いやな気もちになった。ぽかぽか陽気は、猫のひなたぼっこに最適だろうが、これはちょっと異なる。タレント猫か、マタタビでうっとりさせた猫か、とにかく人為的な現場だった。動物園大好きのうちの9歳の孫でさえ、首をかしげただけで、まったく関心を示さなかった。わたしたちは早々にひきあげて、駅に急いだ。

そして翌日の夜7時のNHKニュース。上野公園で開花になった桜の枝で、猫がのんびりと昼寝とアナウンスがあり、えっ、まさかと画面を見ると、前日のあの二匹だった。画面だけを見れば、実にのどかな春の午後にちがいないが、取材した記者は、ほんとうにのどかで、のんびりだと思ったのか? 送られた画像を見たデスクは、なにもおかしいと感じなかったのか? 再び、いやーな気もちになった。

さらに、さらにである。BSの「新日本風土記」の冒頭にも、同じ画像が使われ、それはほぼ毎回、同じカット映像で流れる。この番組の一ファンであった自分の失望感といったら・・・番組の内容にまで、疑わしい思いが広がってしまった。

ニュースは、こうやって安易に、うわべだけでくくられて報道されていると知ってはいたが、それを身をもって知った3月17日。鬼門から免れたと安堵したのもつかのま、来年からはきっと、この日になると、二匹の猫が思い浮かぶようになるだろうなと、今から気が重くなった。



2013年03月

 
富士山麓の樹海が、自殺の名所と知られて久しいが、それが海外にまで知れ渡っているとは驚きだった。
ITの時代ゆえに、情報が簡単に国境を越えるのは当然だとしても、人々の関心までもが、同一化する時代になった。

旅先のウズベキスタンで、富士山麓の森に住んでいると自己紹介すると、まだ20代の若者に、「では、あの自殺の森の中ですか?」と、即座に訊かれたのだった。

 不名誉な知名度をかかえた山麓の各自治体では、じっさい年間約100人(全国では3万人弱)という樹海での自殺者数に対して、様々な取り組みがなされている。警察、保健所、役場が一体となり、さらにタクシーおよびバスの運転手、宿泊施設、土産物屋、飲食店などで働く人々の第六感、ボランティアも加えて、自殺企図者(じさつ・きとしゃ)への声かけ運動を常時行っている。

 わたしたちも、山麓探偵団という山麓歩きを企画・催行しているので、保健所から「命をつなぐボランティア養成講座」の案内があり、昨年に続き二度目の参加をした。自殺企図者を保護する警察や保健所の心理カウンセラーのレクチャーのあと、参加者同士が企図者役と声かけ役に分かれて、ロールプレイをした。

声かけボランティアの仕事は、ID(声かけボランティアである証明書)を見せて、もし明らかに自殺を企図しているとわかった場合、警察や地元パトロールに連絡するまでとなっていて、企図者のかかえた問題解決にまで関わる必要はない。

しかし、この声かけが実にむずかしい。企図者は、潜在的にだれかに止めてほしいと願っているとはいえ、声かけ役の質問をするりするりと抜けようとする。止めようとすればするほど、相手の自殺への加速度が増していくのを、たかがロールプレイの時点で実感する。

保健師さんや刑事さんのアドヴァイスを受け、なんとか企図者に腰をおろしてもらうまでになったが、冷や汗ものだった。ふだん、見知らぬ人にはほとんど声をかけないからだ。

わたしの場合は、かならず複数で樹海にはいるので、きっと助け舟もあると思うが、年間約100人という遺体発見数を見ると、企図者はもっともっと多いはず、けっして希な出会いではない。

富岳風穴などのにぎやかな場所でも、あれっ、あの人? と思う場合は、かなりあるというので、始終アンテナを張っているという。風穴売店の店主が、あの人はあやしいと思っても、店を空けたまま、その人を追跡するわけにはいかず、たまたま雪の日で足跡を追って保護できたという場合もきいた。やはり、できるだけ多くのボランティアが精巧なアンテナを張っている必要がある。

自殺を企図するのは、なにもうつ病患者だけではなく、その要因は社会の多様化にならって、同じように多種多様化し、思いとどまってもらうためには、声かけする側の社会性も、おおいに問われる。

しかし、その社会性は、なにも学問性や専門性をおびる必要などなく、家族や地域の一員として、この不安定な日々を助け合って暮らそうとする姿勢があれば十分だと思う。ひとつ屋根の下、たがいに声をかけあって一日が明け、外ですれちがう人とも、ちょっと声をかけあって一日を終える。暮らしの中で、もっと声をかけあう習慣が根づけば、企図者への声かけも少しずつ命につながっていくと願いたい。

意図しなくても、すべての行いが世界に発信されるというなら、こうした地元の声かけ運動も、プラス情報として国境を越え、即知れ渡ってほしい。そして、〈どうやらこの世は死ににくい〉と、知る人が増えれば、しめた! ものだと思う。



2013年02月


 二年ぶりのウズベキスタンへの旅は、天候にも恵まれ、さまざまな人々に出逢うことができ、予想以上に実のある16日間だった。たった3箇所に、それぞれ四泊から五泊という滞在型のプランをたて、できるだけ地元の暮らしに近い過ごし方をめざした。

 世界遺産に指定された名所旧跡の半分以上は、すでに二年前に廻ったので、今回は、それでももう一度くわしく廻りたい場所や、前回惜しくも行けなかった場所に日本語ガイドさんを短期(のべ3日間)でお願いして、あとはひたすら旧市街の路地裏や地元民の買い物市場などに足を運んだ。それが楽しかった!

 日本語ガイドさんのきめ細かい手配で、現地のユダヤ共同体やユダヤ教会、ユダヤ人墓地を見学させてもらったり、また外国語大学の日本語の授業に飛び入りさせてもらったり、パイケンドという広大なシルクロードの遺跡発掘現場を博物館館長の案内で歩いたりもできた。

 また、現地で暮らす日本人たち、たとえばオーケストラのフルート奏者であったり、大学の日本語教師であったりする彼らと少しの間でも話ができ、たいへん学ぶことが多かった。インフラ整備がまだまだ不十分な土地で、不自由をものともせずに笑顔で暮らす彼らには、たいへん励まされる。

演目はまったくわからなかったが、生のイタリア・オペラを巨大なロシア風オペラ劇場で観劇したというのも、われらには初体験だった。どうやら物語は、王国どうしの戦いの中での、男女の三角関係らしいが、言語もストーリーもよくわからないのに、音楽という万民に通じる芸術のおかげで、二時間半をおおいに楽しむことができた。

 少しでも時間があくと、わたしたちは旧市街の路地裏をよく歩き、下校中の子供たちと身ぶり手ぶりで対話したり、井戸端会議中の婦人たちと挨拶を交わした。3回も通った喫茶店では、お茶とケーキをゆっくり味わい、その間にちゃっかりカップル観察もしたりした。

 前回も今回も、複数組の結婚式の写真撮影現場に、偶然居合わせた。音楽同様、言語や習慣を超える祝賀のメッセージに、辞書も通訳もいらない。

 乗合バスの乗り方を教わって、はじめて自力でバスに乗った時の感動は、忘れられない。チケットを買わなきゃと思うそばで、若者たちがすぐに席をゆずってくれる。走るバスの乗客の一員になったとき、地元の日常にちょっとだけはいりこめた気がした。となりの座席では、大学生なのか、小声を出してのノート暗記に懸命だった。どうやらわたしは、彼女の勉強を邪魔せずにすんでいる。旅人には、実はこんなことでも嬉しいのだった。

 二年前に美味しかったり、感じがよかった店のほとんどが、今回はすでに撤退したか、冬季休業で閉まっていた。ウエイターやウエイトレスさんと再会できたのは、わずか二店のみ。

ブハラのラビハウズ周辺は、まるで17世紀を錯覚させるたたずまいだったが、たった二年の間にすっかり近代化してしまい、垢抜けしすぎておどろいた。ここ日本でも、店のテナントの出入りがめまぐるしくなり、どこの駅でも同じような駅ビルに同じようなおしゃれな店が急増しているから、これは仕方のないことなのだろうが、近代化が固有の文化を平坦化していくのは、やはり惜しい気がする、なんて、旅人は、勝手なことを言う。

ほとんど言語が通じないのに、毎日が生き生きとしていた。起床時に、はて、きょうはどう過ごそうかと考えていても、いつのまにか日程がうまっていくのは爽快だった。

ユーラシア大陸のまんまん中で、国民の60%が20歳以下という、国家も人々も同じように若いウズベキスタンという国が、きっときょうも、にぎやかに明けて、そして暮れていく。それを思い描くだけで、旅人には活力がわいてくる。

時計を見るたび、ついつい現地では今何時だろうかと、四時間を引き算している自分におどろく。

今回、三ヶ月前から、ウズベキスタンへの旅をサポートしてくださったサイト

http://www.uzbek.jp/basic/outline.html



2013年01月

 2012年の冬は、どこへも旅行に出なかった。震災後10ヶ月で、さっそうと腰があがらなかったのも理由のひとつで、ひたすら山中湖の寒さに耐えて過ごした。おそらくそのせいで、身体が硬くなっていたのか、二月早々にとなり村のお寺で、こともあろうに知人の一周忌の法要の最中、足を踏み外してグランドピアノに激突して額を切ってしまった。大雪の中、東京から集まられた故人のご親戚の方々に、なんとお詫びしていいのかの失態だった。

それで再び、雪窓をながめながらの安静治療の日々を過ごした。おかげで、読書や映画(DVD)にかなりの時間をあて、アウトドアには無縁で、季節はそのまま春になってしまった。

縫合の経過が良く、一年たって傷口はほとんど目立たなくなったので、今年の冬はまた旅に出ようと、目下準備中である。

準備中ではあるが、映画熱が冷めたわけではなく、年末年始も大いに楽しむことができた。この一年間、新旧とりまぜて、かなりの数を観たが、やはり感動するのは、もうすでに何度も観た往年の名作やミニシアター系の佳作だった。

スティーブ・マークイーンの「パピヨン」「大脱走」、ジャック・ニコルソンの「愛と追憶の日々」「恋愛小説家」、西ドイツのミニシアター系「バクダット・カフェ」、ヘブパーンの「麗しのサブリナ」、スピルバーグ監督の「ミュンヘン」、地味なドキュメントの「岩崎鬼剣舞の一年」そして、年末に特集された高倉健の主演映画集など、懐かしの銀幕にとことん魅了された一年間でもあった。

新作で感動したのは、残念ながら高倉健主演の「あなたへ」だけで、多くの新作が、自分たち中高年には少し遠くなった感を拭えない。当然といえば当然だが、監督や俳優の年齢が、自分たちに近ければ近いほど、共感があるのかもしれない。

映画ではないが、室生犀星の晩年の作品をテレビドラマ化した「火の魚」には圧倒された。じっさいに病をかかえた故原田芳雄と、絶好調の尾野真千子が共演していて、せりふといい演技といい、大変優れた作品だったと思う。このドラマがきっかけで、図書館で室生犀星全集を借り、ほぼ全作品のページをめくり、室生犀星が金魚に対して特別な思い入れをしているのを知った。犬や猫ではなく、金魚とともに暮らす老作家の、ユーモラスでありながら、哲学的にねじこむ視線に、少なからず関心をもった。

ミステリーよりスパイものが好きな読者としては、ミュンヘン・オリンピックのテロとその報復を背景にした、諜報作戦のいくつかの作品にも夢中になった。スパイものがなぜ好きかと問われれば、大胆に諜報しつつも、内心では揺れる思いを打ち消せずに、次第に自身に問いはじめる人間性が書かれているからにちがいない。よほどの豪胆家か、狂信家でないかぎり、スパイはかならず揺れてしまい、ついには二重スパイになりかねないという傾向は、非常に人間的で考えさせられる。辛いのは、病んで廃人にもなりかねないという、現実の厳しさにも触れることだ。

家の中にいても、こうして学べるのに、あえて再び極寒のシルクロードへの旅を準備中の自分たちは、・・・・まずは健康のおかげだが、やはり相当な欲ばりだなと思う。



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