☆ 樋口範子のモノローグ(2014年版) ☆

更新日: 2014年12月1日  
森の喫茶室あみんのHPへ 

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2014年12月


 昨年の11月、わたしが昔住んでいたイスラエルのキブツから、シーガルという婦人が旅の途中で山中湖に寄りたいというメールがきた。すでに半年以上単身で東南アジアをまわり、保健婦であるため、タイやカンボジアの産院でボランティアをしたり、自然分娩の啓蒙をしたりして、日本にたどりついたという。当時18歳だったわたしをよくおぼえているとメールをくれたが、彼女の名前の記憶は、正直わたしにはまったくなかった。


  しかし、本人をおぼえていなくても、ほぼ毎日食堂で顔を合わせる600人の共同体の中に暮らす彼女の兄弟や両親には、きっと見覚えがあるにちがいないので、山中湖畔の民宿を紹介して、食事は我が家でとるようにとの提案をした。再会すれば、きっと思い出すだろう。

 わりと時間的余裕のある秋だったので、三泊をハイキングや紅葉狩りでいっしょに過ごそうと、楽しみでもあった。

 予定通り、彼女は新宿から高速バスに乗ったのだが、不運にもその二時間前に山中湖畔で発生した死亡交通事故による通行止めで、バスは約束の終点にはたどりつけず、湖を反対側に回ったのだった。たったひとり残った日本語の通じない乗客に、迂回の説明ができず困った気のいい運転手さんと、途方にくれたその乗客シーガルとに、わたしがやっとのことで会えたのは、すでに夕闇せまる中。やれやれという顔の運転手さんに頭をさげ、「ポリスが何人も道路に立っていたので、テロにでも巻き込まれたのかと思った」と、バスを降りてきたシーガルと46年ぶりの再会だった。しかし、その顔にもやはりこころあたりはなかった。

 まっ、いいか。出自ははっきりしているし、少なくとも相手方の記憶はあるのだから。夕食をとりながら、三日間の予定をたて、翌日は天候がよさそうなので、我が家の裏にある平尾山から皆形山、大手山、大平山を縦走して、ホテル・マウント富士に下山するコースに決めた。

 翌朝、おにぎり弁当をつくり、彼女を民宿に迎えに行って、ふたりで平尾山に登りはじめた。難易度が初級´、それにあえてキツイ石割山には登頂しないコースなので、おしゃべりしながら気楽に出発。キブツの思い出話や現在の医療制度など、話題はつきない。やがて、最初の休憩時に登山中の初老夫婦と出会い、たまたま彼らが英語に堪能だったため、世界の街角談義など、ますます楽しくなってきた。

 さあ、出発しましょうとみんなで腰をあげ、シーガルがわたしの前を歩きはじめた。そのたくましい腰の形が目に入ったとたん、とつぜん、わたしによみがえったのは、キブツの食堂で働いていたツィポラという婦人の後姿だった。わたしは、思わず「あっ」と声をあげた。シーガルがふりかえった。そのメガネの落ち具合、その向こうにあるぎょろっとした目、それもまさにツィポラだった。ツィポラはアメリカに住んでいて、夏の二ヶ月間だけ家族でキブツにボランティアで働きに来ていた婦人で、夫は大学教授のヨセフ、まじめでおだやかな人柄の彼は、わたしと同じ果樹園で働いていた。そして、彼らにはたしかに12歳くらいの女の子がいて、ポニーテールをぴょんぴょんさせて走っていた、あの女の子がシーガル! 今わたしの前を歩くおばさんだ! 46年という時間が一気にちぢまったのだが、まるで自分が浦島太郎になったような奇妙な気分になった。測らずも、やっと記憶がもどり、なんともいえない幸せな気もちになった。でも、あまりにも唐突で失礼な記憶の戻り方なので、今更あなたをおぼえているわとは、シーガル本人には、言えなかった。

 昼に平尾山の頂上に着き、眼下に広がるガラスのような山中湖と富士山を目の前に、わたしたちはおにぎりをほおばり、温めたコーヒーを飲んだ。さきほど談笑したご夫婦とは、追い越し追い越され、何度か休憩をごいっしょした。やがてホテル・マウント富士あたりで、彼らは東京行きの高速バス停に向かい、わたしたちはさらに湖畔を半周して帰宅した。おそらく一万歩以上は歩いたにちがいないが、さわやかな一日だった。家族のこと、友人のこと、よくしゃべった一日でもあった。両親のツィポラとヨセフは、その後アメリカからイスラエルに移住し、長年キブツで暮らし、数年前に同地で他界したという。

 翌日は、河口湖畔の紅葉をめで、最終日は静かに読書などをして、思い出深い三日間をすごした。三島行きの急行バスに乗る彼女を見送ったとき、たがいの喉元に出かかったのは、おそらく「今後また46年というのは、ありえないからね」という一言だったにちがいないが、「またね」とは、なんて軽くて、便利な言葉なのだろう! 「またね」、まるで近所の知人を見送るように、手をふって別れた。



2014年11月


  子どものころから、ファンタジーはあまり好きではなかった。ピーターパンとかピノキオとか、なんだか都合よく騙されているようで、あえて再読はしなかった。大人になっても、ファンタジーは現実からの逃避のように思える時期があって、すすんで読みたいとは思わなかった。

  それが、数年前に行われた山中保育所での朗読を聴くひとときに参加して、坪井美香さんという女優であり朗読もされる方の「鳥」という作品を聴き、ファンタジーに対する見方が大きくかわった。

  安房直子さんの書かれたその作品は、現実の時間のすきまにふと入りこんだ、実に不思議で胸にしみいる短編だった。そこに参加していた十数人の大人たちは、だれもが同様に感動したようで、異界から現実の日常にもどったとまどいを隠さず、しばしの間、身の置き場に困ったような表情をした。わたしも、その中のひとりだった。ジャンルではたしかにファンタジーなのだが、うまく騙されたどころか、日常を見る目が大きく開かれた気がした。ほとんどの主人公が、お店やさんであったり、一生懸命に働く人々であるのも、現実味を増している。

  50歳で病死された安房直子さんの作品は、死後20年たっても、まだ各出版社から刊行されつづけている。長く読みつがれるその作品の数々には、バカバカしさの奥にある真剣さや、美しさの奥にある哀しさがきちんと描かれていて、何度も読み返すたびに、新しい発見がある。教訓っぽいものがまるでなく、作家さんの筆自体がファンタジー、ついついそう思ってしまいそうになる。

  「鳥」、「雪窓」、「きつねの窓」「ライラック通りの帽子や」など、読んだあとは、なぜか笑顔になる。

  安房直子さんの作品に出会ってから、新美南吉さんの「てぶくろを買いに」「ごんぎつね」にも、いたく感動するようになった。 

  現実があまりにも惨かったり、哀しかったりするので、こうして小動物や植物を登場させたり、異界に足をふみ入れさせたりする話は、子どもよりむしろ大人に受け入れられるのではないかと、60を過ぎて読み始めた自分はつくづく思う。

  あるいは、「あなた、大人だったんですか?」なんて、作者に首をかしげられたりしたら、どう答えたらいいのか、 答える自信のない自分を、物語の中に見つけたりする。


2014年10月


 

 同じことを体験したり、見ていたりしていても、人によって印象や解釈がまったく異なるのには、おどろかされる。「えっ? あれがそれなんですか? それがあれなんですか?」と、思わず聞き直したりするのだが、実際あれはそれで、それがあれなのだから、おどろいたままではいられない。

 今年もやっと、秋の社員旅行で念願の田貫湖畔に行くことができた。このモノローグの2012年12月に書いたムーンライトには、今回はうまく時期が合わなかったものの、人工物の少ない田貫湖畔をじゅうぶんに楽しむことができた。たまたま、夫と二年前のムーンライトの思い出話になり、感動を再び味わおうとしたのだが、夫とわたしの印象があまりにも違っているのに気づいた。夫曰く「山の端に月が出たとき、ポンという音を聞いた」「えっ? 音?」わたしには、音ではなく、黄色の光だった。それも今までに見たことのない衝撃的な色だった。それぞれの印象なのだから、どちらにも間違いはないのだろうが、同じものを、同じときに見たのに、この違いだ。二年間の間に、印象はさらに煮詰まって、確固たる音や色になって動かなくなった。

 空襲体験者や収容所体験者なども、それぞれに微妙な違いがあり、「あの人の体験談には、ちょっと納得できない」とか「わたしの体験では、ああではなかった」と、まちまちな話になるのを聞いたことがある。人それぞれの、それまでの生活環境や感性などによって、体験の受け取り方が異なり、〈わたしの ・・・・体験〉〈わたしの・・・・感想〉は、そう簡単に〈時代の・・・・証言〉になり得ないのを知る。解釈の仕方も異なる。

 となると、発信されたそれぞれの印象や解釈は、そのままくくらずに受け取るしかないのだが、今度はその受け取る側のフィルターを無視するわけにはいかなくなる。そこにも、人それぞれの生活環境や感性があり、語られた文言や体験談は、そこを通ってしか理解されないからだ。

 のんきな話題ならいいが、人の生死や社会全体に関わる証言になる場合を考えると、重大な責任を負うことになり、ぞっとする。自覚がないだけで、自分も過去に無責任で無神経な印象を発信していたかもしれないとふりかえると、さらにぞっとする。
 ニュースによく登場する、街角インタビューの決まりきった答えにも、憤りを感じる。その場合は逆に、インタビューイーの芯からの印象や感想ではなく、単に〈こう答えればいいのかなあ〉の上っ面な言葉が多いからだ。

「消費税があがって、どう思いますか?」(なんという愚問)
「消費税が上がったら、困ります」(当たり前だ)
「社会保障を充実させるためには、仕方ないんじゃないんですか?」(御用学者をさらに擁護するのか)
 これもまた、無責任な発信、取り上げ方だと思う。本心を言っても、個人それぞれだと言われ、一般論を言っても、体温がないと言われ、いったい何を、どう発言したらいいのか?
 

 そっと感じて、そっと思い、そしてそっとつぶやく、秋の夕暮れ。


2014年09月


 今夏の山中湖、とくに我が家は涼しかったが、週一回の8月の定休日水曜日には、家をはなれてみた。当然どこも蒸し暑く、家にいた方がずっと快適なのだが、人間はまったく勝手なもので、ときには気温とは別の気分転換を必要とする。

 8月上旬の水曜日、河口湖浅間神社の奥にある〈母の白滝 ははのしらたき〉に出かけて、思わぬ清涼感を味わった。細い山道から聞こえる滝の音に、まずは足がさそわれ、そのあと数分してとつぜん目の前に現れる白いしぶきに目をみはる。観光客が少なく、東京から合宿に来ているという女子高生たちが昼食をひろげ、あとはぱらぱらと人が訪れる程度の静かなスポットが魅力だ。以前、冬の凍った滝に来たことがあるが、夏にその滝に来たのははじめてだった。

 聞こえるのは、落差を下る水の音だけ。見えるのは、女子高生と教師たちのおだやかな表情。ゆるやかに動く彼女たちの手足、さらさらとした若い髪。まったくだまったまま動かない岩、崖、樹木の枝。

 なぜ滝に惹かれるのか、今回あらためて知った。滝の近くでは、だれもおしゃべりをしない。おしゃべりしても聞こえないし、この大自然の音の中で、おしゃべりする必要もない。周りに気を使わず、無駄口をきかず、だれもが実にのびのびしているのが、ここちよい。

 わたしたちもコンビニで調達した昼食を広げていたら、合宿組の教師らしき女性が、もろきゅうを差し入れてくれた。合宿所の民宿の庭で採れた新鮮なきゅうりに、味噌がそえられている。すすめるのも、いただくのも、笑顔が言葉の替わり。そのものの味だけを、ぜいたくに賞味させてもらった。主人が、滝をバックに10数名の女子高生と2名の教師の集合写真を撮った後、彼らは山を下っていった。

 しばらく休憩し、わたしたちも、また下界に戻ることにした。車の騒音に塗りつぶされた湖畔道路を走り、我が家にもどった。我が家は相変わらず涼しかったし、静かだったが、なんだか大事な物を置き忘れてきてしまったような空しさを感じた。

 あの水の音がない、ほんとうの静けさがない、思いがけない発見だった。


2014年08月

  日に日に増すイスラエルのガザ攻撃に、いきどおりがつのる。現地に住むわたしの友人は、数少ないガザ攻撃への反対者で、デモに参加したり、ITで訴えたりしているが、右傾の人々に「あんたたちは、国防軍が守ってくれているから、そんなことを言っていられるのだ。ハマスが悪いのだ」とののしられて、それでも、めげずに反占領、反戦の輪に参加している。現地の反戦デモは、ほとんど報道されない。

それに、国民の大部分が、政府の見解を信じている。「ガザには、事前に攻撃時間を伝えてある。だから、ハマスが市民を盾に使っているのだ」。かつて、アメリカがバクダッドを攻撃したときも、同じような言い訳があちこちで聞かれた。「ちゃんと、攻撃日時を伝えてあるじゃないか」

 今回のガザ攻撃の発端となった、三人のイスラエル兵殺害の被害者遺族でさえ、報復はなんの解決にもならないから、攻撃はしないでくれと訴えているというのに、勢いついた政府は耳をかさない。

 わずか80年前に、ナチスドイツの公布したニュルンベルク法で迫害を受けた彼らが、今は凶暴な加害者になった。

 言いたいことは、山ほどある。でも、自分もなにかの形で抗議しなければと、まずはそれを考えるのが先だと思うようになった。

 梅雨も長かったが、猛暑もつづきそうで、気が重い。


2014年07月

 野生のホタルを生まれてはじめて見たのは、今から47年前、イスラエルの集団農場キブツにいたときだった。夜9時ごろ、沢のそばの小道を歩いていたとき、ホタルがとびかっているのを見て、とても感動した。いっしょにいた数十名のキブツメンバーとともに、じっと静かにながめていたのを、なつかしく思い出す。だれも大声を出さすにいたのがなぜか、今になって察せられるようになった。ホタルは、逝ってしまった先人たちが身をかえて、ふとこの世にもどってきたと、人々は考えていたのだろう。深い鎮魂の願いが、あたりには満ちていた。

 その後しばらく、ホタルは物語の中でしかお目にかかれなかったのだが、今から25年くらい前に、山中湖村の現情報館裏手の沢で、源氏ホタルを保護しているグループがあり、案内してもらった。中高生でも女性でもない、ごついおじさんたちが、川をきれいにし、小さな源氏ホタルを一生懸命に保護する姿はほほえましく、陰ながら応援していた。残念ながら、そのグループは、なにかの事情で今はもう活動していないので、その場所でホタルがまだ命をつないでいるかどうかはわからない。

 その後、またしばらくして、今度は草原にいる野生のヒメホタルという小さい種を見ることができた。ヒメホタルは、6月下旬から約1週間くらい、それもほぼ夜中だけにとぶので、場所や時間の選定がなかなかむずかしい。でも、何回か見ることができ、そのグリーンがかった光にしばし息をのんだ。まるで天の川に足をふみいれたような、幻想的な数十分だった。

 今年も多くの方にお問い合わせをいただくが、なぜか、そのヒメホタルのとびかう時期がおくれているという。寒さのせいなのかどうか、理由はよくわからない。6月30日現在、まったく情報はない。7月に入ってからでしょうか? などと、いい加減な推測をする。湿度は高いが、気温が今ひとつ上がらない。

 長い間、人知れず命をつないできたヒメホタルが、今どこでなにをしているのか、われわれ人間には全く想像がつかない。彼らには彼らの営みがある。またこうして広く認知された今、年に一度の再会を楽しみに待っている人間がいるというのも、ヒメホタルにとっては、おそらくどうでもいいことなのかもしれない。

 文明が引き起こす環境汚染や生態系への傷を、人間たちはうすうす承知していながら、それでも先人たちの鎮魂を野生のホタルの姿に願うのを、自分勝手だとは言いきれない。

 おろかで哀しい、その両面をもつ者をなぐさめるのは、自然界や野生の生き物たちだと、こちらは強く一方的に思っているからだ。そして、自分たちもいつか、ホタルになって年に一度だけ、この世にもどってこれたらと思っている。



2014年06月

 店には、見知らぬ方からの、いろいろな電話がかかってくるが、あるとき、若い男性から「自分は、ギターと歌で全国をまわっている者だが、ぜひそちらの店で唄わせてくれませんか」という問い合わせがあった。それも、遠く四国からの通話だという。

 拙店では、年に一度〈楽器もちよりライブ〉という素人の発表の場を設けて楽しんでいるが、あくまでも専門以外の楽器でというのがルールなので、残念ながらプロの方のライブはしていませんと答えた。つまり、もしプロの場合は、ピアニストのフルート、ヴァイオリニストのピアノなら、ご参加いただくのですがと説明をした。

「そうですか」と、電話の主は了解してくれた。

でも、こうやって自ら売り込みの電話をかけてくる若者の意欲を尊重して、「がんばってくださいね」と、おばさん特有の励ましも加えた。「うちの次男も、アルバイトで働きながら、ときどきライブで唄っているのよ」

その後、彼の名前をきいて書きとめ、夜になってネットで検索してみた。

あ・ら・ら、どうしましょう! 彼は、すでに50を過ぎた男性で、ギター一本で全国をまわって唄っている歌手だった。ユーチューブで彼の自作の歌を聴いたが、思い入れのある、かなり重たい内容の歌だった。詩もむずかしい。正直、こちらも重くなりそうで、もう一度聴きたいとは思わない歌だった。一般向きではないが、きっと少なからずファンがいるにちがいない。

それにしても、れっきとした大人を、えらそうに、うっかり励ました自分の浅はかさに苦笑した。

電話には、少なくとも声があるが、メールには声も顔もないので、こういう勘違いは多々起こりやすく、中高年なのか、若者なのか、文脈からはかんたんに見極められない。

だから、メールの交信は、面識のある相手とのみという原則は、正しいのだ、とあらためて思う。いきなり受信したメールに、こころあたりがなければ、あっさりと無視しよう。

そして電話の場合は、相手の年齢やプロフィールを勝手に思い込まずに、幅広く考えたほうがいい。

年頭ではないが、ささやかな初夏のこころがまえとした。


2014年05月

 毎年三月下旬から3週間、店の恒例行事で、「仲間展」という素人の作品展示会を行っている。拙店のイヴェントはすべてプロお断りなので、「仲間展」出品のルールも、専門以外、つまり、画家さんは絵画以外の、また陶芸家は陶芸以外の作品をというのが原則だ。

編み物、縫い物、刺繍、パッチワーク、絵画、写真、フェルト、陶芸、木工で表現されたさまざまな動物、植物、風景、幾何学文様などが並んで実に面白い。上手い下手ではなく、その作り手の個性が、作品から直に伝わってくる。

今年はとくに、70代、80代の方が出品された手芸や陶芸に、光ったものが多かった。ちくちく縫われた布製の動物たち、奇想天外な形の陶器、どれも、出品者たちが無心で作成したもので、その自由な発想と完成度の高さに、見る者たちを思わず笑顔にした。ほとんどが、自己流だというから、おどろく。

彼女たちは、昭和一桁生まれなので、戦時中に思春期を過ごした。趣味や稽古事に費やす時間も暇もなく、おそらく小学校や中学校は疎開先だったかもしれない。食糧事情も衛生状態も悪い中、それぞれに工夫して必死に生きのびてきたはずなのに、気負いがまったくないのは何故なのか? さらに、こんなチャーミングな作品を、生み出せるなんて、どういう心の持ち主なのだろう? と、魅了された。

こういう隠れた才能に出会うたび、そして自身の才能に気づかないまま暮らしてきた高齢者たちに出会うたび、戦後生まれの自分たちは、憧れといとおしさを感じる。彼らの自由な発想は、おそらく生まれもったものだと思うが、もし現代であったらきっと、青春期からその発想と才能を発揮し、特異の分野で仕事を見つけたかもしれない。

平凡に生きていく過程で、その才能を小出しにして楽しむのか、あるいは才能に直結するわが道を見つけて、その仕事を生きがいにしていくのか、当人にとっての生きる意味は、まったく異なると思う。今の世の中では、後者のように人生を選択することが、いわゆる生きることだと、ほとんどの人が思っているから、才能があるのにそれを仕事に生かさないのは、うっかりすると〈もったいない〉などと言われる。仕事一筋に生きてきた女性が、結婚や育児に縁がないのを、もったいないとはいわないのに。

しかし、どちらの人生が幸せかわからない。少なくとも、仲間展に出品された高齢者の笑顔は、なににも替えがたいほど素晴らしかった。ひとつひとつの表情や言葉から、平凡でありながらも、越えてきた人生の辛苦がにじみ出てくるようだった。

自分の人生を自ら選択などできない時代と環境に生きた人々に、思わず拍手を送りたい、これが今年の仲間展終えての、目下の感想だ。


2014年04月

  夫婦ふたりの暮らしが、すでに二十年はつづいていると思うが、世間でよく言われるように、限られた言葉数で、暮らしの用がたりるので、たまによその方と話すとき、適当な言葉が見つからずに苦労する。とくに、形容詞は「すばらしい」「すごいね」「たいしたものだ」ときには、「わあー」だけで足りてしまうから、なかなか独自の感嘆詞が出なくなった。否定語も、「ひどいなあ」「ああ、なんてこった」「ひえー」が一日に、何連発もつづく。こういう状況を、憂いて久しい。

 読書をするとき、音読すれば、自分の耳が味のある表現や新語をキャッチして、おぼえてくれるのだろうが、黙読しているので、それでたぶん身につかない。自分には、そう納得させている。でも、当たっているのは半分。あとの半分は、言葉に対する敬意というか、襟の正し方が、なおざりになっているからにちがいない。

 どうしたら、それを若いときのように、生き生きと保てるのか? 今年の課題は、どうやらそれだ。

 生の会話と読書以外で言葉に接するのは、観劇、映画などだが、それも一方的でないほうがいいかもしれない。50年前に他界した祖父は、歌舞伎の観客席で、役者のせりふや常磐津の三味線の節を、ぶつぶつ語ったり、うなったりしていたそうだが、そうやって単独で言葉を行き来させるのも、いい方法だと思う。周りの観客席には、おそらく大迷惑だっただろうが。

 森に暮らす生き物たちに向かって、声をかけるときも、今までより言葉を選びたいと思うようになった。生き物たちの発する鳴き声だって、状況によっていろいろ変わるように、こちらも時間帯や気温の変化によって、別の言葉が出てきて当然だ。

 彼らだって、毎回、「おおーい、元気かあ?」ばかりでは、返事のしようがないにちがいない。同じ森の住人同士、共通な話題が山ほどありそうに思えてきた。冷たい雨、強風、ヘリコプターの騒々しい音、どこからか香る新芽の匂い、渡り鳥の到来、カラスの襲来など、同じ環境の中で、同時に体験する暮らしを言葉で共感し合える、そう考えたら、言葉が少しふえそうで、わくわくしてきた。少なくとも、歌舞伎座の観客席でぶつぶつ言うよりは、ずっと・・・・・えっ? ずっと、なんだっけ? すぐに出てこない言葉。ああ、これだよな。


2014年03月

 3月2日の昼に、第40回ごはん会を拙店で開催したので、7人前のちらし寿司をつくった。

 我が家では、娘がいなくて息子だけなのを言い訳に、ひな祭りにちらし寿司をつくった記憶はないが、こうして子どもたちが巣立ったあとになって、毎年つくるのが楽しみになった。

前日に、錦糸卵をつくるのだが、Mサイズの卵一個で、二枚の薄焼き卵をつくるはずが、なかなかうまくいかず、最近では一枚と三分の一ぐらいしか焼けない、ついつい、厚焼き卵になってしまうのが、悔しい。

実はこの錦糸卵のつくりかた、主にフライパンの熱し方、回し方がコツなのだが、今から58年も前に、それを伝授された。当時わたしは七歳で、小学校に通っていたはずなのだが、どういうわけか、母の通う中野料理学園に、毎週一緒についていっていた。二歳下の妹は、どこにいたのかわからないが、当時の写真を見ると、ステンレス製の調理台に、母と母の姉、そしてわたしと、母の姉の子、つまり従姉妹のA子さん三歳の四人が、ほかの主婦たちに交じって、いっしょに試食をしている光景がある。A子さんには、ふたりの兄と姉がひとりいるのだが、中野料理学園にはA子さんだけが連れてこられていたようだ。その写真の中のA子さんもわたしも、頭の位置が調理台すれすれで、必死に両手を食器にのばしているのが滑稽だが、きっとごちそうが大きな魅力だったにちがいない。

料理学園で習った料理を、母はかならず家で復習し、なんどもつくった。だから、錦糸卵をつくる鉄製のプライパンを熱々に熱し、とくにへりを熱くしながら、片栗粉を混ぜた溶き卵をうすくうすく広げ、さらに両手でひっくり返し、さっと仕上げる作業を、母といっしょに繰り返した記憶がある。昔はわたしも、けっこううまかったのに、年齢とともに、下手になって、今では、うすく焼けなくなってしまったというわけだ。フライパンのせいにしたりもする。

あれから58年がたち、母は88歳、その姉は93歳でともに健康。かつて、スコッチエッグやポタージュ、おやつのクッキーや焼きリンゴなど、すべて手づくりで通したふたりのおばあさんは、今も食いしん坊で、ほとんど好き嫌いがなく、なんでも美味しそうに口にする。

そして、どういうわけか、A子さんは栃木の那須高原で、わたしはここ山中湖で、同じように喫茶店を開き、同じようにパンを焼いている。A子さんは、さらにケーキまで焼いている。

 かつて、幼くして、中野料理学園で週に一回、手をひかれて通った者同士としては、偶然だけではないものを感じる。

 今年のちらし寿司は、そんな料理学園の高く明るい天井や、ぴかぴかに磨かれた水道蛇口を思い出しながら、じっくり時間をかけてつくった。でも、今年こそ錦糸卵を成功させたいと思ったのに、やはり卵一個で二枚はできなかった。

 子ども時代にできて、大人になってできなくなったもの、他にもいくつかあり、例えば、大好きだった編み物は、貧血になるほど夢中になりすぎて、今では編み棒すらもてなくなった。スキーやスケートも、恐怖感が先に立ち、昔ほどすいすいいかなくなった。茶の湯も、まったく手順を忘れ、お点前などなにもできなくなった。よく、頭では忘れても、体がおぼえているというが、わたしの場合、どちらにも記憶がない。

 それでも、あの薄焼き卵をもう一度焼いてみたいと願うのは、きっと頭には、焼き方の記憶が、まだあるにちがいない。だったら、できるかもしれないとの期待だ。

しかし、それは七歳だったわたしには、まるでなかった思考。あのときは、できるとかできないとかは一切考えず、やったらできたのだ。

ただ無心に焼く。これが、明らかにちがう。年を重ねたことで、無心になれなくなってしまったらしい、それがわかった。

さて、来年はできるか、ほらね、ついついまた、それを考えている自分がいる。

 


2014年02月

 
 

 はじめてフィリピンに行った。そもそも東南アジアは、バンコクのトランジットしか経験していないので、ずっと未踏だった。

 セブ島近くのカオハガン島という、日本人の崎山克彦氏が20数年前に購入、島民を追い出すことなく、今もずっと共に暮らしている東京ドームと同じサイズの小さな島のゲストハウスに、二週間滞在した。

 今まで、中東や北アフリカ、中央アジアを旅して、一般庶民の貧困を見てきたはずだったが、東南アジアのそれは、住まい、生活環境、インフラなど、予想以上に貧しかった。しかし、海の恵みで飢えることがなく、そのくったくのなさは、どこにもひけをとらない。大勢の子どもたちを含めた600人の島民の笑顔は、予想以上にまぶしかった。

 滞在期間中、マリンスポーツが苦手な自分たちは、日中の読書(電灯がないので明るいうちに)、村内散歩、島民交流などで結構充実した時間を過ごし、わたしはほぼ毎日、小学校の授業を参観させてもらった。

小学校6年までの7クラス(生徒数はだいたい10人から20人前後)で、複式学級はなく、朝7時半ころからはじまり、掃除、朝礼、授業、休み時間、授業、昼食(給食はないので、各自家に帰るか、お弁当)、午後の授業を夕方までこなしている。教師たちは、崎山さんをはじめとする日本人たちからの奨学金を受け、他島の大学で教員資格をとって島にもどってきた5名(うち、男性1名)と、他島からカオハガンに嫁いできた1名の計6名で、全員が生徒たちと同じ暮らしをしている。

かつては、小学校二年までしかなかったというから、数戸からなる校舎は新しい。今は電灯がないので、暗い教室で学んでいるが、そのうちこれも改善される計画がある。

しかし、電灯がなくても、使い古しの教科書であっても、エネルギッシュな教師たちの授業には、ほんとうに感動した。一方、生徒たちの学びに対する意欲も、相当なものだった。子どもたちが、授業に必死にくいついていく、そういう空気だった。

科目は、英語、ビサヤ語、理科、算数、社会、聖書、音楽、体育があり、わたしは、ほぼ各学年の理科(天文、土の成分、植物の成長)、算数(ふた桁の引き算、割り算、分数の掛け算、割り算)、社会(フィリピンの政治機構と政治家名、世界の組織機構名称とその理解)、体育(女子のダンス)の授業を毎日二時間は参観した。授業は、英語で行われることが多く、教科書の言語やテストなどの筆記もすべて英語だった。ただ、理科や社会の内容を、教師がビサヤ語で補足解説することもあり、質疑応答も二ヶ国語を交えて行われた。わたしは、ビサヤ語がまったくわからないので、断続的な英語の単語をうまくつないで、推測することしかできなかったが、教師の見せる図鑑の写真やイラストなどに少しは助けられた。

6年生の授業では、各自にノートサイズの簡易折りたたみ式黒板があり、黄色いチョークを使って、答えを書いては高くかかげ、それを消しては書くをくりかえす。また、ノートに解答を書いた場合は、かならず他の子とノートを交換して、採点をしていた。理解にとぼしい生徒には、教師が時間をさいて指導し、そのあいだ、ほかの生徒たちは静かに自習をする。6年生の場合、授業が通しで二時間つづくことも多々あり、だれることなく、最後まで教師も生徒も夢中だった。わたし自身、二時間もそこに座っていることに、正直おどろいた。けっして長くは感じなかったからだ。

授業のとちゅうで、母親がおやつをとどけたり、弟か妹の乳児が机にしがみついていたり、暮らしと授業が直結した光景も、ここでは特別なことではなかった。

夕方になると、ヤシの木陰で、職員会議がよく行われていた。これは多分、ビサヤ語だと思われる。

テストはかなりひんぱんに行われるらしく、それによって落第もあり、11歳なのに3年生ということもあるが、とび級はないときいた。

6年生の理科の授業で、「はたして、星はみんな自分でキラキラ光っているのだろうか?」と教師が質問し、全員がイエスと答えた。首をかしげたのは、教師と参観しているわたしのふたりだけ。「では、明日の授業で、星はなぜキラキラ光っているのかを、みんなで話し合いましょう」と宿題になった。

翌朝、そのクラスに足を運ぶと、黒板に太陽と月、星が図解されていた。生徒たちはだれも光る理由を説明できないので、教師が英語で書かれた大きな図鑑を開き、星には自ら光を放つ恒星と、惑星、星雲のように太陽光を反射しているものがあると説明した。(たぶん、そういう説明だったにちがいない)。生徒たちは全員、その図鑑の美しい星雲に目をみはっていた。ギャラクシイ・・・音からして、さんざめく光が脳裏にうかぶ。

教師が、「もし太陽が夜中も空にいたら、どうなるでしょう?」と英語できいた。男子生徒のひとりが、ビサヤ語でなにかを答え、全員が爆笑した。教師がわたしのために、英訳してくれた。「もし太陽が夜中にもあったら、空の真ん中で、懐中電灯が光っているみたいになるよ」。彼の頭の中で、太陽と懐中電灯の灯りが、同じ認識なのが、ほほえましかった。

そのとき、電灯のないうす暗い教室で、星よりもキラキラしていたのは、生徒たちの目、わたしはそう思った。

 


2014年01月

 
 思いこみ、カン違い、妄想、どれも過度な願望、あるいは逆の恐怖が元にあって発生する想念。つまり、だれのせいでもなく湧いてくるので、自分が勝手に思うだけなのだが、これが実によくできている。赤いものが青く見えたり、静止しているものが動いて見えたり、うまい具合につじつままで合って、はては、邪悪が正義に見えたりするのだろう。

 ムササビの帰巣を、数ヶ月間今か今かと期待した挙句に、ふと木のウロに茶色の影などがちらつくと、ほんとうに動いて見えてしまうのだ。そういうときは、かならず別の目で確認してもらわないと、カン違いがもっとふくれあがって、オオカミ少女ならぬ、ムササビおばさん、とんでもないことになる。

ところが、そのカン違いが、カン違いだったとき、つまり実さいにムササビが帰巣したのを、数人の目で確認したときの至福は、なににも替えがたい。喜びが、カン違いの数倍にもふくれあがって、うっかり夕食づくりを忘れるほどになる。

 たまたま出会った若い警察官と、そんなムササビ談義をしたら、彼らも事件の目撃証言など、うのみにしてはいけないと、いつも上司に言われているという。「たしかに見えた」「たしかにあの人です」のたしかは、当てにならない。たしかだと名指しされた容疑者が、もしかしたら一番の被害者になるかもしれない。

 人間の思いは、おっかない!

 年末に、和菓子の詰め合わせをいただいた。栗まんじゅうの包みを開け、渋いお茶ともぐもぐしていたら、箱の中に、モナカ、餡玉にまじって、黄色のひよこのお菓子が見えた。それを翌日のお茶に楽しもうと、丸一日間、頭を白餡にしていた。

 さて翌日、箱を開けて、おもむろにひよこのお菓子を手にとり、小皿に移し、うすい包みを開けてみた。なんと、まんじゅうの上にツルの焼印があるではないか!? えっ? ひよこは? まさか、このツルはなに? もう一度包みを広げて、そのお菓子の名前を見た。〈ひよっこり〉とある。そして、たしかにツルの顔のイラストもある。ひよこなど、文字も絵も、どこにもない。わたしが勝手に、そのまぎらわしい菓子名を、ひよこだと思いこんだのだ。品名もツルの顔も、自動的に削除して、目にはいらなかったというか、目に入れなかったことになる。たかが、食いしん坊のカン違いですんだが、これが、事件にからんでいたら、責任重大だった。

 目に入るものを、自分の都合のいいように選択して解釈するメカニズムが、よくわかった。そして、そういうカン違いは、体調が悪いとき、気ぜわしくて落ち着かないとき、いやなことがつづいて、こころが折れそうなときに多々起こりやすいこともわかった。さらに、毎日が能天気で、うれしいことがつづき過ぎたときも、やっぱり起こりやすいこともわかった。

 ある意味では、大切な警鐘にもなりうるカン違いに、感知器をつける。これが、わたしの年頭の大きな仕事になったが、はたして稼働するかは、まだ確認していない。


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