☆ 樋口範子のモノローグ(2023年版) ☆ |
更新日: 20239月1日
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範子の著作紹介
<2022年版> |
2023年9月 |
ネベシャロームという村
イスラエル国内のユダヤ人とアラブ人が共に生きるネベシャロームという村は、今から54年前の1969年、故ブルーノ・フッサールというドミニコ会神父によって発案、設立された。キブツやモシャブとは異なり、住民はそれぞれ村外に仕事場をもち、子どもたちだけが村内の学校で共に学ぶ。イザヤ書第32章18節「安らかな憩いの場」=ネベシャロームからの引用命名で、エルサレムとテルアビブの中間に位置するものの、当時は全くの荒れ地で、長い間水道も電気もなく、定住者も数えるほどだった。ユダヤ人のための集落ではないため、国からは何の建設援助も協力もなかった。土地は、地元のトラピスト修道院から100年間の借地権を取得、世界中の超宗派に支援を訴え、その後ロビー活動もあって2021年現在356人(約80世帯)のユダヤ人(ユダヤ教徒、世俗派)とアラブ人(イスラム教徒、キリスト教徒、世俗派)の半々が暮らすまでになった。日本の庭野平和財団(立正佼成会)からの支援も記録されている。
ブルーノ神父(1911~1996)は、エジプトの世俗派ユダヤ人家庭に生まれ、その後フランスに移住してカトリックに入信、ドミニコ会神父としてイスラエルに渡り、そこで人種差別と双方の憎しみに遭遇した。ユダヤ人の学校では、アラブ人のナクバ(1948年の追放)を教えずにイスラエル独立記念日だけを祝い、一方アラブ人の学校ではユダヤ人のホロコーストには触れず、つまり双方の言語と文化に加えて互いの痛みも教えない。そのために対話がなく、恐怖と憎しみだけが増幅して紛争がつづく状態(現在も尚)に愕然とした。
ネベシャロームでは、決して、「民族を越えて、みんなで仲良くなろうね」という同化促進がモットーではなく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、あるいは無信仰者のそれぞれの日課なり制約を互いに尊重し合い、できるだけ対話をもって、時にはケンカし合い、それでも折り合う接点を見つけていこうとする、実に困難で、理想とはほど遠い現実社会である。
わたしはたまたま、2013年に『In Spite of It All』(未邦訳 「山あり谷ありだが」)という本を、原作者であるアミア・リベリッヒ氏(拙訳『キブツその素顔』の原作者)から恵贈されていた。ネベシャロームに暮らす35人の老若男女によるインタビュー記録で、赤裸々な心情が語られ、とくにアラブ人と同じ教室で学んだユダヤ人の青年が徴兵で軍服を着る決意や、あるいは徴兵を拒否したユダヤ人青年が、その後市街地でのアラブ人テロで亡くなるという事件を経験した双方の憤りが書かれている。
村には、ドーム式の祈りの場が設けられ、各信仰者がそれぞれその同じ場所で静かに祈り、あるいは瞑想するという。
さらに2021年12月5日付けの山梨日々新聞には、共同通信社エルサレム局長である平野雄吾氏の記事に「わが子には、ユダヤ人を憎みながら生きてほしくなかった」という4人の子の母親でアラブ人教師リーム先生(60歳)の写真と発言が載っている。イスラエルに対して武装闘争を挑むイスラム組織ハマスの創設者が暗殺された時は、「死んでくれてうれしい」というユダヤ人男児と、「彼は、ぼくらの指導者だ」と切り返すアラブ人男児が、朝から取っ組み合いのケンカをはじめたという。リーム先生は、「爆弾が怖くない人はいない。人間と人間が殺し合っている。そんな現実の中で、わたしたちは何をすべきかしら?」と問いかけた。当然、正解は見つからないが、粘り強く対話を促すという。
こういう苦難の実践が活字になったり映像化されたりすると必ず、いわゆる活動家を笠に着る人たちは「占領という根本問題が解決しない限りは、焼け石に水だ」と投げやりに言い放つ。そのとおり、占領を止めない限り、紛争はつづく。しかし、生身の人間同士が、少しでも相手の言語や思考、暮らし方や感じ方を知らない状況下で、はたして占領が止められるだろうか? あるいは天災などで占領どころではなくなった場合、憎み合う隣人同士はどうやってともに生き延びられるのだろう? わたしは、あえてこういう難しい試みに、家族とともに移り住む人々の勇気ある決断に敬意を表したい。
お時間のある方、どうぞ検索なさってみてください。写真もあります。
https://en.wikipedia.org/wiki/Neve_Shalom
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2023年8月 |
〈ありのまま〉って、何? ラジオの若者向け番組でも、一般の人生相談でも、不安を訴える相談者に対して「ありのままの自分を認めて」とか「自己を肯定して」とか「そのままでいいんだよ」とか、まるで気休めのような呪文が行き交って久しい。挙句に、亡き落語の某師匠は「業の肯定」とまで言い放った。 それを耳にするたび、いったい自己の何を肯定するのか? と問い返したい思いが募る。例えば、世界のとんでもない首脳たちや、果てはかつてのファシストが自身の決意や業を肯定したとしたら、と想像しただけでぞっとする。 言いたいことはわかる。たぶん、そんなに悩まなくていいよ、自信を持っていいよ、という励ましなのだろうが、それにしても〈肯定〉という二文字は無理を伴う。〈ありのまま〉って、そんなに素敵なこと? つい嘘をついたり、保身のためにだれかを必要以上に攻撃したり、ずるく立ち回ったりした自らの汚点は、上辺の後悔ではなく、きちんと反省しなくてはならないと思う。何もかもに自信がもてたら、それ自体が大きな嘘になるから。できれば触れたくない過去の若気の至り、苦い体験をふりかえることによって、他人の間違いにも寛容になり、結果として赦し合えるかもしれない。 じっさい、本来の〈ありのまま〉って、何? と考える。思い至るのは、約38億年前に誕生したという地球生命そのものが、こうして自分の細胞にも脈々と引き継がれていることに気づくことであろう。その気づきは、そう簡単に喜びには転じない。言葉や説明を介さずにいきなり直撃してくるから、しばしのとまどいにも絡まれる。いったい何だろう、人生とは別の、モノ言わぬ水や草木、鳥や動物たちと同じ起源をもち、いずれ死という境を越えて再び膨大な時間に還っていく生命(いのち)とは? わけのわからない、このキラキラした一体感を、そっとありのままに受け取ってみる。 少なくともわずか数十年間の人生にモザイクをかけて得られる肯定感に比べたら、格段に異なる安心感にちがいない。 |
2023年7月 |
かくも遠きシベリア 愛読書のひとつである岩波書店の月刊「図書」2022年10月号で、エッセイ「祖父のフハイカ」田中友子著を読み、以来ずっと心に残った。ロシア児童文学の研究者であり翻訳家の田中友子さんの祖父は筆名高杉一郎、本名小川五郎(1908―2008)、37歳にして兵隊として大陸に渡り、極寒のシベリアをフハイカという長い綿入れの上着を着て壮絶な抑留生活5年間を生き延びた。帰国後、シベリア俘虜記『極光のかげに』を出版したが、その内容から政治的つるし上げを受けるなど、偏見と誤解に翻弄される。ところが40年後の1991年、その本は原形のままで岩波文庫のリストに上がり、こうしてわたしの手元にまで届いた。 数あるシベリア俘虜記の中で、この『極光のかげに』に特出しているのは、たとえ片言であったとしてもロシア語、ドイツ語を介して現地のロシア兵や将校たちと交流し、彼らの生身の言動や実態が日本人の視点から書かれていることである。俘虜でありながらも、収容所外にも足を延ばして民間の家にも招かれる日本人。しかし、個人的な言葉を交わしつつも、旧ソ連の理不尽な命令によってシベリアへの移動、重労働を強いられる間柄、はたして人間同士の信頼とは何なのか? 虚しい問いかけは、今現在のウクライナとロシア間の戦い、そして報道されつつあるモスクワでの内乱に至って、今もなおつづく。15年前に他界した高杉一郎氏には、まさかと思えるほどの相も変らぬ人間の愚かさにちがいない。 もうひとり、高杉一郎氏よりずっと年下で、15歳で親族一同の反対を押し切って満蒙開拓団青少年義勇隊に入隊した菊地敏雄氏(1926年―)は、開戦後に隊外勤務からシベリアに抑留され、終戦後は旧ソ連ウズベキスタン共和国(現ウズベキスタン)のタシケントの電線工場、絹巻細線製造工場に配属となった。シベリアに比べて温暖であったことと、現地の人々との思わぬ暖かい交流が、多くの旧日本兵を安堵させたという。 わたしたちは、ウズベキスタンへの旅でタシケントの日本人墓地に参り、帰国後に世田谷区の国際交流会で当時92歳の菊地さんにお目にかかった。「日本に帰れなかった仲間が可哀そうでね」と語る菊地さんは、当時の写真や地図を常に携帯し、戦後60年を機にウズベキスタン墓参団にも参加し、さらにウズベキスタン各地で日本との友好関係を築いている。 シベリアでは、約57万人の日本兵が抑留され、そのうち4万6000人が命を落とし、生き長らえたうちの約2万8000人がシベリア経由でウズベキスタンに移送され、そのうち870人がケガや病気で命を落としたという。わたしたちが墓参したタシケントの日本人墓地(87基)の墓石には「19歳―個人氏名 福島県」、「20歳―個人氏名 長野県」というような若い兵士たちの墓標が目に痛かった。一基ずつに線香を焚き、その3年後には、コーカンドの日本人墓地(250基)にも参ったが、どの墓地も両国政府の手で整備され、慰霊碑も建立されて、常に赤いカーネーションが手向けられている。旧日本人の建立によるタシケントのナボイ劇場付近に記されたかつての俘虜兵舎跡は、今はもう黒土の空き地になっていたが、決して無言ではなかった。 1948年、大陸から7年ぶりに帰国した無一文の菊地さんは、まずは北海道で働き、その後東京八王子市に検査機器会社を起こして、全国に支社を持つまでになった。あくまでも実直で謙遜な菊地敏雄さん。ウズベキスタンを隔年に3度訪ね歩くわたしたちは、菊地さんから逆にねぎらわれ、氏の心の広さに返す言葉がなかった。 今から55年前、イスラエルへの往路で、わたしはナホトカからハバロフスクまでシベリア鉄道に乗った。高杉一郎氏や菊地敏夫氏、当村からも出征した多くの兵士たちが夢にまで見たダモイ(帰国)からわずか20年後だというのに、わたしにはシベリアそのものが全くわかっていなかった。線路脇に点在する農家や民家の灯りは、18歳だった自分にはまるでメリーポピンズかピーターパンを思わせる夜景。途中駅で乗り込んできた旧ソ連の検閲で、バッグに入れていた友人からの手紙をすべて没収されたにもかかわらず、その鉄道によって運ばれた多くの幸と不幸に触れる内面を、もち合わせていなかった。 この5年間に菊地さんから手渡された80年前の鉄道地図とタシケントでの写真、拝受したお手紙はすべてわたし個人アルバムのとなりに保管してある。それでもまだ、シベリアはこんなにも遠く、96歳になられたであろう菊地敏雄さん、2023年の年賀状はわたしの手元に届いてはいない。 |
2023年6月 |
なくし物さがし なぜか、夫樋口重喜の山中湖村村議会議員選挙とその妻樋口範子の翻訳刊行の4年周期が一致する偶然に、最近気づいた。この20年間、夫の当選した各年には拙訳も刊行され、夫が落選して浪人していた間は自分もずっとトンネルの中にいたという事実。
そして夫が5期目の立候補を決めた今年の4月、わたしも長年各社に持ち込みをつづけてきたナヴァ・セメルの短編集『ガラスの帽子』の刊行が決まっていた。いったいだれが決めるのか?
そもそも、当山中湖村にとってよそ者である自分たちの選挙は、村民数名のありがたい手弁当支援が軸で、ある日突然選挙事務所に変貌する自宅には垂れ幕も為書きもなく、いつも通りの静かな空間。しかし、自分たちの内面は慣れない選挙戦にてんやわんやで、夫婦二人の暮らしから支援者を含めた複数の、それもほとんどが高齢者の日程調整、体調管理に気をとられていたのだろう。
告示前のある晩、よりによってわたしは自宅の玄関鍵をなくしてしまった。普段、半日程度の外出時には玄関の鍵はかけない習慣だったが、たまたま選挙を控えて暮らしを引き締めようと、珍しく旋錠したのがあだになった。外出からの帰宅後、更けゆく夜の闇のなかで、車やバッグの中、玄関近くの草むらを探しても探しても鍵は見つからない。しかし、常に開いている戸や窓から家に入ること自体に問題はなかった。夫は「玄関の鍵は、新しくつけ換えればいいだけだから、もう安心して寝たほうがいい」と言ってくれた。自分の不注意が悔やまれたその晩、夢の中で鮮明な画像が現れた。それは、車で出かけた直後、下り坂の角で出くわした宅配便トラックに、夫が急ブレーキを踏んだ時、運転席と助手席の間のカップホルダーに置いてあった鍵が、急ブレーキとともに慣性の法則でふっとび、ブレーキ・ペダル近くに転がった瞬間画像だった。
起床後すぐに車に直行したわたしが、運転席の下に頭をもぐらせたのは言うまでもない。そして数秒後「夢のお告げだ!!」と叫んだ。
夫に事の次第を説明した後、わたしはふと数日前に仏壇をきれいに掃除したのを思い出した。双方の家族の位牌が数個収めてあるだけの仏壇は、無信仰でずぼらなわたしのせいで、普段は埃をかぶっている。〈夢のお告げ〉は〈先祖のおかげ〉でもあった。
選挙告示日になり、その話を支援者と話している最中、今度は夫が大事な代車の鍵をなくした。スペアもついていたというから、もう万事休す、ほぼ5人でカーペットをめくったり、ごみ箱までひっくり返したりして半日探したが見つからない。「奥さん、もう一度仏壇をきれいにした方がいいですね」などと冗談交じりに言われたが、もう笑っている場合ではなかった。気休めにそっと仏壇を拭いたりして、一晩を越した。特別な夢は見なかった。しかし、翌朝ふと足任せにその代車に近寄ったわたしは、前輪タイヤ近くの枯葉の間に黄色のストラップのついた鍵を発見して、「先祖のおかげだ!」と叫んだ。しばらくして集合した支持者たちはだれもが笑顔になり、中には「ちゃんと見つかったんでしょう?」と当たり前のような口調で玄関を入ってくる人もいた。わたしは、にわかに仏壇教教主になった気さえした。
その後、選挙運動中の5日間に買ってきたばかりの野菜が消えたり、手帳が行方不明になったりしたが、なぜか一晩越せばふっと現れて無事に投票日を迎えた。
今は2023年5月下旬、少なくとも非日常のてんやわんやは越えた。ご褒美のような仲間内の音楽会も夢心地で終わった。しかし、なくし物さがしは絶えることなく相も変わらずつづき、見つかることもあるし、なくしたこと自体が忘れられることもある。夫は5期目になる6月8日の初議会を、わたしは6月中旬の拙訳刊行を前に深呼吸している。仏壇はともかく、こうした日々を先祖とともにあることを、日々感じるようになった。
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2023年5月 |
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2023年4月 |
To
put yourself in someone’s shoes 文字通りに訳せば「他者の靴を履く」ということだが、意訳は「他者の気もちになる」、つまりempathy エンパシィを得る、共感し合うという言い回しにもなる。足のサイズが ところが、他者の気もちにはなれなくても、気もちのほんの一部になることはできる。他者の靴を履いて長距離を歩くことはできないが、一歩二歩なら歩けるかもしれない。 最近、日本のスーパー・マーケットの乳製品売り場や豆腐売り場に、「すぐに使う人は手前からどうぞ」という貼り紙を見ることが多くなった。どういうことかというと、食品の陳列棚には賞味期限の近いものが前列、賞味期限にいくらか余裕のあるものが後列に並んでいるので、すぐに使う人は手前からどうぞ、買い置きがあっていくらか先に使う予定の人は後列からどうぞという当たり前の提案である。 日本ではなぜか、当然の権利を争奪するかのように、かならず後列から引っ張り出す消費者が多いのに驚いたことがある。生鮮食品をだれもが後列から引っ張り出したら、前列の食品はそのまま残っていくのは当然のことだ。 海外のある国では、消費者それぞれの暮らしの選択が尊重され、すぐに使う食品ならばだれでも前列から普通に買い物かごに入れていく。個人主義と言われながらも、じっさいは周囲の人々と暮らし合う、分け合う気もちが身についている場面をいくつも垣間見た。汽車や乗り合いバスでも、年長者や観光客が乗り込むと、たとえノート片手の学生でも当たり前にすっと席を立って笑顔で席をゆずる。 日本のスーパー・マーケットでの貼り紙が、はたして効果をあげるかどうか? エンパシィが育っていくかどうか? 日本は人情のある国とか何とか言われるが、白人以外の人たちに対する非人道的な扱いは、昨今特に目を覆うばかりだ。日本人はいつから自分の靴がそれほど立派だと思うようになったのか? 下心満杯の春風のような世辞は、恥ずかしさを超えて、おそろしい。今からでも遅くないから、他者の靴を履いて一歩二歩だけでも歩き、生き合う実感を当たり前のように培える地域、そういう国になって欲しいと切に願う。 |
2023年3月 |
ある恩師 中高時代の古典という教科の授業ほど、苦痛だったことはない。わたしは、ほとんど机の下で編み物をしたり、あるいは教科書以外の読書をしていた。教師にも古典の著者にも、申し訳ないほど不徳な生徒だった。
ところがなぜか、古典の三浦先生のひとつの授業だけには記憶がある。平安時代の某作品の逸話をとりあげて、わたしたち生徒に質問され、それがあまりにも自分たちにはかけ離れている設定だった。
その質問とは、平安時代の自由な恋愛を背景にしたある男女のもつれだった。朝、明らかによその女のところから戻ってきた愛する男を、自分の部屋に迎え入れるか? それとも締め出すか? あなたたちだったらどうしますか? という奇想天外な質問だった。50代前半の、まったくしゃれっ気のない研究者肌の三浦先生は、古典解釈の大事な一環だと言わんばかりに、いつもと同じ笑顔でその質問を投げて答えを待った。質問を受けた10代半ばのわたしたち女生徒は、だれもがただぽかーんとしていたように思う。わたしは、その場違いな空気だけを今でも覚えているが、はたしてその授業がどのように終わったのかは、もう覚えていない。ただ、すっかり大人になれば答えられるものを、なぜこの思春期に質問されるのか? 面白い先生だという印象しかなかった。
はて、大人になった今は、どう答えたものか? というより、その教師がなぜそうした問いを投げかけたのか、今となっては逆に関心がある。
ところが一昨年、たまたま母校の戦時中の伝記が活字になったのを知り、取り寄せて読み始めたところ、なんとその三浦先生の実名入りの逸話が書かれていた。戦時中、私学でミッションスクール、チャペルさえあったにもかかわらず、宮城遥拝という国家強制のあったその学校で、ただひとり強制を拒んで退職に追い込まれた三浦先生が、戦後に元の教壇に復帰されたと書いてあり、その気骨な行動にしばし呆然となった。いつも教材を胸に抱え、背筋をのばして歩かれる小柄な三浦先生に、そうした一徹な激しさは感じなかった。当時者たちはすでに全員が他界している今、世の中に同調せずに職場を去り、数年後に復帰された三浦先生にも、再び迎え入れた学校側にも、限りない畏敬の念を抱くのは、わたしひとりではないはずだ。
戦後19年目に入学したわたしたちは、学校がくぐり抜けた戦中を何も知らず、また何も知らされず、増してや察することもせず、ただぐたぐたと授業に退屈していた。
あんなに遠かった方たちが、今はこんなに近くにいてくれる。教育とは、なんと気の長い種まきであろう。55年目にして身に染みる師の大きさは、あまりに子どもだった自分の小さきを照らしてやまない。
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2023年2月 |
4年前の秋、イスラエルの旧友ローニーが二週間の予定で来日し、我が家にも寄ってくれた。ともに18歳で知り合ったから、かれこれ半世紀以上の付き合いになる。 我が家のベランダで、彼女は手のひらに載せたヒマワリの種をヤマガラがついばみにくるのをスマホで撮影しては、自国の息子家族や友人たちに同時中継する。「ほらね、今はノリコの家のベランダで、こうして野鳥を寄せて最高の気分よ」、すると7時間の時差がある現地から続々と返信があるらしく、わたしにもお声がかかる。「あなたもみんなに何かメッセージがあるでしょう?」 その後も、湖で白鳥が近づいてきたとか、鯉にエサをやったとか、何かある毎にメールを打っては滞日体験を伝えつづけた、それが彼女の旅だったように思える。たしかに、思いがけない多次元中継のだいご味はあった。でも、今ここに居るローニーの頭の中も多次元で、一局集中ではないのが、わたしにはとても奇異に感じられた。ローニーはここに居るように見えたが、ここには居なかった。 携帯機器が流行し始めのころ、例えば数人で輪になって話し合いの最中、それぞれにかかってくる電話の呼び出し音に、一人二人と立って室外に出ていき、もどってはまだ出ていき、 電車やバスの中ではひとりの世界なので、スマホや読書に気をとられて本人がそこに居ないのは受け入れられる。大の読書好きの親戚の小学生が、読書中に母親から声をかけられた時、「待って、今はこっちにいるから」と名言をはいたのを聞き、たしかに本の世界に没頭する者が、そっちやあっちの世界にもどるにはしばしの時間がかかる、そう思う。 皮肉なことに、〈共有する〉〈共感する〉が、日常において簡単に時空を超えても成り立つ時代になった。今という瞬間の大きさが、個人の中でどんどん小さくなる。では、いったい何が今で? 何が現実で? どれが生身なのか? その手触りや気配を感知する身体が、日ごとに取り残されていくのを感じる。 |
2023年1月 |
たしか6年前の12月だったか、富士山駅から岐阜県の高山駅への直行バスが新設開通したというニュースを耳にしたわたしたちは、二泊三日で出かけることにした。富士山麓から飛騨高山への5時間の直行バスという、実に画期的な路線に反して、乗客はドイツ人バックパッカー2人とわたしたちの計4人だけだった。 朝9時に出発して、松本駅での乗り換えもなく、休憩一回で実にスムーズに午後2時に高山駅に着き、格安のゲストハウスにバックパックを置いたわたしたちは、街中にくり出した。それまで、長野県の上高地や乗鞍までは仲間と来ていたが、岐阜県への県境を越えたのは初めてだった。高山の街を歩く観光客の半分以上は外国人で、街の飲食店や土産物店、酒蔵などは大賑わいで活気があった。当然ヘブライ語も耳に入ってきて、彼らの旅気分にこちらの旅までもが楽しくなった。ゲストハウスの掲示板に、白川郷への一日バスツアー案内があったので、すぐに翌日参加を申し込んだ。 翌朝、決められた時間に駅前の集合場所に行くと、欧米人、中国人、日本人の観光客がほぼ同数いて、観光バスに乗り込んだ乗客は、若い女性ガイドに笑顔で迎えられた。香港出身のベンネルさんは、英語、中国語、日本語のトライリンガル・ガイドで、車窓からの光景や地元の文化などを毎回3か国語で順番に説明してくれた。ほぼ同じ個所で笑い声が上がるあたり、絶妙な訳なのだと頬がゆるんだ。 合掌造り集落を上から一望できるビューポイントで、ベンネルさんが誇らしげに家々の景観を解説するのを、だれもが聞き逃しまいと耳をそばだて、にわかに知り合った乗客同士で写真を撮り合ったりもした。自分が日本人でありながら、この日本の古い街並みを外国人にガイドしてもらっていることは、実はとても奇異な状況かもしれないのだが、全く違和感なくすっと溶け込めた。国籍とか、言語とか文化に、〈自分の〉という所有意識がないのは、これこそグローバルというのか、とても自由で乙な旅気分だった。 江戸末期から明治、大正を経て国の指定重要文化財になった和田家や、250年間もつづく5階建ての長瀬家、黒色火薬の原料である焔硝づくりを密かに代々の生業としていた合掌造りの家々を回った。富士山麓とは景観も文化も異なる狭い一角は、テーマパーク化した集落と言えるかもしれないし、ふすま一枚で観光客と同居する生活者の息苦しさを気の毒だと思ったりもした。モロッコのアトラス山脈の中ほどにあるアイト・ベン・ハドゥという、映画「アラビアのロレンス」のロケ地であり、世界中の観光客が家の中まで足を踏み入れる集落に似た印象があった。 白川郷を後にしたベンネルさんは、「どの家の造りがよかったですか?」などと乗客に質問したり、「この地域では漬物ステーキという一品をぜひともご笑味ください」とおすすめの飲食店情報までガイドして、乗客とのさりげない交流も忘れなかった。 バスツアー後の夕暮れの街角で、ばったりベンネルさんに再会した。「漬物ステーキを体験しましたよ」と声をかけると、「ああ、それはよかった。いい思い出になりましたね」と返答された。白菜漬けをソテーしただけの漬物ステーキは、インバウンド客を迎える高山ならではの味だった。あの日以来、わたしの頭にあった飛騨高山から〈日本〉という枕詞が外れた気がする。 自分の日常から非日常の旅に出て、そこで他の文化に暮らす人々の思わぬ日常に出会うのが、旅のだいご味だといつも思う。 ところが、飛騨高山への旅は、自分の日常からそのままベンネルさんと観光集落の非日常に直行して、地元で暮らす人々の日常を全く垣間見ることのない、稀な旅だった。しかし、帰宅してみると、自分の日常だと思い込んでいた文化や言語が、そのまま何の境を越えることなく、当たり前のように広く水平に移行認識できたことに、我ながら驚きもした。 帰りの直行バスでは、スカーフをかぶったインドネシアの可愛らしい女学生2人とわたしたちの計4人だけで、結局その路線は半年後に廃線になってしまった。「ほんとうに直行5時間で飛騨高山に行けたの?」今では、だれもが半信半疑の顔できく。ほんとうだった・・・かな、最近は自分でも怪しくなった。 |