☆ 樋口範子のモノローグ(2024年版) ☆ |
更新日: 2024年11月1日
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範子の著作紹介
<2023年版> |
2024年11月 |
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2024年10月 |
「なぜ?」と問いつづけて一年 2023年10月7日以降、つまりイスラエルがガザへの反撃をはじめてから一年が過ぎようとしている。この間、「なぜ?」「なぜ、ホロコーストの迫害を受けたユダヤ人自らが、あのような民間人に向けた空爆や地上侵攻に手を染められるのか?」が、周囲から、そして自身からも繰り返し問われている。 こうした「なぜ?」について、ヘブライ語翻訳作業を通して、かの地とそこに暮らす人々と56年以上の関りをもつ、今現在のわたしの見解を記したいと思う。 戦中、戦後にホロコーストから生還した人々は、イスラエルという新生国家から「ナチスに抵抗できなかった弱い羊」と蔑まれて口を閉じ、次世代を含めたその家族の負う深い傷になすすべもなく、しばらくは隠れるように暮らしていたのは事実である。 ところが、ホロコーストが国際政治に利用されはじめた時点(たぶん1969年以降)から、外交現場では必ずと言っていいほどホロコーストが前面に語られ、悲劇や美談が膨らみ、じっさいに収容所体験をした世代が口を閉じたまま他界してからは、なおさら被害者意識だけが肥大化していった。1969年に首相になったゴルダ・メイアの有名な「わたしは同情されながら死ぬよりも、世界を敵に回してでも生き延びる 」をはじめ、多くの外交官が異口同音に、迫害を盾にした自衛権発言をし、国家はますます右傾化した。 イスラエル文学界では、エルサレムの抱える矛盾を正直に詠ったイェフダ・アミハイやニュートラルな立ち位置で占領地を見ようとするアモス・オズ、デイビッド・グロスマンなどの作品が広く良識派に読まれはしたが、移民を含めた次世代のもつ被害者意識は、メディアのプロパガンダによって他者への痛みを理解するまでには至らず、つまり同胞のホロコースト当事者たちの真の痛みに正面から向き合えなかったということであろう。 アミラ・ハスやイラナ・ハメルマンのように、両親がホロコーストの生還者であり、なおかつ自らがガザや西岸地区を走り回る記者、作家たちは今、同胞の警察官たちに活動を制限され、ある活動家たちは収監されて、言論と身体の自由を奪われている。 10月7日以降、いわゆるリベラル左派と言われた市民の一部は、パレスチナ人たちに裏切られたと口々に言い、占領地で入植者たちの蛮行に立ち向かう活動家たちを非国民扱いし、背を向けた。「裏切られた」というのは、まさに飼い犬に手を噛まれたお偉い飼い主の心境だとわたしは思う。占領の実態を見ずに、あれだけ同情してやったのに、あれだけ施してやったのに、という上から目線の、一種の表層的穏健左派だったこと、もともとパレスチナ人たちと対等な人間関係を築こうとはしていなかったことが露呈した。 さらに、ユダヤ人同士、閣僚内での分断、イスラエル警察の同胞への拷問、隣人への疑心暗鬼と不信感、アラブ村(イスラエル市民権をもつアラブ人)内での暴力事件の多発、ヒズボラによるドローン攻撃で北部ガリラヤ住民の南部への移動など、イスラエル国内では数えきれないほどの混乱が生じている。旧約聖書に描かれた血の戦いに、欧米大国の支持、近代兵器が加担した惨状をどう説明していいのか? 以前のモノローグ(2023年11月)にて掲載したWomen Wage Peace のサイトを再びここで付記したい。決して多くの支持を受けている活動ではなく、日々誹謗中傷を含んだ反論に耐える、このユダヤ人、パレスチナ人双方の女性たちの勇気に励まされる。 |
2024年9月 |
昆虫少年少女たちの夏 わたし自身の子ども時代(昭和30年代)、昆虫には特別の関心はなかった。それでも当時住んでいた新宿区戸山団地付近には、多くのシジミチョウやモンシロチョウが飛び交い、指についた鱗粉を気にもせず虫あみ片手に走った記憶がある。 あれから50年、喫茶店をしていたころ、家族でいらしたお客さんの中に、虫かごにいっぱいのカマドウマ(バッタの一種)を自慢げに見せてくれた8歳くらいの男の子がいた。当然、家のじめじめした冷暗所に発生し、駆除の対象になっている虫を前に、ママは顔をしかめている。なのに男の子はもう大喜びで目を輝かせていた。あの子、どうしただろう? 2年前の山中湖村夏のイヴェント「フラワーフェスティバル」で、わたしたち夫婦は「ワカサギおみくじや」を企画した。たまたま帰省していた長男家族と計5人で、ブルーのポリバケツを池に見立て、手造りの紙ワカサギをその中にリリースし、一回200円で本物の釣り竿で釣ってもらい、ワカサギのお腹にある番号に連動する正真正銘のおみくじを引いてもらうブースを張った。 「開運おみくじ」ののぼり旗と二つの池の前を通る観光客の反応は様々で、〈最初から無視〉、〈子どもにせがまれてしぶしぶ財布を開ける〉、〈気になりながら通り過ぎて、帰路に立ち寄る〉、〈最初から興味津々で大真面目で釣る〉など、まさに百人百様の生(なま)の人間模様に接し、こちらも予想以上に忙しく、大いに盛り上がった。結果、夕方までの数時間で87組のお客さんが生きのいいワカサギを釣り、おみくじを引いた。 その87組の中に地元の小学校3年生くらいの男の子3人のグループが、たまたま昆虫採集の途中なのか、いかにも小銭しか入っていないような子ども財布から200円ずつ出して、わいわいとワカサギを釣った。おみくじそのものの文言に慣れていない彼ら、うちの長男の嫁さんに「これはチュウキチって読むのよ」などと教わって、にぎやかな時間を持ち込んでくれた。午後になり、再び現れた彼らは肩にかけた虫かごから、バッタ、クワガタ数匹を出して見せた。どおってことないバッタを、嬉し気にわざわざ見せに寄ってくれたのだ。学校の話をしたり、彼らの名前を教えてくれたりして、思いがけない交流があった。時代を越えたごく普通の子どもたちが、当たり前のように目の前にいる、それは自分たち高齢者にとって、非日常のありがたい和みでもあった。 翌日は家の事情で休業し、2日後に再びおみくじやを張ったわたしたちに、隣のブースの方が、「昨日もあの男の子たちが、おたくのブースに来て、閉まっていたのでがっかりしてましたよ」と教えてくれた。わたしたちは、何か裏切ってしまったような気もちになり、がっかりしたのは言うまでもない。きっと、採集した昆虫を見せに寄ってくれたのかもしれなかった。 今夏、湖畔にある修道院の庭で、かつてお世話になったシスターと待ち合わせをする中、修道院の運営する夏休みの学童プログラムに遭遇した。ドッジボールで歓声を上げる当村の小学生たちと必死にカウントをとる担当シスターたち。たとえ狭くても、開放された庭で遊ぶ子どもたちの声は、昭和のあの時代と変わらない。そして庭の隅では、男の子女の子数人が樹皮についたセミのぬけ殻や地面に臥せって採ったミミズやイモムシを缶に入れて、真剣に自慢し合っている。シスターのひとりが、「どれどれ?」と缶を覗き、さして驚く様子もないのが、やはりあの時代を思い出させた。 たしかに、子どもたちは家に帰れば、スマホゲームに熱中するかもしれない、でも一旦外に出れば、空の下で、森の中で、土の上でこうして小さな生き物たちに目を輝かせる。猛暑に見舞われた今年の山中湖畔で、決してさわやかな風に吹かれたわけではないが、わたしには一瞬だけでも懐かしい風に再会した夏の記憶となった。 |
2024年8月 |
言語化しない領域の力 思い浮かんだことすべてを言葉に出さないと気のすまない人の電話、お喋り、メール文は長い。受け取った長い文言の底に、感情的な澱がふと見えた時の失望。発言する側も同じで、自ら投げた石がブーメランだったらよかったのにと思う時の落胆。自分にとって語彙の少ない外国語は、記号化できる一種の救いだと思う。 たしかに言語化、数値化しなければ通じないことは多い。しかし、言葉によって団結や同調に導かれた人々は、同じ言葉によって分断され、疎外され、勝者によって戦いが正当化される。美しい「平和」の二文字の中身は、大人にはうすうすわかってきたが、子どもたちには何と説明しようか? 巷では、発言したために誤解を招くことも多く、口に出すか出さないかの境はむずかしい。そうした困難、誤解をあえて避けるためなのか? 世間では、まるで判を押したような会話がまかり通る。 お笑い芸人が「小説を書いている」と言えば、「ぜひ芥川賞を」 大相撲の初日にはもう、アナウンサーが解説者に「今場所の優勝候補は?」ときく。 「クマが出たそうですよ」「怖いですね」 「きょうも暑くて」「いやあ、たまらないです」 「水遊びはどうだった?」「楽しかったあ」 同時通訳者に向かって、「すごい、優秀なんですね」 「物理が大好き」という中学生に「ノーベル賞も夢ではないよ」 こんなにも血の通わない会話が横行する昨今、あえて無言で受け止める方がずっと人間味がありはしないか。 パソコンによるメール交信が精いっぱいの自分には、長い間〈ライン〉も〈既読〉の意味もわからなかった。今になり、〈いいね〉も〈ハートマーク〉もすっかり言語化領域に入ったのを知った。 一方で、こらえきれない自分の感情をある程度言葉に載せられるのは、一種の安堵感、共感に似た満足感を得るが、果たしてそれが間違いのない伝達方法であるかといえば、大いに怪しい。形容詞、副詞には、人それぞれに千差万別の解釈がある。 いっそのこと、言語化しない選択をして、じっと胸にだけ手を当てる時期があってもいい。その領域にはきっと、言葉や記号に隠れて棲んでいた別の何かが、本質だけをpick up して、肝心な対象者に一直線に投げてくれる力があるはずだと、信じられるようになっ |
2024年7月 |
家事の行方 15年ほど前だったか、多摩沿線の車内、それも通勤時間を外れた時間帯で、だれもがのんびり座席を確保する中、わたしの目の前の座席の婦人が、トートバッグからビニール袋を取り出して背を屈め、何やら作業を始めた。よく見ると、サヤエンドウの筋をひとつひとつ取り除き、下ごしらえをしている。周囲の乗客は、居眠りか携帯機器と格闘しているかで、だれも彼女の手元に注目していない。そのうち、その婦人はビニール袋を元のバッグにしまいこみ、とある駅で降りた、というか路へ急いだ。 若い女性たちの車内での化粧が話題になっていた時期でもあるので、いよいよ時間に追われる主婦たちも、帰宅したらすぐに調理にかかれるように、電車内で野菜の下ごしらえをするようになったかと、わたしはいたく驚いた。そのうち、ナスやピーマンのヘタ取りでも始まったらどうしようと思ったが、以来一度もそうした姿に遭遇することはなく、なぜか車内化粧もいつのまにか下火になったらしい。 料理をはじめ、きちんと家事をしようと思えば、その数も量も無限にあり、その多くが 「面倒くさい」とくくられる作業になる。だれに評価されるわけではなく、時給も発生しないそれを、できればチャッチャッと終えて、早く読書に戻りたい、早く出勤したいのが本音にちがいない。洗濯ひとつとっても、衣類全部を裏返して全自動洗濯機に投げ入れ、脱水し終わった洗濯物のしわをパンパンと叩いて干し、ほぼ乾いたところで衣類を表に返し、完全に乾いたら洗濯ばさみをひとつひとつ外して、畳むものとアイロンするものとに分別して収納するまでの行程を考えると、電化生活とはいえ、かなりの時間と労力を要する。つい80年前まではタライの洗濯板付きだったというから、おそらく大家族の洗濯には半日以上を要したと思われる。 フルタイムの仕事を持つ女性たちが、夫の協力と家事代行業者あってこその家庭と仕事の両立というのはよくわかる。家事代行業者の家事を、また別の代行業者が代行するという喜劇さえ有りうる。幸いわたしは、料理を面倒だと思ったことは今まで一度もないが、整理整頓、掃除にはいつも二の足を踏み、結果として定位置のない物を常に探して日が暮れる。埃や塵は見えないことにして、今やほんとうに見えなくなった。 家事には、特に身体の健康はもちろん、胆力と手先の動きが問われる。きちんと絞る、しっかり結ぶ、すみずみまで洗う、何度も拭く、細かく切る、つやが出るまで磨く、つまり、そういう手作業の集合が家事だとすると、近年明らかに手先を使わなくなった。料理にしても、半調理食材やレトルト食品が増え、混ぜたり温めたりするだけで、あっというまに完成品ができる時代になった。冷凍庫の普及により、料理時間がいたく短縮された。利便性により、不器用な自分がさらに不器用になるだけならいいが、手先を使わないことによる脳の不活溌が日常化するのは怖い。楽器を弾くとか、絵筆をもつとかの効果はあるだろうが、一日を通して10本の指を多用する家事には、おそらくかなわないにちがいない。 はて、家事はどこまで簡素化、合理化し、人はどこまで快適さを追求し、怠慢な衣食住を突き進むのか? 残念ながら、それを見届けるまでに、何とか間に合いそうな世の中の風を感じる。 |
2024年6月 |
憤りと矛盾の中で
連日のイスラエル国防軍攻撃によるガザでのジェノサイドと、西岸地区での入植者による横暴、略奪に対して、無力な自分を埋めつくす憤りと矛盾。それも、こうして8か月以上毎日積み重なると、その重さにつぶされて、どうしようもない。
かつて、鶴見俊輔がベトナム戦争をして反戦運動に身を投じ、他界するまでの64年間、
あれだけ親しみ、恩人友人も多かったアメリカ合衆国に二度と足を踏み入れなかった理由が、わたしには痛いほどよくわかる。
「勝手な正義を矛に、これ以上殺さないでください」、「青と黄色をはじめとする特定の国旗を掲げて、分断し合わないでください!」と、目の前にそびえる富士に向かって言う。
ポレポレ東中野にて、「生きて、生きて、生きろ。」を観た。福島、沖縄をめぐる高齢の精神科医、医療従事者たちの足跡ドキュメンタリーで、市井の人々から発せられる数々の活きた言葉が身に染みた。初日だったために、上映後に監督と当精神科医のトークショーもあった。
3・11被災の当事者にとって、だれが加害者で、だれが被害者であるか、さらに謝罪云々の域はもちろん重要な焦点だが、ここまで地球規模での自然が破壊され、文明がすすみ、科学による効率性が優先される中で一番問われるのは、その恩恵を受けて暮らす現代人ひとりひとりにちがいない。貧困から抜け出すために辺境の人々が負った災難は、わが身の限りない欲求に嗜好性と利便性が満たされた生活スタイルの大きな代償だった。
この映画のパンフレットにも、そうした人類史観的言及があって、思わず自分の胸にも手を当てる。憤りは保身のずるさでもあり、矛盾もまた、もって行き場のない保身の放置に他ならない。それでも、出来るだけ早いうちに、小さくてもいいから灯りを見つけたい。
わたしにとっての「平和」とは? 身の回りの植物、生き物とつながる生命(いのち)はもちろん、世界中の隣人とも同じ生命を生きる同じ人間同士だと実感できること、この歳になってそう思う。
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2024年5月 |
生身(なまみ)の野生 4月上旬に、6人の仲間とともに近くの森を歩いた。わたしたちは登山道を外れ、倒木や草地を越え、大きなウロを正面に抱えた一本のケヤキの前に行きついた。大人が3人ほどすっぽり入れそうなそのウロは、実は数年前の雪の日に、登山家の戸高雅史さんが一頭の鹿に導かれて行きついたという。 戸高さんご自身の案内で、はじめてその木に出逢ってから、わたしたちは時おりそのケヤキを訪ねてはいるが、人知れず枝を伸ばし、内側にめくれた真っ暗なウロは、森の生きものたちだけに通じる秘密の穴のように見える。いつも数人で一時(いっとき)を過ごしてウロに入って写真を撮り、その場を離れても、あの木の近くに暮らしているという言葉に尽くしがたい安心感がある。 今回は、長年動植物や昆虫、菌類、野鳥、気象、地質を観察、撮影する映像カメラマンIさんも仲間の一人だった。いつものように、ウロの前に溜まった鹿のフンを退かして、わたしたちはそのぽっかりした草地にそれぞれの居場所を見つけ、昼食をとり、コーヒーを飲みながら長い時間を過ごした。 ふと、「Iさん、鹿やウサギは、きっとこの大きなウロで雨宿りするんでしょうね?」と、馬鹿な質問をした人がいて、何を隠そうこのわたしだった。Iさんの苦笑と「うん、きっと傘さしてね」との答えで、その質問の馬鹿さ加減が一瞬にしてわかった。わたしは、雨の日のバス停でネコバスを待つトトロのあの映像と、目の前の大きなウロを頭の中で直結させて、自分勝手に擬人化した森のロマンを描いたのだった。 「野生の生き物にとって、雨は特別なものではないよ」 その通りだ。都会人ならともかく、小さな森の中に50年近くも暮らし、毎日複数の鹿とすれ違い、毎夕フクロウやムササビの声になじむ自分が、野生をまったく理解していないことにがっかりしたというか、むしろ愕然とした。鹿やウサギが、いつのまにかアニメ映画に登場する動物たちに変身している。脳の中で人間が考え出した野生像に疑いもしない、なんてことだ。 あの日から10日以上が過ぎ、テレビや新聞では、さらに悲惨さを増すガザの被害状況が報じられて、何もできない自分たちの憤りと矛盾につぶされそうになる。悲しいかな、戦争という行為も人間のもつ野生の一面だとすると、アニメや戦争映画で固定化された野生像をはるかに超えた人間の生身の残酷性に気づかない怖さを、どうやって伝え合えばいいのか。 |
2024年4月 |
一期一会の鎖(くさり)
5年前の春だった。文研出版から邦訳刊行直後の『瓶に入れた手紙』ヴァレリー・ゼナッティ・作を、フランス語からの伏見操訳で読んだ。児童書YA分野で書かれたその物語は、イスラエルに住むユダヤ人少女(高校生)が、近所で起こったテロ事件を機に、憎しみを越えた希望を模索することから始まる。少女は兵役に就く兄に手紙を入れた瓶を託して、ガザの海に流して欲しいと頼む。その瓶を拾ったのがガザに住む少年だった。やがて少年と少女は、顔の見えないメール交信を通して、互いの社会、暮らし方のちがい、何が敵対するのかを身に染みて感じとっていく。
邦訳刊行後に、原書の映画化である『海に浮かぶ小瓶』仏・伊・加 合作が、市谷日仏学院で上映されると知り、翻訳者によるトークショーもあるという。ところが映画チケットの予約方法がよくわからず、何度試みてもネット用語さえクリヤできないので、まずは足を運ぶことにした。
市ヶ谷駅周辺には馴染みがあったので、なんの不安も危惧もなく日仏学院の映画窓口まで、意気揚々とたどりついた。のだが、コロナ禍を知る前の東京という街も大いばりで、その窓口はチケット予約がなされていないことを理由に、けんもほろろに遮断機を下ろした。「きょうはもう満席ですから」
慌てたわたしも負けなかった。「ネット予約の方法がわからなかったんです」
でも、天下のお江戸でこんな言い訳が通るわけがない。「山梨県から3時間かけて来たんです」と田舎風に頑張ってもみた。それでも、窓口の女性は全くとりあおうとはせず、「満席です」を繰り返した後、「では、お名前だけ書いて」と、わたしにメモ用紙をよこした。
わたしは、すばやく名前を書いて手渡し、彼女の願い通りに窓口から離れようとした。メモ用紙を受け渡されたもうひとりの窓口の女性が「ひぐちのりこさんですね」と、大声で言ったのと、「あらっ、ひぐちさん」という背後からの呼びかけは、ほぼ同時だったように思う。山梨から出てきたメカ音痴のおばさんは、その女性の呼びかけに思いがけなく救われた。それも、初対面の伏見操さん、『瓶に入れた手紙』の翻訳者その方が、声をかけてくださった。だれがこんな場面を想定したであろう? 「T書店のリエ子さんご存じでしょう? リエ子さんから、ひぐちさんのことうかがっていました。わたしたちすごく似ているんですって」なんて率直な方だろう! たしかにわたしも、T書店の編集者であるリエ子さんに、「伏見さんと樋口さんって、なんか似ていらっしゃるんですよね」と言われたことがあった。
いつのまにか、わたしの手には座席チケットが握られ、同じロビーで写真家の佐藤慧さんにもお会いできた。肝心の映画『海に浮かぶ小瓶』で、ロケ現場でもあったエレズ検問所を生(なま)の映像としてはじめて見ることができたのも、大きな収穫だった。イスラエルとガザの間に立ちはだかるその検問所の名は、訳出中に何回か出会ってはいたが、名称の域を出てはいなかった。やがて、トークショーで舞台に上がられた伏見操さんは、さきほどのロビーでの印象と全く同じく、率直で可愛らしかった。
その後、夏の山中湖に伏見操さんをお誘いして、わずか半日だったが、互いの食品稼業の体験談などを語り合い、まさに同じツボで笑った。思い立ったらすぐに、それが客観的にはどんなに滑稽で非合理であっても、大真面目に動いてしまうのが共通していた。母もまだ元気で同居していた時期なので、夕暮れには3人で店に行き、ほうとう鍋を囲んだりした。翻訳では、わたしより数倍もお忙しい伏見さんに、少しでもうちのベランダでゆっくり避暑を過ごしていただきたいと思ったのに、ついついおしゃべりをしてしまった。
そして数か月後、コロナ禍の突入により、わたしはほぼ上京しなくなり、伏見さんもリエ子さんもおそらく外出機会を減らしたであろう。
若いお二人とわたしは、親子ほど年齢が離れ、異なる時代と環境の中で生まれ育った。なのに精神年齢が近く、感じ方が似ている、とあらためてそう思う。常に連絡し合っているわけではなく、時おりポツンと、肝心な時だけに何かが濃く行き交う。
例えば伏見さんが「なかなか先にすすまない本に出合って」と書いてこられた本『種まく人』で、わたしは若松英輔を知り、彼女と同じようにすすまない読書にはまり、その後、同著者の『霧の彼方 須賀敦子』にもどっぷりと浸かった。またペーター・ヴォールレーベン著『樹木たちの知られざる生活』にも、視野を広げてもらった。リエ子さんとは、須賀敦子の父娘の話をしたことがあり、その逸話が書かれたページを思い出すだけで、あたたかい気もちになる。
3人それぞれの暮らしを、何もかも共有しているわけではないのに、つながっている安心感がある。無縁もまた縁だと思える年齢になり、一期一会の鎖がつまりそれぞれの人生だとすると、鎖の綾や瘤、解もまた、互いの見えない交差点なのかもしれない。
わたしは今年、年明け早々にG・カナファーニー著『ハイファに戻って』にKOをくらって、まだすっとは立ち上がれないでいる。そのうち、たぶんカナファーニー既読の彼女たちと3人で森歩きができたら、何よりのリハビリになる? とひそかに願う。 |
2024年3月 |
イシという名のイシュ
『イシ』1970年に岩波書店より刊行され、2003年に岩波現代文庫として再び世に出た本書は、今から60年以上前にアメリカ社会に衝撃を与えたベストセラーで、北米最後のヤヒ族の男イシが関わった文明との接点が描かれている。著者はシオドーラ・クローバーという女性で、カリフォルニア大学文化人類学教授アルフレッド・ルイス・クローバーの妻であり、『ゲド戦記』の著者ル=グウィン女史の実母である。英語からの邦訳は、行方昭夫氏。 イシというのは、最後まで自分の名前を明かさなかったそのヤヒ族の男に、アルフレッド・クローバー氏が旧約聖書からの引用で名づけた、正確にはシュに近いシを発音するヘブライ語のイシュで、〈男〉とか〈人〉という意味を表す呼び名だった。 おそらく1850年(江戸時代末期)前後の生まれと推定されたイシは、白人による残虐なジェノサイドを生き延び、ひっそりと隠れ住み、生存を悟られぬように足跡を消しつつ最後の一人になって、1911年(明治44年)文明社会に忽然と現れた。そして丸5年間を、保留地ではなくサンフランシスコ市内の博物館で掃除などの労働で賃金を得ながら、高い精神性と鋭い文明批判の視点をもって人類学者たちに対峙し、1916年(大正5年)に肺結核で亡くなった。 著者の娘であるル=グウィン女史の序文には、「イシが今世紀の孤島の岸辺にたった一つ残した足跡は、おごり高ぶって、勝手に作り出した孤独に悩む今日の人間に、自分はひとりぼっちではないのだと教えることだろう」とある。 博物館内で、生前のイシと常に身近に接していたアルフレッド・クローバー教授は、こうした先住民を見下して殺戮しつづけた自分たち白人の行為を目撃し、生涯うつ病を患ったと言われている。妻のシオドーラにさえイシを会わせようとはせず、人類学者でありながらイシについての論文などをまったく書かなった教授の深層は、鶴見俊輔の「イシ」への畏敬を知ったうえでも十分に察せられる。 池澤夏樹個人編集の『日本文学全集 近現代作家集』河出書房新社刊に収録されている鶴見俊輔著「イシが伝えてくれたこと」という小品で、わたしはイシとクローバー教授の関わりをあらためて知り、さらに著者である鶴見俊輔という稀なる先人に出会い、その知性と行動力、なによりもその詩情に魅了された。同時に彼もまた、10代はじめから長年にわたり精神を病む中、今生では会うことのなかったイシというひとりの先住民に、どれほど励まされたであろう。 小田実らとべ平連を立ち上げた鶴見俊輔の「殺すな!」という叫びは、今もなお隣人たちをhuman animalと称してジェノサイドをしつづける文明人たちへは届かない。その無念さほど、寒々しく冷たいものはない。 宮沢賢治の「春と修羅」と並んで、わたしの元から離れない一編の詩。 この時 宇宙の底に しずかにすわって いると思う時がある この自分が まぼろし 私の眼にうつる人も ここにいる時はみじかく いない時の中に この時が 浮かぶ |
2024年2月 |
喪服を身にまとう ジェノサイドに見舞われた地では、喪服を身にまとう余裕も、その喪服そのものさえない。地震や津波に見舞われた地域でも、同じだと思われる。着の身着のままで死者を弔う。喪服をまとう者は、少なくとも被災者ではなく、遠くから駆けつけた者、いくらか時間的余裕のある者にちがいない。 いつだったか、80代の知り合いが亡くなり、その葬儀に喪服をまとって参列した。音楽家だったその人は、晩年にただひとりの弟子を得たという。わずか10数人の参列者の中でただひとり、喪服ではなく礼服でも平服でもなく、中央アジアの赤い刺繍帽子にジーンズ作務衣の男性がいた。その人がその弟子だったという。とても目立ったのは、その突飛な恰好ではなく、その無言の姿から発せられる、あふれんばかりの哀しみだった。 当日、葬儀なので、当たり前のように着込んだ自分の喪服が、わたしにはいたく軽く、常套的に感じられた。 その赤い刺繍帽子の弟子が、師匠の霊前で木管楽器を吹いた。まさに天にも届く、澄んだ音色だった。彼は泣きながら楽器を奏でた。式場にいただれもが悼み入り、弟子の後ろ姿にも涙した。忘れられない日だった。 あれ以来、わたしは喪服に袖を通すたびに、自分の内面に問うようになった。「この服は何を弔うのだろうか?」と。ほんとうは、身にまとった喪服が弔うのではないことを、一番知っているのは目の前の棺に納まる死者、その気づきもまた哀しいものだった。 ◎ お時間のある方、下記のサイトをぜひ開いてみてください。大手メディアの片隅に、こうした取材が行われています。 イスラエル情報機関元トップが語る「ハマスを怪物にしたのは?」
| NHK 母を殺したハマスが憎くても イスラエルとパレスチナの和平を訴え、ガザ地区の住民を支援していたユダヤ人の母への思い | NHK ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺ホロコースト アウシュビッツ生存者の子がパレスチナのために声をあげるわけ | NHK |
2024年1月 |
もの言う背中 終わらないジェノサイドが、まさかの年越しを予感させるどころか、ほぼ確実となり、いてもたってもいられなくなった。
そんな中、山中湖村12月定例議会最終日を傍聴することにした。当日、わずか4名だった傍聴人の席は、村長をはじめとする執行部と檀上の議長を正面に対峙し、議長を除く11名(定数12)の議員の背中を目の前にすることになった。いつもの村議会構図なのだが、今回はH議員の、パレスチナ和平実現のための政府への「意見書」提案を想定して村長への一般質問が始まると、思わぬ変化を見せた。なんと、冬物生地の背広にガードされた議員全員の背中がものを言ったのである。何がどう言うのかは、うまく説明できないが、傍聴人であるわたしの何かが、その変化を読み取った。
まず、質問者のH議員が、「いきなり何を言うんだ、と思われるかもしれませんが」と述べた時、ほぼ全員の背中が「yes」とうなずいた。「よっしゃ」とわたしは思った。
次に、はるか遠くの中東戦争は、実は近い将来に自分たちの暮らしにも当然大きな影響を及ぼすとの解説には、そんなことはもう承知していると言わんばかりに、ほぼ全員の背中が無反応スルーを決め込んだ。
質問時間が限られていることを知るそれぞれの背中が、「それで次はなんだ?」といくらか前のめりになったところで、「当村から戦争当時者に対し、『即時停戦』を呼びかけよう、政府に対して『和平のための仲裁役』を果たすように」との要請がつづいた。それぞれの肩甲骨に力が入った。そして、「ガザの惨状を目にして、ここ日本でも78年前の東京大空襲、県内に至っては甲府、大月、富士吉田でも空襲があり、焼け野原になったことを・・・・」を聴いた身体が、肩甲骨を軸にして大きく息を吸い込んだ。
H議員の質問および質問に対し、村長の勇気ある、かつ簡潔な賛同する回答があった。
結果、緊急議案が提出され、全会一致でその「意見書」提出が可決したのだった。傍聴人には、議員の顔は見えない、表情も全くわからない。しかし、背中は嘘をつかないことがわかった。実に稀な体験をした日だった。
* お時間のある方、「山中湖村の底力」と「意見書」、どうぞ開けてごらんください。
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