☆ 樋口範子のモノローグ(2019年版) ☆

更新日: 2019年2月1日  
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2019年2月
 

年末の出来事

 昨年末のとある日、わたしは隔月で開かれる本造りの会プロジェクトに出かけた。埼玉県の片田舎にある家庭文庫がその会場で、すでに4度目の参加だった。

 毎回10数名の参加者があり、編集者、作家、版画家、イラストレーター、翻訳家(英語、中国語、ペルシャ語、トルコ語、韓国語、ヘブライ語)、図書館司書などがその顔ぶれで、わたしは新米なのに最長老であった。自分の子どもたちより若い仲間とテーブルを囲み、出版候補作品を全員で読み合い、意見や代案を出し合って数時間を過ごすのだが、その日は年末でもあり、夕方からは持ち寄りの忘年会へとつづいた。

1,2名の早退者があり、残った者たちで、持参のオカズやらお寿司などをひろげてしばらく賑やかにおしゃべりしたあと、携帯電話で話していた主幹の視線が、ふと参加者へと注がれた。携帯電話に当てた彼女の口が、「それで、あなたのコートがここにあるっていうことね?」と言っている。

電話口の相手は、さきほど早退された児童文学作家の小松原宏子(こまつばら ひろこ)さんらしく、どうやら仲間のコートをまちがえて着て帰宅してしまい、今それに気づいたということだった。

主幹の声が上ずった。「みなさん、ご自分のコートありますか?」部屋の隅に重ねて置かれた各人各種のオーバーコートに、それぞれが一斉に目をやった。

「わたしのコートがない!」と叫んだのは、このおばさんだった。全員のきゃあとか、わぁあとかいう歓声に笑い声が入り交じって、とんだ盛り上がりになった。今でも、その時のはじけた笑い声を思い出すと、つい自ずと頬が緩んでしまう。この可笑しさは何?

そこにぽつんと残された宏子さんのコートは、たしかにわたしのと同じ黒のダウンだがサイズもデザインも、長さもまったく異なるコートだった。うっかりまちがえて、それも家に着くまで気づかない類似性など、ほとんど見当たらない上等なコートだった。こうした状況と冬空の下、わたしは、これを着て帰ることになった。

なぜか、主幹がわたしに謝ったが、彼女の責任ではないので、余計に可笑しくなってしまった。

小柄な宏子さんのコートの前ジッパーは、わたしの身頃では閉まらず、それもまたみんなの笑いをさそった。わたしたちふたりは、いきなりお笑い芸人のようになったが、現場に居ずして笑いをとれる宏子さんの実力は、相当なものだ。

帰る段になり、若い方たちが、わたしの大型バックパックを背中にもちあげて、両サイドのジッパーをきちんと閉め、再び笑い声をもって暗闇の中へと、送り出してくれた。 駅までの細い路地、地方路線の小さな駅から大宮駅へ、そこから埼京線で渋谷駅へ、そしてその晩宿泊する実家の東横線学芸大学駅までの間ずっと、わたしは、わたしのコートを着た宏子さんのことを思った。彼女と同席したのは、その日が二回目で、作品以外での個人的なプロフィルは何も知らない。その日、彼女にとって10冊目になる創作「ホテルやまのなか小学校の時間割」を、ご披露された。

春にみんなで検討した本が上梓されたのは、本造りの会の大きな成果でもあり、つい最近初孫を授かった二重の喜びをも語った彼女は、重箱入りの手造りお赤飯を差し入れて、笑顔で帰って行かれた。

取り違えたコートを着るふたりは、王子と乞食の物語のように、暮らしが入れ替わるわけでも、互いの書く世界が入れ替わるわけではない、それははっきりしていたが、しかし何か茫洋としたものが、行き来している感も、ぬぐえなかった。

実家に着いたわたしは、92歳の母に事情を話して、翌日の都心での移動には、彼女の真っ赤なウールコートを借りることにした。母の衣類に黒や紺はなく、白か赤に選択が迫られた。しかし、今さら白鳥の湖ではあるまい、真っ白なふわふわのコートは、気が引けた

その晩おそく、宏子さんのコートを紙袋に納めて、伝言通り、宅配便着払いで送った。急がなくてよいと言われたが、僻地に暮らす自分には、都内にいるうちに宅配便を手配する必要があった。

翌日はまず、95歳の伯母の入所する施設でのケアマネさんとの打ち合わせがあり、その足で銀座に移動して、友人との会食があった。普段まったく身に着けない赤は、行く先々でトピックになったが、当の本人は、なんだか気もちが落ち着かず、はたして銀座を歩くのが自分の足なのかどうか? 自信がなかった。

三日目にやっと、帰宅したわたしの目に、玄関内に正座した宅配便の差出人名と宛名がとびこんだ。玄関の上がり框の木目に沿って置かれたその箱は、まるで家出した身内が、背筋をぴんと伸ばしてもどってきて、三つ指をついたかのように見えた。箱を開けると、その家出人は今まで見たことのない正しい畳まれ方で、持ち主の顔を見上げた。一瞬、言葉がなかった。ていねいに畳んだことがなく、いつもぞんざいに扱っていたコートに、申し訳ない思いがわいた。家出しなきゃいけないのは、むしろ持ち主の方かもしれなかった。

箱の中には、宏子さんの詫び状と紅茶リーフ、新刊書も同封されていた。パソコンにも、お詫びのメールが着信していた。でも、わたしは何も返信せず、電話もしなかった。安易に笑い合って、せっかく掬いあげた物語が、指の間からこぼれていくのが惜しまれた。この可笑しさが発酵するまで、しばらく時間が必要だった。自分の不義理を宏子さんなら、わかってくれる。互いの間に、文学があるということは、こういうことだと信じられた。

やがて年も押し迫り、小松原宏子さん宛の年賀状には、「あの日のことを、あたためています」と本心を書いた。個人的な付き合いのなかった相手に、本心が書けるということは、取り違えたコートによって、もしかして何かが行き来した証拠かもしれないと思った。


2019年1月

 

 キュウリの規格

 日本のスーパーマーケットに並ぶ野菜、特にキュウリが、長さも形も画一化されているのは何故だろう? と思ったのは、たまたま産直店や地方の道の駅で、曲がりキュウリが山積みになっているのを見た時だった。正直、これこそ野菜だと安心したが、では何故、青物市場では、規格外の野菜がハネられて、小売業者の店先にまで届かないのか?

「需要と供給の関係だよ」とか「まな板の上で調理しやすいからじゃないの?」、あるいは「商品価値を高めて、農家収入を上げ、農業の存続をはかるため」などなど、答えはさまざまだが、今一つ説得力に欠けていた。

 今年は、頻繁に上京する機会を利用して、都内での考古学会、宗教学会、言語圏国際会議、森林トークセッションなどに足を運ぶことができた。会場には当然、長年研究に携わる教授や研究者が集まり、パワーポイントやレジメを用いて、個々の研究発表をするのだが、そのうちのいくつかの講義に語られた本音に、少しはほっとした。

 国や自治体から研究費を引き出すために、国策に準じた発言や発表をし、身を売ることに恥じない研究者が、いかに多いか、こんな場末のおばさんでも知っている。原発事故以来、医療機関までもが御用学者と声をそろえ、放射能の影響を否定し、被爆地域の規制を緩和して、帰還を強制する始末だから、新聞記事と研究者の持論を鵜呑みにしていたら、大変なことになる。

 しかしそうした中、昨年明け早々の考古学会でのこと、T大の若き教授が、「人類がアフリカで発生し、北へと移動していた先史時代から有史にかけて、現在の国家や国境はなかったから、北アフリカと中東は、地続きの地域一体ととらえる」と、地中海を真ん中にした地図を指しながら、素人にはごく当たり前のことを発言した。以前は、我田引水的な国別、分類研究発表が多かったから、その一体説に胸がすっとした。聖地と北アフリカとをいっしょにされたらたまらんという研究者は、かなりいると思う。

 初秋の宗教学会では、ある一神教のT大研究者が、正義についての大胆で危ない発言をしたが、裏づけになるはっきりした確証が聞く側になく、信者からの主観的論争を呼びそうなので、わたしはあえてここには書かない。しかし、確証はなくとも、その本音に異議のある聴衆は、少なかったと思われる。

 きわめつけは、年末に行われた森林トークセッションでの、やはりT大教授の、実に的を得た説だった。「なぜキュウリが規格内の形とサイズで売り場に並ぶのか? それは、明治以降の官僚体制、霞が関機構が生んだ、都会生活の都合に合わせた規格が、依然として通用しているからだ」と言い切った。わたしのキュウリ規格疑問が解けた瞬間だった。

 よくわかる。ボタンひとつで、スイッチひとつで快適に暮らそうとする都会生活の価値基準が、不要な家電製品やコンビニ長時間営業、果てはキュウリの規格にまで、じゅうぶんに行きわたっているという事実。その教授の講義は、国の現福祉体制や森林事情への警鐘にまで及び、実にごもっとも、わたしには痛快極まりない一時間だった。

 国費で国のための研究を重ねてきたT大の教授たちが本音を語る機会に、年に3度も遭遇したのは、偶然なのかもしれないし、時すでに遅しという感もあるが、キュウリで冷えた頭に、若干の希望が湧いたのも見逃せなかった。

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