☆ 樋口範子のモノローグ(2019年版) ☆

更新日: 2019年9月1日  
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範子の著作紹介

2018年版 <=

2019年9月
 

 巷(ちまた)の夏休み

 ここ30年ほど、ペンション向けのパンの卸し業をしたり、喫茶店をはったりしていたので、書き入れ時の夏休みは、家からほとんど一歩も出なかった。日々の買い物さえ夫に頼み、自分は早朝からパン生地と対峙、あるいは、店のメニューづくりに忙しく、世の中の喧騒にはすっかり無縁でいた。と同時に、夏休みゆえの楽しみに触れることもなかった。

 それが店を閉じたことで、今夏はしばしば下界に降り、これがいわゆる世の中の、巷の夏休みというものなのかと、眼(め)をみはって毎日が過ぎた。

 まず、駐車場などでの混雑、店内での大声に、普段の静寂がおおいに脅かされる。道路では、車やバイク、自転車の交通ルール違反が多発し、歩行者の飛び出しや突飛な動きも危ない。なんとかしてくれ、この無法地帯、と気が気ではなかった。

 だれもが解放感に浸り、ましてや避暑地ならではの非日常に甘えがあるのか、大人も子どもも、大胆な言葉使いや所作に拍車をかけ、わたしは大いにとまどった。

 夏休みってなんだ? わたしは、7月末に、早々に立ち止まった。しかし、とまどうのは、何もネガティブなことばかりではなく、中半からは感動を伴う機会も、多々あった。

年末年始が、寒さもあって、心身の最も引き締まる数日間とすれば、夏休みは、全くその反対に、気が緩(ゆる)むというか、心身の緩んでしまう期間かもしれない。

ちなみに、わたしの気を緩めたのは、

1・サレジオ修道院で聞いた山中湖学童たちの熱唱 久々に子どもらしさに出会った!

2・思わずうなった生ジャズ鑑賞 鈴木直樹とその仲間3人 絶品だった!

3・極めつけにぶっとんだのは、多摩美大の和太鼓研究会 鑓水・合宿発表会

女子大生のイメージからほど遠い、実に初心な、もしかして不器用かもしれない女の子たちの、すっぴん大熱演、来夏も応援に来るよ!

そして新学期と共に、秋風と共に、人々は緩んだ心身を再び引き締める方向に向かうらしい。幸い、周囲の緩みにケガも躓きもなく迎えた8月の終わり、緩みきった気を引き締めてくれたのは、

・山中湖を縁に集った素人音楽家たちによる バッハ・ブランデンブルグ協奏曲第3楽章。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、リコーダーなど12名による演奏。

もちろん完ぺきではないが、素晴らしかった! この曲に挑戦しようとした、音楽を愛する中高年の意気込みに打たれた。ありがとう、ありがとう、わたしもやるっきゃない。
 巷には、秋以降の日常を予見した夏休みがある、と体感したこの二か月間だった。



2019年8月
 

留守番の番人

 7月中旬に、夫婦双方に退っ引きならぬ用事ができ、夫は甲府へ、わたしは東京の東小金井へ、それぞれ強行日帰りとなった。問題は、2時間以上の単独留守番ができない母親を、どう説得して、どう安全に過ごしてもらうかである。

 前日に、母親に留守番を頼むつもりでいたが、おそらく不安で眠れなくなると思い、当日の朝食後、この緊急事態を「ぜひとも協力して欲しい」という願いで、受け入れてもらうことにした。

 そして当日の朝、起床してみると、困ったことが起きていた。6月下旬から室内で観察しているアサギマダラという蝶の幼虫食用のイケマの葉が、あと一枚を残すところまでに激減している。前日にまだ数枚残っていたので、うっかり安心していたのが、いけなかった。このまま1日放置すれば、数匹の幼虫が餓死してしまうことになる。なんとか葉を補充しなくてはならないが、我が家の周辺にイケマはなく、近くで同じように幼虫を観察しているKさんに連絡すると、残念ながら、葉は枯れてしまったという。わたしが、朝8時前からイケマの葉を求めて、必死にあちこちに電話する中で、単独留守番を言い渡された直後の母は、ただぼおっとしていた。

もともと卵と幼虫付きのイケマをくださったMさんの素早い判断とご厚意で、車で15分のMさん宅の庭にあるイケマの鉢をいただくことになった。しかし、別荘地の道順が定かではなく、朝は特に忙しい知人のKさんにゴリ押しをして、先導をお願いした。

この時点で、夫はすでに甲府に出発し、わたしもあと1時間で、中央高速バスに乗らなければならない。自分たちの奔走と連携プレーに、苦笑する暇もなかった。

Mさんの庭にあったイケマの鉢をもちあげようとしたとき、たぶん羽化したばかりの、まだうまく飛べないアサギマダラが一羽、葉にとまっていたので、そのまま我が家に連れてきた。

 母に昼食を準備し、「お母さん、このアサギマダラと留守番できるよね」と半ば強引に念を押した。先月生まれて初めてアサギマダラの美しさに出会った母は、事情がのみこめないまま、それでもまんざらでもない顔をした。「アサギマダラ、きれいねえ」

 もってきたばかりのイケマの葉に、幼虫数匹を移し、これで彼らの一命をとりとめたことを確認し、母の顔色が変わらないうちにと、わたしは高速バス停に急いだ。

 そして夕方、一足早く帰った夫に、新小金井駅から恐る恐る電話をすると、母の単独5時間留守番はうまくいったとのこと。部屋の中で舞う蝶を目で追い、幼虫たちを数えた後、母は独りで昼寝までしたそうだ。留守番の相手というか、留守番の番人をしてくれたのが一羽の美しい蝶だなんて、いったいだれが予想したであろう?

 翌朝、森に放したアサギマダラは目の前を大きく一周して舞い、あっという間に遠くへ飛んで行った。「ありがとう、ありがとう」

 その翌晩、すでにサナギになっていた長子の1個体が、わたしたち家族3人全員の見守る中、40分かけて羽化し、夜中に羽を乾燥させて、翌朝羽を広げて飛び立っていった。

 そして今、あの日生き延びた幼虫たちは全部がサナギ化して、部屋のあちこちに吊るさがり、じっと羽化の時期を待っている。全部で5個もある。蝶の美しさとはちがい、サナギはグリーンの可愛らしい個体。金色に光ったり、半透明になったり、肉眼で観察していても、この複雑怪奇な蝶の完全変態(卵―幼虫―サナギー成虫)を、自分の頭では何一つ理解できない。神秘的とか、そういうくくりでは、ぜったいにない。約一億年以上前から、まさに人知れず繰り返されている、彼らのこの魔訶不思議な命の営みに、ただ圧倒されるだけで時間が過ぎる。

「えらいね。ひとりで孵化して、そのうちサナギになって、ひとりで蝶になって、ひとりで沖縄まで飛んでいくなんて」母は、うなることしきりだ。

昆虫や蝶の誕生から、だいぶ後になって誕生した人類、いつのまにか地球を制覇した気になって、やりたい放題のそのうちのひとりは、じっと動かずに羽化を待つサナギたちに向かい、思いっきり声をかけてみたい。 

「君たちは、ほんとうに、えらい! 限りなくえらい!」と。


2019年7月

 

元喫茶店にて

 23年間の喫茶店営業を閉じて、二か月がたった。閉店通知ハガキを約300通送付して以来、予想外にメールやお電話、おハガキを多数いただき、じっさいおどろいている。

 その多くは、ねぎらいの言葉とともに、それぞれの思いや思い出がハガキに細かい字でびっしりと書かれ、拙店に通われた人々の人生の一端に触れる、読書のようだった。これ以上の餞別があるだろうか!

以前、喫茶店とは人生の交差点で、店主もお客さんも、その交差点を行き来する者同士だと書いたことがあるが、あらためて、その行き来が何であったか? を考えた。 カウンターという一応の物理的境を間に、わたしたちは店側と客側に隔てられている。発言や問いかけに、共感もあれば、ときには反論もあるが、たいていは穏やかにやりすごす。あえて、深追いはしない。

フランスのサロンのような、政治論争の場ではないし、カウンセリングの場でもない。一度だけ、お客さん同士間で宗教論争がはじまってしまい、平行線なのがわかり、かつ不愉快極まりない雰囲気になったので、カウンターの中から一喝して、話をやめてもらったことがある。両者ともすでにこの世にはいないが、最初で最後だったあの夕べなどは、おそらくパリ辺りのサロンでは、そう珍しいことではないのかもしれない。が、うちでは勘弁してもらいたかった。

ある日、沈痛な面持ちで来店され、ベランダでしばらく静かにお茶を飲まれたお客さんが、いくらか晴れた顔になって帰られるのを、垣間見た。そのとき気づいたのは、お客さんは、もしかして、それぞれ物語を持ちよって来店されるのではないか? ということだった。

その物語は、語られることもあるし、語られないまま持ち帰られることもあるだろう。しかし、交差点ですれちがうとき、何かが行き交う。袖すれあうも他生(多生)の縁を実感するひとときは、この23年間に何度もあった。すれあう袖は、人だけではなく、空や風にも、また森の植物や生き物たちにもあるはずだ。

しかし、その中で物語を生きるのは、人間だけにちがいない。物語は、過去の思い出もあるし、未来への夢もあるだろう。その物語を自分なりに編集して、何とか前へすすもうとするが、そのときに、友人知人との濃い関りとは別に、地縁血縁の全くない他者との関わりが、案外背中を押すこともある。あるいは反対に、踏みとどまることに決めるかもしれない。

交差点は、もともと他人同士が行き交う場所だ。知らん顔して通り過ぎながらも、互いの物語に若干の化学反応が起きるのが、もしかして喫茶店という場所ではないか? と、近頃、自分が街場の喫茶店の客になってみて、はじめて気づいた。

以前、わたしはさだまさしの大ファンだった。しかし近年、彼の言葉の泉は涸れたと思う。

周囲に気を遣いすぎる者は、どうしても世の中に阿る。

中島みゆきは、周囲の空気を読んではいるが、決してなびかない。小っぽけな個人の物語だけではなく、大きな命に向き合おうとして闘い、聴く者たちは、その真摯な底力に圧倒される。

23年目に閉じた自分の店、もうだれも行き交わない交差点で、わたしは彼女の歌声を独占する至福を味わう。この場合、だれとだれではなく、何と何がすれちがうのか? 今となっては、形ばかりになったカウンターが、そっと問う。答えを音にすると、えらく野暮なので、ビールの栓を抜く音にまぎれて、咳払いなんかしてみる。



2019年6月


 93歳の初体験

 東京で長らく独居だった母と、山中湖でいっしょに暮すようになって、早4か月がすぎた。冬の真只中に移り住んだわりには、風邪もひかず、勘違いや健忘症以外は、いたって健康で、内臓の疾患がない。しかし、いわゆる家庭内での対話や世間話は成り立たない。認知症ではないが、聴力も理解力も落ち、A・・・だから、B・・・、という二段論法の関連性が理解できず、ピンポイントの「きれいね」とか、「おいしいね」とかだけで、一日が過ぎる。悲しいかな、家族談義の焦点にはついていけず、周囲の笑いには、ぼおっとしている。大昔の記憶はあっても、過去と現在、本人と社会をつなぐ糸が、だいぶ細くなった。

 2月はひたすらコタツにしがみつき、テレビを友としていたが、3月に入って、わたしたち夫婦の行事予定に付き合うことになった。根っからの都会人である母は、静かな森が不気味だという理由で、二時間以上の留守番ができない。わたしたちにしてみれば、野鳥や小動物が行き来する森は、こんなにもにぎやかで安全なのだが、彼女にとって通行人も商店街もないのは、防犯上よくないというわけだ。コンクリートの中で、消費生活だけをつづけてきた人に、今さら自分たちの暮らしを説明できないから、前触れなくあちこちに連れ歩くことにした。

 まず、友人がウクレレ仲間の輪に呼んでくれて、しばしの間なつかしい歌に囲まれることができた。つぎに、山麓探偵団の青空レストラン(雨天のため室内催行)に参加、富士吉田市で行われた内藤いずみ医師を囲む看取りの会(母には看取りの意味がわからない)にも列席、隣村のお寺で行われる味噌つくりには、一泊二日で参加、その6日後には、同寺での醤油絞り師さんをお呼びしての醤油づくりにも参加、生まれて初めて目の前にするモロミを絞る装置に興味津々。その3日後には、隣村の畑でのマルチ作業に、麦わら帽子と長靴を調達してまずは見学、野良弁当デビュー、5月GW後は、近くの別荘地内で開催された生ジャズ鑑賞、2日後には二度目の畑行きで生まれて初めてジャガイモ種芋植え(戦時中も未体験だったらしい)を見学、5日後には山麓探偵団のバードウオッチングの半行程をよろよろ歩き、ひたすら足元ウオッチング、2日後には畑でエゴマの種まきを見学、草取り、ゴミ拾い作業に初参加、そしてきょうは、湖畔にあるカトリック修道院で行われた聖母マリア行列に参加して、生まれて初めて修道院の中に招かれ、昼食までごちそうになった。 同世代のシスター(修道女)たちが働く中、母は怪訝な顔であたりを見回す。「この人たちに、自由時間はあるの?」

森の奥に人知れず咲く山シャクヤクを愛で、ムササビの出巣、リスの木登り、渡り鳥の飛来に目を細めたりもする。いいことばかりではない。ひょんなことで、新興宗教の勧誘に遭遇し、とまどう体験もした。

 93年間も生きてきて、こんなにも知らない世界があるなんて、おそらく母はそう感じているにちがいない。周囲のみなさんが、「お母さん、お母さん」と、とても大事にして下さるので、わたしもはっと背筋をのばす。ほんとうに、ありがたい。

佐野洋子さんに『だってだってのおばあさん』という傑作絵本がある。98歳のおばあさんが猫といっしょに暮らしていて、猫が魚釣りに行こうとさそっても、おばあさんは、「だって、わたしは98さいだもの」と言い訳して、腰を上げない。

 ところが、99歳の誕生日に、おばあさんは猫に99本のローソクを頼んでケーキを焼くのだが、猫は買い物の途中の川で転んでずぶ濡れになり、5本のローソクしか持って帰れなかった。仕方なく、5本のローソクを立てたおばあさんは、きょうは自分の5歳の誕生日だと思うことにした。

 5歳になったおばあさんは、猫と釣りに行き、うまく魚を釣って、やみつきになり、川幅までひょいと飛び越えることができた。うれしくなったおばあさんは、「ねえ、わたし どうしてまえから5歳にならなかったのかしら?」と言う。でも、猫は5歳になったおばあさんが、はたしてうまくケーキを焼いてくれるかどうか心配になるというオチで、絵本は終わる。

 今まで、絵本の中の出来事だと思っていた98歳のおばあさんが、最近ではなんだか現実味を増してきた。母の初体験は、今後もまだつづくにちがいないが、そういえば、魚釣りなど、未だかつてしたことはない。未体験ゾーンは、わたしにとっても同じだった。

 さて、そろそろ旅をしたくなったわたしは、ついカレンダーをうらめしく見るようになった。母がもし5歳になったら、わたしは何歳になればいいのだろう? 

 


2019年5月


二本のカエデ

 山梨県の県木がカエデであることから、地元の小学校では、新一年生が入学式にカエデの苗木を一本ずつ贈られて帰宅する。

 長男は今から40年前、次男は37年前に、それぞれ贈られた苗木を玄関前に植えた。しばらくは、3年間という年齢と樹齢の差が目に見えていたが、そのうち枝を伸ばし、葉をつけ、紅葉をくりかえした二本のカエデは、ほぼ同じ高さ、大きさに成長した。

 兄弟それぞれが15歳で家を巣立ち、県外の高校から成人していく間、腰痛に苦しんだり、進路に躓いたりしたが、そのたびにカエデもまた、風雪に耐えきれず、枝を数本折った。枝ぶりや紅葉の染まり具合で、兄弟の体調などを察することも多々あった。いったん巣立った息子たちには、親の知りえない壁がいくつもあったにちがいない。じっさい、紅葉の時期には、それぞれが別の染まり方をして、枯れかけた葉もあり、こまめに剪定もした。親にとって、二本のカエデは、兄弟の化身のようでもあった。

 しかし、いよいよ数本の枝が電線にかかるほどになり、電力会社から派遣された業者が来て、大がかりな伐採をすることになった。

 4月5日朝8時、6人の若い衆が重機をうまくあやつり、小1時間の間に、二本のカエデの上部をチェーンソーやノコギリで伐採し、見事な分業で、あっというまに片づけまですませて、次の作業場へと立ち去った。その機敏な動きが、さわやかだった。

 今、太い幹と短い枝だけになったカエデは、雨が降っても、枝がみじめに垂れることはない。さっそく、兄弟に、伐採の旨を知らせて、何か実感することはないかと問うた。

 が、何も返事はなく、なぜかわたしはほっとした。



2019年4月


もうひとつの発掘作業

 児童文学作家である矢崎節夫氏が、金子みすゞを表舞台に紹介したのは、今からわずか35年前。それまで、童謡作家として、知る人ぞ知る金子みすゞの遺された膨大なノートや日記を、約16年間にわたって探し出し、そこにつづられた珠玉の詩を出版した。その辛苦たるや、おそらく詩句に励まされながらも、現実には真っ暗闇での作業だったに違いないが、以来、みすゞの詩は多くの人々の心をとらえ、多言語に翻訳されて、世界中の人々に読まれるようになった。

みすゞの詩の魅力は、読者それぞれに異なる好みがあり、またその好みも時と共に変わり、詩人と読者が大きなゆらぎの中で、自由に羽ばたける柔軟性をもつことだと思う。今のところわたしは「ぬかるみ」と「電信柱」が好きだが、来年になれば、変わるかもしれない。

乙骨淑子(おっこつ よしこ)という作家、今から35年前に理論社から全集8巻が刊行されていて、鶴見俊輔氏、野上暁氏、最首悟氏など、そうそうたる人たちが解説を書いているが、今現在はほとんど読まれていない。念入りな取材に基づいた重厚な作品が、何故読まれないのか? わたしの周囲に、同じように首を傾げる読書人は多い。ここ数年、生前の鶴見俊輔氏や翻訳家の清水眞砂子氏の高い評価で、一部が復刻されているが、全作品ではないのが、もどかしい。わたしは、むしろ絶版になったままの、「ぴいちゃあしゃん」や「13歳の夏」「合言葉は手ぶくろの片っぽ」が好きなのだが、埋もれたままで、周辺の図書館にもない。どの巻も、安易な類似性や同じ主題の再生産がなく、舞台も人物も完全独立しているのが、この作家の実力だと思う。一巻を読み終えて、次の巻を読み始めるまでに、読者は相当のエネルギーを貯め込まなくてはならない。

 今話題の「数学する身体」「アリになった数学者」の著者である若き数学者、森田真生(もりた まさお)氏によって、かつての大数学者岡潔氏の「春宵話」や「日本のこころ」「風蘭」(わたしの一押し)、小林秀雄氏との対談集「人間の建設」が、堀り起こされている。森田真生氏自身の文体も優れ、2歳から10歳までアメリカで暮らしたという言語環境、読書環境をものともしない素晴らしい日本語とその感性に圧倒された。その彼が、擦り切れるほど読んだという岡潔氏の著作品は、つい最近まで、ほぼ埋もれていた。

 南方熊楠氏の作品は、決して埋もれてはいなかったが、鶴見和子氏などによって深く研究され、没後50年にして広く知られるようになった。岡潔氏にしても、熊楠氏にしても、奇人変人度が高く、その日常が一般常識からいたく逸脱している。世辞にはうとく、少々評価されても、簡単に木には登らないはずだし、周囲の空気を読むことさえしないというか、できない人たちだったに違いない。モノの本質を見極めようとする姿勢が生きるすべてで、自分の作品がどう評価されるかなど、頓着しなかった。同時に、自己コントロールが利かず、当人も周囲も苦心したと聞く。

 埋もれていたのは、人なのか? 作品なのか? 少なくとも、掘り起こされた作品から、当時の世相や人々の暮らしを見すえる作者の全体像が浮かび上がる。これは、一旦埋もれたからこその時間の魔術なのか、あるいは本来の光なのか? 数千年間埋もれていた縄文土器の放つ光のように、かつては、まったく別の存在だったモノが、掘り起こされて新たな命を生きる。

 そうした結果を、全く意図しない掘り起こす者たちの、無心な動機に寄り添ううちに、わたしのような、持ち込みがほぼ報われない翻訳家も、一種の発掘作業に携わるひとりなのかもしれないと思った。



2019年3月
 

 思い出づくり

 昨秋のある日、イスラエルに住む旧友オフェルから、文字通り小さな小包が届いた。開けてみると、ごちゃ混ぜになったジグソーパズルのピースだった。彼は昨夏8月、60歳を迎えた記念に、妻と20代の3人の息子、娘たちを連れて、2週間にわたって広島から京都、高山をまわり、山中湖に二泊滞在したのだが、その折に撮影したわたしたち家族との総勢11名の集合写真が、どうやらパズルの完成図になるらしかった。「長い冬の合間に、挑戦してみてください」と書かれたカードが添付されていた。が、パズルに無縁のわたしは、冬の到来をも押しやって、しばらくは包みをながめるだけだった。

 それが、やはり真冬になってみると、家の中で過ごす時間が多くなり、積雪もないので、思わず「ジグソーパズル、やってみようかしら」という気になった。

 それからがたいへんだった。まず、一旦広げたパズルは、簡単には片づけられないということがわかり、出来上がりの大きさも想定できず、制作場所を求めてうろうろした。やがて場所は決まったが、各ピースはほぼ同形で、色の違いが区別しにくく、見本写真を横目に手も足も出ず、わずか数個をはめて初日が終わった。

 2日目、早々に諦めようかと思ったが、今さら店じまいも悔しいので、つづけることにした。周縁ピースは異形でやり易そうだが、どれも樹木の色なので区別ができず、まず、11人の顔からはじめると、意外な発見があった。オフェルの祖父母はリトアニアの出自ときいていたが、彼ら家族5人とわたしたち家族6人(母、夫婦、長男夫婦、孫ひとり)の肌の色はほぼ同じで、頬や腕、首部分のピースには、いたくまどわされた。彼らが黄色人種なのか? わたしたちが白人種なのか? 

11人しかいないのに、えっ、唇が12個もあるのは、何故か? そのうちの1個は唇ではなく、うちの息子の右手親指と人差し指であることが判明した。

ウディ(オフェルの長男)の髪だと思ってはめたピースは、実はガル(次男)のあごヒゲだった。まったく、どうしてこんな同色同材のヒゲ生やすの! ガル、まぎらわしいよと、ぶつぶつ。

アミット(オフェルの妻)の左目が、なかなか見当たらない。と諦めたら、エリ(彼らの娘)の左目と、入れ違っていた。母子だもの、やっぱり似てるねと、ぶつぶつ。
                  

あの夏の日、東京に行く彼らを見送る直前、11人それぞれがこういう衣服で、こういう仕草で、こうした位置に立っていたことに、今さらながら気づいて懐かしく、いつの間にか、ひとりひとりに声をかけている。オフェル、両手を組んで何を考えていたの? ガル兄弟、黒の無地Tシャツじゃなくて、チェックにしてもらいたかったなあと、ぶつぶつ。

それにしても、エリのカーリーヘア、樹木にからまるツタと見まちがえるところだった。写真撮影数日後に中耳炎になって寝込んだうちの孫は、この時はまだこんなに元気だったのにねと、ぶつぶつ。
                      

ここまで約5時間、3日間もかかった。そして11人の顔ができあがった瞬間、まるで命が吹き込まれたみたいに、全員の目が一斉に笑った! わーお! すごい! まちがいなくみんな生きている。

いよいよ佳境に入ったつもりの4日目だが、早々にスタック状態になった。ピースのヒントもなく、何をどこにはめても、場違いだった。困った。こういうときは、一旦離れることにして、台所に立ったが、年明けから同居しはじめた93歳の母が、何を思ったのか、パズルの前にすわってピースをにぎっているではないか。しばらく見ていたら、はめたり、外したりもしている。  
                  

 そばに寄ると、できたばかりのオフェルの髪の毛がくずれている。いやあ、やめてくれ。とんでもないことになりそうだった。苦戦している娘を見て、助けようとしたのかもしれないが、それはありがた迷惑というもの、母には気の毒だが、席を外してもらった。

 こうなったら、自力で再開するしかない。しばらく、シャツの見頃と椅子のピースや樹木の緑が入れ違ったりしたが、それらはむしろ自信のある部分だった。まさかの思い違い、カン違いが連続した。もともと、完成図のない生身の人生途上では、人は正義と正確さとを混同し、おそらく間違いに気づかずにすすんでしまうにちがいない。

 パズルが構築されていく一方で、自信が次々に崩されていく。ほぼ同時進行なのが、ショックというより、刺激的だった。絶対自信があったピースが、間違いだったなんて。見当たらないピースはきっと、床に落ちたか、紛失したか、もしや最初から欠番だったか? などと安易に疑ったりもするが、実はどっこい、背景色にすまして紛れていたりする。

 完成したのは、4日目の夕方。すべてが正確に、絶対の定位置に納まった痛快の一瞬! のべ8時間で再築した500ピースの夏の日が、目の前に広がった。11人は今、専用額に行儀よく納まって居間の壁で笑っている。可笑しなことに、彼らは、ときに真顔になったりもして、わたしをおどろかせる。
                   
 
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2019年2月
 

年末の出来事

 昨年末のとある日、わたしは隔月で開かれる本造りの会プロジェクトに出かけた。埼玉県の片田舎にある家庭文庫がその会場で、すでに4度目の参加だった。

 毎回10数名の参加者があり、編集者、作家、版画家、イラストレーター、翻訳家(英語、中国語、ペルシャ語、トルコ語、韓国語、ヘブライ語)、図書館司書などがその顔ぶれで、わたしは新米なのに最長老であった。自分の子どもたちより若い仲間とテーブルを囲み、出版候補作品を全員で読み合い、意見や代案を出し合って数時間を過ごすのだが、その日は年末でもあり、夕方からは持ち寄りの忘年会へとつづいた。

1,2名の早退者があり、残った者たちで、持参のオカズやらお寿司などをひろげてしばらく賑やかにおしゃべりしたあと、携帯電話で話していた主幹の視線が、ふと参加者へと注がれた。携帯電話に当てた彼女の口が、「それで、あなたのコートがここにあるっていうことね?」と言っている。

電話口の相手は、さきほど早退された児童文学作家の小松原宏子(こまつばら ひろこ)さんらしく、どうやら仲間のコートをまちがえて着て帰宅してしまい、今それに気づいたということだった。

主幹の声が上ずった。「みなさん、ご自分のコートありますか?」部屋の隅に重ねて置かれた各人各種のオーバーコートに、それぞれが一斉に目をやった。

「わたしのコートがない!」と叫んだのは、このおばさんだった。全員のきゃあとか、わぁあとかいう歓声に笑い声が入り交じって、とんだ盛り上がりになった。今でも、その時のはじけた笑い声を思い出すと、つい自ずと頬が緩んでしまう。この可笑しさは何?

そこにぽつんと残された宏子さんのコートは、たしかにわたしのと同じ黒のダウンだがサイズもデザインも、長さもまったく異なるコートだった。うっかりまちがえて、それも家に着くまで気づかない類似性など、ほとんど見当たらない上等なコートだった。こうした状況と冬空の下、わたしは、これを着て帰ることになった。

なぜか、主幹がわたしに謝ったが、彼女の責任ではないので、余計に可笑しくなってしまった。

小柄な宏子さんのコートの前ジッパーは、わたしの身頃では閉まらず、それもまたみんなの笑いをさそった。わたしたちふたりは、いきなりお笑い芸人のようになったが、現場に居ずして笑いをとれる宏子さんの実力は、相当なものだ。

帰る段になり、若い方たちが、わたしの大型バックパックを背中にもちあげて、両サイドのジッパーをきちんと閉め、再び笑い声をもって暗闇の中へと、送り出してくれた。 駅までの細い路地、地方路線の小さな駅から大宮駅へ、そこから埼京線で渋谷駅へ、そしてその晩宿泊する実家の東横線学芸大学駅までの間ずっと、わたしは、わたしのコートを着た宏子さんのことを思った。彼女と同席したのは、その日が二回目で、作品以外での個人的なプロフィルは何も知らない。その日、彼女にとって10冊目になる創作「ホテルやまのなか小学校の時間割」を、ご披露された。

春にみんなで検討した本が上梓されたのは、本造りの会の大きな成果でもあり、つい最近初孫を授かった二重の喜びをも語った彼女は、重箱入りの手造りお赤飯を差し入れて、笑顔で帰って行かれた。

取り違えたコートを着るふたりは、王子と乞食の物語のように、暮らしが入れ替わるわけでも、互いの書く世界が入れ替わるわけではない、それははっきりしていたが、しかし何か茫洋としたものが、行き来している感も、ぬぐえなかった。

実家に着いたわたしは、92歳の母に事情を話して、翌日の都心での移動には、彼女の真っ赤なウールコートを借りることにした。母の衣類に黒や紺はなく、白か赤に選択が迫られた。しかし、今さら白鳥の湖ではあるまい、真っ白なふわふわのコートは、気が引けた

その晩おそく、宏子さんのコートを紙袋に納めて、伝言通り、宅配便着払いで送った。急がなくてよいと言われたが、僻地に暮らす自分には、都内にいるうちに宅配便を手配する必要があった。

翌日はまず、95歳の伯母の入所する施設でのケアマネさんとの打ち合わせがあり、その足で銀座に移動して、友人との会食があった。普段まったく身に着けない赤は、行く先々でトピックになったが、当の本人は、なんだか気もちが落ち着かず、はたして銀座を歩くのが自分の足なのかどうか? 自信がなかった。

三日目にやっと、帰宅したわたしの目に、玄関内に正座した宅配便の差出人名と宛名がとびこんだ。玄関の上がり框の木目に沿って置かれたその箱は、まるで家出した身内が、背筋をぴんと伸ばしてもどってきて、三つ指をついたかのように見えた。箱を開けると、その家出人は今まで見たことのない正しい畳まれ方で、持ち主の顔を見上げた。一瞬、言葉がなかった。ていねいに畳んだことがなく、いつもぞんざいに扱っていたコートに、申し訳ない思いがわいた。家出しなきゃいけないのは、むしろ持ち主の方かもしれなかった。

箱の中には、宏子さんの詫び状と紅茶リーフ、新刊書も同封されていた。パソコンにも、お詫びのメールが着信していた。でも、わたしは何も返信せず、電話もしなかった。安易に笑い合って、せっかく掬いあげた物語が、指の間からこぼれていくのが惜しまれた。この可笑しさが発酵するまで、しばらく時間が必要だった。自分の不義理を宏子さんなら、わかってくれる。互いの間に、文学があるということは、こういうことだと信じられた。

やがて年も押し迫り、小松原宏子さん宛の年賀状には、「あの日のことを、あたためています」と本心を書いた。個人的な付き合いのなかった相手に、本心が書けるということは、取り違えたコートによって、もしかして何かが行き来した証拠かもしれないと思った。


2019年1月

 

 キュウリの規格

 日本のスーパーマーケットに並ぶ野菜、特にキュウリが、長さも形も画一化されているのは何故だろう? と思ったのは、たまたま産直店や地方の道の駅で、曲がりキュウリが山積みになっているのを見た時だった。正直、これこそ野菜だと安心したが、では何故、青物市場では、規格外の野菜がハネられて、小売業者の店先にまで届かないのか?

「需要と供給の関係だよ」とか「まな板の上で調理しやすいからじゃないの?」、あるいは「商品価値を高めて、農家収入を上げ、農業の存続をはかるため」などなど、答えはさまざまだが、今一つ説得力に欠けていた。

 今年は、頻繁に上京する機会を利用して、都内での考古学会、宗教学会、言語圏国際会議、森林トークセッションなどに足を運ぶことができた。会場には当然、長年研究に携わる教授や研究者が集まり、パワーポイントやレジメを用いて、個々の研究発表をするのだが、そのうちのいくつかの講義に語られた本音に、少しはほっとした。

 国や自治体から研究費を引き出すために、国策に準じた発言や発表をし、身を売ることに恥じない研究者が、いかに多いか、こんな場末のおばさんでも知っている。原発事故以来、医療機関までもが御用学者と声をそろえ、放射能の影響を否定し、被爆地域の規制を緩和して、帰還を強制する始末だから、新聞記事と研究者の持論を鵜呑みにしていたら、大変なことになる。

 しかしそうした中、昨年明け早々の考古学会でのこと、T大の若き教授が、「人類がアフリカで発生し、北へと移動していた先史時代から有史にかけて、現在の国家や国境はなかったから、北アフリカと中東は、地続きの地域一体ととらえる」と、地中海を真ん中にした地図を指しながら、素人にはごく当たり前のことを発言した。以前は、我田引水的な国別、分類研究発表が多かったから、その一体説に胸がすっとした。聖地と北アフリカとをいっしょにされたらたまらんという研究者は、かなりいると思う。

 初秋の宗教学会では、ある一神教のT大研究者が、正義についての大胆で危ない発言をしたが、裏づけになるはっきりした確証が聞く側になく、信者からの主観的論争を呼びそうなので、わたしはあえてここには書かない。しかし、確証はなくとも、その本音に異議のある聴衆は、少なかったと思われる。

 きわめつけは、年末に行われた森林トークセッションでの、やはりT大教授の、実に的を得た説だった。「なぜキュウリが規格内の形とサイズで売り場に並ぶのか? それは、明治以降の官僚体制、霞が関機構が生んだ、都会生活の都合に合わせた規格が、依然として通用しているからだ」と言い切った。わたしのキュウリ規格疑問が解けた瞬間だった。

 よくわかる。ボタンひとつで、スイッチひとつで快適に暮らそうとする都会生活の価値基準が、不要な家電製品やコンビニ長時間営業、果てはキュウリの規格にまで、じゅうぶんに行きわたっているという事実。その教授の講義は、国の現福祉体制や森林事情への警鐘にまで及び、実にごもっとも、わたしには痛快極まりない一時間だった。

 国費で国のための研究を重ねてきたT大の教授たちが本音を語る機会に、年に3度も遭遇したのは、偶然なのかもしれないし、時すでに遅しという感もあるが、キュウリで冷えた頭に、若干の希望が湧いたのも見逃せなかった。

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