☆ 樋口範子のモノローグ(2019年版) ☆

更新日: 2019年4月1日  
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2018年版 <=

2019年4月


もうひとつの発掘作業

 児童文学作家である矢崎節夫氏が、金子みすゞを表舞台に紹介したのは、今からわずか35年前。それまで、童謡作家として、知る人ぞ知る金子みすゞの遺された膨大なノートや日記を、約16年間にわたって探し出し、そこにつづられた珠玉の詩を出版した。その辛苦たるや、おそらく詩句に励まされながらも、現実には真っ暗闇での作業だったに違いないが、以来、みすゞの詩は多くの人々の心をとらえ、多言語に翻訳されて、世界中の人々に読まれるようになった。

みすゞの詩の魅力は、読者それぞれに異なる好みがあり、またその好みも時と共に変わり、詩人と読者が大きなゆらぎの中で、自由に羽ばたける柔軟性をもつことだと思う。今のところわたしは「ぬかるみ」と「電信柱」が好きだが、来年になれば、変わるかもしれない。

乙骨淑子(おっこつ よしこ)という作家、今から35年前に理論社から全集8巻が刊行されていて、鶴見俊輔氏、野上暁氏、最首悟氏など、そうそうたる人たちが解説を書いているが、今現在はほとんど読まれていない。念入りな取材に基づいた重厚な作品が、何故読まれないのか? わたしの周囲に、同じように首を傾げる読書人は多い。ここ数年、生前の鶴見俊輔氏や翻訳家の清水眞砂子氏の高い評価で、一部が復刻されているが、全作品ではないのが、もどかしい。わたしは、むしろ絶版になったままの、「ぴいちゃあしゃん」や「13歳の夏」「合言葉は手ぶくろの片っぽ」が好きなのだが、埋もれたままで、周辺の図書館にもない。どの巻も、安易な類似性や同じ主題の再生産がなく、舞台も人物も完全独立しているのが、この作家の実力だと思う。一巻を読み終えて、次の巻を読み始めるまでに、読者は相当のエネルギーを貯め込まなくてはならない。

 今話題の「数学する身体」「アリになった数学者」の著者である若き数学者、森田真生(もりた まさお)氏によって、かつての大数学者岡潔氏の「春宵話」や「日本のこころ」「風蘭」(わたしの一押し)、小林秀雄氏との対談集「人間の建設」が、堀り起こされている。森田真生氏自身の文体も優れ、2歳から10歳までアメリカで暮らしたという言語環境、読書環境をものともしない素晴らしい日本語とその感性に圧倒された。その彼が、擦り切れるほど読んだという岡潔氏の著作品は、つい最近まで、ほぼ埋もれていた。

 南方熊楠氏の作品は、決して埋もれてはいなかったが、鶴見和子氏などによって深く研究され、没後50年にして広く知られるようになった。岡潔氏にしても、熊楠氏にしても、奇人変人度が高く、その日常が一般常識からいたく逸脱している。世辞にはうとく、少々評価されても、簡単に木には登らないはずだし、周囲の空気を読むことさえしないというか、できない人たちだったに違いない。モノの本質を見極めようとする姿勢が生きるすべてで、自分の作品がどう評価されるかなど、頓着しなかった。同時に、自己コントロールが利かず、当人も周囲も苦心したと聞く。

 埋もれていたのは、人なのか? 作品なのか? 少なくとも、掘り起こされた作品から、当時の世相や人々の暮らしを見すえる作者の全体像が浮かび上がる。これは、一旦埋もれたからこその時間の魔術なのか、あるいは本来の光なのか? 数千年間埋もれていた縄文土器の放つ光のように、かつては、まったく別の存在だったモノが、掘り起こされて新たな命を生きる。

 そうした結果を、全く意図しない掘り起こす者たちの、無心な動機に寄り添ううちに、わたしのような、持ち込みがほぼ報われない翻訳家も、一種の発掘作業に携わるひとりなのかもしれないと思った。



2019年3月
 

 思い出づくり

 昨秋のある日、イスラエルに住む旧友オフェルから、文字通り小さな小包が届いた。開けてみると、ごちゃ混ぜになったジグソーパズルのピースだった。彼は昨夏8月、60歳を迎えた記念に、妻と20代の3人の息子、娘たちを連れて、2週間にわたって広島から京都、高山をまわり、山中湖に二泊滞在したのだが、その折に撮影したわたしたち家族との総勢11名の集合写真が、どうやらパズルの完成図になるらしかった。「長い冬の合間に、挑戦してみてください」と書かれたカードが添付されていた。が、パズルに無縁のわたしは、冬の到来をも押しやって、しばらくは包みをながめるだけだった。

 それが、やはり真冬になってみると、家の中で過ごす時間が多くなり、積雪もないので、思わず「ジグソーパズル、やってみようかしら」という気になった。

 それからがたいへんだった。まず、一旦広げたパズルは、簡単には片づけられないということがわかり、出来上がりの大きさも想定できず、制作場所を求めてうろうろした。やがて場所は決まったが、各ピースはほぼ同形で、色の違いが区別しにくく、見本写真を横目に手も足も出ず、わずか数個をはめて初日が終わった。

 2日目、早々に諦めようかと思ったが、今さら店じまいも悔しいので、つづけることにした。周縁ピースは異形でやり易そうだが、どれも樹木の色なので区別ができず、まず、11人の顔からはじめると、意外な発見があった。オフェルの祖父母はリトアニアの出自ときいていたが、彼ら家族5人とわたしたち家族6人(母、夫婦、長男夫婦、孫ひとり)の肌の色はほぼ同じで、頬や腕、首部分のピースには、いたくまどわされた。彼らが黄色人種なのか? わたしたちが白人種なのか? 

11人しかいないのに、えっ、唇が12個もあるのは、何故か? そのうちの1個は唇ではなく、うちの息子の右手親指と人差し指であることが判明した。

ウディ(オフェルの長男)の髪だと思ってはめたピースは、実はガル(次男)のあごヒゲだった。まったく、どうしてこんな同色同材のヒゲ生やすの! ガル、まぎらわしいよと、ぶつぶつ。

アミット(オフェルの妻)の左目が、なかなか見当たらない。と諦めたら、エリ(彼らの娘)の左目と、入れ違っていた。母子だもの、やっぱり似てるねと、ぶつぶつ。
                  

あの夏の日、東京に行く彼らを見送る直前、11人それぞれがこういう衣服で、こういう仕草で、こうした位置に立っていたことに、今さらながら気づいて懐かしく、いつの間にか、ひとりひとりに声をかけている。オフェル、両手を組んで何を考えていたの? ガル兄弟、黒の無地Tシャツじゃなくて、チェックにしてもらいたかったなあと、ぶつぶつ。

それにしても、エリのカーリーヘア、樹木にからまるツタと見まちがえるところだった。写真撮影数日後に中耳炎になって寝込んだうちの孫は、この時はまだこんなに元気だったのにねと、ぶつぶつ。
                      

ここまで約5時間、3日間もかかった。そして11人の顔ができあがった瞬間、まるで命が吹き込まれたみたいに、全員の目が一斉に笑った! わーお! すごい! まちがいなくみんな生きている。

いよいよ佳境に入ったつもりの4日目だが、早々にスタック状態になった。ピースのヒントもなく、何をどこにはめても、場違いだった。困った。こういうときは、一旦離れることにして、台所に立ったが、年明けから同居しはじめた93歳の母が、何を思ったのか、パズルの前にすわってピースをにぎっているではないか。しばらく見ていたら、はめたり、外したりもしている。  
                  

 そばに寄ると、できたばかりのオフェルの髪の毛がくずれている。いやあ、やめてくれ。とんでもないことになりそうだった。苦戦している娘を見て、助けようとしたのかもしれないが、それはありがた迷惑というもの、母には気の毒だが、席を外してもらった。

 こうなったら、自力で再開するしかない。しばらく、シャツの見頃と椅子のピースや樹木の緑が入れ違ったりしたが、それらはむしろ自信のある部分だった。まさかの思い違い、カン違いが連続した。もともと、完成図のない生身の人生途上では、人は正義と正確さとを混同し、おそらく間違いに気づかずにすすんでしまうにちがいない。

 パズルが構築されていく一方で、自信が次々に崩されていく。ほぼ同時進行なのが、ショックというより、刺激的だった。絶対自信があったピースが、間違いだったなんて。見当たらないピースはきっと、床に落ちたか、紛失したか、もしや最初から欠番だったか? などと安易に疑ったりもするが、実はどっこい、背景色にすまして紛れていたりする。

 完成したのは、4日目の夕方。すべてが正確に、絶対の定位置に納まった痛快の一瞬! のべ8時間で再築した500ピースの夏の日が、目の前に広がった。11人は今、専用額に行儀よく納まって居間の壁で笑っている。可笑しなことに、彼らは、ときに真顔になったりもして、わたしをおどろかせる。
                   
 
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2019年2月
 

年末の出来事

 昨年末のとある日、わたしは隔月で開かれる本造りの会プロジェクトに出かけた。埼玉県の片田舎にある家庭文庫がその会場で、すでに4度目の参加だった。

 毎回10数名の参加者があり、編集者、作家、版画家、イラストレーター、翻訳家(英語、中国語、ペルシャ語、トルコ語、韓国語、ヘブライ語)、図書館司書などがその顔ぶれで、わたしは新米なのに最長老であった。自分の子どもたちより若い仲間とテーブルを囲み、出版候補作品を全員で読み合い、意見や代案を出し合って数時間を過ごすのだが、その日は年末でもあり、夕方からは持ち寄りの忘年会へとつづいた。

1,2名の早退者があり、残った者たちで、持参のオカズやらお寿司などをひろげてしばらく賑やかにおしゃべりしたあと、携帯電話で話していた主幹の視線が、ふと参加者へと注がれた。携帯電話に当てた彼女の口が、「それで、あなたのコートがここにあるっていうことね?」と言っている。

電話口の相手は、さきほど早退された児童文学作家の小松原宏子(こまつばら ひろこ)さんらしく、どうやら仲間のコートをまちがえて着て帰宅してしまい、今それに気づいたということだった。

主幹の声が上ずった。「みなさん、ご自分のコートありますか?」部屋の隅に重ねて置かれた各人各種のオーバーコートに、それぞれが一斉に目をやった。

「わたしのコートがない!」と叫んだのは、このおばさんだった。全員のきゃあとか、わぁあとかいう歓声に笑い声が入り交じって、とんだ盛り上がりになった。今でも、その時のはじけた笑い声を思い出すと、つい自ずと頬が緩んでしまう。この可笑しさは何?

そこにぽつんと残された宏子さんのコートは、たしかにわたしのと同じ黒のダウンだがサイズもデザインも、長さもまったく異なるコートだった。うっかりまちがえて、それも家に着くまで気づかない類似性など、ほとんど見当たらない上等なコートだった。こうした状況と冬空の下、わたしは、これを着て帰ることになった。

なぜか、主幹がわたしに謝ったが、彼女の責任ではないので、余計に可笑しくなってしまった。

小柄な宏子さんのコートの前ジッパーは、わたしの身頃では閉まらず、それもまたみんなの笑いをさそった。わたしたちふたりは、いきなりお笑い芸人のようになったが、現場に居ずして笑いをとれる宏子さんの実力は、相当なものだ。

帰る段になり、若い方たちが、わたしの大型バックパックを背中にもちあげて、両サイドのジッパーをきちんと閉め、再び笑い声をもって暗闇の中へと、送り出してくれた。 駅までの細い路地、地方路線の小さな駅から大宮駅へ、そこから埼京線で渋谷駅へ、そしてその晩宿泊する実家の東横線学芸大学駅までの間ずっと、わたしは、わたしのコートを着た宏子さんのことを思った。彼女と同席したのは、その日が二回目で、作品以外での個人的なプロフィルは何も知らない。その日、彼女にとって10冊目になる創作「ホテルやまのなか小学校の時間割」を、ご披露された。

春にみんなで検討した本が上梓されたのは、本造りの会の大きな成果でもあり、つい最近初孫を授かった二重の喜びをも語った彼女は、重箱入りの手造りお赤飯を差し入れて、笑顔で帰って行かれた。

取り違えたコートを着るふたりは、王子と乞食の物語のように、暮らしが入れ替わるわけでも、互いの書く世界が入れ替わるわけではない、それははっきりしていたが、しかし何か茫洋としたものが、行き来している感も、ぬぐえなかった。

実家に着いたわたしは、92歳の母に事情を話して、翌日の都心での移動には、彼女の真っ赤なウールコートを借りることにした。母の衣類に黒や紺はなく、白か赤に選択が迫られた。しかし、今さら白鳥の湖ではあるまい、真っ白なふわふわのコートは、気が引けた

その晩おそく、宏子さんのコートを紙袋に納めて、伝言通り、宅配便着払いで送った。急がなくてよいと言われたが、僻地に暮らす自分には、都内にいるうちに宅配便を手配する必要があった。

翌日はまず、95歳の伯母の入所する施設でのケアマネさんとの打ち合わせがあり、その足で銀座に移動して、友人との会食があった。普段まったく身に着けない赤は、行く先々でトピックになったが、当の本人は、なんだか気もちが落ち着かず、はたして銀座を歩くのが自分の足なのかどうか? 自信がなかった。

三日目にやっと、帰宅したわたしの目に、玄関内に正座した宅配便の差出人名と宛名がとびこんだ。玄関の上がり框の木目に沿って置かれたその箱は、まるで家出した身内が、背筋をぴんと伸ばしてもどってきて、三つ指をついたかのように見えた。箱を開けると、その家出人は今まで見たことのない正しい畳まれ方で、持ち主の顔を見上げた。一瞬、言葉がなかった。ていねいに畳んだことがなく、いつもぞんざいに扱っていたコートに、申し訳ない思いがわいた。家出しなきゃいけないのは、むしろ持ち主の方かもしれなかった。

箱の中には、宏子さんの詫び状と紅茶リーフ、新刊書も同封されていた。パソコンにも、お詫びのメールが着信していた。でも、わたしは何も返信せず、電話もしなかった。安易に笑い合って、せっかく掬いあげた物語が、指の間からこぼれていくのが惜しまれた。この可笑しさが発酵するまで、しばらく時間が必要だった。自分の不義理を宏子さんなら、わかってくれる。互いの間に、文学があるということは、こういうことだと信じられた。

やがて年も押し迫り、小松原宏子さん宛の年賀状には、「あの日のことを、あたためています」と本心を書いた。個人的な付き合いのなかった相手に、本心が書けるということは、取り違えたコートによって、もしかして何かが行き来した証拠かもしれないと思った。


2019年1月

 

 キュウリの規格

 日本のスーパーマーケットに並ぶ野菜、特にキュウリが、長さも形も画一化されているのは何故だろう? と思ったのは、たまたま産直店や地方の道の駅で、曲がりキュウリが山積みになっているのを見た時だった。正直、これこそ野菜だと安心したが、では何故、青物市場では、規格外の野菜がハネられて、小売業者の店先にまで届かないのか?

「需要と供給の関係だよ」とか「まな板の上で調理しやすいからじゃないの?」、あるいは「商品価値を高めて、農家収入を上げ、農業の存続をはかるため」などなど、答えはさまざまだが、今一つ説得力に欠けていた。

 今年は、頻繁に上京する機会を利用して、都内での考古学会、宗教学会、言語圏国際会議、森林トークセッションなどに足を運ぶことができた。会場には当然、長年研究に携わる教授や研究者が集まり、パワーポイントやレジメを用いて、個々の研究発表をするのだが、そのうちのいくつかの講義に語られた本音に、少しはほっとした。

 国や自治体から研究費を引き出すために、国策に準じた発言や発表をし、身を売ることに恥じない研究者が、いかに多いか、こんな場末のおばさんでも知っている。原発事故以来、医療機関までもが御用学者と声をそろえ、放射能の影響を否定し、被爆地域の規制を緩和して、帰還を強制する始末だから、新聞記事と研究者の持論を鵜呑みにしていたら、大変なことになる。

 しかしそうした中、昨年明け早々の考古学会でのこと、T大の若き教授が、「人類がアフリカで発生し、北へと移動していた先史時代から有史にかけて、現在の国家や国境はなかったから、北アフリカと中東は、地続きの地域一体ととらえる」と、地中海を真ん中にした地図を指しながら、素人にはごく当たり前のことを発言した。以前は、我田引水的な国別、分類研究発表が多かったから、その一体説に胸がすっとした。聖地と北アフリカとをいっしょにされたらたまらんという研究者は、かなりいると思う。

 初秋の宗教学会では、ある一神教のT大研究者が、正義についての大胆で危ない発言をしたが、裏づけになるはっきりした確証が聞く側になく、信者からの主観的論争を呼びそうなので、わたしはあえてここには書かない。しかし、確証はなくとも、その本音に異議のある聴衆は、少なかったと思われる。

 きわめつけは、年末に行われた森林トークセッションでの、やはりT大教授の、実に的を得た説だった。「なぜキュウリが規格内の形とサイズで売り場に並ぶのか? それは、明治以降の官僚体制、霞が関機構が生んだ、都会生活の都合に合わせた規格が、依然として通用しているからだ」と言い切った。わたしのキュウリ規格疑問が解けた瞬間だった。

 よくわかる。ボタンひとつで、スイッチひとつで快適に暮らそうとする都会生活の価値基準が、不要な家電製品やコンビニ長時間営業、果てはキュウリの規格にまで、じゅうぶんに行きわたっているという事実。その教授の講義は、国の現福祉体制や森林事情への警鐘にまで及び、実にごもっとも、わたしには痛快極まりない一時間だった。

 国費で国のための研究を重ねてきたT大の教授たちが本音を語る機会に、年に3度も遭遇したのは、偶然なのかもしれないし、時すでに遅しという感もあるが、キュウリで冷えた頭に、若干の希望が湧いたのも見逃せなかった。

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